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2002年06月分(06/01〜06/30)

2002/06/28

文責:い 80点

No.763

嬉しいことに、私の周りには優れた人々が大勢いるらしい。
”らしい”とは失礼な話であるが、実際お会いしたことが無いし、その優れさ度合いが評価できるほどにその分野について私が詳しくないからである。

たとえば、”ひまわり”。
ひまわりさん自体は人間ではないことを知識として持たされている。
この器具(本当の目的は知らない)は、私が見たいときに地球がいから見た画像を、ほとんどリアルタイムで見せてくれる。

この器具の管理は、確か私の税金で雇っている人々達にお任せしているのである。
この人々、なかなか優秀である(ハズダ)。

要するに私は”ひまわり”の画像を見たいときに見ることができるのであるが、何故見ることが可能なのかを知らない。
ましてや”ひまわり”は勝手に働いてくれているのではない。
直接お願いはしなかったのだけれども、私からも依頼されたことになっている優秀な人々が管理しているのである。

で、先に”私の税金で雇っている”と書いたが、私はこの人々を雇うに充分といえるだけの税金は支払っていないと自負(この単語については、良い子はこういう使いかたをしてはいけません)している。
胸を張って、声を大にして断定できる。
全くもって申し訳無い限りである。

ところがである。
もしかして私のために忠実に働いてはいないのではないか。
たまたま私を満足させる(ま、画像を利用できるという訳である)仕事は片手間にやってはいる。
アクセスした時の画像は、時には、3年位前の同じような時期のそれを充当していたりして。
私はダマサレテイルノカモシレナイ。
こうなると話が違ってくる。

私の支払った税金が、きちんと使われているのかどうかをチェックしなければならないのである。
誰がチェックするのだろう。
いや、チェックする機関が存在することは知っている。
その機関の存在にも私の税金が使われている。
きちんとチェックしているかどうかは解からない。

チェックする機関が必要なのではなく、きちんとチェックする機関が必要なのであるから、話はややこしい。
尻切れでスンマセン。終わりです。

2002/06/27

文責:い 90点

No.762

梅雨。
梅の実が熟してつぶれる季節。
潰れる(つぶれる)の意味である、潰ゆ(ついゆ、つゆ)が語源との説。

こんな季節のワールドカップとはどんなものであったか。
そう、既に自分の中では終わっているのである。
覚醒した意識でジャパンの面々が戦った日を振り返ると気恥ずかしい。

韓国の異様な盛り上がりを、早くに負けたお蔭で少し冷静に眺められたので気付くのである。
流石に、金銭・物質的な負担を求められて強要されてはいないのだが、熱に浮かされた集団は自分達の習慣を捨て去ったかのようであり、これが”戦時”なのかと思ったのである。

今回は本土決戦なのであるが、銃後の人々にとっては危害を受ける心配は無いのである。
(フーリガンなる言葉には、些かビビっていた節はあるが、ナンカ拍子抜けである。私は、暴動を期待していたわけではない、念のため)

自国が他の国に勝つというのは、何がそうさせるのか私には解からないが、熱狂させるらしい。
実際の戦争時の国民(前線に出ていない人々に限定しよう)が、大本営発表の偽情報で浮かれたのは、かくあったのか。

”日本戦(巨人戦というのと同じ用法。本当は相手を特定して”巨人阪神戦”のように使用しないと訳が解からない気がする。嘗てエンタツアチャコの漫才ネタでは”早慶戦って奴ァ、早慶と何処のチームが戦うんだ”なんてやっていた。多分、大阪での会話で、今日から巨人戦だと喋るのは正しいだろう。しかし、今日野球見に行くんだと喋るジャイアンツファンが、もちろん巨人戦だよと言ってはいけないのである)”の日に仕事の約束をしようとすると、今日の午後からは駄目だよと当然のように断られる。
(私も断った。数少ない仕事の芽を、かくして摘んでしまったのである、嗚呼)

一年前の”コイズミジュンイチロウ”騒ぎとか、今回の”ナベカマ”じゃなかった、”ベックハム”でもない、そう”ベッカム”騒ぎにしても、皆さん肌に妙な感覚が纏わり付かないだろうか。
こういう国民性(人間性なのかもしれない)は、ナンカ危ない気がするのである。

2002/06/26

文責:い 90点

No.761

高齢者健康保険医療費の財政負担の財源問題はある。
ただし、これは現在の極めて市人口に占める高齢者の割合が高いという状況の中での話である。
簡単に言えば、勤労所得を基礎とした納税額に比して厚生サービス費用負担額が、若い人口の割合が多い地域に比べて大きく圧し掛かるのであろう。

