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2003年09月分(09/01〜09/29)

2003/09/29

文責:い 80

No.927

みんなが良いと持ち上げているモノを、ちょっと待てよと考えて賛同しない。
この姿勢を貫くのは大変である。
姿勢を貫くのは大変でも、直感として欺瞞性を感じる時、概ねこの直感は信頼に値するようだ。
与えられる情報が限られている。

先に”みんなが良いと持ち上げ”と書いたが、決して”皆”ではない場合(自分自身を除外しても)が多いのであって、”みんな”と感じるのは、自分が取得する情報が偏っているからである。

”みんなが”持っているのに、私だけ無いのが悲しい(というか、私も持ちたい)と子供が喋った時、”みんな”って誰々だと問えば”みんな”の正体が暴かれるのである。
”みんな”には例外があってはならないのであって、私の側としては持っていない人の名前を一人告げれば、彼女の論拠は無くなる。

ところが、ここで死んだ人の名前を告げてもダメなのであって、つい”アベシンゾウ”は持っていないだろうなどと喋るのである。
”誰だ、それ”ってな顔をしてこちらを見られてはダメナノデアル。
もちろんダメなのは”アベシンゾウ”であるが、とにかく論破したら即座に話題を変えるのである。
敵には更なる言を許さない姿勢が大事。

アメリカの強弁を他の国々が論理的に打ち負かして、後のことは関係無いぞと知らない振りをする国連内の空気を作れないのだろうか。
大量殺戮兵器の発見または米国企業による石油利権の放棄を宣言しない限り、かの国の言葉を聞く耳を持たないのである。

2003/09/26

文責:い 80

No.926

此度は砂金で大儲け。
通販生活秋号で、砂金話をちとばかり取り上げていて驚いた。
ま。私は、それとは関係なく、真夏は蛇の出現が苦手なので控えていたが、まもなく解禁である。
砂金HUNTER鬼ノ胃参上。

埋蔵金探しは概ね投下資本が莫大であり、かつ、多分獲得には至らない。
万に一つ発見した場合でも、所有に関する法律の規定・運用も曖昧で、割に合わない(筈である)。
それに比して、砂金採取は気楽なものである。

ダイヤモンドに関しては、鴨川の山間部がアフリカの産出場所に非常に良く似た鉱物相を有していて、日本で産出するとすれば此処しかないという学者もいる。
(日本では出ないと書きたいが、一応夢を持たせている訳であろう)
埋蔵金伝説は、千葉県内にも幾つも存在する。
しかし、残念ながら砂金採取のポイントは無い。

従って、砂金採取は気楽ではあるが、これで中々容易ではない。
ま、観光の一環として、あるいは、とにかく砂金採取をレジャーとみなして楽しめば良いのであるから、やはりお気楽なものである。

プラチナには全く興味を持たないが(ただし、下さるというなら辞退することは無い)、何故”金”には惹かれるのだろうか。
希少(故に高価である)だからという理由では説明しきれない。
あの輝きが余りに妖しく、蛇に睨まれた蛙のように魅了させられるのである。殆んど宿命と割り切ろう。

ところで、私が熱を持って話す砂金の話を聞いてくださる殊勝な方々と接して、少々気になることがある。
砂鉄の形状と砂金の形状とを同じように考えている人々が多いことである。
砂鉄にしても、下から磁石を当てて紙の上に蒔かれた砂鉄が暴れている状況をイメージする人が大部分であり、磁石と隔離した状態で(地磁気はどうするの、なんて言わないこと)の砂状の砂鉄を思い浮かべる人は希である。
砂鉄の表現に”砂状”は無かろうと思った人は、次の事実で愕然とするだろう。
砂金は砂状ではない。

伊達政宗が秀吉に砂金を差し出すシーンを大河ドラマなんぞで見たことのある方があろう。
その時巾着袋から出される”砂金”は当に砂状(というか、砂そのもの)である。
百聞はナントカである、日本橋の貴金属屋に行って”砂金500gください”と喋ってみることをお奨めする。
あなたの”砂金”感が一変しよう。

2003/09/25

文責:い 80

No.925

将棋で勝てない日々が続く。
踏み込むべきところで踏み込めず、矯めるべきところで矯めることができないのである。

それができれば負ける奴はいない。
そう、確かにそうなのである。
が、それができないから研鑚(良き言葉である)するのであって、単にそうすれば良いではないかでは話が先に進まない。
運動すれば腹が減る、腹が減れば飯を食う、だから、運動しなければ飯を食わずに済むという訳にはならないのである。
(この喩えは失敗のような気もする)

