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2002年11月分(11/01〜

2002/11/28

文責:い90

No.830

大義名分とは創り上げるものではない。
本当にアメリカの正義という奴には困ったものである。
正義ぶるからいけないのであって、私としては、即座にイラクを攻撃しても反対はしない。

ところで、アメリカは最近では国連の会費を遅延せずに支払っているのだろうか。
あれだけ思いのままに利用している組織の会費を、まさか支払い遅延のまま利用しているとは考え辛いのであるが、正義の国アメリカのすることだから解からない。

で、調べようとして、ネットの世界を探し回った。
いや〜、探し物下手になったものである。
結論を言えば、確認できなかったのだ。

隠すような事柄でもないだろうから、単純に私の検索の方法が悪いのであろう。
ただ、検索サイトの有効性が薄れてきているのではないかと感じるのである。
一つの条件から導き出してくる項目が多すぎるのである。
また、信じられない拾い方をするので、どうしてこのサイトが検索の結果に入り込むのか理解できないことがママある。

例えば、百科事典(最近ではこんなもの制作していないだろうが、ま、そんなものである)を丸々サイトに載せてしまえば、どんな検索をかけても引っ張り出してくるであろう。
逆に言えば、検索結果が所謂百科事典の各項目を構成するとも言えるのであって、故に、百科事典はネット上に存在するのである。

新聞・週刊誌・月刊誌が無くならない理由が解からない。
少なくとも、即座にではなくとも徐々に無くなっていくだろうという予感を持たせる程度にも、本屋の店頭で感じるその雰囲気が無いし、私の家からも新聞・雑誌の山は無くならない。

ネットに取り込まれたコンピュータの各家庭の普及率が直感以上に低い状況は、もしかすると、今一つ現在のコンピュータの延長線上には無いアイデアでのマシンとネットに替わる情報共有・伝達システムとが必要なのかもしれないことを暗示しているように思える。

つまり、次のブレイクスルーがあったときに、今のインフラストラクチュアは無駄になるかもしれない。
ISDNに躍らされて、xDSLに乗り遅れたのは教訓である。

2002/11/27

文責:い80

No.829

矢張り、毎日のことが大切なのである。
食事は三度三度万度の内容が大事であり、二度はイイカゲンで例えば夕食だけはキチンとした食事をするという考えではイカンノデアル。

とは言うものの、所謂ハレの食事は必要なのである。
毎日が特別な日とすることが好ましいことであると考える私ではあるが、様々な理由(思い浮かぶ理由は一つしかないが、思いっきり探せばきっと他にもあると思う)で、こと食事に関しては、1点重視主義、かつ、たま〜に贅沢しちゃう主義なのである。

飲酒を食事の範疇に入れるかどうか。
この命題を如何に処理すべきかによって、私の食事が充実しているのか、それとも全くみすぼらしいのかの評価が変わってくるだろう。
残念ながら、エンゲル係数算出上酒代を分子に含めるかどうかを学んだ記憶が無い。

現代の家計におけるエンゲル係数の意味が如何であるかどうかはともかくとして、このエンゲル係数という経済用語は著名である。
そして、一時期の話であるが、経済学という文字の入っている学部で学んだ記憶のある私としては、恥かしい限りなのである。
さて、外食費は分子に含めるのかという疑問(自問自答形式である内には)に答えることもできないのである。

ま、エンゲル係数は経済用語ではあろうけれども、実は経済学的にさしたる意味を持つ言葉ではないと結論付けてしまえば良いだけのことなのである。
が、世の人は自分の分野ではないと確認した瞬間、その物事と少し関わりのあると思しき知人を頼るのである。
正確には、頼るのではなく試すのであるが、試す立場は強くて、逆に試される立場は非常に弱いのである。
次から次に?が出現し、そう、答えが詰まれば詰まるほど面白いのであるから、攻撃しているのではないかと思わせるまでに至る。