しかし、これは担税力を充分に持つ年寄りがいなかったからの話である。
老後はのんびりと過ごすことを漠然と考え、猛烈に働いてきた人々はいるらしい。
だが、労働の喜びを生涯持つ事こそが生きがいであると認識する人もいる。
一旦リタイアした人の終の棲家として、この市に住んでもらうのであるが、労働による所得を充分に得てもらい、市民税だって充分に納税してもらおうではないか。

リタイアなんかしていなくても良いのである。
例えば、 人気作家とか所謂芸能人に住んでもらうのである。
もちろん大企業の役員さん(ただし、オーナー役員。雇われ役員は寧ろ遠慮願う)でも良い。
住所地なんてそんなものである。
この県の知事さんなんぞ、生活の本拠地は東京都である。
実際そこから通っているらしいし。

極端な話、老人でなくても良い。
工場誘致等のように妙にお金をかけて来てもらうのではないのである。
その人々にしてみれば、例えば今住んでいる都会で、自分の払っている納税額に比べて満足な住民サービスを享受していないと認識している人々に、住所地(つまり納税地である)を提供するのである。
リッチマン達には、都会を別荘にしてもらうのである。

そのためには、都市(まあ東京をイメージ)との交通網は重要である。
また、高度な通信回線の確保も然り。
そして何より”食”に関しての施設の確保である。

逆に言えば、他の地域に勝らねばならないインフラの整備や文化(特に食である)施設の整備が下劣であるが故に現在の状況になったのであろうが..

市役所の本庁舎がぽつねんと野原にソビエテイル状況が新築後何年も続いている。
これで都市計画税の徴収をしようというのだから困ったものである。

2002/06/25

文責:い 90点

No.760

私の住む市の人口増大化策として、幾つかのアイデアがある。
その内の一つを幾人かに話したら、面白いと思ってくれた様子なので書いてみる。

当市は、極めて市人口に占める高齢者の割合が高い。
それをマイナスの要素が多いこととして論じることが多い。
概ね財政問題なのであって、例えば、健康保険問題である。

しかし、市人口に占める高齢者の割合が高いということが、本当にネガティブなことなのであろうか。

確かに、私の町内(私なんぞは部落と称しているが、部落にはどうも別の意味が付き纏っていて、行政用語としては使いたがらないらしい)では五十数個の件数を持つのに小学生は10人しかいない。
6歳未満の未就学児に至ってはほんの数人である。
多分数年後には、小学生の数は2〜3人になろう。

ところが、65歳を超える老人は80人程度を数える。
60歳超で数えるならば、100人を超え、ツマルトコロ一家に2人以上が平均である。

何となく将来を憂える気になってしまう。
この感じは大切なのであるが、さて、具体的に何が困るのかというと”???”なのである。

で、私の提案はこうなのである。
高齢者に日本一優しい市として、一旦リタイアした人の終の棲家として、どんどん市(富津市である)に住んでもらうというのはどうか。
この”高齢者に日本一優しい市”のうちの”優しい”をどう捉えるかなのである。

2002/06/24

文責:い 80点

No.759

様々な事柄が様々な事柄にリンクしている。
我々はそのことに気が付かないふりをして生活せざるを得ないのであるが、一旦何方かが指摘してくれると、あたかもそれが唯一の連携と思いがちになる。
そして、その他の連携をまたまた気が付かないふりをして生活せざるを得ない

たまたま(大した意味は無いのだが、”またまた”という句を先に使ったので、ここに書いておきたかったのである)今年は梅雨の雨量は有るとの発表。
しかし、やや水不足気味だそうだ。

私は、夏場の水不足が無いようになることを考慮して、ま、梅雨の鬱陶しさは我慢してやることにするという意識で梅雨というシーズンを凌いでいたのである。
従って、鬱陶しい梅雨はそこそこ充分に機能している(降雨量はあるのであるから)というのに、夏場の水不足を憂えるような状況にあると聞かされると腹が立つのである。

何故なのだ!
4・5月が例年より暖かかった影響で、雪解けが早く、夏場に雪解け水による貯水の利用が期待できないのだそうである。

こう聞かされると納得してしまうのではないのだろうか。
しかし、今日まで夏場の水の確保に関して、水担当の官庁等から雪解け水のことなど聞かされたことは無いのである。
こういう事態になってから、重要な因子として”雪解け水”を示してきたところを見ると、その他にも隠し因子が存在するに違いない。