勝とうとして焦っているというよりも、勝とうという気持ちが薄れているのかもしれない。
何故か。
それが問題ナノデアル。

無気力という言葉があるが、当にその言葉通りなのである。
モティベーションの欠如。
哲学者にならなければ解決しないのか。
何故に生きているのであろうか、なんてね。
しかし、これは答えが出そうもないからもっと具体的な事象で考えたい。

すると、何故将棋で勝てないかを検証することに意味があることに気付くのである。
答えは解っているのである。
踏み込むべきところで踏み込み、矯めるべきところで矯めることにすれば良いのである。

答えが解っているのに、何等解決にならない。
とまあ、堂々廻ってまた最初からである。
高田渡が”ボロな靴”から始まって”ボロボロな靴”に行き着いた、あの気持ちは解っているのに。

旨いモノを食いに行けば良いのだろうか?

2003/09/24

文責:い 90

No.924

なに、拾得である。
捨てる
拾う。
拾得とは、他人が落としたものを拾うこと。

他人が落としたものを拾い、そのまま自分のものにすることは収得罪に問われる場合がある。この時は”拾得”ではなくなり”収得”になる。
勿論、他人が落としたものを拾わなくても、自分のものにすることは”収得”という。

となると問題は、、他人が”捨てた”のか”落とした”のかは解らないが、そのまま自分のものにする”収得”の場合である。
一般に、”捨てた”のか”落とした”かは、拾った側には解らないと思うのである。

我が家の屋根に積もる何処かの工場から排出されたと思しき塵芥は、その工場側の意向として”落とし”てしまったのか”捨て”てしまったのか私には解らないのである。

そして、現在私が”収得”した状況である。

私は、収得罪に問われることを好まないのである。
かかる工場が”捨てた”と宣言してくれれば気が楽なのだが、”落とした”ことに気が付かないでいる状態だとすると困ったことになるのである。

交番に行って、これは”拾得物”でありまして”収得物”ではありませんと申し出をすべきなのだろうか。
モノがモノだけに、交番まで持って行き辛いのである。

2003/09/22

文責:い 70

No.923

鬼ノ胃台風に驚かされる。
昨日あんなに寒かった(涼しい、では断じてない)し、九州の方にあった時にはさして大きそうな様子も無かったので楽観していたのである。

寒い風が吹くというのは、北系の風なのであって、つまり台風進行方向の左側に我が家は位置することになるのであるから、比較的芳しいのである。
もちろん比較的というのは、中心の直ぐ右側を通過してくれる場合に比較してと言う事であって、”芳しい”は適切な表現かどうかは判断の難しいところではある。

で、今朝の話である。
門から入って行き成り直角に曲がろうとする位置に、自動車の内輪差を気にしないで突入する輩を退治するための置石がある。
サイズは200X100X100(単位はmm)、色は白。
この石が500mm程度異動していたのである。

コンナモノヲ動かすに足るパワーを持った風が吹く程に大きな台風だったのか、などと一人感心していた。
半ズボンにTシャツなるいでたちの私は(これでは寒い訳だ)、元の位置にセットして家に入った。
こう書けば皆様ご案内の通り、私は台風明けの朝に我が家の見廻りをするという役割が与えられているのである。

こういった役割は通常家の中でどの位偉い立場の人間が就任すべきかは議論の別れるところであろうが、そんな事を我が家で議論しようものなら例外的であろう我が家の人間関係(位置関係−−人はこれを立場と言う)が顕わになってしまうので文句も言わずに我行動す、ナノデアル。

さて、夕食の用意をしながら摘み食いで昼飯にしてしまおう。
これもまた、私の我が家での立場なのである。
なお、石の移動は新聞配達によるものであります、念のため。

2003/09/19

文責:い 80

No.922

ちょこっと昨日の続き。

”各”の訓読み。
”おのおの”なのだそうである。
6画以下の漢字も中々深いものであります。
(”各々”表記を当然のようにしていた。一般的なのだそうである。しかし、この場合”おのおのおのおの”と読ませたいとき巧い方法があるかどうか)
”銘々”との違いも気になる。

そろそろラグビーの季節。
特に今年はワールドカップもあることだし、てな訳で、2003年版のルールブックを買ってきた。
今までお目に掛かったことがないのであるが、一つの疑問がある。
早速ページを括り続けた。
矢張り書いてないのである。

