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2003年02月分(02/01〜02/28)

2003/02/28

文責:い 70

No.871

幾度も書くことになるだろうが、逆転の発想をしてみたいのである。

富津市は確かに住民の平均年齢が非常に高い市であり、ナンカこう勢いが無い観は(”観”などという言葉を使うと、まるで外の世界から眺めている雰囲気であるが、もちろん市内に住む私の目から見た感じでも)否めないのである。

高齢者に日本一優しい市として、例えばリタイアした人の終の棲家として、富津市に住んでもらうというのはどうだろうかと考えるのである。
昨日の話題であった市町村合併にしても、こういった観点からわが市の合併相手を探す(探さない、というのも選択肢の一つ)と、また一味違った合併論議ができるだろう。

そも都市とは商業の街なのであって、生産拠点なんぞとは無縁で、周辺の人間を掻き集めて商品の取引(これを消費行動という)をする場である。
人間のサモシサとか、アサマシサとか、ガメツサとか全部ひっくるめて売ったり買ったりする場なのである。
私にしたって、たまに都市に出かけて買い物するのも楽しいという気分を知っている。

しかし、そんな街には時々用を済ましに行くだけにしたいのである。
本当の意味での消費は、都市で買い求めた商品を実際に使用する(食ったり飲んだり、おもちゃで遊んだり、読書したり)のを都市でする必要なんぞ全く無い。

個人の責任で住まいを確保し、個人の責任で看護もしてもらう。
税金なんぞを払ってやっていただくようなことは何にも無いのである。
ゴミの大型処理施設なんかも要らない。
自分たちで勝手に燃すし、きちんとリサイクルシステムにも乗せる。
集団でやらなくてはならないことがあるなら、会費を集める。
必要なだけの金額である。
予算が余ったらいけないので、こんなこともやってしまおうとか、去年やったから今年もやらなければなんて発想とは無縁である。

そもそも国家の成立は、こんなところから始まったと思うんだけどね。

2003/02/27

文責:い 80

No.870

朝日町、織田町、越前町、宮崎村の福井県丹生郡町村合併協議会が、合併後、4町村議はすべて失職し、選挙で新議員を選ぶことを決めた。
合併特例法の任期特例と定数特例を選択せず、議員失職を決めたのは県内で初めて。合併後も新庁舎を建設せず、既存の施設を活用していくことも決めた。

清々しい話である。
”県内で初めて”の件が記載されているところを見ると、全国ではこれに類する事例は数多くあるのかもしれない。
ただ、他の都道府県記事を見たことが無いので(私が知らないだけかもしれない)、一層清々しく感じてしまったのである。

とは言え、まだまだ信用してよいかどうかは解からない。
何せ政治家のやることなのである。
この話にはウラがあって、”本当はこれこれなのでこうしたのさ”なんて事がよくある事だから。

新聞記事としてこの話を読んだだけなので、こんな風に疑心暗鬼になる。
まあ、そんな裏読みをしなければならないほど、世の中が荒んでいるということなのである。

で、この清々しさは別にして、私は国・県主導(ちと意味が異なるが)の”餌付き”市町村合併の推進には反対である。
メリットを利用しない手は無いというのが、ここで一気に合併に踏み切ろうと運動する人々の考えだと私は観ている。
しかし、そんなもんじゃなかろうぜ、というのが私の考えなのである。

役人の考える”餌”なんてモノには”毒”が入っていると考えてみたまえ。
がぶつく訳には行かないのである。
貧乏していて、食い物が少なくたって、まともなものを食っている分には健康を保つことができる。
否、むしろ食いすぎで健康を損なっているのが”先進国”に住む現代人ではないか。

毒入りの食物を食った日には、健康を取り戻すのに相当な時間と費用とが掛かることに気付くべきである。

2003/02/26

文責:い 70

No.869

馬鹿は死ななきゃ治らない。
馬鹿は死んでも治らない。
検証しよう。

先ず、馬鹿は病気だという認識がその根底にある。
治る・治らないの用例は、”なおす(直す)”の特殊例であって、病気の治癒の場合のみ”治”の字を使用するのがお約束。
ということで、馬鹿は病気であることが確認されるのである。

