あっさりメニュー
日刊 鬼ノ胃 本日分はこちら
 

2003年01月分(01/06〜01/31)

2003/01/28

文責:い 80

No.853

極めて個人的な理由で数日間休刊しました。
こういう言い訳をするときに、何と言うかナンなのですが、個人的でない理由なんてものがあるかという問いに答える言葉を存じ上げないのである。

世に”公私の公”(公私の私も同じ)という言い方があるが、よーく考えてみるとそんな実態は無いことに気付く。
皆”公”であり、皆”私”なのであるとミナスことが可能である。

私は”私的”に生きている訳じゃなくて(ここが私のフンギレ無いところで、”私的”にでも”公的”にでもどちらかに統一すれば良いだけの話なのであるから、そこのところ宜しく読み進みくだされ)、個人的な理由で生きている(ここも私のフンギレ無いところで、”生きる”という言葉にに明確な意志を持って何事にも立ち向かっているなんてそんな積極的な姿勢を思い浮かべてもらうと、それは誤解だよと私から指摘されることになる)訳なのである。

個人的な理由で今日の昼飯にカレーライスを食ってみたり、時にはラーメンをそしてまた時には蕎麦を啜ったりするのである。
また個人的な理由で給料日に給料を貰ったり(給料日でなかったので前借申請してみたりするのも宜しい)、酒を飲んでしまったのに自動車を運転することになったり、ちょっと深めに指を切ってしまい病院に行ったら傷は上手く治療してもらえてほっとした代償にインフルエンザを頂戴してきて数日間苦しめられたり、当に自分の意志とは無関係なことが個人的な理由として存在してしまったりするのである。

僕って何?
潰れたコピー機の会社社長の息子の呟きは、案外鋭かったのである。

2003/01/22

文責:い 90

No.852

私はただただ極々普通のラーメンが食いたくなったのである。

家系だとか、やれとんこつ、魚だしなどといった凝りに凝った汁のモノではなく、ましてや、チャーシューがあふれんばかりに大盛に盛られ、海苔なんぞはみ出しているような、そして、行列のできる店のラーメンではなく、昔、海の家で供されたような、クラブ活動後に学校のそばでオバちゃんが切り盛りしていた店で出されたような、もちろん自家製麺などではなく、メニューを見てもラーメンに名前を付けていないでただ単に”ラーメン”と言うだけで出てくる醤油ラーメンが食いたかったのである。

そんな思いを秘めた私が車を走らせていたら、街中から少し離れ、国道沿いでもなく、”食堂”と書かれた暖簾がぶら下がった、当にお誂え向きの店の前を通りかかったのである。
可也離れた場所にある登記所に証明書を交付申請受領に行き、食事時を見失って、そう、2時を少し廻った時分であった。

その飲食店の存在は承知していたのである。
店の名前も知っていた。
ただし、アソコは美味いとか不味いとかの評判を聴くような店ではもちろん無く、ま、それでも昼飯時には金融機関の外回りしているにニイチャンたちのバイクが数台停まっているのを見たこともあったし、気楽な雰囲気は感じられたのである。
これぞ普通のラーメンの居場所なのであるとの直感。

知らない街で食い物の店を探す時に、この手の直感は大事なのであって、今までそうは外したことが無いことは私の自慢なのである。
過信禁物。
まず、決定的なのはヌルイノデアル。
面は茹っていないのである。これを生煮え(!!!)といって食い物屋にあるまじき所為仕業なのである。

ホウレンソウではないのである。
それも、殊更頭にくることに、見た目が極めてホウレンソウに似た否なるものなのである。
どういう手際か知らないが、チャーシュウが麺の下に隠れていて、配膳された段階では顔を拝めなかったのである。
こんなところで一工夫なんて考えているとしたら馬鹿だ。

値段も見ずにラーメンと注文したのである。
”450円”
と宣言された私は五円玉二枚を含む450円を支払って帰途に着いた。
嗚呼、普通のラーメンが食いたい。

2003/01/21

文責:い 70

No.851

ドンナニ時代考証をしっかりやろうとも。否、しっかりやればやるほどなんだろうが、マニア向けのコスプレの最高峰は時代劇なのである。

水戸黄門のユミカオルを好むと喋り、自らも黄門のコスプレをしたどうにもならないオッサンをテレビで観たが、矢張り彼は相当なマニアックな人間である。
一歩道を間違えれば、宮崎某にも負けない(この表現はマスコミでは批判されよう。しかし、我らの仲間内では当然許される)時代を反映する人物像を存在させたと想像できるのである。

