あっさりメニュー
日刊 鬼ノ胃 本日分はこちら
 

2003年04月分(04/01〜04/30)

2003/04/30

文責:い 90

No.890

厭な経験をしてしまった。
この件でお困りの方のためにも、ちとばかり長く書く。
自分でお金を出す飲食店に入り、供された料理が不味いと頭に来てしまうのである。

そう、他人が支払うならばそうでもない。
他人が支払う店は当然その方が連れて行ってくれた店なのであって、その料理が美味くないことは私の存じ知らぬことなのである。
例外は、実はその方が私のことを嫌いで、”こんな奴に美味いモノを食わせて堪るか”という気持ちで選択した店である場合である。
この場合、理屈上私に責任があると言える。

元に戻って、自分が店を選択するにも2種類ある。
初めての店に入る場合と、嘗て訪問した際に美味かった記憶を呼び戻して勇んでかかる店に入る場合とである。
これとは別に非常にレアなのだが、不味さをもう一度確認に行く場合がある。
私以外の人の評判がアマリニモ宜しい場合である。とは言え、大体無駄骨である。

初めての店に入る場合には3ケースある。
第一が、土地鑑の無い街を訪れ、一店のみで周りに飲食店が無く、しかし、どうしても飯が食いたい(飯を食うと記載するのは酒を飲むと殆んど同義である、念のため)ケース。

このケースで美味いものが目の前に出現してしまうのが一番塩梅が良い。
良き店を一つ手に入れるのに、自分自身何の貢献も無ければ、もちろん、何等咎められるべき点も無い。
従って、塩梅が良ろしいのだけれど、さりとて感動というか充実感というかは何も無い。

逆に(これが概ねである)不味くとも、腹を立てる筋合いも無い。
ま、非常に高かったりすると文句の一つは出るかもしれないが...
ナンテッタッテ飲食店評価分類は4つしかないのである。
好ましい順に書いておくが、異論のある方はいないだろう。
安くて美味い−高いが美味い−安いが不味い−高い上に不味い。
”高い””安い”と”美味い””不味い”とを接続する言葉に注意ナノデアル。

第二のケースからは次号にて。

2003/04/25

文責:い 70

No.889

庭エンドウ 初捥ぎしてこそ 一週間

昨日に続いています。

正直に言えば、”やってもらえるかどうか”なのではない。
どうも専門家の人たちは信用できないのである。
例えば、かかりつけの医者にしてもそうなのである。
看護婦さんが計測してくれるのだが、水銀血圧計を使用して一度だけ測って終わりなのである。

自宅にあるデジタル式の血圧計では、必ず3回計測するのだが、その3組(所謂血圧の上下が3回)の数値が一致することは無い。
統計的手法を使って計算したことは無いが、誤差の範囲内だと言うにはあまりにもかけ離れた数値が常に出現する(もっとも、3回の測定で統計もなにも無いもので、むしろ誤差の範囲だと言い切ることができるのかもしれない)。
その1回の計測の数値で”血圧に関して、今日は頗る宜しい値ですね”なんて嬉しがらされても、ありがたくも何とも無い。

身長測定もそうだ。
一日のうちに、センチメートルの単位で伸縮を繰り返しているという報告がある(お粗末なことに、身長測定を一日に何度も行うだけの簡単なことなのに、自分では確認していない)。
こんな流動的な数値から選び出しておきながら、〇年△月のA君の身長は幾らと記載して、先月より5mm背が伸びましたなどと平気な顔をして親御さんに告げていたりしているのである。