従って、生きているうちに治してやらないと可哀想である。
そうでないと、死亡診断書の死因の欄に”馬鹿”なんて書かれてしまう。
これはとっても可哀想なのである。
弔問に来て”何でお亡くなりになられたの?”と問う客に対し、喪主は”馬鹿で死にました”と答えなければならない。
これは、聞くも涙・語るも涙のお手本である。

そうなっては困るので、馬鹿は早めに治してやりたいのである。
ところが、どうやら特効薬が開発されていないらしいのである。
そこで、少しずつ良い方向に向かわせてやるべく回りは看病するのだが、本人の自然治癒力に委ねるしかない。

ところが、往々にして馬鹿病に罹った馬鹿者は、自分が馬鹿病に罹っているという認識が無い(これは、その人の持つ自然治癒力の源である何らかのファクターにも当て嵌まることである)から、自主的に治そうとの判断をしないのである。

で、馬鹿には馬鹿であることを知らしめることから始めなければならないのである。
これが大変な作業なのである。
猫に鈴を付ようとする鼠は斯く悩んだか、と気付かせてくれるくらい大変である。

大変なことはやらないことにして放っておくのが、一般的な人間の愛すべくまた賢い処世術であることに異論のある方はいないであろう。

てな訳で、此処まで書いてはみたが、ホッポッテおくことにする。

2003/02/25

文責:い 80

No.868

全く困った事態なのである。
連日この同じフレーズで書き始めるには相当抵抗がある。
それでもこう嘆かなければならないのがこの国の現状なのである。

日銀の人事についてである。
様々なコメントが新聞やテレビラジオの報道によって耳に入っている。
しかし、本人に肝腎の言葉が発せられた形跡が無い。
”私は相応しい人間ではないので引き受けられない”
この言葉が何故発せられないのか不思議なのである。

嘗て日銀内の不祥事があって、その管理責任をとって辞めた人間である。
仮に、そう私がやればうまくいくとの自負があり、周囲からの推挙により総裁を引き受けるのが好ましいとの状況になったとしても、引き受けてはならないのである。
責任をとるべきだという自覚なしに責任を取らされたと考えていた(いる)証拠である。

潔さの無い人間はダメナノデアル。
意地でも受けてはならないのである。
こんな人間がトップになる組織は無駄な組織である。
日銀など潰してしまえ。
株式会社なのだから、正しく潰すことができるのである。

病院の形態として株式会社は罷りならんという論議が継続中だが、日銀が良くて個々の病院がダメということの根拠を示して欲しい。
トップがきちんと責任をとらなくても、何となく見逃していってしまう風潮が間違っているだけの話なのではないのか。

2003/02/24

文責:い 80

No.867

困った事態なのである。

伝染病こそ無いが、”金使わない病”蔓延する今日この頃、お金持ちでお金を使ってくれそうなのは、老年層なのである。
これについて反論する方はいまい。

こんな風に書かれたものを読むと、ふむふむと思ってしまっている。
本当は検証すべきである、のにである。
ま、飛ばして進んでみることも出来るのだが、そうも行かぬ。

先ずは、今日この頃は本当に”金使わない病”が蔓延しているかどうかである。
旧来の消費対象にお金を使っていないだけで、実際には各家庭・各会社はお金を使っていて、その消費支出の総額はバブル時と大して変わっていないのではないかという風に考えて、自分自信の消費支出額を検討してみると、この考えがそうは間違っていないのではないかとの結論が出る。

土地を買ったり、貯金したり、保険商品や有価証券を購入したりという”消費”とは意味の異なる支出は確かに随分と減ったであろう。
ナンカそれだけのことなんじゃないのって感じである。
食費とか教育費とか所謂遊びとかに費やす金額は、(我が家の子供たちの年齢が上がったが為もあろうが)むしろ増えている。

次に、老年層がお金持ちであるや否やの問題。
更に、老年層がお金持ちであったとして、お金を使ってくれそうかどうか。
お金持ちの定義はどうする?
老年層の定義は?
アバウトに言って、我が家の老夫婦は多分(私は子供といえど本当のところは知らないのである。もしかして、我が家は大金持ちだったりしちゃって...)お金持ちではないし、渋ちんを絵に書いたような人物ゆえ、決してお金を使ってくれそうではないのである。

