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2002年07月分(07/01〜07/31)

2002/07/31

文責:い70

No.782

7月が終わろうとしている。
梅雨が明けてから、ことにここ連日の酷暑の中にいると、去年の7月の暑さの更に上を行っていると感じる。
多分月間の平均気温ではそんなことは無いのであろうが、ま、去年との比較をしてみても涼しくなる訳ではないからどちらでも良い。

毎日暑い暑いと書いているのは、生命の危険を感じているからである。
冗談ではなく、また、エアコンを点ければ解決する問題ではないのである。
エアコンでコントロールされた環境に無い場所で自分の仕事をしなければならない人々は多いのである。

例えば、建設業に従事する人々の一部。
設計室でプランを練る職業(これもまた建設業に従事している別の一部の人々だ)の人にとって、夏と冬とにおける建築材料の特性は考慮に入れても、従事する職人たちの労働条件に思いを回らしてはいないのである。

私の今使用しているマシン君も、この暑さでウンウン唸りを上げている(表現ではこうなるのだが、実際はウンともスンとも言わなくなる現象である)。
マシンにとって劣悪な環境は、当然働く場所を同じくしている私にとっても劣悪な環境なのである。

エアコンが故障しているのである。
息苦しい程である。
そんな訳で、ドッカのお客さんちで遊んでこようと思う。

2002/07/30

文責:い70

No.781

頭の働きがスグレナイノデアル。
身体の動きも頗る悪い。

一日の体重の変化が3kgくらいあって、つまり、汗を流しては水を補給する(水が一番なのだが、色の着いた発泡性のモノだったり、透明なのに飲むと楽しくなってしまうモノだったりするのである)度合いが激しい。
汗に含まれる成分で水分補給では補いきれない成分があるのであろう。

夏ばてと言ってしまえば一言で済むのだろうけれども、さりとて現状が変化する訳でもないのでくだくだと書いているのである。
書いていればそのうち閃くことでもあろうとの観測から出発してしまっている。
嗚呼、なんともはや。

で、こんな時には気楽な本を読んではならないのである。
シュンペーターを引っ張り出してきた。
残念ながら原書でという訳にもいかず、何故か経済学の世界では著名な学者の訳書である。
これがへたくそな翻訳なのである。
文学的表現とは無縁の専門用語の羅列に近い書物なのに、何故ここまで酷いのだろうかと考えてしまう。

高校の教科書に載っているような外国の文献(もちろん小説を含む)を、有難がって訳も解からず読み耽った夏休みがはるか昔に有ったものだ。
その訳の解からぬ原因の中で最大のものは翻訳者の愚かさであったのではないか。

少年少女向けの世界文学全集などは、まず全く理解できない日本語が並んでいたのである。
そんな中にあって、白水社から出版されていた山内さんの”チポー家の人々”は秀逸であった。

語学の学習を断念した私には痛恨極まりなき思いがあるから、世の子供たちには格調高き各国語を学ぶことを望む。
我が家の娘達はどうやら私の歴史の繰り返しの様相である。無念。

2002/07/29

文責:い90

No.780

コンビニで買い物をする。
袋に商品を入れてくれる。
その袋を車の中に放置して半月くらい経過する。
車内のゴミを集めてその袋に入れて始末しようとして少し乱暴に扱うと、ボロボロとこなごなになってしまった。

環境に対する配慮が世の中のキーワードとなっているらしい。
らしいというのは、胡散臭いというニュアンスを付け加えたくて書いたのであって、推測ではない。

一般にいうプラスチックを、光であれ土壌中の菌類・小虫であれ、あたかも落ち葉がそうなるように、とにかく分解して土に還してしまうという考えがある。
目に見えるゴミとして、何時までも分解されずに空き地などに放置される目障りさから開放されようとの配慮に過ぎない。
自然に戻したと称するのである。
これがマヤカシであることは誰でも解かるだろう。

”自然環境”を如何に定義するかは難問である。
人間がどんなに手を加えても、たかが地球上の一生物種の歯ぎしり程度のもの、さらには、地球上の生物の営みは全て”自然”そのものなのであるとの理解だって可能である。

動物(もちろん人間を含む)にとって有害な成分が放置されると、直接摂取とか食物連鎖によって、やがて人間そのものに好ましくない状況が発生する。
この一点を拠り所にして自然環境を守ろうとしている人もいる。