数年前に原宿で大きなコスプレ大会が開催された時に、たまたま(このイベントに参加の意図を持って原宿に行ったのではないことを強調しなければならない。そうでなくても、怪しい人物にみられているのである)この街に居たのである。
会場を目指す、また、はみ出した、そして、明らかにハナカラこの街を闊歩することを目的として繰り出した少年少女があちらこちらの状態であった。

想い起こせば(これは万人に共通の想い出ではないかもしれないが私の身近には現在も存在する)、泊りがけの各種団体旅行に参加すると夜の宴会には必ず居るのである。
まず、オバサン連中のハワイアン踊り。
着物を着ての芸者風(本当は何々流の皆伝さんなのだろうが、私にはワカリマセヌ)踊り。
カラオケには三度笠持参なのである。偽刀まで用意している。

ま、このあたりの連中は、自分のしたことがコスプレであるとの認識は全く無いのであって、セーラームーン(ふ、古い。けど、今も時々地上波で観ています)の衣装を着けて遊びまわっていた(る)自分の子供たちを指さしながら”あの子たちの気持ちが全く解からない”などとノタマウのである。

なにそんな昔は関係無い。
クリスマスのシーズンにはサンタクロスのコスプレはイタルトコロデ見られるし、(ハロウィンの習慣は流石に浸透していないようだが)運動会でも頻繁に行なわれていた。

皆ほんとにコスプレ大好きなんですな。
私は着包み(キグルミ)をつけるほうが好きです。
(またまたガチャピンの凄まじいスポーツ映像を観てしまったのである。だからこんなことを書いてみたのであ〜る。)

2003/01/20

文責:い 90

No.850

ミッキーやドナルドなどのディズニーのキャラクターは、昔と今とを並べて比較すると、随分性格の異なる顔付きをしていることに気付く。
”それでも同じキャラクターである”と認識してしまうのが不思議なくらいだ。

それも、時間の経過とともに少しづつ変化してきたのではなく、あるとき突然調子が変わり、又あるとき突然変わるという変遷の歴史のように見て取ることができる。
こうやって文章にしてみると、如何せん稚拙なのであって申し訳無いくらい解かり辛い。

”時間の経過とともに少しづつ変化”というのは、グラフにすると直線(あるいはスムースな曲線)での推移を意味している。
一方、”あるとき突然調子が変わり”というのは、グラフでは線にならないのである。
y=(任意の桁で四捨五入)x とでも表現するグラフを思い浮かべてもらえればよい。
たとえば、1の位で四捨五入なら、xが−5以上5未満のときyは0、5以上15未満のとき10であって、突然劇的に階段状に描かれるグラフにはぶつ切りの線分がプロットされるのである。

ところが(もうこの段階では、私の頭の中にはディズニーのキャラクターのことなど無い)、このグラフ本来の切断箇所を一筆書きの要領で繋げてしまう輩が多いのである。
当に横から見たピラミッドの拡大図のように連続してしまうのである。
これは愚かだと思って生きてきたのである(ま、それほど大げさなことでもないのだが...)。

またまたところが、本当はこの連続線を引くべきだという”数学系”の知人の指摘があったのである。
真偽(というか、可否)については、納得に至っていないのであるが、中々奥が深いらしいのである。

言いたかったのは、これだけ。

2003/01/16

文責:い 80

No.849

正田邸について。
基本的に私の立つところは、皇后に関して特別な思い入れは無い。
皇室の嫁が皇族ではなかったことに特別な意味を持たせようとしている論法が聞こえてくる。
が、そんなものは特殊な例ではないのであるのだが、あの家には特別な意味があるという根拠とされているという。

それ以外に、あの家を保存しようとする理由が示されていない。
建築様式に見るものがあるという不可思議な論法も一部聞こえたが、ま、成金趣味のケッタイナ建物であるとは思うが、面白くも何とも無い建物である。

