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2003年12月分(12/01〜12/25)

2003/12/25

文責:い 90

No.942

で、鯵の干物について考えてみる。
あの一般的な製法では、必ず片方が骨付きでもう片方は骨無しである。

前回書き損ねたが、塩の効能を無視して書く。
塩が、骨の周りの肉を旨くしている可能性があるのである。
これは置いて置く。

鯵の干物で最も旨いのは、骨付きの身のほうの極薄く肉の付いた、つまり、皮面ではない側の、そう、巧く捌くと全体が海苔のように剥がれてくるあの部分である。
当然最後に食う。

旨いものは取って置くのが私の流儀である。
これには異論があろうが(実際この問題は、私の周りでは飲んだ席で屡論争されている)、他人に盗られる心配がない――何せ銘々盛りの鯵の干物でござんす――のであるから、好みの問題として対処できるのである。

ところが、不味い鯵の干物に出会うと、この最も旨い筈の、最後に取って置きのこの至宝が、何と最も不味い部位に早変わりなのである。

私の心は、少しくらい店の主人(何故か私は今、この鯵の干物を食うロケーションとして旅先の旅館の朝食時を設定している)を怒っても収まらない。
最上の食事の余韻を求めて取って置きにしたのに、最悪の結果である。

こうなったら、出汁巻き卵を運ばせて、そして、お銚子を3本運ばせて(思いっきり熱燗でなきゃダメだぞ、と念を押すことを忘れてはならぬ)ナダメルしかないのである。

解ったか忘年旅行幹事。
暴れたのはオレの所為ではないのである。
不味い鯵の干物を朝食に出したのが悪いのである。

2003/12/22

文責:い 70

No.941

骨の周りの肉は旨いといわれる。
本当だろうか。

骨付きで供される肉料理は確かに旨い。
魚肉であれ獣肉であれ、経験的には是である。

鮭の切り身がある。
所謂新巻にしたものを自分で二枚におろした骨付きと骨付きでない片身とを(もちろんそれを更にスライスしてある)単純に焼いて食ってみることにしたのである。

一枚一枚は明らかに骨付きのほうが容量がある。
なんと言うか下賎な私故に、この辺りに原因があるような気もするが、この一回り大きい骨付きが旨いのである。

まあ念のためというか試みに、ホグシ身にして二皿に分け、娘に食わせてみる。
矢張り同じ結論である。
明確な違いがある(とノタマッタ)。

骨が付いたまま火を通したことが原因ではないか、などとモットモラシキ推察をしてみたのである。
結論を出すには、幾多の成分測定器が必要になろう。
また、数値に統計的に有効な相違が見られたとして、で、何でその差が旨味に結び付くのかという判断をしなければならないだろう。
これは全く私に手の付けられるシロモノではない。

今、頭の中で例外なのは、中落ちという捌かれた鮪の骨の周りに付いた状態からこそげ取ったもの。
ただ、この部位はもともとその外部の肉とは最初っから成分が異なるような気がする。
そんなことを言えば、先の鮭だって同じじゃないかと指摘されよう。

そうなのである。
此処まで書いてきてナンデスガ、矢張り、骨の周りの肉は他の部位とは異なる旨味成分が存在し(あるいは、旨味成分がより多く存在し、またまたあるいは旨くない成分が少なく存在する)、だから旨いのであるということなのかもしれない。

かもしれないけど、これじゃあ今日の文章は、話しにならないのである。
よって、こうなる。
全て骨付きで喰らうべし。

2003/12/19

文責:い 80

No.940

腐ったら”腐った鯛”
ただし、食ってみないと解らない。
そして、腐っているか腐っていないかの判断は、その食った本人の基準によるのである。
従って、絶対的に”腐った鯛”はないのである。

