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2002年09月分(09/01〜09/30)

2002/09/30

文責:い70

No.806

9/29は全く吸っていない自信がある。
問題は9/28である。

この日は、当社の3周年記念の宴会に、迷惑であったろうが集まってくれた人々を前に、一人ではしゃいで泥酔してしまったのである。
メンバーの行動形態を知っている私としては、多分幾本かは吸わされているのではないかと察する。

9/28が初日であった訳で、この日はまさしく”吸いたい、いや、吸ってはならない”が繰り返され、頗る気分が良くないのであった。
しかし、昨日今日は”吸いたい”が襲ってこないのである。

こうなってみると、私は大したタバコ飲みではなかったのかもしれないという気がするのである。
恋しくて恋しくて堪らないと信じていたのであって、信じる事を止めたら、全く恋しくない、つまり、熱病に侵されていた。

好き嫌いなんぞは気分の問題ナノデアルから、理屈で攻めること自体に意味を持たせることはできないのだけれども、それでも何らかの理屈をつけないと納得し辛いのであって、頑張るのだけれど無理がある。
まるで、...のようである。

とまれ、明日になると、”タバコを止めたのは2002年の9月だったから、今日で2ヶ月目に入っている”と喋るだろう自分を楽しみにしている。

2002/09/27

文責:い90

No.805

状況は一気に緊迫度を増している。
昨日、とある会合で緊急宣言をしたのである。
”私、鬼ノ胃は、明日2002年9月27日を最終日として、喫煙の習慣を無くす”
宣言をした会場前にある自動販売機にて3箱のハイライトを購入し、明日の最終喫煙日を迎えるべく備えたのである。

想い起こせば、1977年、自身20歳を迎える数ヶ月前に初めて喫煙を経験して以来4半世紀25年間が経過した(ちょっとだけサバヨンデイマス)。
飲酒の習慣に遅れること数ヶ月であった。
私が買った最初のハイライトは100円だったと記憶するが(80円ではなかったと思うし、120円でもなかったと思うのである)、今や250円である。

千代田区は、直立歩行という人類が手に入れた歩行形式による街頭での喫煙を取り締まるという。
千代田区で歩行喫煙してからやめるという案も浮かんだのだが、緊急宣言を考え無しに発表してしまったために時間的な余裕がない(今日一日しかないのである。そして今日はどうしても地元を離れられないのである)ので反則金の支払いができないのが残念である。
何事も経験が大事というのが信念なので、この事態はあまり芳しい事ではないのだ。

今まで”タバコをやめるのは簡単である”と喋っていた。
実際非常に簡単なのであって、証拠を見せるために、事実私は何度もやめている。
煙草を吸うことができないと仰る御仁のために、”何、そんなことは簡単である”とばかりに、禁煙していた煙草を簡単に吸いはじめることさえできたのである。

というわけで、今日の2箱半(昨日のうちに半箱は吸ってしまっていた)をモチマシテ、私の煙草人生はピリオドが打たれ、今後煙草について発言するのは、OBとしての懐かしみと往事の経験とによってのみとなるのである。

こんな訳で、”俺は134歳まで生きる計画”は、現実化するためのステップを又一段登ったのである(今日のところは、登ることとなる、が正しいが...)。

2002/09/25

文責:い70

No.804

昨日に続いています(今日はサボってます)。
さて、魔法の薬缶である。

これを書こうと思ったのは、ここ数年気になっていた文言があったからである。
”勘違いするな。食欲が戻ったからシロウオがたべられたんだ。シロウオのおかげで食欲が戻ったわけではない。”
海原雄山、事故後の病床でこう宣まったことを記憶している方もいらっしゃるだろう。

もう結論を書いてしまったようなものであるが続けよう。
ラグビーにおける魔法の薬缶は、フィールド外から倒れている選手のもとに持ち込むタイミングが全てなのであった。
簡単にいえば、もう大丈夫であろうという時期に薬缶を持ち込むのである。
本当に水を欲している人にはスグサマ持ち込めば良い(ゴールキック中にキッカー以外の選手は争って飲んでいたものである)。

倒れていた選手にしてみれば、立ち上がってインプレーに向かう契機が欲しいのである。
通常これを儀式というのであるが、このマツリゴトの道具として”ヤカン”が選ばれていたのである。
(サッカーでは審判の笛を選んだらしい。笛とともに相手方の選手に黄色や赤色のカードを掲げることをもって倒れた選手は起き上がり、プレー可能な動きに戻る。これはこれで素晴らしい儀式である)