普通言い訳って奴は、その場になって初めて考える。
私はそうしてきた。
言い訳の発表が早すぎるのである。
組織全体の総意とするまでの期間が、この組織としては異例に短い。

ということは、あらかじめ多くの言い訳を用意しておくのだろうが、来年4・5月が例年より寒く、梅雨の雨量は有るという状況のときに、どんな隠し因子を公表してくるつもりなのだろうか。
逃げ口上のための因子を確保してあるハズナノデアル。

知的好奇心以外のナニモノデモナイ(悪意は無い)ですから、全部発表してくれませんかね。

2002/06/14

文責:い 80点

No.758

本会議などに出席した市議に名古屋市が日額1万5千円を一律支給している費用弁償を「不正な支出」とし、名古屋市民オンブズマンが計4566万円の賠償や返還を求めていた監査請求で、市監査委員会は「法に基づく支出で、不正とはいえない」として請求を退けた。

要約すれば、”法に基づく行為は不正ではない”。
興味深い論理である。
多分正しいのであろう。

身体が濡れてしまった猫を乾かしてあげようと思って、電子レンジを操作した婆さんが何処かの国に居たが、そして、取説に”猫を電子レンジに入れて作動スイッチを入れてはいけない”とは書かれていなかったからメーカーに責任があるとかで多額の損害賠償をせしめた事件があった。
ま、有名な話なので何方もが知っていよう。
愚かさの極みである。

流石に現在でも電子レンジの取扱説明書には、”猫を電子レンジに入れて作動スイッチを入れてはいけない”とは書かれてはいない様子だが、それに近い記載はある。
所謂PL法によって、ビックリマーク(!)付きの”こんなことはしないで下さい”という記載がびっしりなのである。
しかし、誰がそんなものを真面目に読むか!なのである。

真面目に読んではいけないのだ。
”法に基づく行為は不正ではない”たる論理は、真面目に喋ってはいけないのである。
市の監査委員会は、こう書いた後に、その”法”に対して何らかの批判をする義務があろうと考える。

公の組織人には真面目にやってもらおうではないか。

2002/06/13

文責:い 80点

No.757

極めて日本語的で、かつ、本来的な”サービス”について。

要するに、”ボランティア”と同じなのである。
”ボランティア”に”無償の”という概念を持ち込んでしまった日本語的用法は、もしかすると間違っていないのかもしれない気になってきたのである。

商業的な意味でのサービスを、日本人は受け慣れていない。
日常的に、形無きモノに対して無神経である。

すし詰めになった状態(欧米では、これをイワシのように瓶詰めにされてと表現するらしい)で、そう例えば満員電車で、他人に気を使ってはいるのだけれども、自分の肘がある人の膵臓を圧迫して機能障害にさせてしまうおそれを意識はしていないのである。

満員電車に乗らなければ良いのである。
時間をずらして乗車するという意味ではない。
満員電車という状況を作っている鉄道会社に対して、満足なサービスを受けていないと抗議して、運賃不払い運動をしなくてはならないのである。

定期乗車券で乗車させてもらっている人々は、満員電車状態も受け入れる条件で割引運賃を支払っているのであろうが、たまたま一般乗車券で乗り合わせる私は被害者である。
怒らなくてはならないのである。

ただし、お金を払う払わないに関わらず、サービスを受けたときには何らかの行動を示さねばならない。
食堂に入って、水を持って来てくれたギャルソンに対しては、”こんにちは、お世話になります”と言うべきだし、”お飲物は何になさいますか?”と訪ねられたら、”ボルドーの安い奴”なんて単刀直入な単語言葉だけで済まさずに、”ボルドーの安い奴を下さい”と言いながらウインクの一つもくれてやるのである。

混み合って忙しそうな状態の時に、”時間が無いので急いで下さい”と伝えても駄目である(時間が無いなら立ち食い蕎麦でも食っとけ、なのである)。少しして更に”まだかいな”なんてイラつき気味に喋ったら最悪である。
あんな奴には寧ろ少し遅らせてやれ位の感情をもたれ、そのとおり実行されるのが落ちである。

どうしたら良いのか。
”私のところは忙しくなくなってからで構わないよ。大変だね”
とか言ってみるのである(本心からそう言えたらベスト)。

あるフライトアテンダントは言ってました。
(そんな風に言われたら)満席でどんなに忙しくても”すぐ持ってっちゃう!!”という気持ちになり、(ここが重要なのであるが)忘れたり絶対しない。

これを、言語を使用しながらも、言語外のコミュニケーションというのである。
今時の若い人々も、コミュニケーションが嫌いなのでは無い。
嫌いな人々とのコミュニケーションが嫌いなのである。