”箸の揚げ降ろしにまで文句を言う”と表現されるが、”箸の揚げ降ろしにこそ文句を言う”のであって、”箸が転んだら楽しいのである。

その箸の持ち方に対する美意識に変化がある様子なのが面白くない。
誠に指の綺麗なモデルに箸を持たせる場合(そして、全体を写さずに例えば着物の袖先辺りから先だけを大写しにする場合)、伸びきった指に箸を添わせるくらいの感じで持たせた方が美しいのである。

ところが、顔から食卓まで全てを写しこんだ時に、同じ体裁で箸を持たせると、これがなんともイカンノデアル。

で、大写しの方の箸の持ち方の映像を美しいと感じた人は、それを真似てしまう。
それも、その外側から写された映像のイメージを、いわば内側から覗き込んで再現し様と努力してしまうから問題ナノデアル。

よって、(その人は当然指がモデルのようには綺麗でないことも重要な要素なのだが)廻りで観ている私のように口煩い輩が”箸の揚げ降ろしにこそ文句を言う”事にしないと、世間の箸の持ち方に対する美意識が、私の”箸の美学”からどんどん離れて行ってしまう。

するとナノデアル、私は他人と食事をする気にならなくなってしまい、マスマス偏屈な人嫌いな人間になってしまうという恐ろしい結果となるのである。

箸の揚げ降ろしに自信のある方、どうです今晩、私と食事でも。
モチロン酒付きです。

2003/12/16

文責:い 90

No.939

蕎麦を尋ねて五里霧中。
味わえば味わうほど訳が解らなくなってくる。

”東京から観る正月の富士山は、世界で最も美しい景色の一つである”なんて書き方は、”one of the most 〜”という表現の日本語訳だと思うのである。
日本語の、そしてツマルトコロ、日本人の発想では無さそうな気がする。

”最も”が複数存在しては困ってしまうのである。
悩み続けた結果、日本三景だとか、名水百選だとか、三大珍味だとかに逃げ道を求めた。
絶対同格ではないのだけれども、無理矢理100を列挙してしまうのである。

こうしておけば、精神的にお気楽になれる。
後は、その内容に個々人それぞれの意見を反映すべく侃侃諤諤の議論をする、あるいは、まあそんなものだろうと納得しておけば良い。

で、納得しておいても良いのに、いや、あの真田村の蕎麦の方が美味い、2年前福島で食ったのが最高である、細打ちでなければならない、水で食わせるのは流石だなどと、分類学者かと思い惑うような、それでいて焦点の定まらない、結論を出そうとはしない会話を楽しむのである。

好みの共有化を目指してはいないのであろうが、少なくとも自分の好みを他人に強要したい気分になってしまいがちなのである。
私としては、そんな好み指向もあったのかと感心させられるのは嫌いではない。
だから、多分私の周りにいる人たちも、私の好みを聞かされることに抵抗はないのであろうと、半ば得意げに自分の食事歴をヒケラカシタリスルノダガ、本当のところドウナンデショウ。

田中さんの蕎麦、今一度馳走にならねばならぬ。

2003/12/15

文責:い 80

No.938

フセインの身柄拘束などという予期しなかった情報が入り込んだ。
で、これをどう読むかである。
早速今日の午後の国会では、派兵に有利な情報であるとの認識で政府は動きを見せるだろう。

フセイン”元”大統領という表記が使われているが、この用例は正しいのだろうか?
例えば大手の個々の新聞社では、当然表記の内規があるのであろう。
どうしろというのではないが、”元”表記が引っ掛かるのである。

ま、そんなものは大したことのある話デハナイ。
某宗教集団の教祖を名乗った某の拘束された時と、妙に似ていたのにはつい笑ってしまったが、今日来るぞと解っていたあの状況と異なり、ずっとアソコに寝ていたとしたら、もう充分に相手にされないゆえに一人悟り(盲信)を開いた宗教家である。

とにかくもう既に力がなく、拘束前と拘束後とで、何等イラク状況に相違がないと考えて行動した方が間違い無いと思う。
安全性が増す方向に状況が動くと考えたいのは山々だが、イタズラにそれを信じすぎると痛い目にあうだろう。