炭酸ガス濃度の上昇は、人間の生活にとっては好ましくないらしいのであるが、ある種の生物にとっては誠に好都合なのかもしれない。
”地球に優しく”などというフレーズに、人間のエゴを感じるのである。

”人間が滅びるのが、最も地球に優しい出来事である”なんてのは悲しい。
だが、人間が何か”地球に優しいこと”を為さなければと一生懸命考えている心優しき人々の意識の中に、何もしないのが一番なのではないかという考えもちょっとだけ置いて欲しい気がするのである。

2002/07/25

文責:い 80点

No.779

議員が公費で行政視察に出かけることは、多分必要なことなのだろう。
(自費ならよいということでもないのであるが)必要な行政視察なのかどうかが問題ナノデアル。

さて、任期4年の議員があと2ヶ月を残す在任時に、視察をするという行為は一見正当なようでいて不当なのではないかと考えている。
(今日の文章を書く直接のきっかけは、次回選挙に出馬しないと表明した議員が、任期1カ月を切った時点で行政視察に行ったという記事を読んでなのである)
次期選挙に立候補して落選してもらっても同様なのだ。
我々の民主主義が選挙制度を根底に据えているのである限り、公正な選挙では落選という結果を見越さないわけにはいかない。

決して理論的ではないのだが、例えば、通常の議会が視察後選挙までに開かれないのが明らかな時期には、公費行政視察の実行は法令等で規制すべきではないかと考える。

ところが、選挙後(それはまだ選挙前の議員の任期中である)落選・引退議員の行政視察が慣例化しているらしいのである。
先の案をそのまま採用するかどうかは別として、この慣例はオカシイトオモイマセンカ。

2002/07/24

文責:い 70点

No.778

夏といえば昼寝である。
何でこんなにも気持ちが良いのであろうかとの疑問を感じるほどに気持ちが良い。
できれば、昼飯に少しばかりの酒(この加減が難しいのだが、まあ泥酔しない程度なのである)を摂取すると誠に具合が良い。

間違い無く夜より気温は高いと思うのだが、夜に感じる暑くて寝られないということが無い。
とまあ呑気なことを書いているが、実際家の中を夏休みモードに入っている子供がうろうろしていたり、(これは夏に限らないが)爺さん婆さんがごろごろしているのであるから、私も夏休み恒例の”スラムダンク”を午前中に見、昼を食い終われば昼寝をセズニハイラレナイノデアル。

畳も良いのだが、板の間の風の吹きぬける位置に陣取るのも捨てがたい。
そんな生活はたまの休みにするからこそなのだという指摘を受けそうである。
しかし、そんなことは無いのである。
毎日でも身体は受け付けるのだ。

昼寝ができるという余裕?は、朝の早起きに繋がっている。
昼寝をするには、日中でもエアコンをつける必要は無いし、朝の心地よき時間帯に仕事をこなせば良いのであるから省エネなる流行言葉にも合致していよう。

さあこの夏はミンナで昼寝をしようよ。
そして、早起きして読書をしよう。
読後感想文コンクールでもやるか。

2002/07/23

文責:い 80点

No.777

無理をしてはいけないのである。
無理というのは”理”が無いことなのであって、”義”とか”忠”とかの範疇ではないのである。
しばしば”大儀”などと称して、華々しく”無理”を承知で押し切って、相手の”有理”を踏み躙って然る後に政治的説得で偽りの”理”を拵えてしまう。

所謂社会保険の”被保険者報酬月額算定基礎届”を記入していて感じたのである。
来年2003年4月から、厚生年金については(健康保険についても法案審議中である)総報酬制と称して、毎月の給与にかかる保険料と同様に、賞与に関しても同率の保険料を徴収しようとするのである。
(今でも、賞与には特別保険料という制度はあるが、詳細は割愛)

この制度を説明する社会保険庁のパンフレットが笑えるのである。
”近年は賞与(ボーナス等)を支給する事業所が増え、賃金の一部として支払うことが一般的になりました。そこで、世の中の賃金形態の変化に合わせて...”

