本日分は上記 日刊 鬼ノ胃 本日分はこちら をクリック願います。
日刊 鬼ノ胃 自己採点記載 気合で勝負
気合に点数をつけました。
毎日の文責者名の脇に自己評価を100点満点にて記載。
内容についての評価ではありません。
|
日刊 鬼ノ胃 は、2000年01月11日創刊でございます。
以下に、記念日のご挨拶を掲げさせて頂きます。
創刊のご挨拶(2000/01/06)予告
このウェブページは、複数の人間を筆者としてやっていきます。
今この項を担当しているのは、日記すら3日続けてつけたことも無い筆者であります。
こんな者が、毎日アップロードするコンテンツに挑戦する訳です。
まあ、時々休刊させていただく事になるとは思いますが、付き合ってやって下さい。
写真など読み込みの重い画像なんかも使用したいと考えています。
前日までの分(バックナンバー)は、別のページに括って掲載します。
出来れば、dailyに呼んでいただきたい。それだけの内容に成れればと...
当分は、えせ随筆くらいかなあ。
創刊第1号のご挨拶(2000/01/11)
本日創刊。
吾輩は、教義的にどこかの政党に所属していないし、他の理由でも政党に関係していない。勿論、猫では無い。
是々非々で物事を処理して行くほど子供民主主義信奉者でも無い。
そもそも、”日本国民は、政党に推挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの”云々と、憲法前文(下記参照)でぶたれてしまっています。(改憲論者でも無い。念の為。)
何を言おうとしているのか?
このサイトでやろうとしている事は、須らく、ある決まった目的達成のためにやろうとしている事ではなく、a
stranger が、その場の思いつきでやろうとしている事に過ぎない。だから、あんまり大袈裟に考えずに、いろんな所を覗いて、書き込みも気軽にやっていって下さい。とまあ、こんな事を言いたい訳です。---全然そんな事書いてませんね。
閑話休題。
自分の寄って立つところを、はっきりさせておくと楽そうなので、
ここに、 小市民派である と宣言します。
今日は、この一文を書いてみたかったのです。
これ自体に特別な意味は無いんですが、
”すいません、なんてったって小市民派なものですから。”
とか、
”小市民派の立場から言わせて貰いますと...”
とかの様に使用します。
これと同じように、何か意味は良く解からないけど、ある種まわりを誤魔化す為に利用されている言葉が多くありませんか。
この点を踏まえて、宣言はしましたが、小市民派という言葉はなるべく使わない様に気をつけます。
末永くお付き合い頂けます様お願い致します。
- 参考までに掲載します。(出所記載必要なんでしょうか?)
- 日本国憲法 前文
- 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
- 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
- われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
- 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
100号のご挨拶(2000/04/19)
”ようやく”の感と、”もう”の感が入り混じった100号です。
何とか続けてこれました。
メールで頂く感想も、好意的なものばかりでなく、お叱りのものもかなりあります。
気分で書いているわけですから、あんまり深く考えていなくて、次に同じ話題を書いたら、結論が正反対になる可能性も大であります。 そんないい加減な文章で良いのか、との指摘には、こう答えます。
皆さんが、かかるテーマに関心を持ってくれて、自分なりの意見を築くきっかけになってくれれば良いのである。
私の考えを広め、集会結社を謀る、などという大胆な計画は無い。
従って、コンナトコデユルシテ、という具合。 こんな形でこれから先も続けさせて下さい。
一週間に一度くらいのまとめ読みをお薦めするわけにはいかないが、そんな方もいらっしゃいます。
まあ、おきらくごきらく気分でお付き合い下さい。 鬼ノ胃情報局では、今後、広告を貼り出す事になります。
広告掲載お申し込みは、大歓迎です。宜しく。kinoi@kinoi.co.jp そんなかんだで、”日刊鬼ノ胃”以外のコンテンツサイトもご覧下さいますようお願い申し上げまして、100号達成のお礼号、本日これまで、にございます。
200号のご挨拶(2000/07/28)
JR東日本発行のトランヴェールという雑誌がある。
表紙にもあるとおり、”ご自由にお持ち帰りください”と、特急車両に置いてある冊子である。
私はこれを、命令どおり持ち返る事にしているのである。
で、7月号では、特集として、”夏の粋、花火の宴”という巻頭コーナーがあり、小野里公成氏の撮影した花火写真が掲載されている。
星の写真では、少しばかりの経験があるのであるが、露出時間について考えさせられる。
カメラを地上に固定して、一時間の開放露出をすると、それぞれの星は点でなく15°(360/24)の円弧(つまり、線)を描く。
初めて撮影した写真は、北極星を中心にした北天の星の軌跡を捉えたものであった。