ハッキリ言って、私が?を投じる立場であることが多いのである。
そして、一人ずつ”トモダチ”を失っていくのである。

2002/11/26

文責:い80

No.828

三の酉のある年は火事が多い。

この言葉については、漠然とではあるが何か変だと考えていた。
何、少しばかりの時間を充当すれば解決できた問題ナノデアル。
もちろん、統計的に火事が多いかどうかなどという話ではない。
この点に関しては全く根拠無しであろうと推測できる。

昨日、台東区千束の鷲神社(おとりさま)に急遽行くべく誘われて、結果三の酉に行ってきたのである。
客(お金)を掻き集めるという熊手を求めて群がる群衆に圧倒されながら、全く熊手に無関心な私は、信仰とは凄まじいものであると実感させられるのである。
(私は、食い物に釣られて行くことになったのである)

最初から説明しよう。
”三の酉のある年は”というフレーズには、”三の酉の無い年”に比べて稀であるという雰囲気があるのである。
例えば、15%くらいの確率で出現してくれないと困る。

ところがナノデアル。
干支は60回に1度同じになる訳だが、こと”酉”の方に関して言えば12種類、つまり、12日に1度出現するのである。
今年は11/01がそうであり、12日後の11/13、24日後の11/25が該当した。

ちと、くどい説明をする。
11/02が一の酉なら、三の酉は11/26。
11/03なら11/27。
......
......
11/06なら11/30。

で、11/07だと11/31となりたいのであるが、そうはならないのであるから、この年は二の酉までである。
同様に11/12が一の酉であると、この年は二の酉までであり、三の酉は無い。
11/13は一の酉になれない。
この日より先に11/01が酉の日なので、二の酉になってしまうからである。

従って12回に6回づつ、三の酉の年だったり違ったりするのである。
ただし、一年が365日であれば、確率的に1/2と表現できるのだけれども、閏年が気まぐれを起こすから、12年に6回かどうかの保証はできない。
適当な連続する12年を選んで検証してみてください。

2002/11/25

文責:い70

No.827

サニーサイドアップなのである。
目玉焼きを英訳すると”フライドエッグ”とある。
”a fried egg”ですわな。

しかし、どう考えても(つまり、イギリス人が料理なんぞに多くの注意を払うような人種ではないことすら考慮しても、の意)、我が家の目玉焼きが目玉焼きであるならば、friedとは表現し難いのである。

定食屋さんに入って、本日のランチを頼んだとお考え下さい。
馴染みの店であろうが初めての店であろうが、定食屋で昼飯を食うときには、見本なんぞを見ること無しに、一言”定食”と叫ぶことにしているのである。
キャベツの千切りの横に(本来キャベツが横に添えられているのが望ましいのであるが、まあ良い)焼き切ったハンバーグがある。

その上に、一見確かに日本語では”目玉焼き”としか表現できないであろう、黄身が真中にあってその周りを白身が取り巻く生ではない鶏子料理が載せられているのである。
ついでに言えば、更にその上にデミグラらしきソース。

異様に(とはいえ、高が知れているが)白身が厚いのである。
黄身の部分が盛り上がった形が普通の目玉焼きだと思うのだが、銀河を横から見た雰囲気が無い。
小振りなホットケーキみたいなのである。
そして、矢鱈と泡々している。

そうなのである。
この鶏子料理ならば、正しくfriedと表現されてしかるべき一品である。

造り方を尋ねなかったから、私の大いなる勘違いかもしれないが、そして、家で自分でやってもみていないので(熱した油の中に鶏子を割り落として良いかどうか不安なのだ。行き成り油が撥ねて火傷をしたくは無いし、台所を汚して怒られるのも厭だし...)本当にあれが私の疑問を解決してくれた”目玉揚げ”なのかどうか、そして何よりも、英国風目玉焼きなる料理がどういうものなのかを確認していないので、いつものようにこの一文が何等意味の無いものになる危険性は高い。