屁理屈屋でかつ臆病者の哀れなわたくしめに、懇切丁寧でかつ屁理屈を屁理屈で返すような眼鏡屋をご紹介くださいませ。

2003/04/24

文責:い 70

No.888

またまた一昨日書いたことについて、考えてみた。
どうも”目”が悪いことにも原因があるのではないかと思っている。

特にメガネを一日中掛けていた日の夕方から翌日がイケナイ。
全く集中力が無い。
本なんぞ読む気にならないのである。

すると自然自分の時間を過ごすのに(晴れていてくれさえすれば、星空を眺めるという至福の時間を過ごすことができる。もっとも、この場合も本当は”目”が重要なのだが、何故か双眼鏡や望遠鏡を覗くのに不自由ではない)肴を拵えて酒を飲むことになり、何、何時もと何等変わりは無いのだけれども一人将棋ソフトを起動してしまうのである。
これがまた目には良くないのであって、負けても負けても狂ったように指し続けるのだ。終いには画面がちらつくくらい目を痛めつけている。

メガネを新調したいのだが、一体何処で買い求めるのが良いのか判断できない。
ブランド物なんぞ全く眼中に無い。
五、六回通って、近視度・遠視度(これが曲者のような気がする)・乱視度を計測してもらいたいのだが、一見の客に対してそんなに面倒臭い作業を真面目にやってもらえるのかどうか。

どうしても出かけなくてはならないので、以下は明日に。

2003/04/23

文責:い 80

No.887

昨日書いたことについて、原因は何か、と考えてみた。
もちろん”老い”なのであろうが、その具体的な器官は何かということである。

どうも”歯”が悪い状態でいることに原因があるのではないかと思っている。
とだけ記しておく。
で、ここから先は昨日の話題とは関係無くなる。

昔っから硬いものより柔らかい食い物を好んでいて、従って堅い食い物が食えなくなって悲しいということは無い。

そうそう、この例に丁度良いから書いておくと、煎餅はお茶に浸してぷよぷよにして食うのが好きだし、濡れ煎に一部硬い部分が残っていると不機嫌になるのである。
また、肉は薄いのに限るのである。
特に生ハムの厚切りなんぞ止してくれなのである。
牛タンの塩焼きで、”一切れがこんなに厚い”なんてキャッチコピーを付けて威張っているなんぞは愚の骨頂。
ただし、煮込んで柔らかな状態にして食べることを前提にした料理はこの限りにあらず。

そう、太打の蕎麦なんか食えるか。
ただし、饂飩は丸で太くてが条件であり、さらにコシ(これは、硬いとは別の概念であることを承知した上で、敢えて)は必要無しが絶対条件である。
欲を言えば、夕食に作った煮込み饂飩をそのままにしておいて、翌朝たっぷりと汁を吸い取り既に汁は見当たらない状態になったところにお湯を注ぎ込んで煮返す、そうして出来上がった饂飩が最高なのである。
(このときでも、本当の意味での”コシ”のしっかりした饂飩はぶつぶつと切れない。この意味ではコシは必要である。ここで切れているようではそもそも私は饂飩と呼ばないのである)
念のため付け加え。蕎麦で同じことをやったら全くお話しにならない。

此処までを読み返すと、相当酷い食い物の嗜好性であるが、好きなモノは好きなのであって、モンクアッカなのである。

2003/04/22

文責:い 70

No.886

最近気になる自分自身に関すること。
何、髪の毛は薄くなってきているわけではない(白髪は目立つ)。

言葉に対する感性が滅茶苦茶に崩れているのである。
それと、記憶力の低下。
以前も書いたが、(記憶力の二大要素である)記憶していたはずの事柄を思い出す能力と、そも記憶をする能力との二つともが頗る低下しているのである。

従って、この結果(言葉に関する感性の崩壊・記憶力の低下)とんでもないことが起こるのである。
特に酷いのが、記憶の引き出し時に間違っていてもマチガッテイナイと平気で信じ込めるようになってしまったことである。

例えば、宮沢賢治の”永訣の朝”を”訣別の朝”にしてしまったりするのである。
永訣には当然”死”という意味なのであるから、本来間違える必要性がありえないのである(この表現も微妙に違和感があるのだが、理由が説明できない)。

登場人物の多い小説が読めない。
個々の人物を取り巻く環境とか性格とか把握していないが為に、ストーリー以外の細かい部分を整理するのが面倒で、ストーリーそのものが面白く無くなってしまうのである

