あっさりメニュー
日刊 鬼ノ胃 本日分はこちら
 

2003年08月分(08/01〜08/31)

2003/08/29

文責:い 70

No.914

なんでこう毎日が楽しいのだろう。

我社および我が家で忙しいのはお金だけであり、なーにどうこうしようとしてどうこうなるものでもあるまいと齷齪(ひえー、こんな字だったんだ。変換キー一つ押すだけだから威張る話デハナイのだが、通常は変換された漢字がこれで正しいのか間違っているのかの判断はしている訳なのであって、しかし、”アクセク”については全くの初見なのである)と対極の姿勢で生活している。

子供達が夏休みで、ま、下のはバドミントン(この競技種目は球技に分類されるのかどうか知っていたら連絡を下さい)で毎日真っ黒になって(これは嘘。室内練習だけらしく日に焼けない。しかし、夏練にはこの表現が相応しい筈である)部活に勤しんでいるのであるからあんまり家にいないのだが、それでも気分は充分夏休みモードになっているのであって、とにかく我が家を挙げてノンビリナノデアル。

来週からは一人のんびりモードを継続することになるのだろうが、ウエストののんびりというかダレをナントカシヨウト思っている。
先日、一緒にどうなんてお誘いに簡単に”はいよ”ってなもんで、久しぶりにゴルフなんぞに行ったのだが、慌てたあわてた。

ズボンが(ズボンに、か?)入らないのである。
”何が入らないのだ”などと尋ねてはいけない。
念のため答えておけば、正面及び横の腹の肉が入らないのである。
この表現は極めて適切なのである。
思いっきりその部分を持ち上げておいて、ベルトを締め上げてズボンを穿くことはできる。

この状態で持ち上げておいた部位を解き放すと、チャーシュウを縛り上げた蛸糸よろしく、その部位はベルトの上を覆ってしまい、我愛すべき上品なベルトは隠れてしまわんばかりなのである。

威張る話ではないだろうが、恰好なんぞを気にするような私ではない。
ないのだが、これは実用上も宜しくない。
飲食ができるような状態ではないのだ。
しかし、約束の刻限は迫っているのであって、他にとるべき手段も頭に浮かばないのでとにかく出発なのである。

で、どうなったかというと、ズボンを形成している素材がスグレモノであったのである。
一時間も経った頃、驚くべきことに、私の肉体にフィットしてきたのである。
プレイ終了後、この季節であるから当然に風呂に入ったのだが、流石に着替え用のもう一本のズボンを試す気にはならなかった。

でまあ、それでもって、嬉しいことに夜に突入したアフターファンクションでの飲食中(もちろん”飲”が主である)健気にも縫い糸すらパンクすることなく朝を迎えたのである。
只今85。ナントカセネバ。

2003/08/28

文責:い 80

No.913

値引きについて。
今、一般的な最終消費者の立場で値段交渉をする機会があるだろうか。

日常の生活必需品(例えば食料)の買い物をする場所は、多分スーパーマーケット(この国では、ハイパーマーケットという名称使用は進んでいるだろうか)であり、値札がついているものを買い物籠に入れてレジで精算するだけだろう。

嘗ての八百屋さんや魚屋さんの店頭で見られた、”これ一匹おまけしちゃいなさいよ”なんて押しの強いオバサンでも、今日日(キョウビとお読みください)レジのお姉さまと交渉してはいまい。

その代わり、アソコの店ではサッポロ一番(もちろん醤油味。相も変わらずこのインスタントラーメンが好きなのである)が356円で、こっちは386円だなどといった情報収集と安い方の店に実際の買い物に行くこととで、自分の中で一人値段交渉もどきの体験をしている様子である。

オバサンたるや、最早、数字との睨めっこなのであって、為替ディーラーと何等代わりがない。
差損を認識するかどうかは別にして、機会費用なる概念の勉強も知らず知らずにしているのだ。

で、なのである。
オムライスを食べようと洋食屋に入って主人と思しき人間を掴まえて、いきなり”この860円のホワイトソーストッピングのオムライスを750円で食べさせてはくれませんか”と交渉したくて堪らないのである。
もちろん、洋食屋でなくても良いし、オムライスでなくても良いし、780円でも良い(ただし、870円なんて馬鹿な交渉はしないことに注意しなければならないのは言うまでもないことである)。