ドロップゴール(ドロップゴールでないと少し状況が異なる)を企てて、キックのために前を向いてボールを地面に落とす。
バウンドしたボールを蹴ろうとしたが空振りになった。
この時、ノックオンルールが適用されるや否やなのである。
もし適用されるとしたら、更に、故意のノックオンと認定されるかどうかなのである。

そうしないとドロップキックにならないのであるから、前に落としたボールを意図的に地面に弾ませるのである。
これ以上に故意のノックオンがあろうか、というのが私の疑問である。

(念のためだが、意図しないノックオンと故意のノックオンとでは反則の度合いが違うということで、試合続行のために相手側に与えられるプレーの選択肢が異なるのである)

誰かおせ〜て。

2003/09/18

文責:い 80

No.921

さあ、10月3日まであと半月である。

”ちゃんぽん”について考える。
酒の種類が複数になり、悪酔いした時に”ちゃんぽんやっちゃった””もうちゃんぽんやっちゃだめよ”などとノタマったり慰められたりする。
しかし、訳解らなくなって飲みすぎてしまうというのが悪酔いの原因であろうことは想像に難くない。
指摘しておかなければいけないのは、酒の種類が複数になったから悪酔いするのではない点である。

”ちゃんぽん”が悪いのではない。
此処のところをハッキリさせておかないと、様々な種類の酒に対して失礼である。
そう、単に、飲みすぎたお前が悪いのである。

さて、”ちゃんぽん”とは何だ。
関西の”しっぽく”とか関東の”おかめ”とか、何だか知らないが各種の肉や各種の野菜を載せたソバ(麺類)にしても、とにかくいろんなものが混淆している。
ま、発想は同じようなものであろう。

しっぽくもおかめも麺はウドンと称して良い代物だと記憶するが、ちゃんぽんはどうだったか。
中華風(この言葉自体が中華ではないことを表現している。つまり、和の料理であることを暗に認めている)に留まらない西洋風も感じさせるソバという印象がある。

インドネシア語で”チャンポール”というのが”混ぜる”の意であると知った。
この辺りが語源かと調べたら、諸説あるも一番の様子。

他も紹介しておく。
鉦(かね)を叩いてチャン、鼓を打ってポンと互いに打ち込むこと。
冗談でしょうの感じ。
マトモスギチャウノガ、攙(この文字きちんと送ることができるか心配である)烹。北京語だそうだ。読みはチャンペン。
中国オソルベシ。何でもコジツケラレルダケノ語彙を抱えている。

2003/09/17

文責:い 70

No.920

全くもって情けない。

生まれてからずっと外国語(古い日本語を含む)が苦手なのである。
現在私が話しうる言葉も、独学で学んだ部分がダメナノデアル。
読み間違い(自分で辞書を編纂するならば、私の語彙は完璧だと威張ることができそうな気がするが...)、書き間違いが多いのである。
自分では理解できるのである。

文字を自分のメモとしてだけ利用するなら問題ないのであるが、偶には文字を介して他人に対して私の意思を伝えたい場合があるのであって、その時に、化けの皮が剥がれるのである。

本を読んでいると、”ママ”なんぞとルビが付いている引用文を目にするだろう。
例えば、間違った漢字使いでも、引用では原典に忠実でなければならない訳で、そんなときに使用するのだろう。
少し前まで(それでも10年くらいは経過したが)、この”ママ”って奴は”間間ある”の解釈であった。
ま、こんな書き方もすることがあるらしいってな解釈である。

佐々木さんという姓に使われている”々”は、実は何と読むことで他人に理解してもらえるのか?
これは、ここのところで漸く知った。
この文字を入力するのに、”佐々木”と変換してから不要な文字を消して利用していた次第である。

此処からはボケの話。
例えば、ある作業に千円札を100枚必要とした時、1、2、3、と左手で捲りながら(こんな時は本性の左利きが生じる)数えていく。
ろっくじゅいち、ろっくじゅに、...という具合に進んで70代になって80になるまでの間でどうもトラブルが発生している。
勿論意識してこの10枚を、しっちじゅいち、しっちじゅにと数えれば問題ないのだが、こんな作業は概ねふっと気を抜いたノリでやってしまうもの。