本来ならこの歳になると、登場人物Aはアイツ(実在する人間の幾つくらいの時を想定する)、Bは別のアイツにと頭の中で当て嵌めて楽しむに足る各種人物のストックが溜まってきていて、若い時よりより細かくその登場人物に近い人間を用意することができるはずだから、複雑な人物設定にも充分対応して行くことができると考えられるのである。

如何したら良いのだろうか。

2003/04/21

文責:い 80

No.885

”そして音楽がはじまる”の昨日は、”セイリング(ロッド・スチュアート)”であった。
時々この番組を観る。
どういうタイミングなのか、数分前に何気なく新聞のテレビ欄を見るとその日の対象曲名が記載されていて見る気にさせられるって感じでこの番組を見るのである。

今回で何回を数えるのか記憶に無いが、見た時の対象曲を覚えている。
最初が”風に吹かれて(ディラン)”、次が”なごり雪(しょーやん)そして”明日に掛ける橋(S&G)。間に”恋人よ(妖怪人間)があったような気がする(この編曲者の船さんが、70歳を超えた知人の息子さんであることを後に知る)。

で、”セイリング”なのである。
1972年に作られたこの曲は、作詞作曲者である兄弟のバンドで発表された。
初めて聴いたのであるが、単純に発表された曲としては、むしろこちらを好む。似てはいるのだが、太いのだ。
英語で”YOU”を使うとき、それがしばしば”神”の意であることに若干の抵抗があるが...

それはそれとして、ライブアルバムで聞き覚えがあったり、特にサッカー場での観客の合唱を聴いたりしている訳で、その上でフルオーケストラの伴奏になる通常のロッド・スチュアート版に改めて耳を傾けると、スコットランドと日本との昔(我々の世代という意味である)の音階に共通の”懐かしさ”を感じる。
多分、時代の文部省唱歌という学校教育で叩き込まれたからであろう。教科書にはスコットランド民謡を結構採用していたのであるからと考える。逆に、かの地のそれが私たちの国のそれと似ていたからこそ根付くに足りたのであろうが。

ロッド・スチュアートのアルバムに収められたのが1975年だったという。
この年は、私が浪人していた年であり、従って、その後暫くして大学の学生生活をしている時にこの曲を聴くことができていたのは、思うに僥倖である。

実際、私にはこの曲を含めて充分な音楽の蓄えがあって、新しい曲を必要としないと言っても過言ではない。
リバイバルソングの流行は、私のように考える大人が多く存在し、かつ、若い世代には新鮮に映るからなのであろう。
画期的なジャンルの曲を制作する才能を持つタレントの不在と換言することもできよう。

もしかすると、私の側に今という時代の音楽と結び付く画期的な出来事が無くなっているのかも知れないが...

2003/04/18

文責:い 60

No.884

禁煙の真似事(こんな書き方からして既に精神の弱さを暴露しているのである)をしていたのであるが、またまた簡単に喫煙している。
これは事実なのであって、コマッタコトナノデアル。

禁煙バッチなるものがあって、どうやらその正体はニコチンを貼り薬にしたものらしい。
こんな代物使いはしないが、ツマルトコロ、肉体的にニコチンを欲しがるなら、喫煙しなくても常時身体にニコチンを供給して差し上げようというアリガタイ薬である。

ところが、喫煙とはニコチンの身体への供給のみにあらずなのである。

食物にしても、必須な栄養素を身体に取り込めば必要充分だとは考えられないのである。
今日は穴子の天麩羅が食べたくて、明日は蕎麦が食いたいというのは、ただ単に身体が必要な栄養素を様々な食品から求めようとしているというだけの事ではない。

私の食欲は見た目の綺麗さも要求するし、香りのコラボレイション(最近巷で聞く一般的な使用法はどうも馴染まない。この言葉、私が使用するのは初である)をも要求する。
身体に悪そうな色をしたジェリーを棒状に加工した食べ物(駄菓子屋で売っていたアレ)は、その身体に悪そうな色だからこそついつい買ってしまう。