逆に言えば、消費者と販売者(生産者ではない)との関係が、決められた(提示された)お金を支払うと、期待される財なりサービスなりを受け取ることができるというだけの関係になっている状況がオモシロクナイノデアル。

以上、本日我社の社運を賭けた(嘘です)値引き交渉をするにあたり、ちょっと思ったことを書いてみた次第。

2003/08/27

文責:い 80

No.912

四字熟語(四字熟語と称しているが、最近はその実連続四漢字単語の体裁)の穴埋め問題で、一旦書いた”(弱)肉(強)食”を消しゴムで消して、”(焼)肉(定)食”に鉛筆で書き換える子供を大写しにするテレビCM。
お気に入りである。

嘗て、”雪が解けると(水)になる”という解答を、”雪が解けると(春)になる”と書いた子供についてカマビスシイ論議があった。

今年も騙された。
冷し中華定食。
冷しやぶ定食。
店頭に並列してメニューが大書になっていた。
実際には”や”は”ゃ”なのだが、冷し藪定食とはなんぞとなるのは私だけか。
また、その店に入っていないのだが、そも”冷し中華定食”とはどんなものなのか。
”ラーメン定食”と同列の筈であって、この定食が成立するものかどうか心配なのである。

と、この手の言葉遊びは大好きなのだ。
なのだけれども、二番目の例の子供は、この問題が所謂理科の授業で出題されたとすれば、間違いだよと諭すべきだと考えるのである。
しかし、最初の例の子供のセンスを学校教育で如何に評価するか。

一つハッキリしているのは、教師が採点していて”(焼)肉(定)食”を見たとき、まずニヤッとしてもらわないと困るのである。
行き成りバッテンを付けてしまう人がその職にいてもらっては困るのだ。
ニヤッとした後、採点をどうするかなのである。

私なら、その配点が5点なら、20点差し上げます。
ただし、その設問に関してはバッテンを付ける、という不可解な行動になるのだが、誰にも説明しないでその子供だけにそっと話をします。
”このパロディ、僕に使わせてくれないかい、みんなにゃ内緒にネ”

2003/08/26

文責:い 90

No.911

例えば東京都などから2チームが出場してしまうという例外はあるものの、夏の甲子園大会には各県の参加高校数に拘わらず1チーム出場するという決まりに説得力(誰に対してかは無視)があるかどうか。

”身長は?体重は?”と尋ねられた時困るのである。
一日の内で数cmの伸び縮みがあるし、体重に至っては5kg位の差異がある場合がある(私の場合)。
体重については”多分今、大体70kg位だと思います”という答えをしても、相手も不自然に思わないらしい。
しかし、ある程度年をとっている大人が”多分今は150cm位です”という答えをすると、相手は回答者の意図を汲みかねるだろう。

弁論大会なるものがあって、一つの政策に対し双方が正反対(例えばAが賛成、Bが反対)の立場で主張し、相手の論旨の欠点を衝き合う。
そして、ある一定時間を経た後に双方の立場を取り替えて(Aが反対、Bが賛成)同様の論旨を張る。
概ね、力のある方がどちらの立場に立っても相手を遣り込める。

白は白ではなく、黒も黒ではないのである。
自分の立場を如何なるモノに寄せるのかの選択なんぞ、本来自分の人格に基くべきだと思うのだが、そんなものはお構い無しの弁論が存在してしまうのである。

北朝鮮の問題(私自身その内容をどう捉えているか、これが実は解ったようで解っていない)を、政治(外交)に任せて置いて良いのであろうか。

本来白いモノは白いのであり、黒いモノは黒いのである。

2003/08/22

文責:い 80

No.910

急遽菅平行き決定。
この原稿が上がり次第出発である。

昨年は行きそびれた。
今年は、それが最優先事項であり、他の行事(仕事?)を放り投げてでもイカネバナラヌと考えていた。
しかし、天候不順が続き、ずっと日待ちしていたのである。
今度の日曜には、早稲田・関東学院のAマッチが組まれているのだが、天気が待ってくれるとは限らないので、本日、日帰り計画である。

私は高校生たちの姿が見たいのである。
甲子園の高校生たちの姿に幻滅したことも手伝っている。
菅平で唯一信号機のある交差点に、練習の休み時間に集う半病人たち(まともな状態のラガーメンは殆ど見当たらない−−筈である−−)に会いに行くのである。