2002/06/12

文責:い 60点

No.756

商品を”財”と”サービス”とに分類するのが、現在の経済学の手法であるのだけれども、この二つの要素は可分的なものではないことは明瞭である。
なんて書くと仰々しいのだが、実際少なくとも純粋な”財”の購入は無いであろう。

ただし、商店が、財の価格を”勉強してくれる”こと(おまけを付けてくれることを含めて)がサービスであるという認識は、別の範疇であることを付け加えておく。
日本語の”サービス”に付き纏う意味がどうもオカシイのである。

ソッカ−選手は、純な意味での”サービス”業務を職業にしている人々であろう。
決して青少年に夢を売っているわけではなくて、働くことそれ自体が商品なのであるから、その商品の販売方法としてチケットを売りさばいてもらわなくてはならないのであって、販売方法に関してクレームを付ける権利を持っている。
権利というと何かプラスの事柄に感じてしまうが、上手くチケットを売ってもらわないと、後々自分の報酬に影響してくるからクレームを付けることも仕事の一つといえるかもしれない。

念のためであるが、”チケット”を購入するという行為は”財”の購入ではない(一部マニアは、実際に観戦に行かないでその券を手元に置いておくこと自体に興味があるかもしれない。この場合にはその”チケット”は”財”である)。

で、今日の文章も何が言いたいかを書かないと読み取ってもらえない雰囲気なので結論。
商品を”財”と”サービス”とに分類するのはオカシイのではないか。
価格が設定されて取引されるモノを商品と名付ければ良いのであり、そういったモノには”財”と”サービス”という要素が含まれている。

結論と内容とがマタシテモ一致していない本日でありました。

2002/06/07

文責:い 80点

No.755

私は動物が嫌いである。
進んで排除しようとは思わない。
ツマルトコロ生き物は恐いのである。
(だから逆に非生物的な世に言うオカルトものは恐くないのである)

勿論、この生き物には人間も含まれている。
我家の”うーちゃん”だけは、何故か知らねど別である。
(何度も書くけれども、我家の”うーちゃん”は兎であるが、牛顔故に”うー”ちゃんなのである)

そんな私なのではあるが、昨日、可愛いと感じることのできる子犬に出会ったのである。
爬虫類の嫌い度は別格として、犬は嫌い度が非常に高い生き物なのである。
それなのに、出会ってしまったのである。

これから再度会いに行くのである。
確認に行くのである。
昨日は少々酔っている状態で会っていたからである。
ただし、良く考えるまでも無く、私の日常は酔っていない時間よりも酔っている時間のほうが長いのであるから、むしろ昨日会っている状態の方が自然の状態なのかもしれない。

だから、今日の再会で、仮に、少しくらい恐いという印象を持っても気にしなくて良いのかもしれない。
まあ、ドチラノ状態(酔っていても、酔っていなくても)でも、この子犬に好感を持つ事ができるに越したことは無いのである。

因みに、この子犬には名前はまだ無い。
新しい”坊ちゃん”のはじまりになると楽しいのだが...

2002/06/06

文責:い 70点

No.754

さて、どうしよう。
日本銀行の所謂経済の専門家というものが、本来の意味での専門家でないことは、何となく(この感覚が大事なのである)一般の国民に解かってしまっている。
経済の舵取りに失敗したのではなく、経済の舵取りをしていないからである。

私は、余計な仕事をするよりも仕事をしないことのほうが迷惑を掛けないことが多いことを知っている。
ただし、仕事をしなくてはならない人が仕事をしていないときには、その人はその職を辞めるべきであると思っている。

官庁の抱える諮問委員会を構成する委員に、”学識経験者”なる不可思議な委員資格を被せて人選している場合が多い。
千葉県が統括するある委員会の会合が東京都内で行なわれた。
これ(場所の選定)について異議を唱える人は、構成委員からも事務局からも全く出なかったという。

実名を記すことに何等抵抗がないので、気持ち良く書かせてもらう。
嘗て国の税制に関する諮問委員会に加藤寛がいた。
どうも訳の解からない事ばかり言っていた人物なのである。
政府の憶え宜しきを旨とする人物であるという認識から出発すると、全ての発言に納得がいくのである。
確固たる信念が無い。

ところが如何せん滅茶苦茶な男ということで国の組織から追放された。
(時を前後して、同じ慶應の竹中何某が大臣になったりして、ツマルトコロ”学識経験者”という括りはかかるような人物を吸い上げるのに便利な言葉であることを再認識したのであるが)