我が家を見る限りでは、−− 伝染病こそ無いが、”金使わない病”蔓延する今日この頃、お金持ちでお金を使ってくれそうなのは、老年層なのである−−は成立しない。

全く 困った事態なのである。

2003/02/21

文責:い 80

No.866

豚モツを買いに行った。
牛タンがあった。
冷凍である。直径10cm長さ20cmといったサイズ。
もちろん冷凍かつアメリカ産であって、えっと3回くらい叫びたくなるような金額が表示してあった。
(念のためだが、チープってことであります)

実は牛タンの煮込みモノは初めての経験なのである。
便宜上、先ずは豚モツの私流儀を簡単に説明する。
既に一度は茹でてくれてあるのだが、とにかく二度水のみで茹でてこぼす。
三度目に注いだ水は最後まで残り、製品としての価値をもつことになる。
水以外に入れるのは大蒜のみ。

ひたすら茹でる。
途中浮いてくる脂は徹底的にすくうのである。
歯応えがなくなる程度になるまで続く。
ま、4時間である。
砂糖と醤油とで適宜味付けしたらオシマイ。
(とはいえ、冷ますという工程が重要であることは言うまでも無い。冷まして再び火を入れるのである)

で、今回はこの豚モツの製造過程に、牛タンを丸のまま参加させたのである。
モツとは異なる種類の脂が頗る出現するので、いつもより念を入れてすくう。
味付けをする前に牛タンを取り出し、別の鍋にてまたまた茹で続けるのである。
この度は、トマトジュースとローリエと胡椒とを適宜(こうとしか書きようが無いのが素人料理なのであって、固定したレシピなんぞ無いから同じ味が二度と誕生しない。その代わり、美味い時は頗る美味い。そのつもりで、別の機会に客に出したりすると逆も真なり)ぶち込んで、水を追加しつつ更に3時間。

さて、ソースである。
今回は茹で汁を漉したモノに、少々の塩と蜜柑の絞り汁とをたっぷり入れて可也の粘度まで煮詰める。
仕上げにバターをたっぷり加えて混ぜ上げるのである。

どんなモンダイ。
えへん、なのである
ちょっと邪道な気がするも、豚モツも何故か味に深みが出た。
太ることが避けて通れないのは、美味いモノを食おうという意気込みのある人間の悩みなのである。

2003/02/20

文責:い 80

No.865

昨日、初めてティーバッグのアップルティーを飲んだ。
”ティーバッグのアップルティー”なのである。
此処で充分に驚いてもらわなければならない。

アップルぢゅうすとは訳が違う。
(実は、”ぢゅうす”にも本来は制約がある。5%果汁のジュースはオコガマシイノデアル。が、本論とは別の論議)
適当に林檎を煮出すことで得られる液体を”アップルティー”とは言わないのである。

日本語には椎茸茶なんてものがあるから、抽出液のことを”茶”と称する場合がある。
しかし、”ティー”は、お茶葉の抽出液しか認められないのである。
従って、アップルティーはお茶葉の抽出液でなければならない。
もちろん普通はそうして作る。
一般的には、林檎の皮の煮出し湯で紅茶を入れるのである。

さて、”ティーバッグのアップルティー”なのである。
林檎の葉っぱを乾燥したものがその正体ではない。
PURE CEYLON TEA で PACKED IN SRI LANKA(CEYLON) の APPLE TEAなんて表示がしてあるのである。
これだけの表示では、林檎はどちらの生まれなのだ、という疑問はさておいても、私はこのティーバッグにお湯を注げば、さっさとアップルティーが出来上がると思わざるをえない。

そして残念なことに、私の舌では正しく”アップルティー”が登場してしまったのである。
この味わった”アップルティー”は、”アップルティー”でないことを作った本人が承知しているのに”アップルティー”なのである。

またまた困ってしまったのである。

2003/02/19

文責:い 70

No.864

流石に私の預金残高までは把握してはいないだろうが、我町内ではそれぞれの住民の家の家族構成とか、それぞれの人の頭の良し悪しとか、何となくの金回りの良し悪しとかを、他家の住民である各人が解かっているのである。

それこそ自転車に名前なんぞを書いて置かなくたって、そしてそれが誰もいない公園にでも置いてあったとしても、あそこん家の誰々が乗ってるヤツダヨとの認識のもとに扱われ、盗まれることも無ければ何日にも渡って置きっ放しにされることも無かったのである。