思えば、この頃は、視力検査では、2.0の位置にある指標は全て楽勝で答えることができた。
星は、あくまでも綺麗な点であり、当時の空間の澄み具合から言っても、今では望むべくも無い夜空の芸術を手にしていた。
眼鏡を利用しないと、星が一点に見えなくなった。近視によるというよりも、乱視による能力低下である。
この眼鏡という奴は、厄介なもので、目の悪さに加えて眼鏡の汚れ(および特定の波長の吸収)が、自分の期待する星たちの映像を台無しにする。
やがて、望遠鏡を手にした私は、またまた、ガラスによる不思議体験をする。
正確には、ガラスレンズを固定する爪が原因なのである。
赤道儀による追尾をかけた高倍率の長時間露出の写真では、明るい星は大きな点になり、暗い星は小さな点になって印画紙に記録される。
ところが、極端に明るい星は、十文字に写ったりするのである。
流星は、短期間に明るい点が移動するので、線に見える。網膜上の残存現象というのであろうが、一種の錯覚である。
これは写真に写しても同じである。銀塩フィルムの残存現象。
--もっとも、フィルムは、時系列を超越して光の残像を記録するのであるが。
しかし、暗い流星で、見かけの速度が非常にゆっくりした流星の場合、明らかに点が移動しているように見える。
野球のホームランボールの動きのようである。
この場合には、写真では、実際に見た映像とは、はっきりと異なる。
花火もそうなのである。
人間の目で見えるのは、人間の網膜で感知した光を、どう認識するかが勝負である。
カメラは、全てを捕らえてしまう。明るい光も、暗い光も。時間の観念無く全ての軌跡を捉えてしまう。
花火の写真は、目で捉える現実の見え方とは全く別物なのである。
高感度フィルムで、かつ、明るいレンズを使用して、本当に瞬間の花火の映像を見たら、つまらないものであろう。どの瞬間にシャッターを切るのかも問題である。
さりとて、長時間露出の花火の映像も間抜けである。間抜けな効果を狙った写真もあるにはあるが...
写真は、現実の姿の一瞬を捉えたものではない。
撮影者個人が、創造したものである。
言語による描写のほうが、現実により近いという現象はあり得ると考える。
当然と考えていることを、やぶにらみしてみる。
この姿勢は、ときとして”ひがみ根性”丸出しになりかねない。
この点には充分留意しながら、やぶにらみを続けて行きたい。
どうやら、日刊鬼ノ胃200号達成である。
正直、嬉しい。この一言にて、記念号を締めくくります。
読者の皆さん、本当にありがとうございます。
300号のご挨拶(2000/11/05)
たまたま日曜日で(実は300号ということを意識していなかった)、この記載が300号のご挨拶にナッテシマッタ。しかし、一応通過記念日の号ということで掲載します。
日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。
”ファックス送って頂戴。”-ーーーーーーーー ”O.K.。”
こんな会話は、日常的になされているだろう。
宅配便で事務機器ファックスが送りつけられることは無い。...と思う。
一周年のご挨拶(2001/01/11)
料理に使用される器で、食材を平らげたあとに残された姿を観て思うことがある。
青磁・白磁の食器は美しい。
この二つについてを、纏めて評価するのは大変乱暴な話なのであるが、感覚勝負なのである。
ただ、食器としての本来の使用に供したときに疑問が残る。
調理人が仕上げて給仕された状態での料理を観れば、器が目立つことなく、テーブル上の他の空間を遮断して、メインを引き立たせる。
ところが、食の当事者がその料理の良さを享受した後に、この情況は一変する。
食べ終わった皿が、汚いのである。
汚れている、という意味ではない。
ナイフ・フォークの習慣があり、ギャルソンの存在を前提にした食事の席では、”早く下げろ”とばかりに、ナイフ・フォークを定型に置き、自分の目の前から無くそうとするのも無理は無い。
とにかく、美しくないのである。
美味しさの余韻を楽しむどころではない。
写真家にお願いして、皿に盛り付けてお客に差し出す状態の写真と、同じモノをごく一般的に食してもらった後の写真とを撮影してもらおう。
示唆に富んだ作品が出来上がるだろう。
鑑賞に堪える食器は、確実に存在する。
食器選びは云々前と云々後との両方を確認して選びたいものである。
日本料理を堪能した後の余韻の深さは、食器にあるのではないか、という一席でありました。
とまあ、この一席を、日刊鬼ノ胃の一周年記念(本日第367号。昨年は閏年でありました。)の挨拶に結びつけようとしたのだが、確実に失敗した次第。
お粗末でした。
今後もお付き合いの程、宜しくお願い致します。
400号のご挨拶(2001/02/13)
住友銀行より”合併に伴なうご案内”なる通知あり。
住友銀行は平成13年4月1日をもちましてさくら銀行と合併し「三井住友銀行」として新たにスタートいたします。
凄まじい。この長さの文章には、句点が一つも無いのである(この前に、”さて、”とあることはあるが..)。
最初の一行。
新銀行名は「三井住友銀行」(金融機関コード「0009」となります。
ふ〜ん。である。
次の行。
英文名は「Sumitomo Mitsui Banking Corporation」となります。
ふむふむ、で、....