ただ、最近の合宿は大甘なのだろう、食欲旺盛な子供が多いのは残念である。
デブとしか表現できない体躯をこの場所で見ることができるのは納得がいかない。
疲れ果て食欲は無いのだが、無理矢理食物を摂取するべく飲み込む。そして吐く。
この経験が重要なのである。

最近は、根性論でスポーツを語る私なのである。
年をとった所為だと指摘されるのは一向に構わない。
実際、そんなところだろうとも思うのであるが、運動中に水を摂取させないという過去の根性論構成要素は否定する点だけは声を大にしておく。

ま、個人競技は別として、チームで戦う競技では、自分を殺して他人を生かす、そして、その逆も真な訳で、その辺りの阿吽の呼吸を練習の中で何処まで培えるのかが勝負なのである。

高校野球。
伝令が飛び、”笑顔でやろうぜ、試合を楽しもうぜ”と激励する(檄を飛ばす、のではない点に注意。この違い、辞書を引くべし)と、本当にニコニコしてしまう選手が目立つ。
監督の試合後コメントで屡この激励文言を聞いた。
監督は、選手がニコニコすることを本気で期待しているらしい。

選手も監督も馬鹿である。
結果として納得することができる試合であったという感想を持つ事ができる時に”楽しみ”があるのであって、団体競技では、サディスト以外は試合を楽しんではならないのである。

一部の一流選手(競技を問わない)の”試合を楽しむ”という言葉は、一種言葉の綾なのである。

2003/08/21

文責:い 80

No.909

知事
副知事
知事秘書官
副知事秘書官
下二つの職名が正式にあるかどうか知らないが、此処では言葉遊びだから存在するとしよう。

問題は”副知事秘書官”である。
”副知事”の”秘書官”のことなのか、あるいは”知事秘書官”の”副”のことなのか理解できないのである。

同じようなことで混乱するのは、形容詞が複数付与される時、個々の形容詞がそれに続くどの名詞に関わるのかということである。
A.白い雪のように冷たい石。
B.赤い雪のように冷たい石。
どちらも意味は通じるだろう。

しかし、A.の”白い”は、”雪”の形容なのか”石”の形容なのか判断に苦しむ。
B.の例があるから、A.の石は白いのだろうと錯覚する。
しかし、次の文章は成立すると思う。少し窮屈な表現ではあるが。
”僕の忘れられない想い出の石は、白い雪のように冷たい石だった。この冷たい石は赤く輝いていた。あの赤い色こそが忘れられないのかもしれない。”

レトリックの名手は話し上手と倣され、私も拝聴して楽しい。耳障りな形容はしないのである。
しかし、騙されてはならないのである。
トリックの一手法なのであるから。

2003/08/20

文責:い 60

No.908

さて、節約を説いた昨日の今日でナンナノダが、問題が発生した。

失敗したのである。
ポスターでは無いのだが、両面印刷における裏面印刷の用紙方向を逆にしてしまった。
納品すらしてしまって、先様に指摘されたのである。
複数枚を本のように綴じるものなら気が付かない訳が無いのだが、単純な裏表印刷で枚数を指定されていただけだったので発生したミスである。

”使い勝ってはこの方が良さそうですが、私は当然同じ向きに印刷されてくるものだと思っていました。好評です”
これが先様の連絡であった。
この言葉は裏読みする必要が無いことは話していて良く解った。
皮肉ではなかったのである。

従って、お気付きのように、ミスが損失に化けることは無かった。
ナノデアルケレドモ、私はとうとう最後まで自分が失敗したと告げることが出来ずに、先様の調子に合わせてしまった。

情けなく、アキレハテタヤツデアル。

2003/08/19

文責:い 80

No.907

テレビを見たり、本を読んだり、居合わせた見知らぬ人々の会話に耳を欹てたりしているとき、”節約”という言葉に何故か微妙に反応している自分に気付く。
というか、常にその言葉を気にしているのである。

私の生活における21世紀のキーワードは、”節約”なのである。
134歳まで生きる予定の私には22世紀の生活は無い。
(22世紀を生きるのには、11年間不足している)
従って、今後の私の一生は”節約”なるキーワードに支配されるのである。