この前の段の一文は、長い長い1センテンスの文だ。
最近、1文を少し長めにしようという意識がある。
これは、形式的な読み辛さなど、内容の解かり辛さに比べたら大したことは無いという配慮(明らかに誤用。しかし、気持ちは篭っている)である。

2002/11/22

文責:い80

No.826

”巻かないロールキャベツ”なる料理名がNHKの”今日の料理”で放映されている。
どうも、こういう言葉に弱いのである。
雰囲気は解かってしまうのである。

”プロレスごっこ”という言葉を聞くことがある。
そう、一度聞いたことがあるといった程度の頻度ではなくて、しばしば聞くのである。
ごっこで無いからプロフェショナルなのであって、つまり、ごっこならプロレスではないのである。
と書いているところで妙なことに気が付いた。

”〜レス”というのは、〜ではないという意味を付加する語なのであった。
”ワイアレスマイク”とか、”ケアレスミス”とか”しし座流星レス群”などという用法がある。
これと同様に、”プロレス”とはプロフェショナルではない、という意味で使用しているのかもしれない。
これなら何等矛盾は無い(もちろんそんなことは在り得ない)。

ついでにもう一つ。
レオナルドディカプリオことレオ様が云々...という芸能レポーターの発言があった。
自分の言語感覚に自信が無い今日この頃なので困っているのだが、私の言語感覚では、”レオ様ことレオナルドディカプリオ”という用法しか思い浮かばないのである。

如何。

2002/11/18

文責:い80

No.825

いよいよなのである。
正月の晴れ舞台に登場する各種競技の団体が次々と決定してきている。
高校サッカーしかり、高校ラグビーしかりである。
大学・社会人も各リーグでの戦いも終盤戦となり、少しづつ楽しみな組み合わせも増えてきている。

ここ数年は、真冬の観戦でも、特に寒くてやりきれないという思いをさせられた記憶が無いのだが、今年は少し様相が異なる予感がする。
寒さ対策を充分に練ってスタンド観戦をしないと酷い目にあいそうだ。

寒さ対策と言えば、本日の夜からの”しし座”である。
二日ばかり昼寝が大事なのである。
日本では観測条件が頗る悪いのであるが、そして、地球規模で見て昨年のような訳には行かないという予測が多いのであるが、何、このショーは始まってみなければ解からない見たもん勝ちの要素が強いイベントである。

日食の時間はコンマ2桁数秒程度の誤差すらないくらいに正確な予想ができる天文学も、彗星の明るさ変化予測や流星の出現個数予測はバンバン外れる。
此処に面白さを見つけてしまう態度は一般的には好ましいものではないのかもしれないが、藪睨み派の面目躍如の場なのである。

少なくとも、(このしし座を例外とすれば)年間を通じての出現個数・此処の流星の明るさともに流星群の最たるものである”ペルセウス”に比べても、相当規模に勝る”しし座”は観るに値するのである。

で、寒さ対策なのだが、究極は二人で寝袋に入ることである。
もちろん二人の性が、それぞれ異なることが望ましい。
アッタカイコトを保証します。
この寒さ対策によって、流星を観る準備は整うのであるが、きちんと夜空を眺めることに徹しなければならないことを忘れてはならない。

2002/11/15

文責:い90

No.824

決して珍しい出来事ではなく、悩ましい出来事であり、何とか防ぐあるいは復活の手法はないかと考える出来事であるのが、宿酔である。
二日酔い。ふつかよい。フツカヨイ。

恥かしながら”hangover”が、その英訳であることを知らなかった。
逆に言えば、つい最近知ったということなのであるが、何故これまで私の知るところとならなかったのか不思議である。

高校生の教科書に、”この日、父親のジョンはhangoverで、朝から体調が優れなかった”なんて文章を載せておいてくれたら、絶対私はこの単語を知っていたはずなのである。
斯様のごとくに、私は善き学生であったのである。