所謂都会では、自分の所有物ではない自転車を自由に乗り回しているらしい。
その対策として、所有者は自分の自転車に住所・電話番号・氏名なんぞを大書きしていたりする。
ところが昨今この個人情報が漏洩することにより、様々な犯罪が発生しているというのである。
従って、盗難保険の記号で所有者に戻ってくる(あるいは、金銭で保証される)から、女子供の名前など書かないように警察も指導しているという。

保険で補償されるからという極めて史的唯物論を謳い上げた論法は、果たしてこの事実(警察が採用)の如く正当化されて良いのだろうか。
疑問を投げ掛けるだけというのはマッコト気持ちが良い。
気持ちが良いから終わりにする。

実を言うと、我が家の近辺でも少しづつ状況は変わりつつある。
私はある意味歓迎している。
地元に生きられない私なのである。

2003/02/18

文責:い 90

No.863

洋の東西を問わず、また、未来は存じ上げないが今昔を問わずの原則がある。
お金を払う人は受け取る側にとって”お客様”である。
パンを買うとき、車を買うとき、税金の支払いをするとき、お祝いを金銭で差し上げるとき、罰金を払うとき...

例外はない。

お客様は、それなりの扱いを受けるべきなのであって、もちろん人間としては対等の立場なのであるが、横柄な態度で扱われし時は怒らねばならないのである。
怒(念のためですが、”いかり”であります)っても良いのではなく、怒らねばならぬなのである。

ただし、お客様が感謝の念を抱きお金を支払うことができれば(つまり、それは対価なのであって、受け取った財・サービスに非常なる満足を感じる時)、この交換は至上の喜びであり、支払った側からありがとうと言うのを妨げない。

何が言いたいのだと問われても、今回の一件はとても筆舌には尽くし難いのである。

要するに、あんな奴に”お有難うございます。又お越しください”などと言われたのであるが、もう二度と取引をする積りは無いのだ。

”お客様”の側にしても、支払いに利用するお金そのものが、どんな金種でも、汚かろう札でも良いというものではないし、ましてや放り渡すような野蛮な事をしないというのが普通の人間のお約束なのである。

受け取る側は、にんまり顔と口とだけで客扱いをしてもダメナノデアル。
またまた文章になっていない本日の作品。
う〜ん、アッタマキタ。
ところが、世の中の常で、頭にに来ちゃうとどうしても損をする。
それでまたまた、アッタマ来ちゃうのである。

2003/02/17

文責:い 80

No.862

ミスター・ビーンを観ていて、そう、笑って笑っていながら感じたのである。
チャップリンを喜劇王と称し、一連の映画を社会風刺の巧妙さなどを思いっきり持ち上げて、妙に芸術性の高さを誇張した時期があった。
ま、今でも同じだろうが...

結論から言えば、映画は芸術作品たる地位を与えるに足る作品を、今日まで国内・国外を問わず生み出したことが無かったんじゃないかと思うに至ったのである。

もちろん北野某の作品は寅さんにも勝っていないし、黒澤にしたって、此処をこうすればと考えさせられる部分が多くて、完成されたとはとても言えない(推敲が充分にされていない)という印象が常に付き纏う。

単に”娯楽”として位置付けるジャンルだと割り切れば、別の角度から様々な評価はできる。
それだけのもんじゃ、と思うのである。
そうしても、チャップリンが面白くも何とも無いのである。
面白いと感じた経験があるので厄介なのだが、なに逆に普遍性の無さを証明しているのだと理屈付ければ納得できよう。

とにかくミスター・ビーンが面白すぎるのである。
爆笑問題の面白さと可也同質性を感じる。
少なくとも私は爆笑問題を観ていて芸術性を云々し様とは思わない。
志ん生・小さんや虎造・梅鶯といった落語・浪曲の類にも芸術性を持ち出してもハジマラナイノデアル。

視聴率・興行収入の額を基準にした評価があるのは、それはそれで一向に構わないのだけれども、妙に評論家じみた人々が、泣くのは良いが笑うのは芳しくないと思っている節が表面に出ているのを観るに付け、嫌味の一つも言いたくなるのである。

毎日、思いっきり笑いたいのである。
ネタを知っていて笑いたいのである。
議論もしたいけどね。

2003/02/13

文責:い 80

No.861

”顔”
”かんばせ”と発音する。
conversationとは一切関係なく成立した言葉であることは間違い無いと断定する。

とまあ、簡単に言えばこんな並べ立てをして、で、どうなのだということは書かずに終わってしまうってえのが私の流儀のつもりでいたのである。

さて、今日此処に何か今までと違うのであると宣言をする積りは無いのであって、むしろ、ツマルトコロ今後も斯かる流儀で行くのであると宣言してしまうのだから困ったものである。