どうゆう時代感覚を持っているのだろうか。
むしろ、時代の流れとして近年は、賞与支給をしない(出来ないと言い換えても良い)給与体系を採用する企業が増えているのではないのだろうか。

まあ確かに社会保険庁の人間にしても、保険料算定の正当性など無いことを知っているだろうから、どうせならバカバカしい理由を記載しておくほうが良いくらいに考えているのだろう。

2002/07/22

文責:い 70点

No.776

こう暑いと冬の夜が恋しい。
夏より冬の方が好きという発言を常にしている私としては、決して日和見な言葉ではないのだけれども、そんなことを言っても虚しいだけなのであって、暑さ対策をしなければならないのである。

何、車のエアコンの調子が悪かったのである。
ガラスの曇り止めには充分な機能を発揮してくれていたのでまあ大丈夫だろうくらいの気でいたのである。
最初に気付いたのは、10日程前に非常に暑い日があって、ナンカ調子悪そうだとは思っていた。
しかし、炎天下に置いた車を、エンジンを掛けてすぐに乗り出し、10分程乗って目的地に着くという時であったので、こんなものだろうと高を括っていた。

とまあその後も色々あって、エアコンガスのチャージをすることに決めて、(当然ディーラーには行かない。極めて金銭的な事情である)イエローハットに行ったのである。
ところが、ここで悪魔のような声を聴くのである。
こんな古い車のエアコンガスは無いという。
フロンの問題である。

とはいえ、それじゃあエアコンそのものを取り替えてしまうと決断できるはずが無い。
次はオートウェーブ行きである。
あった。

ただし、こちらは徹底している。
エアコンガスはあります。
ガスチャージはします。
ですが、エアコンが効くようになるかは保証できませんし、ガスが抜けた理由も単に経年によるものかどうかを確認しませんから、たとえば明日になったら効かないという事態になっても責任は取りません。

多分4本くらい入っちゃうと思います。
4本入れると8,500円です。
宜しいですか。

漸くここに来て、私の判断を仰いできた。
2本入れてください。
この決断によって、快適なカーライフを送ることができるようになった次第である。

2002/07/19

文責:い 80点

No.775

子供たちは今日が終業式の日である。
全国高校野球選手権大会千葉大会が行なわれている最中なのだが、今日は大会の試合の無い日だそうだ。

何故今日試合をしないのか。
それぞれの高校で終業式があるからだという。
これもまた、解かったような気にさせてくれる話である。
しかし、”今日は夏休み初日だから”とか、”今日は全国一斉学力テストの日だから”とか、”今日はあの映画の封切り日だから”とか、”今日は大会会長の誕生日だから”とかの理由で、試合をしない日を設定するのと同じであろう。

高校生の都合というよりも、先生方の都合なのだと理解すれば、少しは納得が行くような気がしないでもない。
監督・部長を教員が務めているのだろう。
終業式に担任の先生が不在なのは宜しくないとの通達があったりして、高校野球連盟も不承不承にそうしているというのが実態なのではないかと推察する。

もちろん、最近の地方大会を見ていると、母校の応援に現役の生徒たちがスタンドに大勢詰め掛けているから、この日に試合が組まれた高校では、終業式そのものが生徒不在で成立しないのかもしれない。
もしこの理由なら、それはそれで良いではないかと思うのだが...

野球で思い出したのだが、野球用語は複雑である。
8回12―1で勝っているチームが代打を送ってきたとき、実況中継のアナウンサーは喋った。
”ピンチヒッター〇×君”
9回12―1で負けているチームが投手を交替した。
”押さえの投手として×〇君をマウンドに送ります”

ついでに疑問を一つ二つ。
主審から新しいボールを受け取る投手が帽子を取って挨拶らしき素振りをする意図は何か。
バッターボックスでのヘルメット着用を義務付けているのに、塁上のランナーには着用義務が何故無いのか。(これは少々説明を要する。バッターは、常に向かってくるボールを見ているのである。それに対して、ランナーは、自分とボールとが接触するであろう瞬間は通常ボールに意識を払わない。付け加えれば、ボール以外の例えば守備選選手のスパイクの襲撃にも備えなければならないのに、ナノデアル)

2002/07/17

文責:い 80点

No.774

帯に短し、襷に長し。
何となく解かってしまえる気にさせる表現なのである。

短いというのは困ったもので、自分が思いっきり痩せる運動をしてウエストを絞り込むことで解決できる程度の短さの度合いで無い限り、その布キレは決して帯としては使えないであろう。

しかし、長い分にはどうって事は無いのである。
ぶらぶらとさせたままで襷として機能させてしまっても良いし、何、邪魔なら必要無い部分は切って捨ててしまえば良い。
帯に短し、襷にはなる。これで決まりだ。

