あっさりメニュー
日刊 鬼ノ胃 本日分はこちら
 

2004年02月分(02/03〜

2004/02/13

文責:い 80

No.956

雪中で遭難した関西学院大の報道では、”かんせいがくいんだい”と発音するのが徹底していた。
漢字そのものが中国から発音を伴なって輸入してきたものだろうから、輸入した側で同じ漢字に輸出地域によって異なっていた発音をさせるのは理解できる。

ある文字の持つ意味から派生して、別な意味を持つ言葉が一旦出来上がってしまうと、もとの意味の文字を持つ言葉にしてみれば迷惑な話がある。

そこにまた発音が加わるのである。
便と便と(びんとべんと)。
まあちょっと尾篭な話。
”今朝の便は運行中止”なんぞと朝のニュースで放送までされてしまうと苦々しい。

吉野家の牛丼は、もはや何と語ったら良いのか解らない事態である。
この国は、”雉丼”というメニューで”鶏丼”を食わせるくらい朝飯前の国なのである。
”鶏丼”と書くと”親子丼”と勘違いする大衆に、店の側が御出されること(オダサレルコト)の無き様にした、ある種配慮なのである。

だから、外食愛好家の常識として当分の間、”吉野家の牛丼とはアメリカ産の特定部位の牛肉を使った丼飯”と定義し、”吉野家の牛丼2とはその他の国産の特定部位の牛肉を使った丼飯”として販売を続ければ良かろうと思う。

ところがである。
実際、ギャンブル場などでは販売を続けると言うじゃないか。それも、売価を吊り上げての事だと言う。
肉を変更したら吉野屋の牛丼ではないと言っている傍らで、吉野家の牛丼を同じ名称で売ると言うのは、雉と鶏との違いとは大違いなのである。

2004/02/12

文責:い 80

No.955

”磊落”という文字を眼にすると、必ず”おそれ入谷の鬼子母神”という言葉が連想される。
ただし、江戸っ子は、”おそれ入谷の鬼子母神”の後にもう一つ特殊神を祀った言葉が連なって音にするが、私にはその癖は無い。

何故かは解っている。
この雑文を読んでくれている方の中に、私と同じ経験をする人はいないだろうか。
キーワードは国語の教科書である。

頭の中に妙な刷り込みが存在するのである。

ノーサイドの笛の直前に、勝っているチームはボールを蹴りだして、主審に笛を吹かせたいのである。
ところが、コーチ陣がボールを持っているウィングスリークオーターバックに”切れー”と叫ぶと何が起こるか。

対面プレーヤーが存在しないのに、イキナリ方向転換してしまうのである。
”ステップを切る”と呼ばれる行為である。
更に、右に切るのか左に切るのか(相手がいれば自ずとどちらかを判断するだろうに)そのプレーヤによって決まってしまっているらしいのである。

昨日、私は、いつ何時身に付けてしまったか解らないこの手の”刷り込み”で困ったことになった。
どうしても受け取れないと考えていた相手から、私へのお礼と称する一万円札が差し出されたのである。
目の前30cmくらいの胸の高さの位置にである。

気が付くと私の手は、その一万円札に伸びていて、相手の手は離れ、私の指だけがその物質を重力に逆らって空中にトドマラセテイタノデアル。

悲しい習性である。

2004/02/10

文責:い 80

No.954

今の自動車のこととしてはソグワナイ話ではある。
イギリス人は斯く考えるのだという。
自動車のエンジンオイルをはじめとする油脂類は、必ず漏れが発生する。従って、漏れたら補充するべくこまめに点検するのである。

では、ドイツ人は。
技術の力でオイル漏れは防げるはずである。従って、オイル漏れを発生させない自動車を製造して販売すべきなのであって、個々のユーザーに点検を強いるのは製造者として恥ずべきである。

娘が運転免許証の取得に励んでいる。
乗車前の点検に疑問が無いようなので(私がそんなことをさせられた日々は30年前になるが、非常に疑問を感じたのである。はっきり言って馬鹿馬鹿しいとの感)、その点指摘すると、決まりなのだからと応える。