その善き学生であった私が、”二日酔い”を(つい最近まで)訳せないのである。
高等学校教育に問題がある(あった、のみならず、現在もまたそうであろうことを想像するに難くない)ことを如実に表している恰好の例である。

人種差別の問題とか麻薬の問題とか、あるいは、原子力発電の可否を問うことなんてテーマが、外国語や国語の教科書の中で扱われないのは何故だろうなんてことを考えていた。
だが、そうではなくて、使ってみようとすると偏重した考えの方々(悪いことにこういった人々は権力を持っていたりしがちなのである)がより善からぬ教育の道具にしてしまうからだろうと気が付いて唖然としたのである。

中曽根なんて名前の代議士による、此度の北朝鮮拉致問題に対するコメントが無い。
この人が前面に登場したりすると、滅茶苦茶になりそうなのでそーっとさせている節があるのが気に入らない。
戦中の話を、先の戦争の責任を取らなくてはならないこの方のような生き残りの人に語らせ、ある種如何なる責任を取ろうと考えているのかを示して欲しいのである。

景気の良い話のときのみ登場する年老いた選良は、今こそ恥かしがるべきなのである。
誤解が無い様には書けないが、我々もそろそろ本気で国会議員を選ばなくてはならないのである。

2002/11/14

文責:い80

No.823

本当は金銭的な理由が主なのであるが、電車とか飛行機とかであちこちに動き回るのが嫌いで、主に自動車で移動している。
歩くことも多いのだが、この方法だと、流石に行動範囲が可也狭い。
ま、とにかく、簡単に言えば、私の仕事たるや、急ぐ必要は無いし、海を飛び越える必要も無いのである。

そして、行き着いた先で宿泊する必要があれば、車に寝ればよいし、お望みであれば、煮炊きできる道具は揃っている。
もちろん毛布はあるし、これからの季節も快適なのである。
ついでに言えば、私は入浴が嫌いなのである。血圧の問題もあるし...
それでも、どうしても入れと言うなら、24時間営業のお風呂屋が此処彼処に存在するのであって、この手の施設での入浴は厭ではない。

上司もいないわけだし、部下もいやしない。
そんな私でも、恐い人が一人いて、この方のために私の日常は今一つ自由気ままではないのであるが、それも、まあ良い。。
こんなことを書くことができるこの国は、結構良い国なのであって、その辺りもう少し自覚してよいのではないか。
何せ、夜間道端で駐車して寝ていて命の心配をしなくて良い国なのである(道端とは言葉の弾みってもので、観光地などでも、その地その地に自分にとってご機嫌な秘密のスポットがそれなりにはあるのである)。

とまあ、何をしても良いのであるが、とにかく、飛行機に乗る機会が無いのであるから、次のような文書に出会うと確認ができなくてイライラするのである。−−−私の責任で抜粋しました。
ご存知『フライト ア GO!GO! スチュワーデス物語』より。
http://www.melma.com/htmlmag/mag/34/m00063634/

トリプルセブン”て、ご存じでしょうか?
飛行機の機材ですが、......機内のクローゼットの扉が開きにくかったり、カートの扉のハンドルが回らなかったり(回してロックをハズしてから開けるのです)、カートをギャレイに固定するロック部分が力入れないと回らなかったり、スベリ悪い!......一番イヤなのは、エコノミーでお客様の荷物が入ったコンパートメントを閉める時。重い上に通路側のお客様の上に身を乗り出してエイヤ!としないと届かないほど、......きっと皆様も経験あるはず。通路側に座っていたら、離陸前にクルーのお腹が超接近。でも閉まらない。”こんなに押しつけられるなら、ああ、自分で閉めておくんだった。”ってね。......パコッと閉めて余裕のある−400が好き。トリプルでエコノミーに乗ったら、”あ、コイツがヤツか。。”と思い切り閉めて下さいませ。(降りるときは開けっ放しにして下さるとウレシイ。)