官に対する抵抗という観点から見れば、どうやって反対する人々を説得するのかという野次馬的な興味はあるが、それはあくまでも取り壊すことに大義名分ありという私の認識からの出発なのである。
故に、もし存続させるという判断が為された時には、一言申し上げるでは済まないのである。

現在の所有者が財務省である限り、国有財産なのであり、ツマルトコロ私の財産の一部なのであって、小役人の判断で国費を投入して維持することを望まない。
何事も”維持”するには莫大な費用が掛かるのである。
国有なりにして、役所の中で管轄する部署を設け、某かの役人を配置するなど愚の骨頂である。

だから、更地にして区が買い取り、此処を公園として利用するというのも賛成しかねる。
NPOを立ち上げて、一部好事家に内部を開放して見物料でも取り、維持管理するくらいの意気込みを持つ人々(もちろん、現在取り壊しに反対する人々が主体となる)で利用したら良かろう。

この物件は相続税の物納物件と聞く。
で、根本的なことを知りたいのだけれど、その評価額(および、その評価方法)を知りたいのである。
更に、最初から取り壊すことを想定していたと思われるのだが、その取り壊し費用の見積りと今回の業者との実際の契約額とを知りたい。

法の執行者たちがきちんとやっているかのチェックには中々興味ある対象である。
特に税法に絡む官。
この物件が物納に至った相続(税額の多さには驚いた記憶がある)における相続税の申告書が見たい。
敢えて付け加えれば、正直言って、結構イイカゲンな申告書だと推測するが如何。

2003/01/15

文責:い 90

No.848

ある特定の人間の行動(もちろん言動を含む)を見つめて、この人は駄目だと思うときがある。
その後は、その人の行動を全て否定することが正しいのだと思い込んで自分の意思決定をすると、ビックリするほど読みが中ることがある。
たまたまではなく、私の経験則では可也の確率である。

今年の為替動向を某金融機関系の総合研究所の主任研究員なんて奴が自信たっぷりに仰せの場合、その反対に推移すると思って行動すれば怪我が少ない。
予測を自信たっぷりに行なうのは、宗教がかった預言者の振舞いであり、つまり何等根拠が無いと言ってよいのであるが、しからば、中ったり外れたりが5割づつの確率で良さそうなものなのに、概ね外れるのである。

こんな悲しい(悲観的なという意味である)経験則で日々を暮らしている自分も相当寂しいのである。
自分の意見というものが無いのである。
この性格気に入ってますがネ。

で、確信犯の靖国参拝首相は困ったものなのである。
ああいった行動パタンを支えている思考回路では、嘗て奥さんだった人が現在奥さんではないという境遇を迎えるにあたっても悩まなかったであろう。
他の人々は皆苦労して、悲しんで、無念の情を抱きながら×1(バツイチ)を選択しているのに、ノータリンとしか思えないのである。

首相リコールの途は無かったっけ?
改憲を芳しくないと考える私であることを宣言するが、確かに憲法には欠陥がある。
ナンチャッテ、で終わるしか無さそうである。

2003/01/14

文責:い 70

No.847

まだまだ気分は正月である。
もちろん1月は正月なのであるが、残念ながら正月気分で遊んでくれる輩が少ないのである。

それでもそんな能天気な(もともと能転気またはこう綴ったとのこと。現在では脳天気が普通らしい)お友達はいるもので、平日の昼間っから(正確には朝から)一杯に付き合ってくれる心優しき人々と今日も歓談(日本の行く末を論じ、また、国際情勢を憂いたりすること)することができるのである。

流石に先週までは顔見知りと盛り場ですれ違ったりしたものだが、今日になると、ちょっと複雑な顔見知り以外には出くわさない。
正月恒例のスポーツも決勝戦が終了し、あとはラグビーの祭試合くらいを残すのみ。
そういえば、昨日の高校サッカーの決勝ゴールは凄かった。
今シーズンのベストシュートではないだろうか。

とまれ、今年は旧正月の頃からは近年まれに見るくらい、肉体派になって活動を予定しているから、当面は休養と精神集中とに励むつもりである。
だらだらサボっているのではないのだよとの言い訳をして本日終了。