ルージュのワインも、経験からしてあの美味さを知っているからあの色でこそと想いはするが、養命酒とか赤玉ポートワインとかから酒の世界に入っていたら、緊張して薬だとでも考えて一気に流し込むことはあっても、頬を緩めてあの色の飲み物に唇を付ける気にはならなかったと思う。

で、要するに、煙草は嗜好品なのであって、ツマルトコロ、嗜むのもまた武士の心得なのであって、まあ、他人に気を使うことも忘れてはならないし、自分の味覚を衰退させる頻度で嗜んではならないのである。
何てったって”嗜む”のである。

などと、ブツブツ喋ってきてしまった。
え〜い、はっきり言ってしまおう。
煙草は吸いたいときに吸うのである。
何、吸いたくならなければ良いだけの話である
気楽になったところで、またまた禁煙宣言なのである。

2003/04/17

文責:い 70

No.883

近頃街中を車で走っていて気付く。
介護を職種としている業者の自動車が、頻繁に通行している。
内情は知らないが、好景気業種の趣がある。

複雑な仕組みを存じ上げないが、こと介護料金の支払いの仕組みに関してだけの知識を得たところで話をする。
医療費の支払いについても同様の感を抱いていたのだが、社会保険制度により補填される金額を除いた、例えば、2割なりの料金を各人が支払うという方法では、サービス受益者の料金に対する感覚が錯覚させられていると思われる。

一旦全額を支払い、後に補填金を受け取る仕組みの方が全体の費用(従って保険制度を管理する側も実際の受益者の側も)は少なく抑えられるのではないかとの気がするのである。
もちろん、この方法(予め全額を受益者が支払う方法)だと、事務費用が膨大となり、それを含めた実際の全体費用は膨らんでしまい、期待したようには費用抑制の方向に向かわないかもしれない。

株式投資で金儲けを試みる場合に似ている。
基本的には、買った株価よりも売る株価が高ければ儲かるはずなのである(売先、買後の場合も同じである)。
ところが、売買には証券会社に手数料を支払ったり、分離源泉所得税などの諸税を支払うルールがあって、儲けるには買い売りの株価の差がある程度必要になるのである。

(証券会社のトレーダーならば、殆んど余計な費用が掛からないから、一円でも株価の動きさえあれば純粋に儲けを出せるのである。
こんな輩の儲け方を聞いても一般人には役に立たないのである)

介護業者はその錯覚を利用して、必要以上に介護サービスを供給しようとする。
受益者も、1割負担という気安さからか、何となく多目の介護サービスを利用しがちになる。
これで良いのであろうか?

2003/04/16

文責:い 80

No.882

今更なのであるが、アメリカ・イラク戦争の初期の報道映像について思うところがあった。

暗闇の中、爆撃されて舞い上がった煙と炎との内に、火の粉が舞っている映像なのであるが、これが最新鋭の望遠鏡(例えば”すばる望遠鏡”とか)で撮影された写真(光学的な写真ではなく、画像処理を施して迫力ある写真に仕上がっている)を見ているような雰囲気があったことなのである。

不謹慎なのかもしれない。
が、例えば、オリオン座の馬頭星雲辺りで幾多の新たなる星の誕生を写し取った様は、当に戦場のそれと著しく似ている。
非常に美しいと感じてしまうのである。

小さい頃からの憧れである天文学の世界の写真と戦争の写真とが似ていることは、相当悲しい。
あんな愚かなことに注ぎ込まれた金銭を、科学の場に投入することができる世の中でなくてはならないなどと書いておくことがセメテモノ罪滅ぼしか。

”すばる望遠鏡”をキーワードにして検索サイトを活用し、現在の天体写真の状況を見てもらいたいものである。
感動という意味では、ちっちゃな望遠鏡で良いから、自分の目で月を覗いてもらったほうがより大きな心の動きがあるかもしれないが、一般的には決して容易な話でもないかもしれないので...