これで決まりなんだけれども、この格言(?)が長い間生き続けているのは何故かということは、検証しなければならないのである。

短帯長襷などという4文字熟語で流通していないところを見ると、語呂が良くないのだろう。
”帯に短し、襷に長し”は、読み7文字の連続で、”し”音での止め二連は中々納まりが良い。
この言葉自体は中途半端さを表現しているのに、語句の納まりが良いというのはオシャレである。

更に言えば、この言葉自体、使う人の感覚では、中途半端さを否定していないのではないか。
好ましき中途半端さを表現する日本語が、他に見つからないのではないだろうか。
長々と喋らず、一言で結論を下す。
聴いた方が様々な受け取り方をすることを許している。解釈の余地がある。

まだまだ生き残りそうな気がする。

2002/07/16

文責:い 90点

No.773

6号が行ってしまってから一週間もたたない本日、7号さんの登場となり、未だ台風のメカニズムを誰にもにレクチャーしてもらっていないのである。

今回は相当の準備をした。
どうもこんなことを書くたびに、お前は台風を楽しんでいるのではないかとの邪推を招きかねないのである。
確かに、南からの風に対してこの植木は大丈夫だろうかとか、西からの風ではどうか、はたまた東からは...などと、イメージトレーニングをしながら添え木を設えていく作業を嫌ってはいない。

更に、思いがけない(単に風の強弱ではない)巻き込まれ方をして、作物の枝が一部やられてしまったりすると、この植物にたいして可哀想であったとの感慨よりも、何故だとの方向に思いが行く。
未熟であったとの結論に至っても、ある種マゾヒズムに陥ったりもする。
そして、ここが賢くないところなのであるが、次回のために学習をしないのである。

同じ失敗を犯しても、うむ左様であった、程度で済ましてしまうのである。
経験は進歩を生まないのである。
偶然だけが結果のたまたまの成功を導いているのであって、その又次には成功するか失敗するかの確率が変動しないのだ。

自分の子供を育てるのに、次は上手く育てようなどとの思いを抱いても、そんなには経験できないのであるから、私のやり方(やり方の方向性は何も無いのである)で止むを得ない。
しかし、学校教育の現場は経験の蓄積があってしかるべきである。
教育制度の改革(内容の変更くらいの意味であろう)という規模に於いて壮大な実験を、単に実験の積み重ねだけで終わらせてしまうのは納得がいかないのである。

被験者こそイイ面の皮である。
ゆとりなんぞ要らない。
増して、教育の現場にいる人々のための”ゆとり”なんぞ、言葉が道を断つ。

2002/07/12

文責:い 80点

No.772

う〜ん、困った。
鉄人28号(そうです、昨日6号の話をしたから、連想で28号を思い浮かべていたら28号を書かなくてはと考えたのである)は、いよいよになったら、29号とか30号とかまだまだ連載を続ける手法は幾らでもあるのである。

ところが”マジンガーZ”では終わってしまうはずなのである。
いきなり”Z”を付けてしまう思いっきりの良さが功を奏してか、当たりを取ったのである。

そもそも、小学生の頃に、同世代を席巻するテレビアニメ等(ウルトラマン・仮面ライダーシリーズはアニメで無く成功した例である)が存在しない世代は気の毒である。
ガッチャマンとかタイムボカンとかのシリーズ、バビル2世は少し弱いのではないかと思う。

ちと意味が違うが、テレビのチャンネル権を完全に子供が握っていない世代も駄目。
親が子供にその権利を与えていてはダメナノデアル。
確かに子供は自分の見たい番組を観ることはできるのだが、親の監督の下で見ているのは為にならない。

当然の如く、子供が自分の見たいものを見ることが出来る環境に無くてはならない。
子供の見そうな番組を親も見ていて、やれ暴力的表現が多いだの性的表現がどうのという批判が新聞紙面を賑やかにしているような時代は、子供が馬鹿である。
基本的に子供は、自分の親に可愛がられたい生き物なのであって、なんでも親の意向を反映してしまうような立場に立ってしまうのである。

子供自身に色々感じさせるべきなのである。
私なんぞ鉄人28号ならグリコ、鉄腕アトムなら明治とはっきりと提供会社を覚えさせられているのだが(素晴らしい広告効果)、玩具屋が就いている番組は如何にせん漠然といやらしさを感じていた(当時、プラモデルや超合金少し前の金属完成モデルを買うことは買ったのだが、長い目で見るとある種負の広告効果。今でも玩具屋には不信感があるのである)。
だから何、は無いのだけれど...