状況は何も変わっていない。
マスコミは、死体となった奥君の写真の報道に慎重だった。
イラク問題を人間の尊厳と同じ土俵で扱っているからである。

イラクの問題は、事の起こりが異常な人間の我儘なのであるから、狂気から逃れられないのである。
敢えて言ってしまえば、自衛隊の派兵で死者が出ることを望んでいる人間が居るだろうことの指摘をすることくらい、マスコミの責務であろう。

コイズミなる人の眼は、どう見ても矢張り相手にされないゆえに一人悟り(盲信)を開いた宗教家の眼である。
最期に何をやらかすものやら...

2003/12/12

文責:い 80

No.937

多分世の中には正しいことと正しくないことがあって(これは一般的な正義)、それをハッキリさせたい(これは主観)のだけれども、その拠り所たる基準を明確に認識することが出来ないから困っている。
そして、これが何より問題なのだろうが、明日になれば自分がもっと分別の付いた人間になって基準を確立できるなどと思っているのである。

他人とは議論にならない基準を明確に定めてしまって、悩むことなく生きてしまっている方々は強い。
自分の意見を他人に強要しているだけなのに、こんな良いことを言っているのに素直に信じて従わない諸君は馬鹿であろうと自信満々である。

”道に迷ってT字路にぶつかった時、オレは右に行くことにしている”の類の信念がこれであって、本人は悩まないでその場を乗り切ることが出来て満足であろう(それも偶々巧く記憶にある建物に出くわして迷子でなくなるからイケナイ)。

しかし、左を選択した人に向かって”何故右を選択しないのだ。だから失敗するのだ”などと、どう考えても理不尽なことを喋るのである。
信念で左を選択した訳ではないのであって、悩みに悩んだり、全く悩まずに偶々前の車が左に曲がったから程度の理由で左を選択したのである。
まあ、それで巧く抜け出すことができなかったというのでお粗末な話しになってしまうのだ。

ところが、(道の右左はともかく)悩んで居る時が好ましい、つまり、結果としてどうなるかは別として、どうしようかと自分を追い込むこと自体が生きていることなのだと認識する考えに立つと、生きているのが楽しくてしょうがなくなるのである。
結果オーライなどということは考えられないのである。
だから、”134歳まで貧乏人として生きる”などとノタマウ自分なのである。

2003/12/11

文責:い 90

No.936

漱石の写真(例の喪章を付けた奴)の大写しにされたものを見た。

明治3年5月に種痘令が布告され、5歳くらいの彼は種痘をうけたが、不運というべきか、それがもとで疱瘡を患うのである。
そして、かきむしったのであろう、鼻の頭に痘痕(あばた)が残る。

彼はなかなかの二枚目だし、筋肉質の体格をしていたと伝えられ、自身容貌風体を大変気にするタイプだった様子である。
ゆえに、この痘痕が彼の終生の容貌コンプレックスとして心に燻り続けたと聞いている(ロンドン暮らしでは、”背が低い”も容貌コンプレックスであったらしい。このコメント重要)。

で、この鼻の頭の痘痕を観察する絶好の機会である筈だったのに、見事に修正されていたのである。

本人の終生の容貌コンプレックスなどといっても、傍から見ればどうってことないだろうことは想像に難くない。

が、しかし、私自身、友人に言わせれば取るに足らないことでも、誠に富士山の爆発に匹敵するような”重大なる些事”はあるもので、もしかしなくても、これが私の意思決定に常に重要な影響を与えているかかる”重大なる些事”はオオゴトナノデアル。

だから、嘗て漱石研究で飯を食おうかと思ったりした(”猫”における漱石のマクロ経済学的アプローチ ――なんて結構真面目だったりして)私としては、何処かに、修正されていない漱石の鼻の頭の痘痕が写った写真がないものだろうかなどと喋り捲るのである。