2003/04/15

文責:い 80

No.881

健康保険税・厚生年金保険税の料率等の変更がなされた。
私にとっては減税である。
私の会社の場合、賞与を支給するという慣例も無ければ、支給せよという要求も無い。
従って、税率(料率)の下げはそのまま実額(年ベース)として減額される。

一般に、年間の支給額の内、賞与のウエイトが高い人々にとっては増税になることになろう。
それにしても、所管のお役所の推計がどのようになされているのか知らないが、制度を変えることによって、多大なる無意味な費用が発生することを承知するに足る統計数値を持っているのかどうか疑問である。

矢鱈とパンフレットを作成するし、参加者など無い説明会を開催するし、そもそも役所内で担当する役人を教育するのにも費用を掛けているのである。
マッチポンプなのであって、仕事をワザワザ作り出す手腕は見事としか言い様が無い。

それでいて、例えば年金なんぞ私(健全な国民であると自負する)はハナカラ当てにはしていないのである。
充分な蓄えがあるという意味では決して無いのであって、当てにできる見込みが無いという意味なのである。

故に、減税は大賛成なのである。
が、安心してはいられない。

昨年一枚の納付書を突然郵送して来て、失業給付が多大となり財源が不足しているため料率を変更(UP)しましたので〇月×日までに納入願いますなんて愚かでトボケタことを雇用保険でやらかした。

オメーらそんなことも予測できないなんて、仕事はナンナノダと言ってしまった。
世の中に失業という言葉が行き交っている時に、何処吹く風と知らない振りをしているからこんなことが生じてしまうのである。
もっとも、こんなことがあったということを知っているサラリーマンは、社会保険事務担当者以外にはいないであろう。

大きな報道記事にならなかったのは、マスコミの怠慢である。

2003/04/14

文責:い 70

No.880

去年の今頃、こんなことを書いている。

反対の場合には、起立して、ご発言ください。
この一言で、賛成に廻ることになってしまう大勢の人々の立場を救う方策を、民主主義は、探り続けねばならない。

で、今回昨日の選挙についての感想などは書く積りは無いのであって、要するに、間接民主主義の実現に相当な金が掛かる点の指摘をしたいのである。
ただし、直接民主主義で行こうとするとなどという比較はやらない。

先ず、ポスター掲示に関して。
掲示板の設置には当然材料代と人件費その他とが必要である。
ポスターをじっくりと見て投票しようとする行動をどれだけの有権者(本来、年齢等の条件付で有権者を絞っていること自体如何程の根拠があるかという問題もある)が採用しているか。
ポスター制作費用も当然必要であるし、ましてやその作成費用が公金で賄われていることにも問題がある(更に、この公金による作成費用が費用弁償ではなく、明らかに水増しで支払われているにもかかわらず、その点をチェックしていないこともまた問題ナノデアル)。

立候補者が当選者数と同人数であった場合に、選挙は行われないのでポスター掲示板は使用されること無く撤去される(幾人が立候補するかは事前に解からないので、設置はしなければならないわけで。それにしても、立候補者数の推定はするのであって、掲示板のサイズはケースバイケースなのである)という、”結果的には無駄”な費用を必要としている。

次に、マスコミの”当選確実”なる報道のための多大なる費用の問題。
あんなもの(夜中に一生懸命報道してくれても、他局より1分でも早く”当選確実”を報道する競争は、私にとって何の意味も無い。政党もちろん立候補者のためにしか役立っていないのではないのか)投票日の3日後くらいで発表してくれれば良い。まあ、選管が確定したとして発表した時に報道してくれれば、それで良いのである。

ま、選挙をお祭とみなせば、”浮かれた気分で選挙戦”なんてのも呑気で良い。
そんなもんでありやしょう。

2003/04/11

文責:い 90

No.879

我が家の事情(情事ではない、念のため)。

私は”お粥”大好き人間なのである。
昨夜の夕食にもそれを登場させるべく、その他の素材は全て調達した。
その他の意味するところの”それ”とは日本酒なのである。
な、何と調理用の日本酒が無いのである。
となると、通常私が飲むための日本酒を使用せざるを得ないというのが今回の問題点なのである。