確か、始業点検は現在でも有効な法律に基いているのだろうが、人・物の流通に関わっている職業人以外で毎日乗車前に点検している人を知らない。

法律における罰則の適用は科す側の任意なのである。
有罪になるかならないか以前に、有罪にしようという申し立てが、罰則の適用を科す側にのみ可能であるから、特別な輿論の後押しでもない限り、この国において重要だと思われている人物を刑法関連法で処罰するのは難しい。

もう一つ、言葉を選ばないで言えば、精神に障害がある人も処罰するのは難しい。
罪を犯した時点で精神に障害があったかどうかを、後になって確認できるのか疑問である。

私は大酒を喰らった時にはどうやら精神に障害がある状態になるらしい。
しかし、概ね翌日にはそうではない状態に戻っている(つもり)。
この高々10時間程度の私の様相を、客観的に観察してみたいものである。

2004/02/09

文責:い 70

No.953

”丸め込む”という言葉がある。

昨日、とある本を読んでいたら、こんな表現があった。
”相手を丸め、溶かし込む”

尖がっていると押し込み辛いので、角を取って(これを丸めると表現するのであろう)入れ物の中にするっと入れてしまうのである。
それだけではどうも据わりが悪いから、更に、溶かして液体にしてしまおうというのである。
全く原形を留めない姿で封じ込めてしまって何が面白いのか解らないが、此処まで徹底的に相手を亡きものにしてしまう論法が流行っているらしい。

”ところで何を議論していたのだっけ?”という状態で討論を閉じてしまうと困るから、討論会のタイトルにはテーマを書き込んで置くことを進める。
”通常国会”では何を論じているのか解らないのである。
”臨時”があるようになって”通常”という名称が生まれたのだろうが、言葉遊びで書けば”臨事”国会があっても良かろう。

宿酔の頭で書いているので紙背の文字が頭の中を廻っていて、マトモナ文章に思えているのであるが如何。

2004/02/04

文責:い 90

No.952

いよいよ本日は02月04日である。
なのだけれど、10:06現在手元には無い。
結構忙しいのである。

もちろん HUNTERXHUNTER 第19巻のはなしである。
購入予定時刻は13:30となるのである。
午前中は身動きが取れない。
何故発売日となるといつも仕事モードの日なのだろうか。
そんな日は滅多に無いというのに、ナノデアル。

もう頭がこのことで一杯なので、今日は短いのであります。

第20巻は06月04日と決定している。
この日には仕事の約束を入れないようにしたいので、この文章を読んでくださっている何らかの関係者の皆様、宜しくお願いいたします。

2004/02/03

文責:い 80

No.951

勤労者として、そして消費者として極めて普通に生活していて、印紙税を納付する機会は少ないであろう。
何故貼付納税するのだろうか。

この疑問に対する回答は明確である。
そこに法律があるからである。

登山者は、決して”そこに山があるから”山に登るのではない。
”山があり、登りたい欲求に駆られて”登るのである。
しかるに、印紙納付は”法律があるから”納税するのであり、”納税したい欲求に駆られる”ことはなさそうなのである。

山があっても登山を選択しないのは自由であり、登らないことを選択する人は決して愚者なのではなくて、”山がある”けど登らないのである。
この論法で行けば、”そこに法律はある”けれども、納税しないことを選択する人は決して愚者なのではないのである。

ところが、納税しないことを選択する人は愚者として罰せられる。
が、罰せられない人がいるのである。
法律の原則除外規定があるからである。
この除外理由がフルッテイル。

例えば、領収書に関する規定。
業としてなされざる金銭の受領者なる人の発行する領収書。
例えばあなたが自分所有の自家用車を中古車業者に売る場合である。
まあ、これは解り易い(?)。

税理士の報酬領収書。
これは業としてなされていない報酬なのだそうである。
中々巧みな方法で、適法に納税を免れている。
個人の確定申告の時期であるが、この季節が来て税理士会が国税局と組んで良心に基く申告納税を国民に訴えているCMを見る度に笑ってしまうのである。
個々では良心的な会員は存在しても、全体の会として襟をただしていない姿は滑稽である。

このすり抜け方の手法にヒントがあって、ちょっと大儲けを狙っている。
もちろん詳細は書けませぬ。