アタシャモスコシセガホシイ。

2003/12/09

文責:い 80

No.935

昨日は全くコナレテイナイ文章でありました。
何が書きたかったのか。

ここのところ、頭の中は、形を創るのにどんな方法で行うのかという課題に気を取られているのである。

またまた理解し難い表現である。
核心部分を伝えたくないから(大発見なのである)、言葉がニゴルノデアル。

toiuyorinaniyori(変換ミスではない)、殆んどアル中状態である。
日常的に酔っ払い状態なのだ。覚醒する時間的な余裕のないうちに次の酒が入っていく。
なに、飲むのを止めれば大丈夫なんて気持ちが常にあるから、実際はアル中ではないと言い聞かせる(自分自身にである)のであるが、こんなことを気にとめている状況自体が可也アブナイ。

肥満で高血圧で心臓に異変があり足は短い。
こんな不健全な身体に健全な精神が宿る訳はないのである。

年末年始、皆様方におかれましては、こんな状況にならぬようお気をつけ下され。

2003/12/08

文責:い 70

No.934

歳を一つ重ねた。
この事実による特別な変化は無い様子である。良いことなのかどうか...

職業欄を埋めねばならないとき、自分で何かを考えて書き込む場合と選択肢から抜き出す場合とがある。
前者の場合には、”お気楽業”なんて書いて置くことにしているので問題ない。

そう、問題は選択肢に適当なものがない場合なのである。
会社員、医師、弁護士、公務員、経営者(これは結構意味不明な言葉である。個人自営業者を想定している場合もあるようだが、同列に自営業などという選択肢も用意されていたりする)、学生、主婦(最近では主夫なる言葉が認知されているようだが、いまだにこの選択肢に出会ったことが無い。これがあれば、私は迷わず選ぶ)、そしてその他(これがあるから問題ないのかもしれない)。

職種と職業とを混同しているのである。
尋ねる方がである。
勿論私はそこにツケコンデ、”お気楽業”なんて遊べるのである。

例えば、建設業を主たる事業内容とする法人に勤めている人がいたとしよう。
マンション建設の設計をやっている人。
マンションの販売のために外回りして営業している人。
経理をしている人。
社長という肩書をつけた名刺を持っている人。

職業は全ての人が”会社員”であろう。
建設業はその会社の職種なのである。
そして、それぞれの人の職種は、建築設計だったり、営業であったり、経理事務であったり、経営だったりしているのである。

複数該当の場合は、などと考えて悩むのである。

2003/12/04

文責:い 90

No.933

どうしても酔っ払えない、そう、例えば今日の僕の置かれた朝みたいなシテュエイションを想定して欲しいのであります。
そう、千鳥足という素敵なステップを踏む友達が居る状況を想定して欲しいのであります。

そう、コイツは恐らく馬鹿なのではないか想うくらいに千鳥足の彼は、目標にまっしぐらなのである。
真っ直ぐに進んでいないから千鳥足なのだが、まっしぐらなのである。
多分最短距離を突き進んでいるのだろうから、目指す方向ははっきりしている。
されど、真っ直ぐに進めないのだ。

万度(お願いですから、”バンタビ”とお読みください)軌道修正するのだが、目指す方向に最短距離で進むことができないだけなのである。
で、想い半ばにして寝ちゃったりすることがママあって、酔っぱらいはどうしようもないなどと大声で囁かれるのである(言語的に矛盾しているのだが、正鵠を得ていると指摘して置いて何方様も異論無かろうと思う)。

そうしている彼の姿、ツマルトコロただ単に寝ているだけの彼なのであるが、これが中々美しいというか羨ましいというか、本当に気持ち良さそうなので私も寝てしまえというのが、単純かつ正直な感想を抱く私の気分なのであって、結局は一緒に寝てしまうのだけれども、本当に偶々仕事の電話で起こされるのである。