何、ちょっと近くの店に行って購入すりゃぁ良いではないかなどと言ってはならない。
我が家のロケーションでは、”ちょっと近くの店”は(もちろん実際買うとしたら安売りの店しか選択肢は無いのであって)ちょっと歩いてお買い物などと言うことはできない。

で、こんな日に限って久保田の千寿しかないのである。
調理用の日本酒として考えるに、無意味な値段と品質とが存在してしまう。

どうしようかと迷っていても話が先に進まないので(進まなくても良かろうなどとは言ってはならない。私の夕食兼酒肴なのである。これがなくちゃそれこそ話しにならないのは当然である)、清水の舞台から飛び降りたのである(表現が古い!そういえば、何故あの清水の舞台はあんなに段差でつまづけとばかりに設計されているのであろうか?景色を見ながらあの舞台に近づくと、必ずあの小さな段差に足をすくわれるというかズッコケル。私など万度であるし、他の人を見ていても10人に一人位の頻度で同様の仕儀である)。

さてその味や如何と申せば、何の変哲も無いのである。
確かに”大は小を兼ねる”なのではあるが、それ以上でもなければそれ未満でもない(それ以上でもありそれ以下でもあって、全く等しい)。
バブル期には、私も含めてこの手の馬鹿をやって喜んでいたんじゃないかなどとの思いに到る。

2003/04/10

文責:い 80

No.878

マンション事情には疎いのであるが、ある人が隣で喋っていたのを聞く。
先様可也の酩酊の様子であり、時々意味不明な発言であったが、そして当方も相当入っていたのでうろ覚えではある。

”うちのマンションでは、一階に住んでも、エレベーター運用費を負担しなければならないことになっている”
もっとも、当人は五階の住人であり、自分が支払うことに対しての不満があるわけでは無いそうである。

この方の連れとして存在していない私は、”呑み屋の隣客には知人であっても挨拶すらしてはならない”の格言を忠実に実行して、どうしても質問したいのだという気持ちを押さえつけて、その話のやり取りの中で自分の疑問を解いてくれる話題に進んでもらいたかった。

しかし、さに非ずの流れで彼等の会話の方向は進んでしまい、別の話しに移ってしまったのである。
これは困ったことになったと思ったが、格言の忠実な実行者である私としてはどうしようもなき事態なのであって、即ち何等解明されなかったのである。

それが如何いった疑問かは直接関係無いので省略するが、正しくこういった成り行きというものが多々存在するという経験をお持ちの方は多いであろう。

嘗て家庭用ビデオでテレビ番組を録画するなんてことは考えにも及ばなかった。
従って、見たい番組があれば、その放映時刻には必ずテレビの前に居なくてはならなかったのである。
話題の鉄腕アトムにしても、あの白黒時代には(もしかするとカラー放送だったかもしれないが、少なくとも我が家では白黒放送であった。ひょうたん島も白黒だった我が家なのである)欠かさず見抜くためには相当な努力が必要だった筈なのである。

その一瞬に居合わせないと一生の不覚の事態となるのである。
あの酔っぱらいのおじさんには、エレベータの件をどうしても聞いておく必要があった。
一生の不覚である。

2003/04/09

文責:い 80

No.877

携帯電話とTVのリモコンチャンネルとをしばしば探す。
TVリモコンは、概ねの場合TVの置かれた部屋内にあるのであるから、比較的容易に探し当てる。
のであるが、実際には中々苦労する場合がある。
”ちぇー、携帯みたいに音で知らせてくんネエかな”などと思うことがある。

携帯電話の場合、家の中か車の中だという確信(こんなものがあるなら本当は何処にあるかまで覚えておくことができるのであるが...)さえあれば、他の電話でコールすればよい。
もっとも、コードレス電話機を片手に彼方此方の部屋を探して(着信音の発生を求めて)ウロツイタ末に、車庫にまで行かねばならないときには辟易する。
ところが、”そう言えば、電池の残りが少なかったよな〜”と思い出して、それが一夜明けた朝だったりすると、非常に不安になるのである。

