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2002年04月分(04/01〜04/30)

2002/04/30

文責:い 90点

No.734

役所における人件費という名のコストの問題を書くと、どうも反論が多い。
ただし、その場合の反論に用いる例は、家庭レベルでの”人件費”によるものが多い。
仕事として行動する人間とそれ以外の場合で行動する人間とを同じ土俵にあげて考えてはならない。

役所というのを企業と言い換えても話の筋は変わらないのである。
企業は常に存続できるかどうかという状況に晒されている。
この一点の認識が役所には無いのである。
だから、オカシイと私の目に映る事柄があるというだけのことである。

災害などの非常時に、家族の事を顧みずに職をまっとうする気概があり、実際そう行動する。
公務員の第一条件である。
単純な就職先ではないのだ。
憲法にある”一部の奉仕者ではなく、全体の奉仕者である”とは、そういう意味なのである。

一年を通してみれば、通常勤務時間内に充分にこなせる量の仕事を、事務が集中する幾月かがあって、この間残業し、他の月には欠伸をこらえて通常勤務時間を過ごす。
敢えて言えば、年収を嵩上げしているのである。
役所のシステムがそうなっているというのは言訳である。

確かに、今のシステムでは、他の部署の人間が自分の部署の管轄外の仕事に手を出すのはご法度である。やってはいけない。
しかし、システムを変更する提案をしなくてはならない。

人事異動は一年の内に何度行なっても良いはずである。
4・5月に大変忙しい部署には3月末の人事異動で、例えば100人を配属する。
5月末の人事異動でその部署の規模を10人体制にしたって良いではないか。

そうすれば、4・5月はどうということはなく6月に大変忙しい部署は、3月末の人事異動で10人体制にしておいて、5月末の人事異動でその部署の規模を100人体制にする事ができる訳である。

これには大変興味がある。
近いうちに市役所で部署別の配置員数と月別残業時間数とを尋ねて見る事にする。
多分、今提示した単純な人事異動システムの変更で可也の成果が期待できよう。

例えば、市民課の窓口など極少数を別シフトにして窓口対応しているようである。
が、そんな言い訳程度の体制ではなく、昼休みを半分ずつ時間をずらすという銀行の窓口対応システムを参考にする程度でも、可也住民サービスは向上しよう。

長くなると焦点がボケる。
頭もボケる。
今はGWなのであった。

2002/04/26

文責:い 80点

No.733

毎年、宝くじで一億円が当たる幸運な人がいる。
中で、なぜか、当選金引き換え有効期限が切れ、その一億円が受け取れなくなる不幸な人も何人かいる。

すんなりと納得できるだろうか。
実は、この記述はオカシイのである。
当選した人が不幸な訳が無い。
当選した番号が記載された宝くじを見せびらかした(これが第一段階で、幸福感を持ったのであろう。そして、この状況がその人の平常となったのである)後で、うっかり燃やしてしまったりして引き換えができなくなったとしたら、本人は確かに不幸という境遇に落とされたと考えるかもしれない。

もう一つ。
当選金引き換え有効期限が切れ、その一億円が受け取れなくなる人を辞退者と称すらしい。
辞退というのは、本人の意思が決定的に関与するものである。
私ごとき人間にとって、かかる状況において(当選したと認識した場合である)辞退するなどという事態は想定できない。

ま、ここまではドウデモヨイ。

外務省の役人の一部の人が、更迭された。
更迭とは単純な人事異動なのであって、給与の剥奪ではない。
責任を取ったと言えない。
代議士の一部の人が辞任した。
これは生活の糧を失ったと言える。

議院議長の辞任は、はっきり言って議員辞職と同じ意味は無い。
名誉を云々するならば、同時に議員辞職すべきであると思うのだが、そういう事態にならない。
この人は、形式上議院議長になるときに党籍を離れている。
ま、何処ぞやの党籍を離れただけで事態収拾したつもりになった人と変わりは無い。

で、問題にしたかったのは、生体肝移植を行なった親子のことである。
二人とも国会議員なのである。
何となく(穿ちすぎだとしたら、私の不徳である)報道の扱いが美談なのである。
そんな馬鹿な。
二人とも国会議員を辞職してから、手術をすべきだと思うのである。

少なくとも職を放棄しているとみなすことができると思うが、そういう問題ではなくて、襟をタダスの問題なのだ。
なんかオカシイのである。

2002/04/25

文責:い 70点

No.732

季節の動きが著しく平常でない最近の天候からして、そろそろ梅雨の心配をしなくてはと思っている。

集中豪雨時に、テレビで見られる各地の雨量(ビジュアル的に可也強烈に訴える画像である)を示す画面の基礎データを取得するアメダス(AMeDAS)のシステムは貴重である。

A utomated −Me teorological−D ata−A cquisition−S ystem
(自動化した、気象上の、データ、取得、システム)

”雨”に関するデータを扱うので”AMe...”と付けたのであろうが、こんな”e”にとても魅力を感じるのである。
全くの頭文字でないところが良い。

聴くところによれば、アメダスは、全国約1300箇所にある雨量の無人自動観測点からなり、そのうち、約800カ所の観測点では、雨量のほか、気温、風向、風速、日照時間なども観測できるという。