2002/07/11

文責:い 80点

No.771

6号の追っかけをやっていたら、一晩がワケナク過ぎた。
もう6号さんとはお会いできないだろうけれども悲しくは無い。
8号さんも興味深いのである。
そして、恐らく20号さんくらいまで楽しめる年のような気がする。

小心者ゆえ、天変地異にはカラッキシ弱いのである。
で、積極的に楽しんでしまえということで、追っかけをやってみたのである。
こんなことが書けるのも、6号さんが(当地域にとって)前評判倒れであり、私と私に近しい方々とに直接の被害が無かったからなのであって、今回被災した方々にははしゃぎ過ぎの詫びが必要。

日にちが改まって01時頃、”0:30頃、千葉県富津市付近に上陸”との報。
富津市付近というのは、富津市ではないがその近辺という意味なのではないか。
富津市らまし、とか、富津市辺りとかいう表現は、似ているが否なるものなのであって、多分こちらが情報の発信者が想起した事実の表現として近いと思う。

実際、中心(目という部分)が海から最初に陸に上がった地点を以って上陸地と称するのであろうが、何処がその”目”なのかを点として特定するのは難しいのだろう。
とまれ、我家の敷地を無断で通り過ぎて行ったらしい。
で、”目”の周りの暴風域という部分が然る後に登場するものと思うのは自然である。

ところが、中々暴風さんが登場しないのである。
館山や銚子の港のライブ映像を盛んに放送してくれているのである。
ソウソウタル威力を見せ付けてくれていた。
しかし、待つこと暫しなのだが、上陸し通り過ぎていく経路上の我家には如何せん何等暴威を振るわない。
こうなると朝まで見届けるしかない。

という訳で朝まで待ったのである。
マブシイ光を放つ太陽さんは現れた。
きっと今日はジリジリとした暑さで私を虐めるのだろうという予感はしたのである。
けれども6号さんの暴風域は何処へ行ってしまったのか出現しない。

台風のメカニズムを、誰かにレクチャーしてもらわなければ、この不思議な現象を理解できない。
斯くも不条理な台風。
畏るべし。
次もまたなどと楽観してはならないのである。

2002/07/10

文責:い 50点

No.770

こんな私なのに、今日に限って仕事で忙しい日なのである。
台風の接近で、朝から家の周りの片付けに追われた。

もう出発せねばならぬ。

参った参った。

2002/07/09

文責:い 80点

No.769

町交通安全対策協議会会長も務めている高千穂町の稲葉町長(74)が飲食店で飲酒した後、バイクにまたがり帰宅していたとの報道。
町長によると、エンジンが掛からず、2・5キロほど離れた自宅まで下り坂をバイクにまたがって帰った。
この一件は、酒気帯び運転などには当たらないとのこと。

何故かは知らない。
飲酒が量的に不足していたのか、エンジンを掛けなかったからなのか。
はたまた、現行犯で検問を受けていないからなのか。

どうも私のコモンセンスとは異なるものをお持ちのようである。
”私のコモンセンス”も可也イイカゲンなモノではあることは承知しているが、個人的な”常識”という概念がこの世に存在する時代なのである。
特に政治の世界では、一旦事を発生させてその事を正当化していく力を政治力という名の能力として高く評価されるらしいのである。

ノート型のパソコンは、携帯性こそがその存在理由と考えていた。
しかし、今やこの”常識”も違うらしい。
お役所に行って眺めてみると良い。
狭いオフィスの狭い机には、ノート型のパソコンが乗っている。
それも所謂オーバースペックなマシンであり、ネットワークで繋がっている。

暫く拝見してみたが、黒白の画面で充分なのである。
同時稼動率は10%程度であろう。
ノート型のパソコンを省スペースのマシンと考えるからこんな無駄が出るのである。

議員・職員用の専用駐車場スペースも無駄なもの(これの欠点は莫大な経費がかかっているのに、予算書に経費項目が特掲されないために把握できない点である)だけれども、いざという時の避難スペースの平時利用とでも考えて納得することにしよう。