確かに金銭に敏感な(余裕が無い、の意)私なのだが、費用面に限って使用されるだろう”倹約”とか”吝嗇”とかには興味が無い(無い袖は振れないのであって、自然に対応しているからである)。

先ず最初に、体重を節約しちゃいたいものなのである。
そして、毎日(嘘つき!)のこの文章を100文字くらいに節約しちゃいたいし、庭の草取りを2週間に一度に節約しちゃいたいし、風呂に入る回数も年に50日くらいに節約しちゃいたいし、バックアップしなければならないファイルの容量は半分に節約しちゃいたいのである。

99枚ポスターを作る仕事をするとしよう。
これに用いる用紙は99枚である。
そして、その作業が終わればその後には絶対その用紙が必要になることは無い場合、99枚の用紙購入で済ませたいのである。
ところが現実は、110枚を用意しないと仕事としての作業には不安が一杯なのである。
失敗したら即座に追加の枚数を調達する術が無いし、ヨシンバ時間的には間に合っても、送料などの付随費が高くつくから、余分な枚数を用意するのである。

こう書くと、そりゃそうだと頷いてくれた方もあるかと思うが、根本的に間違っているのではないだろうか。
簡単なことだ。失敗しなければ良いのである。
マシテヤ、その用紙がマッコト特殊なもので、世の中に99枚しかないとしたらどうだろう。

矢張り、失敗しなければ良いというか失敗してはイケナイのである。
”節約”とは”一発本番勝負”なのである。
全ての局面で”一発本番勝負”を勝ち抜くことこそ、21世紀のキーワード”節約”の意味するところなのである。
カッコイイ生き方でせう。

2003/08/18

文責:い 80

No.906

今更ですが...
結末が不透明な論拠で決定した大統領選挙に”勝利”したブッシュのアメリカは、不確かな根拠で戦争を始めてしまい、”勝利(終結)宣言”を発したものの、今度は終わったのかどうか解らない、つまり、全部良く解らない戦争をやったのであり、訳の解らぬとはこのコト。

小泉流一行解説で小泉に語ってもらわぬことにはコトが済まない。
”フセインが「負けました」と言っていないからといって、アメリカが負けたということではナイデショ”
う〜ん、これではマスマス何がなんだか解らぬ。

41と43と、親子が大統領の椅子に座ったのも問題じゃないかと思うのだが、お互いを呼び合うのにこの数字を使うことがあると聞いて、この親子じゃあ、どちらの見識を疑うなんぞという問題じゃなくて、両方ダメなのであって、こんなのを選んでしまうアメリカの民主主義もさもありなんなのである。

アメリカは、原因を”落雷”だと発表するも、カナダがその原因説を否定するや、”良く解らない”となってしまったママデアル。
カナダに対しては、得意のごり押しをやらなかったところを見ると余程(これはもう本当に情け無いほど)根拠に乏しい情報をもとに最初の発表をしたのだろう。
ソウハイッテモ、コノジョウホウモ、ソシテソノショリノシカタモ、ナンカイツモトカワラナイトオモウノダケドネ。

今日からは、先の停電の話を書きたかったのだが、今一つ大本営発表の新聞記事に納得がいかないところがあって、これは少し時期が早いかなと急遽変更。
で、さわりの部分だけで終わりにしてしまうのである。

2003/08/15

文責:い 70

No.905

こんな記事を目にした。

『月の土地』って誰のもの?
月の土地を販売しているのは、アメリカ人のデニス・ホープ氏。(現アメリカルナエンバシー社CEO)
同氏は、まずこの疑問を持ち、法律を徹底的に調べました。
すると、世界に宇宙に関する法律は1967年に発効した、いわゆる宇宙条約しかないことがわかりました。
この宇宙条約では、国家が所有することを禁止しているが、個人が所有してはならないというは言及されていなかったのです。
この盲点を突いて合法的に月を販売しようと考えた同氏は、1980年にサンフランシスコの法務局に出頭し所有権の申し立てを行ったところ、正式にこの申し立ては受理されました。
これを受けて同氏は、念のため月の権利宣言書を作成、国連、アメリカ合衆国政府、旧ソビエト連邦にこれを提出。この宣言書に対しての異議申し立て等が無かった為、LunarEmbassy.inc(ルナ・エンバシー社:ネバダ州)を設立、『月の土地』を販売し、権利書を発行するという「地球圏外の不動産業」を開始しました。
『月の土地』は、1エーカー(約1,200坪、サッカーグラウンド1つ分に相当)の広さが、3,000円。