70代だけは、”数え”と”捲り”とが、どうもリズムに乗れていないのである。
情けない。

2003/09/12

文責:い 70

No.919

随分久しぶりにFR車に乗った。
トヨタディーラーの試乗車とだけ書いておく。
もう一言。全く、きっぱり、買う積りは無い。

同乗したセールスマンは旧知の仲である。
多少怒られるかなとは思うも、まあ大丈夫だろうと踏んだのである。
巨摩グンのドイツグランプリに向かうピレネー越えのシーンを思い出していただこう(バリバリ伝説)。
RX―7のアクセルを吹かし、”ポン”という音と共にクラッチを繋いだアレである。アディオスってなものである。

気持ちが良いもんですなこれは。
ただ、悲しいかな最近慣れていないことをやったもので、その後がいけない。
180度回転で停まらなかったのである。
まっことこれは情け無く、かつ、恰好悪いのである。

ファミリィユースの4WD1ボックスか軽の箱バンかが私の常なる足なのである。
精々かあちゃんのFF車(これは、売り出す時のCMはお手軽さが売りだったと記憶するが、なになにスズキらしいキビキビさなのである)で車の調子を見てあげるなどとご機嫌をとりながら地べたに這うような自動車にも乗ってはいる。
だから視界の違いは特別問題ない。

しかし今日は、もちろん、どノーマルチューンだが、注目されること間違いなしのマシンである(ドアには”試乗車”なんて文字が掲示されているし...。
石原軍団の悲劇が少しだけ脳裏を過ぎったが、まあ大丈夫だろうと、自分の抱いている進行方向と少しズレタ方向を向いた車を無理矢理アクセルを入れて修正しようとした。

で、ちょっと横を向いたら同乗したはずのセールスマンがいないのである。
そこで急ブレーキを踏むと、何故かセールスマンが座っている。
驚きましたねこれには。

しかし、どうやら本当に驚いたのはセールスマンの方だったらしい。
これだけの車なのに、助手席側のシートの背もたれの調整が手動のレバー式なのである。
”ターンくらいはやりそうな気がした”と彼は言った。
”でも、その後すぐに飛び出すとは思わなかったので、シートの調整をしようとしたら行き成り腹筋運動だもんなー”

車が悪い。
そして、彼も悪い。
僕はチットモ悪くは無い。

2003/09/11

文責:い 80

No.918

昨日から見れば、今日は明日であるには違いないのであるが...
続いている積りです。

単純に不思議なことに、”マラソン団体男・女優勝”は、金メダル騒ぎをしないのである。
”トラック競技”であるリレーなら、騒ぎ立てるに違いないのに、である。

駅伝(”トラック競技”であるリレーも同じ)が面白いのは、特定の人間で勝負するからと推測する。
”トラック競技”であるリレーも、例えば、400メートル競争の参加者の1チーム上位3人のタイム合計で競わせたとしたら(この方法を採用するのは、即座に可能である)面白くも何とも無いだろう。
体操団体も同様の理由で面白みに欠ける。

で、最初に(何と、もう10日も前の話であります)、、
”アダムスミスのピン工場”問題(これは極めて狭い世界の問題)と”陸上競技”という言葉の問題(これは広い)とが、現在の私を悩ませ続ける2大問題である
と書いたのであった。

”水上競技”でも”スカイスポーツ”でも無いらしい”陸上競技”なのではあるが、サッカーはどうしたものだろうか。
球技というジャンル分けは定規が異なりそうであるし、つまり、柔道はどうしたものだという疑問に答えられない。
歴史の古さが不足するとすれば、レスリング(デスマッチ――文字通り!――だったかもしれないが)なんぞは充分”陸上競技”に匹敵する。

大体が、最近”トップアスリート”という言葉を様々なスポーツ選手に冠している。
私は”アスリート”イコール”陸上競技選手”という感性で今日まで暮らしてきたのである。
だから、この言葉使いには抵抗がある。

ところが、いろんな辞書を調べたのだが、我説は本流ではないようだ。
が、本来、”陸上競技”を”アスレティックスポーツathletic sports”の訳語だとすれば、私の説で無ければならないはずだ。

もっとも、日本語に訳した時代、イギリスでは”陸上競技”は”field and track”events”と称されていて、この訳語だったのかもしれない。
これだと何となく”陸上競技”って感じが無いでもない。

はっきりさせてくれ〜。
と、まあとっても悩まされている問題ナノデアル。

2003/09/03

文責:い 90

No.917

HUNTERXHUNTER 第18巻 10/03発売決定。
バンザ〜イ。

さて、本題に戻そう。
”陸上競技”は”フィールド競技”と”トラック競技”とに分類されるのだそうだ。
最近の国語辞典では、付け加えて、マラソンも含むとある。
辞書の編纂者が、オリンピックか何かでマラソンを見ていて”はっ”としたのであろう。
そう、マラソンは異質なのである。
”陸上”競技場で勝負が完結しないのである。