2002/07/05

文責:い 70点

No.768

方言の話しついでに、翻訳のことなど。

フライトアテンダントの話を聞いた。
ある国のお客が首からワールドカップ関係者に配られる正式ID(身分証明書)を下げていた。
つまり、協会関係者とか、記者とかに対して、一般の人が立ち入ることが出来ない場所に出入することを許可証明する身分証明書を、何のつもりか知らないが、既に機内で首からかけていた。

彼のIDには、様々な国の言語で彼の職業が記載されていた。
英語での記載は、”PUBLISHER”。
日本語で書かれていた部分での記載は、”出版物”だったそうだ。
そう、彼は”本”だったのである。人格なんぞ無いのである。
まあそれは別として、プレスとは異なる出版業者であったらしいのである。

このIDは、FIFAから正式に配られたもので、相応の権限が行使できるものであったとのこと。
それこそ件の”身分証明書”も広義の”出版物”であろうから、ましてモノがモノだけに充分な校正のために数多くの人間の眼を通っていると考えるのである。

私は言語に全く自信が無い(勿論日本語を含んでいる)。
よって、同時通訳さんの言葉を有難く拝聴するのであるが、多分この程度(”PUBLISHER”=”出版物”)の通訳は茶飯事であろうと察するのである。

トルシエが興奮して喋っていたフランス語の響きは好きだったのだが、隣にいたあの専属通訳の兄ちゃんの日本語は可也怪しかった。
(通訳してもらっている間の、きょとんとした坊やのようなトルシエは、本当にいい奴だった)
前監督時代の岡ちゃん(のプレス記事に書かれた監督としてのコメント)と解説者の岡ちゃん(の喋り)とが同一人物のモノとは思えないくらい、日本語から日本語への通訳?ですらおいおい感じることではある。

やはり、人間を知るには直接あって話をするか、明らかに本人の書いた文章を読むしかないのであろう。
ついでに言えば、異言語を使う人々と本当に仲間になろうとしたら、相手の言葉の学習は不可欠だろう。
残念ながら私は無理だから、若い人たちにもっと学習せよと発破を掛けるしかないのである。

私ときたら、アラビア文字が右から左に書かれていることすら、ついこの間まで知らなかったのである。
嗚呼、情けない。

2002/07/04

文責:い 60点

No.767

方言と訛りとの関係。

私は、随分と方言(放言ではない。勿論この意味でも該当するのではある)を発するが所謂訛りは無い、つもりでいる
訛りは、発音の違いであると理解している。

アクセントの違いも含むとのことであるが、普通には母音の発音が一般的な5母音から逸脱している(ネガティブな要素は無い。寧ろ豊かな言語を使っていることに対して羨ましいの気持ちすらある)と、これも又勝手にそう理解している。

初めて外国語に接した時に、どうしても出せない音があることに気付いた。
増して、仮名(この単語を知っていても、”真名”を知らない人が多いのに驚く。母屋を取られたような感じである)で表記しようなどということしか記憶に残す術を知らない年代であったから、ネイティブな発音とは程遠かった。
今でも同じである。胸を張って、”えへん”なのである。

物真似(音声の)上手は自分の発した音を、あたかもレコーダーで再生したときのように、他人が聞くのと同じ音で聞くことができるという。
私なんぞは、知識としてレコーダーで再生した自分の声色を知っているが、その声色は普段喋りながら聞こえているモノとは全く別物である。

大勢の集まり何ぞで、一席ぶつ時に困るのである。
マイク越しに話した声がスピーカーから出てくるのと、自分自身で普通に聞こえてくる声とが、シンクロナイズして聞こえるのは些か気味が悪い。
もうこうなったら、片方をネグレクトするしかいられない。

私の喋っていることなど、聴いている人がネグレクトするのは片方だけではないのであろうが...

2002/07/03

文責:い 70点

No.766

笹沢佐保が座頭市を書いたとき、私(たち)が思い描く勝新太郎という役者のイメージは無かったと考える。

ところが、座頭市を座頭市タラシメタのは勝新太郎であって、されど勝新太郎デハナイ。
石森章太郎の作品は除外しておいたほうが宜しい。
このイメージのバトンタッチこそが、動物の変化史を進化と呼ぶに相応しい出来事なのである。