2003/01/10

文責:い 90

No.846

ちょっと気になることを思い出したので、昨日の続きを。
”フレミングの左手”の型を題材に、世の中には、困ってしまうモノが多々有るのである、という内容であった。

どうでも良さそうなことだが、この手の事柄は本当に多々ある。
そんな中の一例を掲げよう。

円周率πを”3”という数値と等しいとする中学校教育が、最近あったのだそうだ。
これが間違いであるとは一概に言い難いのであるが、こういった記載は混乱を招くのである。
念のために言っておく。
今の文章中の”3”という数値が”3.14”でも同じことなのである。

実際、円周率πを”3.14”と記憶する方々は大勢いるはずである。
”3.14”と記憶していて不自由は無いであろうことは想像に難くない。
そして、円周率πを”3.14”と記憶する方々は自分の犯している誤まりを認識していないし、まして自分の危険性など思いもしない。

直径2mの円の円周を答えさせて、ある者は”6m”と、そしてある者は”6.28m”と応ずる。
この二つの集団が、それぞれ自分たちの答えが正しいと主張し、やがて戦争になる。
(どちらも間違っているし、マチガッテイナイのである。そう、争うべき問題ではないのである。実用上使いたいレベルで近似すれば良いし、この人々は争いなんてモノを面倒臭がって避けるくらい本来好ましき人々のハズナノデアル)
この類の歴史上の事実は枚挙に遑が無い。

円周率πを、”3”くらいと憶えようが、”3.14”くらいと憶えようが一向に構わないのであるが、”くらい”に重要性を認識させない教育は斯様に危険なのだ。

2003/01/09

文責:い 90

No.845

正月のテレ部番組で、フレミングの(最近では、この”の”を使用しないらしい)左手の法則を利用する人を続け様に三度見た。
そのうちの一人は、はっきりと”フレミングの左手の法則”という言葉を発した。
他の二度は、出演者が単にあの指恰好をしただけであり、多分本人はこの法則を何等意識してはいなかったと想定する。

三度は全てお笑い番組であった。
そして、全て”左手”なのであった。
ま、本題にはさして重要なファクターではないが。

ここで、”フレミングの左手の法則”とはなどとやらないのが賢いとは承知しているが、一応念のため復習しておこう。
所謂”チカラヲイレルトジガデル”なのであって、親指、人差し指、中指の順番に、力の向き、磁界の向き、電流の向きの関係を表している。
磁界の中で電流を流すと力を受けて導線が動くという現象である。
ま、そんな順番はドウデモヨイ(日常生活で常に利用しているのであるから関係無い訳ではないのである、念のため)。

ただ、この三本の直線の交差は、考えてみると中々スグレモノなのである。
親指と人差し指とをピストルのように伸ばし、中指を人差し指と90度になるように伸ばすとき、中指は親指とも90度になっているのである。

私の友人で器用な奴がいて、親指と人差し指とが作り出すそれぞれの直線が平行になる男がいた。
それも特別無理することなく容易にこの形を作ることができるのである。
すると、親指と人差し指とをピストルのように伸ばし、中指を人差し指と90度になるように伸ばすとき、3本の指は一つの平面に収まってしまい、中指は親指とは90度になっていない。

こんな輩がマジョリティだったりすると、先の説明は困ってしまう。
つまり、”フレミングの左手”の型を説明するのに窮するのである。

世の中には、こんな風に困ってしまうモノが稀に有る。
いや、多々有るのである。

2003/01/08

文責:い 80

No.844

何故12月に”第九”なのかを明確に答えてくれた書物に出くわしたことが無い。
そんなことを承知しなくても、12月には何度か”合唱”部分というか第4楽章を聴く機会があったのである。

正直なところ所謂クラシックは苦手なのであるが、敢えてコメントしてしまうのが私流儀なのであって、誰にも文句を言わせなければ成立である。
正月に書くような話題かどうかさえ、ま、ドウデモヨイのである。

とにかく、ベートーベンの交響曲における最大の特徴は、”ピッコロ”の効果的な起用なのである。
N響の録画を再生して確信した。
多分オーケストラ最少の楽器であろう”ピッコロ”を愛していたのだ。
優雅さと対極にあるこの楽器を、耳の聞こえなくなった彼がどう記憶していたのかは存じないが、自分で音を頭の中に発生させることが可能な彼にとって、音色を存在させることは容易なのであろう。