ところが、読み違えて、ちと早めに魔法の薬缶を持ち込むと大変なことが起こる。
倒れている選手にしてみれば、もう少し回復のための時間が欲しいのであるが、儀式は進行しているのである。
しょうがねえなあ、とばかりに起き上がろうとしなければならないのである。

試合後にかかる気の効かない”魔法の薬缶運び人”に対して蹴りの一つも入れなければならない。
これは重要なポイントである。
この蹴りによって、”魔法の薬缶運び人(もしくは、その指示者)”には運び入れるタイミングを学習させなければならないからである。

ここ四五年”魔法の薬缶”を見かけない。
もちろん他の理由もあろうが、運び入れるタイミングの学習が巧く機能せずに伝統が継承されなくなったからであろう。

駆け引きの話もしたかったのだが改める。

2002/09/24

文責:い70

No.803

三連休が何度も来て、またまたペースが落ちている。
好ましくもあり好ましくもなし。

さて、魔法の薬缶である。

”ヤカン”を見なくなって久しい。
カップめんのコマーシャルでは、あの熱湯というものの象徴として登場することが多くて、真鍮色に輝く姿かたちはお目にかかることはある。
しかし、家庭に1個(薬缶の数え方に記憶がない。まさかとは思うが、”一缶二缶”ではあるまい)必ず存在するという状況ではないだろう。

10日程前になるが、上井草の早大ラグビー蹴球部新グラウンドに対オクスフォード戦を観に行ったのである(新グラウンドのコケラオトシを兼ねていた。オール早稲田を採用せず、現役学生のみの布陣)。
結果は引き分け(史上早大側の勝利無しの状況は続く)。
特設スタンドを仮設し、3000人の有料観戦者を集めた。

全席指定で3000円。
仮設費用は2000万円程度だという。
主催者・後援者には結構な名前があったし、広告ボードも充実していた。
さらに、地元住民との好ましい交流もあったようで、損失があったとは思えないが、収支計算だけ見るとちと複雑。

で、今日書きたかったのは、ラグビーにおける”魔法の薬缶”とは一体ナンであったのかということなのである。

久しぶりに、明日に続く、ナノデアル。

2002/09/20

文責:い80

No.802

”官公庁”と”閑古鳥”と。

どちらも”かんこちょう”と読むらしい。
勿論嘘に決まっているが、読まないまでも似ているらしい。
あんまり密着してもらいたくないものなのである。

税務署や警察署などの”署”は、”おっかない方のショ”などと言われ、パチンコ景品引換所とかの”所”とは区別されている。
ところがまだまだあった。
自衛隊の内部(もちろん外部に対しても使用する)では”処長”書くらしい。
有名なところでは、一般の会社の”係長”は、新日鉄では”掛長”。

言葉遊びついでにもう一つ。
終盤は駒の損得より体力(念のためだが、笑ってもらえない向きもあろうから説明しておくと、普通は”終盤は駒の損得より速度”である)とは、板谷進の名言。

お受験も、学力よりも体力(または財力)だと思うのだが、最近の風潮(これは文化とは云わないのである)では、テクニークらしい。

”公式文書”と”非公式文書”との違いは何か。
”公開しても良かろうと判断する文書”と”公開したくない文書”と書き換えると解かりやすい(答えが不要になる)。
いまだに北朝鮮から渡された(翻訳に時間のかかったとされている)紙が公表されていないのはオカシイノデアル。

”これだったんですよ。翻訳に時間がかかったのもしょうがないでしょう”、と言い訳を言って、見せてくれれば納得できるかもしれない。
それなら”体質”云々で不信感を募らせることもあるまい。
加えるに、(まさかとは思うが)翻訳ミスがあったりしたら大変である。

ま、それだけの話。

2002/09/18

文責:い90

No.801

801号がまとまらない。

昨夜来日朝首脳会談に憤りを感じているのだが、問題点が何処にあるのかを判断するのに情報が不足している。
かの国の話ではなく、我国の話なのであるが、事件が発生したとき、その同時期に生きているということが必ずしもよく事情が解かると言えないというか、寧ろ何も解からないのであることを痛感する。

歴史的な事実というものは、常に時間をかけて政治的に方向付けをするのであろう。
情報が溢れているようで、掴まえられないのがモドカシイが、歴史家の判断を待つしかない。
情けない。