ちょっと待った。
Banking Corporationとの表記は一般的なのかどうかは、また、これが思い入れ(決意)の表明なのかは存じ上げないが、長すぎやしませんか、が感想。
それよりも、住友と三井との記載順序が問題ナノデアル。
何でこんな狡賢い命名案を採用したのだろうか。
バカじゃないのか。
あくまでも、銀行の生き残りを賭けた合併のはずである。
一行あたり何がしかの国庫からの支援金を、二つ内包しての新銀行なのである。
銀行は、私企業であると同時に、公の機関であるとの認識があって、我々は国庫からの金銭支出を是認させられたはずなのである。
この命名には、元の二つの銀行のエゴを剥き出しにしての、国民に対する明確な挑戦を感じる。
”元の二つの銀行”と言ってしまったが、住友と三井という、もう一段奥にある組織が見え隠れする。
しかし、本当に顧客本意の考えがあるのであれば、こんなことをしている場合ではないことに気付く筈なのである。
遠吠えをしておこう。
私は、住友銀行が三井住友銀行となる日に、口座解約に伺う事に決めた。
”合併に際し、極力お客様にご不便をおかけすることのないよう準備を進めておりますので、なにとぞご理解とご協力をお願い申し上げます。”との記載を見つけた。
私は、理解もしなければ、協力もするつもりが無いのである。
最後に、もう一つの違和感を書いておく。
”さくら”を使用しないのは何故だ。
浮かれていた頃の命名を否定したい気持ちは、解からないではない。
でも、そんなことは考えてはいまい。
日刊 鬼ノ胃400号記念には相応しくない内容だったかもしれない。
500号のご挨拶(2001/05/28)
500号記念のつもりです。
当事者にしてみれば、誠にもって重大事件なのであるが、その他の人々にしてみれば、なんてことは無い出来事。
こんな事象が綿々と営まれてきたのが、人間の歴史なのである。
少しばかり言葉を変えれば、そう言いながらも、他者との関係抜きでは自分自身の生活は存在しないことにも、多くの人は気付いている。
この一文を読んでくれている方が、そう、貴方の事です、今まさに欠伸をしたことによって、思いもかけぬ気流の変調が生じ、遠くロスアンジェルスの雷雲は、稲妻を発生させる契機を失ったのかもしれないのである。
これがどんな影響を与えるかというと、二度にわたって放電しようとしていた電気エネルギーを、ただ一度の放電により開放させて、かかる地域の雷被害を幾何級数的に増大させたかもしれないのである。
被害の責任は那辺にありや、なのである。
貴方の欠伸にあり、とは誰も気付くまい。
ましてや私の一文にあり、とは、誰も言わない。
私は運命論者ではない。また、確率論者でもない。
しかし、解からないことを、”定理”とか、”神の手”とか訳の解からないモノを持ち出して、そこから先に踏み込まないで済ますことが出来るほど、モノワカリの良い人間ではない。
歴史については、”日本の歴史”というモノが存在するのではなく、”A氏の日本史”とか”B氏の日本史”とかが存在するのである。
因果関係は、斯くあったのではなく、こうなのであるという創作の範疇で解き明かしていくしかないのであろう。
とすれば、500号という日刊鬼ノ胃の活動も、500回分の文章が存在するということでは無しに、これから先の501回とか2508回のために、あの苦しかった日々に500回駄文を労したという解釈も成り立つ。
いよいよ何を書いているのか解からなくなってきているのであるが、こんな人間の書いた文章に、付き合ってくれている人々の好意に甘えて、これから先も悪戯書きを続けるという宣言をして、500号記念の一文とする。
まあ、コンナトコロナノデアリマス。
600号のご挨拶(2001/09/05)
さて、600号なのである。
最近決して忙しい訳ではないのであるが、いやむしろ暇なので、忙中閑ありの逆で、だらだらと日々を過ごしているので、日刊鬼ノ胃を”随刊”に貶めている。