地球から見える表面だけで、約50億エーカーあり、現在、約3億エーカーの土地がすでに販売されています。


2人の元アメリカ合衆国大統領も購入したという。
どうやら冗談では無さそうなのである。
契約書の最後に、”子供銀行発行”とは印刷していないのである。
コンナノアリカ?
やくざの手口じゃないか。

アメリカの会社がナンボ儲けてくれても構わないが、デニス・ホープ氏個人の課税関係(アメリカの法律で良いから)はどうなっているのだろうか。
デニス・ホープ氏の相続時には税金の計算できるのだろうか。
(売れ残っている土地の評価は、販売予定価額相当額とみなすのが妥当だと思うが、こりゃあ凄まじい額ですぜ)

因みに、日本人が購入した場合、例えば200万円分、そして、全くの他人に贈与した時、国税局はどんな評価の手法を使うのか興味深い、とだけ書いておき、今日の手抜き文章は終了。
(今のところ、月の土地の評価に関する通達は出されていない模様である)

2003/08/14

文責:い 60

No.904

えーい、ついでというか、今日も昨日の続きのような話。

何で一昨日、昨日と二日間に亘る話題として、”spike”に拘ったのか?
解るかい?

(男らしいってわかるかい?ピエロや臆病者のことさ)
このフレーズを知っていた方は、是非とも連絡ください。
勿論、あの人(グループも可としよう)のウタです。ただし...
元歌”I shall be released”の人のを知っているだけの方はハズレ。

稲の”穂”を和英辞典で引いたら”spike(2)”とあったのである。−−これが現代語訳として正しいかどうかを知らないが...
んー、こうなると、何故”穂”を和英辞典で引いたのかまで説明しなければならないようだ。

またまた日を改めて説明することにしよう。

2003/08/13

文責:い 80

No.903

歴史に無関係な現象は無い。
私たちの国は、富士山が噴火することを本気で想定する感覚を持つ人々が、真面目な議論をすることのできる国なのである。

stainless steel は、日本では悲しい言葉の歴史を持っている。
stainがless(無い、くらいの意味で捉えて可)なのであるから名付けられた”ステンレス”は、職人の間で”ステン”を通り名として呼称されているのである。
”オイルステン”は、同じ職人たちから正直な意味で使用されているのに...

で、昨日来の論点に戻ろう。
スタッドレスタイヤは、スパイクのないタイヤなのであって、極々普通のタイヤを指しても良かろうなどと書いたのである。
しかし、これこそ”歴史に無関係な現象は無い”話からすれば暴論なのである。

暴論なのだけれども、時として異なる前提条件から同一の結論が出現するというのもまた、我々は経験上知っているのである。
(真ではないのかもしれないが、少なくとも真であるという幻想を共有することができる、とまあそれだけの話)

スパイクタイヤは、条例等で禁止されていない時代にあっても、雪の無い道路で、マシテヤ真夏に走ろうという気にはならなかった。
北海道では、ガソリンスタンドと契約して、使用しない期間預けておいたそうである。
現在その名残(つまり、ついいつもの癖で)で、スタッドレスタイヤもまた預け契約をしている方もいると聞く。

しかし、余程の走り屋でなければ(まあ普通に運転している限り)”普通の”タイヤとさして変わりの無い走りができるのである。
勿論、減りが早いし、ふにゃふにゃ感はあるし、例えばコーナーリング時には限界点が浅くて恐い思いをするような走りをしてはならないという制約はある。

まっ、これは自己抑制で解決できる。
タイヤ(特にスタッドレス)性能が年々飛躍的に上がる現在の状況下では、5年も同じタイヤを履いていれば、ノーマルとスタッドレスとの単純な一般道走行性能の差なんぞでは吸収しきれないくらいの劣悪なタイヤを履き続けることになるのである。

とすれば、スタッドレスを通年使用して2〜3年で新たなスタッドレスタイヤに履き替える選択は理に適っていると言えないだろうか。
スタッドレスタイヤを冬用タイヤと考えないで、冬用に若干重きを置く優れたオールシーズンタイヤと考えるのである。
当然開発メーカーも、そういった新たな視点で研究開発することにする。