ただ一言だけ言えることがある。
私が国家に対し期待していることは、自国外にあっても自分の生命を脅かす何者かから自分を守ってくれることなのである。
それなのに、自国内にいた人間が知らないうちに国外で死亡するという事態の発生は、国家そのものを否定することも真剣に考えなければならない重大事である。

国際的な治安維持を標榜するのは、手段であるかもしれないが、原点(目的)の確認こそが第一である。
小泉氏は、この一点において国家の代表とは認めがたい。

2002/09/17

文責:い90

No.800

ある雑誌の読者投書欄に次のような内容の記載があった。
何となくふむふむそうだ、もっともなことだと頷きたくなってしまいそうである。

日本も経済状況が悪化し、他人のことに気を配る余裕がなくなりつつありますが、こうしたときこそ視線を高くして、周りを見回すことが大事だと思います。

普通は衣食足りて礼節を知る、とでもイイタゲである。
つまり、現在は衣食が不足しているかのような認識をお持ちでいらっしゃるらしい。
根本が間違っているのである。

充分すぎるほどに衣食は足りているのが現状なのである。
生活水準向上の飽くなき追求とでも書けば体裁は良いが、なに、皆して欲の皮が突っ張っているだけなのである。

確かに悪化はしている。
巷間しばしば指摘されるように、将来の生活に対する何となくの不安が、今の日本の経済状況を悪化させているだけであろう。

他人のことに気を配るのは、余裕があるからするのではない。
文化として捉えていれば、誰もがそうするのである。
心が荒んでいるのである。

他人のことに気を配っていた時代がこの国にあったのかどうかにも疑問があるが、それは別にしても、経済状況が好転しても、他人のことに気を配る人々がどれほど存在するようになるかに関して、私は否定的である。
この国全体の経済状況が”異常に”良かった時、高慢な態度しか取らないで、ミナシテ自分の経済状況を見せびらかしあっていたではないか。

ストックとして持つ者持たざる者いずれも今一度(初めてかもしれないが)反省すべし、ナノデアル。

日刊鬼ノ胃創刊800号だから、このくらいの事は書いても宜しかろう。
(それにしても、700号から800号まで半年以上という月日が流れた。今年は休日が異様に多いのだろうか。通常この現象をサボリと称すると聞く。反省反省)

2002/09/13

文責:い80

No.799

アメリカにおける9月11日のことを、意識的に書かないことにしていたのだが、ここのところの余りにもアメリカらしいイヤラシサ故に少しばかり。

グラウンド・ゼロ。
広島に与えられた名称である。
この言葉の持つ意味については触れないことにするが、この言葉を9月11日の荒野に付与する感覚がわからない。

アメリカとしては、最初で唯一の核爆弾使用国という不名誉を和らげたいのである。
もう一国出てきてくれたとしても、アメリカの不名誉の度合いが低下するものでないことを充分に知りながらも、それでも、実は”唯一の”という形容詞を無くしたがっているのである。

我国の首相は”イラク攻撃には大義名分が必要”などと、剣呑かつ呑気な発言をしている。
極言すれば、”アメリカ国土に核爆弾が撃ち込まれる事態が発生する”ことが、最大級の大義名分になると米国政府が考えている節が覗えるのである。
甘いと思うのだが、撃ち込まれた核爆弾を、炸裂する前に(パトリオットなどで)処理してしまうことが可能であると、真剣に考えているらしいのである。

ま、あの国は、人工衛星に搭載したレーザー兵器でミサイルを打ち落とそうと真面目に考えて、莫大な国家予算を投入した国だから、きっと正気なのだろう。
愚かである。

かかる愚かな国が、世界の警察になろうとしているのは問題ナノデアル。
自分勝手で都合の良い法律を作って、その法律を遵守するための権力機関をも兼任する。
折角アメリカに行ったらしいのだから、あなたの国にはお任せできないのである、くらいの発言を小泉某氏も残してくれば良かったのに。

2002/09/12

文責:い80

No.798

経験(つまり、文化なのだが)とは畏ろしいものである
そして、尊い。
そして、ビックリさせられる。
タマゲタノデアル。

新年のお飾り用に稲藁を調達するのがこの季節の慣わしである。
本来、藁なんぞは、当然自分ちの田んぼで稲を収穫する際に、副産物というか残ってしまうものなのであるのだが、今は昔。
本気で百姓をやっている人々は、ターゲットの米粒以外には目もくれないから、藁なんぞは処分の対象でしかない。