トリプルセブンも−400も、乗った記憶があるのだけれども、こんなこと感じた記憶が無いのである。
おせーて。

2002/11/13

文責:い70

No.822

昨日は意味無く休んでしまった。
ちょっと考え事をしていたら、一日経過してしまったのである。

弓を射る。矢を射る。
まず、これが問題ナノデアル。

どちらも使われているから、どちらが正しいかなどとは問うことはしないし、両方ともに理論的に説明できるからどちらでも良いのだが、いざ実際に使おうとすると如何したものかと考えてしまうのである。
好き嫌いで言えば、”弓を用いて矢を射る”くらいで納めようと思うが、特別な場合以外では(例えば、少し前まで弦楽器の話をしていた場合とか)くどそうなのである。

弓を撃(打)つ、とは使わない。
注射は打つ、のであり、心臓は搏つ、敵は討つ。
もちろん、心臓も敵も”打つ”で一向に構わないのだけれども、そして、鉄砲も”打つ”なのだけれども、弓は”射る”のであって”打つ”でないのが解からない。

これで悩んでいたら、まだ先があったのである。
”打ち落とす”になると、もう手が付けられないのだ。
弓の場合には”射落とす”である。

打った(射った)結果、飛んでいる(あるいは高いところに存在する。例えば、馬の上の武士であるとか、木になっている果実であるとか、最終的に地面に落ちてくるイメージが必要である)何かを落下させると言うのである。

ところが、この言葉に込められた最初の意味は違うらしい。
叩いて、あるいは、切って落とすのだそうだ。
飛んでいる蝿を叩き落すイメージである。
人間の首なんかにも使う機会が多かっただろう。

まあこんなところにしておく。
そうそう、最近”菊水”を置いてある呑み屋が矢鱈目に付く。
そんなことを気にかけていたら、何と”喜久酔”に出会った。
念のためだけど、”きくよい”と読む。
歳暮の季節が近いので書いておくと、”菊水”は要らない。”喜久酔”なら是非。

2002/11/11

文責:い80

No.821

ここ数日は本当に考えさせられる事柄が多く、頭の中が混乱のし放しナノデアル。

久しく頭のフル稼働から遠ざかっていたので、真”知恵熱”発生状態が続いたのである。
この熱病状態は嫌いではないのであるが、世間様(妻子を含むのである)から観察すると、私の場合、非常に私自信離れした行動を採用するらしい。

気分的にハイなので、身体は恰も十代後半のように動かすことができるような気がしているし、更に高所恐怖症なんてことまでも忘れて木に攀じ登って柿を採ってみたり、ビニルハウスのシート張りなどということも平気で、そして、進んで励んだりしてしまう。
何にもせずに(もちろん、自分では色々考えているのである筈?だが)横になって、テレビなんぞを観るともなしに四六時中うだうだしている私が、である。

このモードの期間に、自分に好ましい仕事の依頼が来たりしたときの出来栄えは、信じられないくらい良いし、驚くべきほど速い。
大体こんな時には仕事は舞い込む気配も見せず、従って、誇るべき私の過去の仕事は稀なのである。
実際期間も短いのである。

何時にも増して何を書いているのか解からない。
これこそ”好ましモード”にある証拠なのであるから気にしないのである。
体重も少しづつ減りつつあるし、この分でいくと、今年一杯続きそうな気がする。
2ヶ月間継続したらこの20年来で最長記録である。

意味は無いけど、ご期待ください。

2002/11/08

文責:い90

No.820

目出度い席で、感動的な場面に出くわす。
ここで笑いを取ろうとする発言は非常に微妙な危険を伴なうのである。

葬式のように(絶対に)目出度くない席では、喪主でさえも敢えて笑いを取ろうなんてことはしないほうが良いのは言うまでも無い。
しかし、結婚披露宴に於ける両親の涙の前であるとか、売れない作家のメジャーになることを約束された賞の授賞式に於いて語る苦労時代の話の中では、是非とも笑いを取ろうとする発言をしてもらわねばならぬ。