今日は生物学者として(いつから私は生物学者になったのだろう)の私ではなく、人類学者(これもまた良く解からない)としての私の話なのである。
ジェーンさんを久しぶりにTVで拝見したのである。
うら若き娘の彼女はチンパンジーの道具使いを世に知らしめた。
蟻塚に棒を差し込んで蟻を釣るのである。
私個人的には、この行為を”釣る”と表現することをちょっと興醒めな表現だと思っていることは一応書いておくが別に置いておくことにするが、この時の彼女の若さは絶対条件であった。

そして、今回哲学者(これは多分マチガッテハイナイ)としての彼女は、初老を少し超えた年齢を顔と振る舞いとに漂わせたことが、これまた絶対条件であった。
動物(通常は人間を含まない)観察という、現在では成り立たない観察博物学が(多分学問であるかどうかはどちらでも良かったのであろうが)出発点の彼女が、人類(恐らく彼女にとってこそむしろ人類なのであって、本来は動植物アマネクを指し示すべきであろう)の進まなくてはの道を悟り出したかのようであった。

若き訪問者の集団との付き合いは、多分最初は邪魔に感じたと思うのだが、今や彼女の使命はかかる若き人々に対する啓示のごとき振る舞いに注がれている様子である。
世に偉い人はいるものである。

疲れる文章であった。

2002/07/02

文責:い 80点

No.765

(昨日からつづいています)
選挙理論(そんなものもあるだろう)的にはオカシクったって構いはしない。
例えば、当選者定数が5だとしよう。
立候補者数6。
投票者(有権者ではない。投票した人)数が7万。
この時”投票しない”という票1万(70000/(6+1))につき1つ当選者定数を減らすというのはどうか。

20001票あったら、実際の当選者は3人までとするのである。
そして、次の選挙時までは欠員扱いをしない。

こうなると、”投票所に行って白票を投じよう”をスローガンとする市民組織は活発な選挙戦を繰り広げることであろう。
投票率は可也の線まで行き、選挙管理委員会は大喜びをする。
間接民主主義の一方策であると考える。

心配なのは、当選者定数が1の首長選挙である。
何度も何度も選挙を繰り返しても、当選者が出現しない。
そこでルールを設ける。
当選できなかった立候補者は、再選挙に立候補してはならない。
電子投票システムは、折角だから何度も何度も利用しようではないか。一旦装置を取得しさえすれば、現行の投票システムに比して選挙費用も安くできそうだし。

書き忘れたが、前提となる肝腎なルールが存在しなければならない。
無投票当選は無しとする。
当選者定数を下回る(同一の場合を含む)立候補者数しかなくとも、選挙を実施しなくてはならないのである。

ドンナモンデショウカ。

2002/07/01

文責:い 80点

No.764

先月23日に行なわれた新見市長選は、現職市長が共産党推薦の新人候補相手に圧勝した。
そんなことはどちらでも良いのであるが、実は、現職候補に対立する候補者がいたということが話を面白くしたようなしないようなナノデアル。

全国初の電子投票なのであった。
投票率は86.82%(前回無投票、前々回92.06%)。
前回無投票という事実もあって、一時、無競争の観測が流れた。
この時点で市長は、”妻を立候補させてでも選挙をする”と言っていたそうだ。

要するに、名誉ある(?)国内初の試みを無投票選挙にしてしまっては勿体無いといったところであろう。
マスコミの取材者、あるいは、他の行政機関の選挙関係者が大挙して訪れることが明らかだから、最高の舞台が用意されると踏んだのであろう(実際には、そう目論んだ本人が落選してしまったら、もっと話題性に溢れ、マスコミの諸君はより喜んだであろうと考えると、今回の結果は残念)。

とまれ、些細なトラブルはあったようだが、電子投票は無事終了し、開票作業のほうも、当日投票分は、30分足らずで終わった

実際の投票前、4月に同市の公民館などで模擬投票が行なわれている。
この模擬投票に参加し、実際にパネルタッチ式の機械を使って投票した人が書いた文書を読んだのであるが、本当に銀行のATMより簡単だったそうだ。
しかも、模擬投票では(実際の投票ではどうだったか知らない)候補者名一覧のページの隅には”投票しない”という選択肢まで用意されていたという。

ここが引っ掛かるのである。
候補者名一覧にある人に投票したくない気持ちを表現させるという努力の跡は認める。
しかし、”投票しない”というのはあくまでも候補者名一覧にある人に投票しないということであって、選挙そのものを棄権したくは無いのである。
だから、”投票しない”という票の扱いに関心がある。
(つづきます)