更に、細かいことを言えば、”口開け”と称してコンバインを入れるスペースを確保するために”手刈り”をする稲にしても、乾燥はコンバインで収穫した籾とともに乾燥機に放り込むので、ホダカケ(穂だ架けらしい。私の地域では”おだかけ”と称す)をしないのである。

さて、件の藁は”長い”が重要な条件なのである。
@手刈りした稲の穂を下向きにして横棒に干す。
A手刈りした稲を穂(つまり籾である)を取り払ってから乾燥させる。
何れもお飾り用の稲藁として藁を利用することを前提にしている。
@の藁はAに比べて相当長いのだそうである。
籾の荷重によって伸ばされるとは考え難いので、多分、Aの場合には乾燥により縮むのだろうが、100:70くらいの差が生じるというのである。

我が家の藁は、近所の農家の人に頼んだ。
この人が以上のことを喋って帰ったのである。
500俵位の米を生産する農家なのであるが、お飾り用稲藁のために、わざわざ@の方法を試みるのだそうだ。

この藁の使い道がお飾りだということを考えると、農業における(不特定の)神様に対する信仰は厚い。
あくまでも”不特定の”という、完全に文化になっているところが好きだ。

皆さんは、この話、タマゲマセンカ。

2002/09/11

文責:い80

No.797

自分が中途半端な左利き(ちと説明が必要か?ツマルトコロ、根本的には左利きらしいのであるが、日常生活は右利きの人用の道具を使っているのである)であるので、右左の問題には少しばかり敏感に反応するし興味があるのである。

食事の後片付けで絞込みのある皿を洗っていて気付いた。
右手で皿を支えて左手で擦るようにして洗うのだが、この時皿の形が左手で洗うのに適した形をしていないのである。
汚れが残るように残るようにとなってしまう。
試みに右手で洗ってみると嘘のように上手く落ちるのになのだ。

この形状の皿を作った人の意図は、当然右利きの人が洗うのに適した形を求めて行き着いたであろう。
もし、この人が左利きで、自分で使って便利な形状を求めていたら、一般には非常に不都合な形になっていて、自分ではその理由が解からなかったに違いない。

年を取ると、若いときには何の苦労もなかった社会の仕組み(大袈裟なモノではなく、例えば、階段の手すりの付け方など)が、妙に苦痛に感じる場合がある。
病傷人の痛みを解かるには、どうしても自分にその経験がないと駄目なのだろう。
頭を如何に働かせても、どうしても解決できない諸々の事象が発生するのは止むを得ないのであろうが、そういった意味で人間工学に基く設計は胡散臭いのである。

文化とは習慣であると説いてきたが、文化とは時に異端児にとって誠にとっつきにくいものであることもまた否定できないのである。

2002/09/05

文責:い70

No.796

アラタメテ云うのもなんであるが、気が付けば8月が終わっていた。
汗をかくのに忙しい夏だった。9月になってもう5日になるというのに今だしきりに汗をかいている。
今年も決して仕事で忙しい夏でなかったのが”らしく”て良いのである。
秋になっても状況は変わらない...

振り返ると、今年は菅平に行ってないのである。
新聞に小諸の記事があって、こんな事をふと考えたのである。
懐古園の金太・沢子(懐古園にある動物園にいるライオンの名前である。因みに、如何いった経緯か知らないが石川の金沢ゆかりの名前であると注意書きがあった気がする)は如何しているのだろう。
ライオンって奴は、どう見ても涼しそうな風貌ではない。確か大分高齢であったと記憶するだけに、今年の暑さは応えたであろう。

ズボンを穿き、長袖のワイシャツ何ぞを着て外出すると、身体全体が悲鳴を上げて汗を噴出すのである。
当然コンナ日は(勿論、コンナ日でなくとも同様ではあるが)夕刻暖簾をくぐるのである。
一杯やるのに店に顔を出して第一声は”熱燗ね”、と言うのが夏冬を問わずの定番だったのに、流石に最初は”生ビールね”なのである。

自分の型を守ることのできないのは忸怩たるものがあるのだが、身体の欲するものこれ全て身体に良きことというのも往生するために善人の採るべき道なのである。
いわんや悪人をや。

2002/09/04

文責:い90

No.795

さて、哲学についてなのである。
まず、私は、哲学を科学の一分野と認識するほど楽天主義者ではないことを宣言しておく。

毎度毎度結論を見出さずに、問い掛けのみで話を打ち切る手法を使わせてもらっている。
科学は、(結論があることを前提にして)結論の競い合いをしているように見えるのである。