無い−部屋では音が無い−他の部屋にも無い−車にも無い−大変なのである。
そんな経験は二度あったが、幸いにして二度ともポケットに入っていて、それも探している間ずっと身に纏っていた服のポケットに入っていたのである。

”ぶった子三年(おぶった子供を三年間捜す)”と言う。

2003/04/08

文責:い 90

No.876

私は鶏子が大変好きなのである。
とは言うものの、素朴な疑問はある。
生鶏子の”黄身”だけをぶっ掛けたご飯は一瞬躊躇う。
”白身”掛けご飯なら、全く素直に受け入れる。
一つの生鶏子を掻き混ぜて醤油を垂らし熱々のご飯に掛けるのだが、これをかあちゃん(妻のこと)と分けて食すなんてのはこの上ない喜びである。
シミッタレテイテ誠に喜ばしい。

鶏子(此処まで平気に記述したが、所謂”卵”のことである。久しく使用しなかったので驚く人がいるといけないので念のため)の黄身と白身とではどちらが美味いのか。
一般的には”黄身”だとのことである。

この一般的なのが面白くない。
実際、こと目玉焼きに関して申し上げれば、焼いた後に”黄身””白身”を分離して、”さあ、どっちかを選んで食え。”という設問があってもどうということは無い。
迷わず”白身”なのである。

増して、仲の悪い二人の人間を前にして、”好きな方を食え”などという命令をする輩がいて、この二人(もちろんその内の一人は私である)が争うといけないので”ジャンケンでもして、選択順を決定せよ”なんて喋った日には愚か過ぎて話しにならないのである。
後番になろうとも、もちろん先番でも当然”白身”を選択するのである。

故に、ジャンケンで勝った人が”黄身”を選択するというルールを設定すると困ったことになる。
勝者の特権を与えた積りかもしれないが、こちら側にしてみれば大きなお世話なのであって、許されまじき決め事なのである。

敢えて言えば、福引で一等賞を当てたらカツオのタタキセットで、二等賞の小鯵3匹の方が欲しい私には目出度くは無いのである。
要するに、勝者の特権は先取特権であるべきであり、主催者の勝手な価値判断で商品の順位付けなどしてもらっては困るのである。

逆も真なり。

2003/04/07

文責:い 90

No.875

新しい季節がきたような気がする。
この”気がする”って奴が大事なのである。
何とかまた書けそうな気がしてきたのである。

書かないのではなく、書けない日々が続いて、つまり、面白くも何とも無い日々が続いたのである。
言葉が無力なんじゃないかなどと、思わぬ自問に悶絶の日々であった。
何がそうさせたかといえば、日本語以外の言語の翻訳で混乱させられていたからなのであって、つまり、幾多の誤訳の報道をもとにしての自身の意思決定をせざるを得ないという事態に陥っていたからなのである。

何、全て私自身の不勉強の為せる業なのであって、通訳の方々にその責任を全て被せる積りはないのである。
しかし、意図的な誤訳が多すぎるのではないかと感じるのである。
アメリカに”ノリ”の考え方を持つ通訳の方とアメリカに”ソムキ”の考え方を持つ通訳の方とでは、明らかに翻訳するときに使う日本語が異なるのである。
場合によっては、全く正反対の主張になる。
増してや、レトリックを使って何かを強調しようとする発言者の言葉に対峙した時、その傾向は顕著なのである。

日本語の使い手同士の会話でも、私なんぞ、時々曲解される。
一緒に飯を喰らう相手であってもそうなのであるから、意図的に曲解しようと目論む方が相手であったらもうどうしようもないのである。
それでも、喋った言葉が一人歩きしてしまうことがままある。

とまあ、休刊状態であったことの言い訳を小難しく書かせてもらったところで、復活宣言を終了。
明日また書かなかったりして...