顔に曲がった穴が二つ三つ
顔を取ってくりょうと瓜二つ

私の顔はお面ではないのである。

所謂健康面で優れない日々が相変わらず続いているのだが、取り巻く環境は頗る順調に推移していてタマゲテイル。
全く因果関係は無いと思っているのだが、もし健康との裏表で物事が進行しているとすれば哀しい。
私がこんな気の持ちようになるとは、全く困ったものである。

2003/02/12

文責:い 70

No.860

とまあ、春が立ってくれてから随分時節も経過しているはずなのであるのに、何とまあ今日の風の寒さといったら無い。
まっこと身に沁みるのである。

五臓六腑にシミワタルえもいえぬ液体の妙は受け入れるに難くないのに、大地をも揺るがすような風神の思し召しに対しては、残念ながら堅く心さえも閉ざして立ち向かうしかないのである。

何を言っているのか自分でも解からない文章を書いていることにこの辺りで気付いてはいるが、如何せん寒くて寒くて血圧を上げて身体を暖めるに付け体調頗る芳しく無しなのである。

再放送であったろう昨日の国宝100選如き番組に、日がな一日付き合ってしまった私の頭は、均衡を失っていて、そういえば、文章という体裁の国宝が無いことにちと心配しつつ、さらば我文章を心して拵え様等という進取の精神も湧いてこない。
湧いたってどうこうなるものでもなかろうが、精神の向上は必要なのであろうから思うだけ思ってみることにしやうナノデアル。

思考に文章が付いていかないのである。
そんなフザケタことをノタモウテ終わり。

2003/02/10

文責:い 60

No.859

随分と日が暮れるのが遅くなったとの実感を込めて、今日はちょっとお茶濁し。
暦に24節気あり。
これは、地球から見て太陽の通る空の軌跡に名付けた黄道を24等分したものである。

日付(頃)   節気(読み方)  
02月 4日  立春(りっしゅん) 春の気立つ
02月19日  雨水(うすい)   雪が雨水となる
03月05日  啓蟄(けいちつ)  陽気地中に達す
03月21日  春分(しゅんぶん) 春の半ばなり
04月05日  清明(せいめい)  万物発し清浄明潔
04月20日  穀雨(こくう)   百穀を生育する雨
05月05日  立夏(りっか)   夏の気立つ
05月21日  小満(しょうまん) 万物生気充満す
06月06日  芒種(ぼうしゅ)  麦を取り入れる
06月21日  夏至(げし)    最も昼間が長い
07月07日  小暑(しょうしょ) 暑さ漸く激しくなる
07月23日  大暑(たいしょ)  暑さの絶頂期
08月07日  立秋(りっしゅう) 秋の気立つ
08月23日  処暑(しょしょ)  陽気漸くとどまる
09月08日  白露(はくろ)   草木に露が宿る
09月23日  秋分(しゅうぶん) 陰陽相半ばする候
10月08日  寒露(かんろ)   晩秋、寒露宿る
10月23日  霜降(そうこう)  野山に霜が降りる
11月07日  立冬(りっとう)  冬の気立ち始める
11月22日  小雪(しょうせつ) 山頂に雪が見える
12月07日  大雪(たいせつ)  降雪しきり
12月22日  冬至(とうじ)   夜が最も長い
01月05日  小寒(しょうかん) 寒の入り
01月20日  大寒(たいかん)  極寒の候

中国で始まった24節気は、最初冬至を含む月を年の初めとしたが、その後、漢の時代に”立春年初”が確立された。
日本でも明治の改暦までは立春をもって年初とする風習があり、人の干支なども立春で区切りとしていた。
24節気は、春分を基点とした太陽の位置(黄経)によって決められる。
そのため日付は年によって1日ほど前後する。
今年の立春は02月04日だった。

ところで、”節分”は、本来は季節の変わり目のことで、1 年に4回立春、立夏、立秋、立冬の1日前の日のことを指す。
特に立春は、前記したよう”立春年初”で”正月節”ともいい、新しい年がはじまる大事な日で、室町時代からは特にこの節分を重んじるようになった。
ま、それで現在は、節分と言えば、立春の前の日をさすようになったということだが、納得してもらうしかない。