仕事なんかしないで、そう、携帯電話の番号なんぞを他言すること無しに生活していれば良かろうと考えるのは屡なのだが、一寸だけ(つまり頗るなのである)商売っ気を出したりして生活しているものだから、この特上の気持ち良き状況を壊して、そして、この電話の内容がボロイ儲け話だったりすると俗物根性そのものに喜んでしまうのである。

2003/12/03

文責:い 80

No.932

ドンピシャリな状態を、”それ以上でもなければ、それ以下でもない”と表現することがある。
しかし、私の知識を総動員すれば、”それ以上であり、それ以下でもある、丁度ぴったり”と記さねばならない。

結構色んな場所で喋ったり書いたりしているので、お前はまたそんなことを言っているのか、と揶揄されても良い。

嘗て”面白半分”という雑誌があって(何故か歴代の編集長は奇人が多い、というか、私から見てはっきり奇人である)、その雑誌は”オモシロハンブン”と呼ばれていたのだが、表紙にはタイトルのすぐ下に”Half Serious”との文字があった。

今日のテレビで、”まっ、冗談半分に言えば”で切り出す政府高官のコメント聞いたのである。
その後に続く言葉の意味はどのように捉えたらよいのだろうか?
恐ろしいことに、半分本気なのである。

同様に(今日のこの文章を読み返して気付いたのだが”逆に”、と繋いでも意味が同じなのに愕然とする...)、”こんな席で何ですが、半ば本気の話だと思って聞いて下さい”なんて調子で笑いながら語り出す人の話はどうだろう。

長年付き合っている人との会話では、聞く側の私にその人のヒトトナリについての知識の蓄積がベースにあるから、そしてまた、ちょっとでも疑問があれば真意を聞き質すことができるから、本人の喋ろうとしていることを大きくは誤解せずにいられるだろう。

しかし、悪意を持って聞き側にまわり、他人にその話を吹聴する時、悲劇は起こる。

全く厭な世の中である。
具体性に欠く、嘆きの文章でありました。

2003/12/02

文責:い 70

No.931

”政治的な判断”
解っているようで解らない言葉の一つである。

とりあえず”政治”については政治家が職業としているらしいので、政治家に会ってみようということにした。

ところが、政治家ってのが何だかも解らない。
仲間の一人は、”まあ、議員さんとか、首長さんなんてとこじゃあないの”とノタモウタので、それに従うことにしたのである。

で、会ってみた。
以下、何れも知り合いの政治家(と思しき人)との会話である。

所謂世間話などを数分した後、忙しそうな振りをする彼らに同じ質問をした。勿論一堂に会しての会話ではなく、個別である。

私。”政治って何”と質問している。

某市会議員。”...”
某県会議員。”...”
某国会議員(衆議院)。”...”
某市長。”...”

私には解ったのである。
4者が4者全て同じ答えであるから間違い無いだろう。

政治”とは、”...”也、なのである。

ということは、”政治的な判断”とは、”...的な判断”也、ということであって、つまり、何でもアリと読むのである。

生まれたての赤ん坊が、極めて政治的な判断の下におぎゃ〜と泣くことがあるのである。

2003/12/01

文責:い 90

No.930

奥君は、学科は異なったが、私と同学部の同期である。

実際に彼を知ったのは、ラグビーの雑誌での記事であった。
当時でも、この学部での学生が運動部で大成するのは大変だったと記憶するが、
期待のフルバックは二年次に蹴球部を辞めた。
体調を崩したのが原因の一つであり、もう一つは”思い”があるとのことであっ
た。

そんな記事も忘れていた私は、昨日の朝のニュースで、その”思い”が実行さ
れていたことを知る。

訃報を聞いた直後、インタビューに応える清宮の言葉は立派であった。
清宮にキャップを一つも与えなかったこの国は、奥君を死なせるという国でもあっ
た。

残念である。