とまあ、私が通年スタッドレスを履いていることの説明を書いた訳である。

2003/08/12

文責:い 80

No.902

夏なんだけどスタッドレスの話。

そう、夏なのである。
ってか、夏だと思っている。
汗が出てしょうがねえ。
体重も下がる一方、ってことがないのがしょうがねえ夏なのである(おっ、そこを歩ぃてる−−アリィーテル、と読んでおくんなせぇ−−外人サンよ、これを普通の日本の夏だと思っちゃいけねぇ。こんな甘ぇー夏−−アメェーナツ、と読んでおくんなせぇ−−は滅多にネェのである)。

皆様ご案内の通り、”stud”は”study”とは関係なく(森羅万象相互に関係ないものはない、というのが我師−−Mr.Southerner の説なのであるが...)、そこんとこ宜しくで関係させないで話を進める。
”上等”なのである。

スタッドレスは、”stud”が”less”なのであって、スパイクタイアとの対極を意味する。
これも説明無しで素通りできるほど単簡(?)な話デハナイのだけれど素通りする(念のため指摘すれば、”stud”と”spike”との関係や如何)。
つまり、スパイクのないタイヤなのであって、なに、これはつまり、極々普通のタイヤを指すんじゃねぇのだろうさな。

そんなことはねぇ、のであって−−この文体、以下止めます−−、スタッドレスは冬用タイヤであることが前提なのである。
此処まで書けば、つまり何が言いたいのだなんて野暮な質問は本来無いのである。

しかし、私は通年スタッドレスを履いている。
勿論”私は”とは”私の車は”と読み替えていただかねばならない。
今一度正確に言えば、”私が普段利用している車の内、あの白い方ではないやけに汚い車は”である。
これは特殊な事例ではなく(そう言えば、Mr.Southernerもそうしていると聞く)、履き替えが面倒臭いという理由以外の理由(これでもう一日分の日刊鬼ノ胃を書くことになろう)があるので、大人という輩はそうするものなのだと良い子たちは思っていれば良い。

だっけんがねぇ(ここは、”だっけんがねぇ”と”だっけんねぇ”との違いを味わう場所です)、大人たちはこれでは納得できないだろうから日を改めて説明しよう。

2003/08/11

文責:い 90

No.901

夏休みは楽しいことが沢山。
お前は毎日が休日のようなものではないか。何を今更。
ってなご指摘が多いのであるが...

例えば、自分で髪の毛を切るという状況を思い浮かべてみよう。
冬は、まるで戦いに臨む武士(本物を見たことが無いのだが、多分さもありなん)の覚悟で風呂場に入り込むのである。
勿論風呂場暖房などは無いのであって、その寒さたるや筆舌に尽くしがたいのである。

その点、夏の休日に一人風呂場に入って(風呂に入るのではない。この違いは特に記載する必要がある)、風邪を引く心配無しで、一方が櫛のような歯をした鋏のみを使用して、自分の思うがままに散髪するのである。
”思うがまま”とは、例えば誰々風の髪型というような決められた形式に合わせて整えていく鋏使いのスキルがあるという意味ではなく、正しく”どんな髪形になるかは鋏に訊いてくれ”という感じを言葉にしてみただけである。

自分で髪を切るという生活態度は、既に30年くらいの歴史がある。
この作業たるや、素早いものである。
先に記した”鋏使いのスキル”はアップしていないで、単に”こんなもんで良いや”という気分に素早く達することができるようになったからである。
ついでに言えば、”髪形変えたの?”という質問はついぞ受けたことが無いから、他人から見れば何時も同じ髪型に収まっているらしい。

左右の対称性はとっくに捨てている。
散髪という作業は髪を切るということなのである。
髪を付け足すことができないのである。
従って、左右の対称性なんぞをテーマにすると収まりがつかないことになるのは自明である。
例えば、右の様子を見て左を刈り込むのである。すると、左が短くなる。と、右を刈り込むより他に方法が無い。従って右を刈り込むと右が短くなる。と、左を刈り込むより他に方法が無い。

一日を散髪という至福の時間で過ごし切るには、私の頭髪量は少なすぎるのかもしれない。
だから、左右の対称性に対するコダワリは、早くに捨てることに達観し、本日に到っているのである。