赤面しながら書いてしまえば、”人生とは何ぞや”との問い掛けは、その問い掛けをする自分を見出すことそのものに意義があるのであって、その答えを完成させることに大した異議はないと考えるのである。
この考えは、多分、ちょっと格好良いのであって、そして又、多分、興味深いのではないかと思うのだが如何。

そう、こういう問い掛けで世間(これを”衆愚”と言ってはならない)を惑わすことに喜びを見出すのが哲学なのである。
と、結論を書くのは”哲学”ではないのであって、うむ、ややこしい。

用語や論理的な整合性でもって世の中の出来事を”正確”に記載してくれているだろうジャーナリズムの報道は、非常に解かり辛く、それゆえ却ってこの報道を見聞きする人々には”不正確”に情報が取り込まれていく事が多い。
この場合、”正確”ゆえに”不正確”を導く例である。

それに対し、一部”正確”性を欠くのだが、”正確”に情報が伝達される方が芳しいとみなすことができる場合が多々あるのではないか。
例えば、”東電”を”とある電力会社”と表示して報道し、要するにその事業会社の経営陣の責任問題を伏せても、実は所轄(監督)官庁が監督責任を果たしていない問題に触れるのである。

所轄官庁は業務停止などの制裁権限を振りかざし、鬼ノ首でもとったかのように振舞っているが、良く考えれば、お前らの監督責任問題に触れていないではないかと言うことが本質問題ナノデアル。

2002/09/03

文責:い90

No.794

もう少し検討してから書きたかったのだけれども、あまりにも頭に着ちゃったので見切り発車である。
東電・日ハムである。

担当省庁・検察に気を使っているだけで、どうやら不正という悪しき企みそのものに対する罪悪感が感じられない。
子供のように無邪気な感想を言えば、悪い(わり〜)事した故に責任とる役員諸氏が退職金を貰うのは変ではないか。
不支給にする理由が社内規定に存在しないが故に、支給するという見解がノサバルノデアロウが、所謂責任をとっての辞任の場合には支給しないという規定を今からでも遅くないから制定したら良いのである。

ついでに言えば、刑事罰を受けた訳でもないからということで、やがて叙勲もするであろう。
世間の知らざるところで、相応の境遇で迎えられる一種天下りの役職にも納まることになるであろう。
これをオカシイと言わずしてナンとやらである。

ま、世の中が狂っているからなのである。
かかる種類の役員責任を厳罰に処す決まりを作れば、今後同様の”犯罪”は無くなるだろう。

実は、東電の場合には”民間”とは言えないのであり、日ハムのような”オーナー”型”民間”企業とは別に論じなければならないのである。
しかし、いずれにしろ人間の尊厳の問題なのである。
兎に角、せめて新たなる経営者たちに対して辞任した人々が発言力を行使しない程度の良識を持っていてくれることを祈るしかない。
(平たく言えば、新たなる経営者たちよ旧の経営者たちを刑事告発せよとの意味である。形式的には株主訴訟の方が優れているのだが、この制度は字義どおりに機能していないから難しいだろう)

日ハムの製品は買わなければ良いのであるが、東電の製品を買わないで済ますことが出来ない現実はモドカシイ。

2002/09/02

文責:い80

No.793

天の川。
この命名はどこの何方がなさったのかは存じ上げないが、率直であり素敵なのである。
ミルキーウェイなんて媚びた名前を有り難がっている国民でないところが良い。

日常生活で”銀河系”という使用方法ではなく、単に”銀河”と発せられることは極めて少ないであろう。
”銀河系”という使用も可也稀であろうとの指摘は、私の近辺では否定できる。
私は”銀河系”という言葉が好きで良く使うからである。

しかし、天の川は天の川なのであって、天の川を指差して”銀河”とは絶対に言わない。
天の川を指差してなどと書くと、またまた稀な現象を書き込んでしまったかのような印象を持たれた方々がいらっしゃろう。
我が家の空では、最近天の川が日常的に確認できるのである。

これだけ毎日暑い日が続いていて、更にそよ風程度の風しかなくて涼が得られないで苦しい、星のシーイングが非常に悪い季節なのに、この頃は空が綺麗なのである。
このまま行ってくれれば、冬が楽しみだ。

さて、何故空が綺麗なのかなのである。
その理由を私は知っている。
結果としては書かないのであるが、次の2文をご賞味されたし。
”書けないから書かないのである。”
”書かないのではなく書けないのである。”

不景気というのも良いモノで、不景気払いと称する残暑の暑気払いは続くのである。