とはいえ、別に義務的に発刊せねばならぬという約束も無い筈だなどと自分を慰めて、いい加減な生活に理由付けしているのである。
これではイケナイと、何かのきっかけで正当なる”日刊”鬼ノ胃にしなければならないのであるとの気持ちがある。
こんな時にちょうど600号を迎えた訳である。
言い訳をだらだら書いてもタメならないのであって、自戒を込めて短文にて挨拶とする。
今後も宜しく。
なお、取り決めとか、法律とか、自戒(自分で決めて自分に課した戒律)とか、全ての約束事は破られるために存在することを、読者諸兄は忘れてはならないのである。
人間の営みの歴史は、こうであることを教えているのであるから。
700号のご挨拶(2002/02/22)
日刊鬼ノ胃は、
ようやく700号を達成した。
100号単位の区切りの時など折に臨んで過去の文を端折り読みするのが、自虐的ではあるが楽しみになってきた。
良くも悪くもその時々の自分の姿を映し出している。
日記なんぞ三日とつけたことの無い私としては、これでなかなか感慨深いのである。
恥ずかしいといえばこれ以上のモノは無いのではある。
結構滅茶苦茶をやっているし、読み返すと言語的に意味不明であったり、これでもかと言わんばかりに軽薄な視点で世の中を見ている自分に気付くのである。
ここのところ数日、私としては、ちと重い文の日が続いた。
シンドイので、これからはアッサリといこうなんて思ったりもする。
嘘です。
アッサリなんていう言葉は、私の辞書には無いのである。
今後も、恥知らずらしい厚顔さで、文字を追うのに辛い文章を連ねていくことになるのである。
見知らぬ顔の方々が多いはずなのに、書いているときにはこんな方もいらっしゃるだろうと特定の人物像を思い浮かべている。
学生さんであったり、公務員さんであったり、ごちごちのおじさん、あるいは、主婦などという抽象化した像をである。
反論・意見・叱咤・激励、これが楽しみなのであります。
お待ちしています。
ちと、感慨深げな姿を想起してもらえたであろうか。
今後も宜しくご愛顧の程を。
800号のご挨拶(2002/09/17)
ある雑誌の読者投書欄に次のような内容の記載があった。
何となくふむふむそうだ、もっともなことだと頷きたくなってしまいそうである。
日本も経済状況が悪化し、他人のことに気を配る余裕がなくなりつつありますが、こうしたときこそ視線を高くして、周りを見回すことが大事だと思います。
普通は衣食足りて礼節を知る、とでもイイタゲである。
つまり、現在は衣食が不足しているかのような認識をお持ちでいらっしゃるらしい。
根本が間違っているのである。
充分すぎるほどに衣食は足りているのが現状なのである。
生活水準向上の飽くなき追求とでも書けば体裁は良いが、なに、皆して欲の皮が突っ張っているだけなのである。
確かに悪化はしている。
巷間しばしば指摘されるように、将来の生活に対する何となくの不安が、今の日本の経済状況を悪化させているだけであろう。
他人のことに気を配るのは、余裕があるからするのではない。
文化として捉えていれば、誰もがそうするのである。
心が荒んでいるのである。
他人のことに気を配っていた時代がこの国にあったのかどうかにも疑問があるが、それは別にしても、経済状況が好転しても、他人のことに気を配る人々がどれほど存在するようになるかに関して、私は否定的である。
この国全体の経済状況が”異常に”良かった時、高慢な態度しか取らないで、ミナシテ自分の経済状況を見せびらかしあっていたではないか。
ストックとして持つ者持たざる者いずれも今一度(初めてかもしれないが)反省すべし、ナノデアル。
日刊鬼ノ胃創刊800号だから、このくらいの事は書いても宜しかろう。
(それにしても、700号から800号まで半年以上という月日が流れた。今年は休日が異様に多いのだろうか。通常この現象をサボリと称すると聞く。反省反省)
|