2003/02/07

文責:い 90

No.858

HUNTERXHUNTERの第16巻が発売されていることを知った。
迂闊にもインフルエンザなんぞで寝ていたために、この手の情報収集が手薄になっていたのである。自戒の念。

で、大急ぎで本屋に出かけ、開店を待って寒い中を待ち、駆け足であるべき場所に向かいレジに持ち込んだのである。
本来は本屋の駐車場で読んでしまうべきである(でないと、帰りの道すがらの運転中に気も漫ろで危ない事態も想定されるのだ)が、そこはそこもう既に遅ればせなのであるから慎重に運転して家に帰り読み耽る途を選択したのである。

今回は指定ポケットカードの説明やら、取得の裏ワザなどの解説が矢鱈多くて読み進むのに時間がかかる。
漸く3度ばかり読み込んだら12時を過ぎてしまったのである。
さあ大変だ。
日刊鬼ノ胃が、またまた日刊でなくなってしまう。
それじゃなくても此処のところ発刊率が低下しているのであるから、今日は休む訳には行かないのである。

で、今日の話題。
どっかの警察署内で実弾を撃ってしまった警部補がいる。
副署長がのこのこ出てきてお詫びの会見。
”今後とも銃の取り扱いには充分注意することを約束します”
”今後とも”ってのが気に入らないのである。

今回失敗しちゃった訳で、今までと同じ注意をしていたのではまたまた失敗しそうなんで私たち市民は憂えているのである。
そんなことも想像できないとは、この公務員はボケているとしか言い様がない。
善後策を真剣に考えてくれなければならない。
こういう事件が発生するのは、警察の武器管理能力が劣っていることの証明なのであって、アメリカの社会不安と同じ悩みを持つ事になってしまう。

国内での拳銃不法所持(および、その使用による事件の発生)が、異様に頻繁に報道される今日(実際、酔っ払っちゃったりして夜中に何処かの駐車場で睡眠するとき、ナンか銃でズドンとやられるんじゃないかという恐怖の念が現実的に頭をよぎるのである。これは相当恐い話なのであり、非現実的と笑っていられないのである)、署長でなく副署長が出てきてお詫びの会見をするという無神経さには、”タルンデイル”と言っておく。

県警本部長が会見するくらいは当然なのである。

2003/02/06

文責:い 80

No.857

簡単に言えば予想どおりだった。
のであるが、私の心のどこかにパウエルを信頼しているところがあったのである。

口は立つが文章の書けない人がいる。
もちろんその反対もまた然り。
喋りを聞いていると引き込まれてしまい、充実した内容の話を聞いた積りにさせれれてしまうのだが、その内容たるや思い出そうとしても思い出せない。
これを騙しのテクニックと言う。

朴訥とした人物は熱狂の中では意味のある人には成り得ないのであろう。
聴けば、リンカーンのあの”人民の、人民のための...”演説は、ボソボソッと語られ、時の聴衆はほとんど理解するに至らなかったとのことである。

本題に戻せば、とにかく今のアメリカは、過信した武力ゆえに、政治力で事実を如何様にも料理できると考えているようにしか見えない。
ごちゃごちゃと検証しても始まらないが、こんな比喩はどうだろうか。

”NASAの予算は削減されてきた””大気圏突入時、大統領は週末の休暇をすごすために、保養地に居た”
この二点の事実を開示することにより、”大統領は、スペースシャトル計画に反対しており、また乗組員の死亡する可能性の高まりを無視した”のであり、今回の事故は大統領の周到な計画に基くものである。

この論理を時間をかけて政治的に正当化するのである。
イラクに対する攻撃準備(及び攻撃)を正当化する行為と何等変わりない。

2003/02/05

文責:い 80

No.856

昨日を引き継ぐ。

問題文の漢字仮名使いとかから推理すると、要求された答えは”60%”ということなのであろうが、この問題文を深く読んでしまうと求める答えはなかなか手強いことに気付く。

”要求された答え”などという書き方をしたのは当然である。
問題文はこうであった。
”Q.15人で20日かかる仕事を8人で15日間しました。仕事ののこりはなん%ですか?”
私は判断したのである。
仕事ののこりは−仕事全体の−なん%ですか?
こう理解することにしたのである。