これは、当事者本人はもちろん祝辞を述べる方々に於いて特に重要である。
ただ、考え尽くされたようなのは、聞いている方が照れてしまったりすることになるので困るのである。
その場での思いつきで気の効いたギャグを喋ってもらわなくてはいけない。

となれば、当然祝い言葉を書いた紙などを手にして喋ってはいけないのである(当事者の名前を忘れたりするのは、これもまた聴衆が戸惑ってしまうので、名前などを書いた紙を持つのは可)。
何分間喋るかも決めて置いてはいけない。
受けの度合いによって長くしたり短くしたりするのである。

大先輩かなんかに真面目な挨拶をやられて、その後に突然簡単な話と乾杯の音頭とを任されたりすると、受け狙いはしやすいのだけれども余りに長くなってしまったりして顰蹙を買う。
乾杯の音頭は速やかに行なうべきであって、皆で早くに飲むのである。
従って是非とも大先輩かなんかは真面目な挨拶をやってもらう訳にはいかないのである。

また、突然の指名で挨拶をさせられることを非常に嫌う輩がいるが、大馬鹿者である。
自分の立場を考えて出席すべきなのである。
当然挨拶を求められると思っていたのに、指名されなくて不貞腐れる人の方が愛される御仁なのである。

横道に逸れたのは一向に構わないのだが、これから押し寄せる忘年会のことを考えると、飲むまでの儀式とはどうあるべきかを今一度考えていたらコンナ話になったのである。

2002/11/07

文責:い70

No.819

風邪を引いたのかもしれない。
それとは関係無いのだろうが、血圧が”上180の下95”なんてのは久しぶりである。
概ね一月に一度医者にかかって様子を診てもらっている。

看護婦が血圧を測定する時に、何時もやられるアンマリ気持ちの良いモノではないことがある。
職業としての経験が長い看護婦さんほどそうなのである。
ま、腕に器具をセットし、聴診器を当てるところまでは何方がやっても同じようなものである。
問題はその後である。

水銀柱を見ながら適当に空気を入れるのだが、160くらいの所で注入を止めるのである。
で、ナンか変だぞとなるのである。
本当かよと思いつつ、そうだこの患者は血圧が高いのだと思い出して思い切り良く再注入するのである。

新米の看護婦さんがやると、予め180くらいのところまで膨らませるのである。
私の血圧の数値が140〜85なんて時には、この新米さんの手法は芳しくないのである。
妙に痛くて、オイオイと口に出すこともある(威厳も無いから言い易い。ただし、概ね可愛いから笑って許す)。

さて、これに似たことは無いか。
ちょっとピンと外れだが、以前書いた数字中てゲームの話はどうだろうか。
相手の選択した0〜9の数字を的中させるまでに何度の試行をするかである。
0、1、2、...8、9と順にコールするか、行き当たりばったりで、5、9、2、4、...と行くか。
後者は、時に10回以上コールしても中らない場合があるのである。

私は絶対後者で臨む。
そして、概ね10回で中らないのである。

2002/11/06

文責:い80

No.818

マタシテモ将棋の話なのである。

将棋の勝ち方について、今期新人王の木村六段はこう書いている。
”優勢になった局面でまず決めることは、勝った時のコメントとか賞金の使い道とかではなく、受け切って勝つか、競り合って勝つか、方針をはっきりさせることである。”

更に続けて、解説も付く。
”受け切る、と方針をはっきりさせたら、徹底して受ける。これが曖昧だと、いつの間にか受け損ねて逆転されやすい。”

蓋し、名言である。
であるのであるが、競り合って勝つ方向を選択しないところが不満である。
強いと言われる棋士の大部分は、相手にやらせるだけやらしておいて、最後に少しだけ何かが不足していたから勝ち切れませんでしたねと言わんばかりの勝ち方をする。

簡単に言えば、相手が勝てないと認識して戦意を失わせてしまうのである。
戦意を失うと”負けました”と呟くのが約束であり、斯く呟いた人は負けであるのもルールと呼ばれる約束なのである。