ただ、疑問がある。
”有音”を利用することは間違い無いであろう音楽におけるもう一つの(極言すれば、むしろ優位に立つ)音である”無音(の状態。間などとも称される)”を、楽譜上に記載する方法を如何に考えていたのだろうかなのである。
楽器を演奏する人々に対し、その方々が発する音を確認できないのである故、指揮者としての仕事を如何に書き留めるのか。

何でこんなことを書いたか。
ピッコロが打楽器に似ているように感じたのである。
リードの無い管楽器でアソコまで高い音が必要なのか。
正確性を可也犠牲にしてまで必要な楽器なのか。
つまり、メロディではない要素を強く意識した楽器なのではないかということである。

そして、ピッコロの奏者とトライアングル(打楽器の中でも特にこの楽器において顕著である)の奏者とに対し、目で追いかける程度での判断だが、私は違和感を持っているのである。
滑稽なのである。
この表現は正確である。

オーケストラにおけるこの違和感(滑稽さ)が、重要なことに思えたのである。

2003/01/07

文責:い 80

No.843

1.我は湖の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと 
    昇る小霧や さざ波の 滋賀の都よ いざさらば

2.松は緑に 砂白き 雄松が里の おとめ子は 
    赤い椿の 森かげに はかない恋に 泣くとかや 

3.波の間に間に 漂えば 赤い泊火 なつかしみ 
    行方定めぬ 浪枕 今日は今津か 長浜か 

4.瑠璃の花園 珊瑚の宮 古い伝えの 竹生島 
    仏の御手に いだかれて ねむれ乙女子 やすらけく 

5.矢の根は深く 埋もれて 夏草しげき 堀のあと 
    古城にひとり 佇めば 比良も伊吹も 夢のごと 

6.西国十番 長命寺 汚れの現世 遠くさりて 
    黄金の波に いざ漕がん 語れわが友 熱き心
作詞   小口   太郎   原曲   吉田   千秋

こういった歌詞の引用は、無断でよいのかどうかの判断が付かない。
問題あったらご指摘ください。

なお、”さすらい”には”放浪”、”おとめ子は”には”乙女子は”、” 森かげに”には”森陰に”のように漢字・平仮名の違い、”小霧”には”狭霧”、”滋賀の都”には”志賀の都”、”赤い泊火”には”紅い泊火”のように明らかに漢字が相違する表記も散見した。

また、この歌のメロディーが、実は、吉田千秋が大正4年に”音楽界”誌8月号に発表した”ひつじぐさ”の曲だとわかったのは、千秋没後80年近くたった平成5年のことだったという。
平成5年といえば、私でさえ数え切れないくらいこの歌を歌っているではないか。
歴史の共有(同時代に住む)なんてこんなものか。

とまあ、一部の方々はこの歌詞に結構深い思い入れがあることを知っているので、この”琵琶湖周航の歌”を引用させていただいたのである。
が、悔しいことに、私は4番までしか知らなかったのである。
もちろん、これはカラオケの為せるワザである。
ただし、4番で終わりにしてくれた方が味が良い。

俊才小口太郎にして、何か後で無理矢理付け足したかの感がある。
5・6番は言葉が硬いのである。
折角4番まで”繊細なる(女性に比べて、と理解すべし)”柔らかい言葉使いで来たのに、いきなり何かを鼓舞しなければの思いに駆られたのだろう。
台無しだ。 

そういえば(この歌で三高あるいは京大を思い浮かべてくれないといけない)、最近関西系の言語を操る方々との付き合いが薄い。
こちらから出向いて河原町辺りで良いから一杯やりたい方々が沢山いる。
大変ご無沙汰しています、ナノデアル。

2003/01/06

文責:い pp

No.842

良い年が来ました。
本年も宜しく。

のんびりした今年の正月は6日になっている。
今年は今日がネット上の仕事始めである。
相も変わらずこんな呑気な気分で呑気なことをを喋り続けたいと思う。

本年の当社公式年賀状をご覧いただき、念頭の挨拶にします。
2003年公式年賀状 
( http://www.kinoi.co.jp/nenngajou2003.htm )