経済政策を弄繰り回してその目的達成が可能と思っている施策者は、早くにその考えを捨てるべきである。
右、左、右、左、...とやっていられるほど、時間も無いし、基準がぶれていると現実の経済主体(私たちのことである)は混乱するばかりで何も動かないなのである
つまり迷惑なのである。

まっ、名前が悪かった。”竹中”とは”藪”のことである。
そして”藪”とは”迷路”なのであって、抜け道探しは容易ではないのである。

2003/08/05

文責:い 60

No.900

こ、き、くる、くれ、こよ。
ま、カ変は良い。
普段使っているこの変格活用と昔のそれとの違いを認識しながら、それでも混在して使っているのだが、違和感無きよう使い分けることができる(つもりではいられる)。

サ変が整理できない。
特に”ずる”型(例えば、感ずる・準ずる)が滅茶苦茶である。
そして、一度なんか変だぞと感じてしまうともう頭の中で整理するのは困難である。

”する”型(例えば、愛する・配達する。実はこの二つの例は活用が少し異なる)は、単独の”する”を含めてオカシイなと感じることはまず無い。

喋っている時は良いのだけれども、書くときに困るのである。
講演会とか挨拶とかのように、多くの人の前で文法を意識して喋るような状況に置かれることは滅多に無いので、喋りは固有名詞さえ間違えなければ良い。

と、此処まで書いて気付く。
日本語以外の言語を喋ろうとする時(これも皆無に近いのだが)、何故か頭の中では先ず文法ありきなのである。

長年、例えば何故英語が喋れないのだろうかと悩んで生きてきたのだが、漸くその原因が解かった。
勿論、原因が解かってそれを取り除いても結果が変わるわけではない。
文法を捨てれば英語が流暢に話せる、というものではないのである。

ま、”Me、too”なんて文法を全く無視した言葉を、何とか文法に沿って理解しようとしてもダメなのだから、どうしても英語を使わないと生活していけない状況に陥らない限り、私は英語が使えないと割り切ることにする。
そんな状況が来訪せざることを望む。

再開後、こんなに早く900号が到来するなんて事態は困ったもので、昨日は休刊してしまった。
もう少し気の利いた内容にする積りだったのだけれども、自分というモノはこんなものだと確認できたので、900号記念なのではあるがお粗末さまでしたということにする。

2003/08/01

文責:い 90

No.899

さて、上司である。
流石上司。
私が面倒臭くなって、”まっ、これでいいんですね”との言葉を吐くようにさせる術を心得ているのであろう。
時間的な余裕さえあれば、このような上司は私にとって恰好の獲物なのである。

が、如何せん先様は仕事であってお金を稼いでいる時間を消費しているのであるが、当方の時間は私の遊び時間を減らすことになる時間なのである。
そうそう貴重な時間を無為に過ごす訳にも行かないのだ。

何を憤って、そんな貴重な時間を割いてまで書類の書き方に拘るのかということを説明したい。

私は、基本的に自分に作成出来ない提出書類は無いと考える。
もし、そんな書類が存在するとしたらその書類を提出させようとすること自体が間違っている。

各種の登記、税務申告、車検等々の提出書類は本人が自分で作成することを前提にしているのである。
ところが、受付機関は代理人(この方々は、司法書士だったり税理士・行政書士だったりする)が作成するのが常態で本人作成は例外だという、原則からすればむしろ異常なことを不思議に思っていないのである。

自分の出くわした例を記す。
2月ほど前、税務署に会社の確定申告書を提出に行ったのである。
受付の係の方が言った。
”税理士署名印欄の記載がありませんよ”
関与税理士がいないのであるから当然である。

そもそも、確定申告書に”税理士署名印”欄が予め印刷されていること自体も腑に落ちないのである。
それにしても、税務署という”私(会社の代表者)”の申告書を受け付けるべき機関の担当者が、代理人を通すことを当然と考えているだろうことが問題ナノデアル。

さて、”選良”なる方々の行動基準は似たような思い違いをしていないだろか、などとチョコッとだけ思いを馳せたりして...

この文を書いたのは、”右腕の本格派変化球投手”という野球解説者の言葉を聞いて、”あれ、変だよな”と感じながら即座にその”変”さを説明できなかった自分を戒めるべくなのである。