仕事ののこりは−これまでした仕事の−なん%ですか?
150%です。
実際の労働者は、こちらの判断を優先させると思われる。
それに対し先ほどの判断は、管理者などが感じるそれであろう。
試験の回答者は傍観者になってしまって良いのかどうかなんてのは別にして、試験問題作成者同様に”労働させられることなしに”問題文には感情を込めないのである。

ただし、 入試問題などに、この手の如何様にも理解され得る文章を使用されると困るのである。

私は、高校時代、数学の中間期末試験問題文の裏読みを密かな楽しみにしていた。
試験中にやるのであるから結構スリリングである。
本来想定された問題の解答を疎かにしてやると、即座に低い点数となって反映してくるから真剣である。
とにかく本筋の解答を先に記載し、裏読み分を併記しなければならないのである。

それでも、裏読みで作り出した解答があまりに気持ち良いと、本来の解答を消すなどという暴挙もやった。
これが上手く教師の感性のつぼに嵌るとなかなか気持ち良い。
”会心”なのである。
そんな感性を持った教師が、かつて、確かに存在したのである。

2003/02/04

文責:い 70

No.855

節分の行事が、身近な(近隣にある、ま、そう著名ではない)神社でも執り行われていることを、迂闊にも知らなかった。
宗教的な意味合いは別にしておく。
神社前の交差点で待たされている時に、ご近所の子供達が連れ添って境内に入り込んでいく姿を眺めていると、何かとっても良い気持ちなのである。

大豆まきという行為についての歴史的なその発生力学は存じないが、我が家における画期的な手法を紹介しよう。
私が、一人インフルエンザの病床よりの復活祭をやっている間の出来事であった。
もちろん、私が不在中ということである。

家に帰り、車庫から玄関に向かうと其処此処に幾つかの小袋が散見されるのである。
中には大豆が20粒程度込められている。
”しょうがねえなあ。落としちまって”くらいの気持ちで玄関に入り(もちろん自分で鍵を開けてである)、その旨を伝えると、豆まきの名残であるという返事。
加えて、女手のみでこの行事をしたという単純な報告ではない(つまり、非難である)言葉が浴びせられた。

ま、話はこれで終わりなのであるが、たまたま拾い上げた小袋の裏には”算数クイズ”なる記載があった。
”Q.15人で20日かかる仕事を8人で15日間しました。仕事ののこりはなん%ですか?”

さあ答えてもらおう。

2003/02/03

文責:い 80

No.854

” 極めて個人的な理由で数日間休刊しました。”
これは、直前回(01/28)の書き出しである。
で、01/29〜02/02まで寝込んだのである。
インフルエンザの脅威を私の口から述べることになろうとは、ナノデアル。

イキナリ摂氏39.8度とデジタル表示した体温計が出現するのである。
ちょっと鼻をかもうとして息んだ瞬間左耳の下に鈍いグシャという音。
しまったと思うのでは遅いのである。
数十年の学習効果が現れていないのである。
最低中耳炎は覚悟と自分に言い聞かせて、実はもっと恐ろしい事態に備えねばと全身の感覚を覚醒させたのである。

記憶回路がやられてしまいそうな予感がするのである。
とにかく頭が痛いのであって、頭頂部から35ミリほど額に向かった部位だとか痛い場所を特定しようなどという活動を悉く無意味にするくらい彼方此方の部位で唸りを上げている。

唸りには唸りなのであって、”う〜ん、う〜ん”と声に出して息をしていると慰められるのである。
新たに開発されたという冷感持続粒入りの”熱さまシート(大人用)”は、8時間持続を謳っているが、2時間もしないうちに乾燥してしまって使い物にならなくなってしまう。

氷嚢はありがたかった。
スポーツ後の筋肉冷却用に売っているタイプの奴があったのである。
一つは半年ほど前に使ったのをそのままにしてあって、中に水が入ったままになっていた。
これが役に立ったのである。
もう一つは、新品で箱に入ったまま5年ぐらい経っていた奴。
これは漏水して使い物にならなかった。

お蔭さまで斯くも長きにワタリ思索ができたので、そして、普段の生活では思いも至らない分野に目が行ったので、ちょっと変わった事柄についての考察ができた。
今後、随時お披露目する予定。
そう、もちろん期待せずにお待ちくだされ。