で、驚くべきことが発生するのである。
先に記載した、東京都内で行なわれた千葉県が統括するある委員会の筆頭に加藤寛の名前があったのである。
(千葉商科大学の学長という肩書)
堂本さんよ、この一点を指摘することで、あなたの”新鮮な感覚での千葉県の舵取り”に期待できないことを照明(証明)しちゃっているのでありますぜ。

改めて言うと、余計な仕事をするよりも仕事をしないことのほうが迷惑を掛けないことが多いのである。
つまり、妙な諮問機関は要らないのである。
ワザワザお金をかけて、やらなくて良いことをやる。
これを”愚の骨頂”と呼ぶ。

2002/06/05

文責:い 80点

No.753

昨日記載の日焼け三昧・お酒三昧の予感的中。

眠いのだが、身体が火照っていてぐっすりとは眠ることができない。
猛烈に頭を働かさなければならない案件を抱えているのに、全然ダメナノデアル。

世に”宿酔”というこの現象は、これまでの経験からすると何をやっても効果は無い。
それでいて、後数時間を経過して夕刻時になれば、全く嘘のように晴れ渡り、興味は今日の肴は何にしようかとなる。

こんなことを繰り返しているのであるから、進歩していないのである。
これは私に限ったことでは無かろうから、我々人類は全く以って進歩していないのであろう。
”一緒にはしないでくれ”との言葉を思い浮かべた方々も、大勢居らっしゃるであろうが、多分、酒以外のことで思い当たる節はあるだろう。

進歩なんてものは突然変異みたいなものであり、望ましい方向に発展していくことは稀なのである。
方向性無く変化が訪れ、たまたま上手くいっちゃったりするものである。
雑誌”ニュートン”今月号を眺めてみたが(本屋で立ち読みである。二時間ぐらい読み耽った。然る故にメモを取るのは憚られたので詳細を記すには自信が無い)、単一人類起源説は興味深かった。
それと、我々を含む霊長類が体内でビタミンを生成する遺伝子を欠落してしまったという記載に驚いた。

日本人は、欧米人が持つ酒分解酵素2種類の内の一つを持っていないとの知識を、私は何処かで仕入れていたが、この事実を以って日本人は酒の分解能力が落ちるという結論を導く学者が多いのに辟易している。
2より1の方が劣るという大雑把な経験則で物事を類推しているのであろう。
種類で2とか1とかよりも、利用される量とか性能とかの方がより重要であろうことに気付かないとはお粗末である。

我々は馬鹿じゃないのか?
ツカイフルサレテハイルガ、この警句は中々に味がある。

2002/06/04

文責:い 90点

No.752

本日ベルギー戦。

日中は、娘の走り幅跳びの記録会があるので忙しい。
合間を縫ってお客さんの改修工事(工期一日)もある。

どうやら日焼け三昧・お酒三昧の予感。
夕立だけは勘弁して欲しい。

2002/06/03

文責:い 70点

No.751

本日朝一番”将棋世界”が配達された。
で、今まで(昼飯を取りながらも)読み耽った。
将棋の手順などは端折っての、飛ばし読みなのであるが、今月は中々良い。

”天野宗歩”。ま、割と有名人である。
が、これを何と読ませるかについて、私も(真部一男もそう読んでいたという)”あまのそうふ”であった。
これをあの真部が”あまのそうほ”と読もうというのであるから、そうすることにしよう。

などと雑誌”将棋世界”では呑気な話が盛り沢山なのであるが(なに、私はこれがあるが故に購読しているのである)、実は、プロ将棋の世界のお金の配分についてという深刻な問題について、近頃知人と話し合うことがあったのである。

他人様の懐の様子について傍から口を出すことほど、(悪趣味であるが)オモシロイコトは無い。
要するに、勝負師の世界では、勝者総取りであることが大事で、集団の構成員をおしなべて安定した生活を維持するに足る生活保障をするような金銭配分システムでは堕落してしまう、とまあ、そんな結論になった。

一種の博打打の世界の話で”堕落してしまう”も何も有ったものではないとも言えるのであるが、しかし、この世界を今後も存続させることを良しとする我ら二人の議論者にしてみれば、まともな結論であろうと思っている。

だからナンナノダ、という議論が続いた気がするのであるが、いかにせん酒を煽りながらの議論であるから上手く思い出せないのである。
あの時と同じくらい酔えば思い出すやも知れぬ。
というところでもう16時である。
もう酒の時間としても良かろう。
今日は一日中何をしていたのかを全て書いてしまった。

”堕落してしまう”のは、もしかして...