競技場以外で走らせたいのは、単純には言えないのだろうが、開催地域の政治的な要素が付き纏っているに違いない。
もし、マラソン競技が無かったら、開催国の選手の応援の声の大きさを別にすれば、テレビで観る限り、何処で開催しても違いが無いからである。
(極端な高地における、跳躍競技の優位性と競走競技の劣位性というさも本当らしい相違は無視することにしてしまう)

私個人的には、”トラック競技”としての”男子4万2195メートル”なんてのも見てみたい。
だらだらだらだら周回遅れとか入り乱れて面白そうだ。
少し大回りになるが、周回遅れの人々を、ガンガン追い抜いていくのである。
ついでだから書いてしまう。
何処に先頭ランナーがいるかが解らないと、矢張り面白くないだろうから、トラックに白バイを入れさせて、トップ集団の前を走らせたら良かろう。

給水所なんて、少なくとも400mに一箇所はある訳で、選手の健康管理にも良かろう。
それでもWHOから”選手の健康を損ねないように、競技中必ず10分間は休憩することをルール化するように”との指導が入り、フィールドにテントでも張って休憩所と表示しておき、このピットで計時休息をとらせる。

今日もまた、本題に戻せなくなりつつあるので、続きは明日ナノデアル。
や〜、引っ張る引っ張る。
織田裕二の”間も無く”で5時間も引っ張る技には負けるが...

2003/09/02

文責:い 90

No.916

昨日(という表現で良いかどうかは疑問)終了した世界陸上には参った。
寝不足なのである。
う〜ん、これも正確な表現ではない
昼間に寝て寝不足は解消しているのだが、昼間寝なくてはいけないというこの私の状況をこの様に表現したに過ぎない。

”アダムスミスのピン工場”問題(これは極めて狭い世界の問題)と”陸上競技”という言葉の問題(これは広い)とが、現在の私を悩ませ続ける2大問題である。

”陸上競技”ってのはツマルトコロ水上競技の反対語という解釈らしい。
しかし、”スカイスポーツ”なる名詞が通用する現代語としては、そんなに簡単に割り切れる問題ではない。

因みに”割り切れる”とは”比”になるという意味であり、1/3のように何処かで数字が循環してくれさえすれば割り切れると断定してよい。
またまた因みに、”比”は、英語では”ratio”なんて言葉を用い、”比”に”なる”ことを”rational―合理的な、とか理性的なとか訳す―”と表現し、日本語と融合している
――”ratio”に”なる(nal)”――
この冗句(joke)は、30年程前のZ会教本”数学U”のコラムにあったことを懐かしく思い出した。

また、ダイビングというスポーツは(シンクロナイズドスイミングも)”水上”なのか、という疑問があろう。
形而上・形而下という言葉で理解できるように(?)、まあ水中なんてのは水の上の出来事なのであると結論。
酒の上の話、などと同じ範疇である。

しかし、陸上競技はそんなマヤカシでは説明できやしないのである。

何か本題に戻せなくなりつつあるので、続きは明日。

2003/09/01

文責:い 70

No.915

9月である。
だからということも無く(実際、8/29に弄った。へへ...)、我ホームページのトップページをイジクッテミタ。

”JAPANESE ONLY”という表記に抵抗があって、ま、要するに日本語版しかないよという意思表示をどんな風に記載したらよいのか長年疑問に思っていたのである。

”日本人以外は見ちゃダメだよ”という感じがするのである。
現実には日本語を結構自由に扱える人以外には、このHPを見て貰ってもどうしようもないのだけれど、来て貰って困る訳ではない。
何を言っているのかというと、ドアに記載された”STAFFS ONLY”は、明らかに”厳密な意味での関係者以外は入っちゃダメだぞ”と脅しが感じられるのである。

(多分ジョークなんだろうが、”STUFFS ONLY”という表示を見たことがある。この時は、正直、中を覗いてみたかった。そうそう、”JOKE BOX”って書いた”JUKE BOX”もあったっけか)

”JAPANESE”が、日本語とも日本人とも読み取れる単語だからいけないのかもしれない。
で、”JAPANESE VERSION ONLY”という具合でお茶を濁してみた次第である。

という訳で、http://www.kinoi.co.jp/をご覧くだされたし。
まあこんなもんでやんしょ。