このやり方は頗る面白くない。
自分の味方駒を(例えば、飛車を桂馬と交換しようとするような)自分の勝利のために犠牲にするなんて事はしないのである。
本当の戦争であれば(現在の戦争と言う言葉は、国家間の紛争を意味する。そして、私は戦争を善とする立場ではない、念のため)こういった大将の考えは、誠に賞賛されるべきなのであろうが、ことゲーム”将棋”をアマチュアとして楽しみたい私には評判が悪いのである。

そうではなくて、お互いが全面的にやるだけやって、親分同士が最後に対面で雌雄を決する(もちろん、雌が偉いのです)なんていう姿に感動するのである。
玉砕戦法(勝率は限りなく0に近い)こそ、私の好きな戦法なのである。

2002/11/05

文責:い80

No.817

世に記念日は数々ある。
そも、その記念日なる昔の出来事を思い出して、何かの感覚を掬い出そうと試みる理由は何だろうか。

私個人的には、何かに託けて酒を飲む口実を探すのは吝かではないのであり、また、結構周りをその気にさせて小宴を大宴会に化けさせる所業を好んでいるのではある。
であるから、どうしてもと言われれば、新たな記念日を創出すべく、本日の集まりは、将来(来年の今月今夜、再来年の今月今夜、...)本日のこの催しを記念して皆が集まるような宴(集まりとは宴のことに決まっているのである)にしてしまうことを目的とするなどとホザイテ酒を飲むのである。

とはいえ、記念日なのである。
10/10の記念日の休日なんて、制定されて40年もしないうちに、月曜休日に振替えられてしまった。
10/10と11/03との両日は、晴れの特異日なのであり、どちらも休日だから意味があるのである(休日ってモノが単純に善きモノという認識に同意ください。それ以上の意味は無い)。

10/10については、実はこの言い方は逆なのであって、統計的にこの日の東京地方が”晴天”である確率が非常に高いことをもって、オリンピックを開会する日に決定したのであり、その後、祝日となったのである(ただし、”統計的に”という表現は、一般的にこう書かれているだけであって、チットモ統計的ではないことを記しておく必要がある)。

宗教的な記念日(儀式)の場合、極ごく一部の人々は非常に重要な意味付けをしている。
その儀式の仕方が巧妙になっていて、全くその宗教に無頓着な善良なる市民を巻き込んでしまったりするからややこしい。

楽しそうだから参加しちゃえ、という安直な態度は改め、自分の意志で行動するには何事に対しても疑いを持たねばならない。
オイシイ話には特に気を付けなければならないのである。

2002/11/01

文責:い80

No.816

”新手一生”。
私のマシンのワープロでは、”しんていっしょう”を一発で変換してきた。
もちろん、”新手一生”という文字を提示されたら、私は”しんていっしょう”と読む。
同時に、升田幸三という名前とその顔とを思い浮かべるのである。

しかし、”新手”の場合には”あらて”と読むだろう、というか”あらて”なのである。

ま、そんなことはどちらでも良い。
兎に角、”手”という語に興味を持った。
断言するが、私は今日までの四十余年の年月を生きてきたその中で、”手”という語を辞書で引いたことが無いことに気が付いたのである。

全くもって迂闊であった。
1音の名詞であるこの手の語は、最も好きな語である。
2〜4音が略されて1音の名詞になることもあろうが、定着した1音の名詞は絶対的に重要な名詞なのである。
それに気付いたことで、当然各種の辞書を紐解くのである。

流石に”手”ほどの語ともなると記載が充実している。
詳しくは各自辞書引きしてもらうとしよう。
一つだけ掲げておくと、”手負い”とか”痛手”とかの場合の”手”について、ちと感心した。

こういう時間を持つと、この国に生まれて日本語を使っていることに気分を良くさせられる。
毎日こんなことで自由に日中を過ごすことの快感とともにナノデアル。