1300箇所というのは半端な数ではないハズナノデアルが、その内の1箇所すら存在を知らないのは、何でも探偵団の私(何時からそうなったのかは知らない)としては忸怩たる思いがする。
もっとも、アメダスを衛星を利用したシステムだと思っていたくらいで、どうやって雨量を計測するのだろうとしか考えたことが無かったのであるから、ハナカラ愚か者であったのではある。

ここで”情報公開を!”などと声高に叫んだりすると磨きのかかった愚か者の烙印を押されるので、地道に調べたのである。
当然丸秘項目ではない。
多分衆人を唸らせるに充分な理由が存在するのであろうが、今のところ私には納得できる観測点配置ではない。

電話回線を通じてデータ送受信をするという約束事があるらしいし、当然土地所有者との交渉もあるだろう。
また、ある種バイアスのかかった利用目的が存在するとも考えられるから、この観測点配置決定の基準の本当のところは解からないのであろう。
ま、いいか。

2002/04/24

文責:い 80点

No.731

もちろん酒を飲みながらなのであるが、エンドウを食べていて偶数奇数の問題に頭が働いたのである。
メンデルを意識したのは間違い無い。

2つづつの偶数と奇数とがある。
この4つの組み合わせは6通りである。
(ちなみに、遺伝法則を支配していると言われるのは、因子を2つづつ親に持たせるので、子の段階では組み合わせは4通りである)
組み合わせた2つの数字をお互いに足し算と掛け算とをした結果を調べてみる。

足し算。偶数となるのが2例、奇数となるのが4例。
偶数@と偶数Aとの結果。偶数。
偶数@と奇数@との結果。奇数。
偶数@と奇数Aとの結果。奇数。
偶数Aと奇数@との結果。奇数。
偶数Aと奇数Aとの結果。奇数。
奇数@と奇数Aとの結果。偶数。

掛け算。偶数となるのが5例、奇数となるのが1例。
偶数@と偶数Aとの結果。偶数。
偶数@と奇数@との結果。偶数。
偶数@と奇数Aとの結果。偶数。
偶数Aと奇数@との結果。偶数。
偶数Aと奇数Aとの結果。偶数。
奇数@と奇数Aとの結果。奇数。

3つづつの偶数と奇数とがある。
この6つの組み合わせは15通りである。

足し算。偶数となるのが6例、奇数となるのが9例。
偶数@と偶数Aとの結果。偶数。
偶数@と偶数Bとの結果。偶数。
偶数@と奇数@との結果。奇数。
偶数@と奇数Aとの結果。奇数。
偶数@と奇数Bとの結果。奇数。
偶数Aと偶数Bとの結果。偶数。
偶数Aと奇数@との結果。奇数。
偶数Aと奇数Aとの結果。奇数。
偶数Aと奇数Bとの結果。奇数。
偶数Bと奇数@との結果。奇数。
偶数Bと奇数Aとの結果。奇数。
偶数Bと奇数Bとの結果。奇数。
奇数@と奇数Aとの結果。偶数。
奇数@と奇数Bとの結果。偶数。
奇数Aと奇数Bとの結果。偶数。

掛け算。偶数となるのが12例、奇数となるのが3例。
偶数@と偶数Aとの結果。偶数。
偶数@と偶数Bとの結果。偶数。
偶数@と奇数@との結果。偶数。
偶数@と奇数Aとの結果。偶数。
偶数@と奇数Bとの結果。偶数。
偶数Aと偶数Bとの結果。偶数。
偶数Aと奇数@との結果。偶数。
偶数Aと奇数Aとの結果。偶数。
偶数Aと奇数Bとの結果。偶数。
偶数Bと奇数@との結果。偶数。
偶数Bと奇数Aとの結果。偶数。
偶数Bと奇数Bとの結果。偶数。
奇数@と奇数Aとの結果。奇数。
奇数@と奇数Bとの結果。奇数。
奇数Aと奇数Bとの結果。奇数。

4つづつの偶数と奇数とがある。
この8つの組み合わせは28通りである....

まこのあたりで止めておく(笑ってくれると有難い)。
どうということも無いのが酒の上の話である。

実際の私の酒の時間内では、”8つづつの偶数と奇数と”までやって、更に、じゃんけんで、アイコになる確率って問題にも頭が働いて、幸いにしてその入り口で杯を置いたのである。
今日は頭が痛いのである。

2002/04/23

文責:い 70点

No.730

昨日の午後空き時間ができたので...
”何言ってんだ。お前は何時も暇だろう”との指摘が飛んできそうなので、書き換えておくことにする。

昨日の午後も特別何もすることが無かったので、房州縦断ドライブと洒落込んだ。
4月もやっと後半に入ったところなのに、最早既に新芽の景色ではない。
秋の紅葉より、新芽の拭いた(そう、山全体を新芽で屋根のように葺いた)景観がより好ましいと常々頭では考えているのである。
とは言うものの、今山並みのそこかしこにある藤の花が綺麗である。

この季節(時期的には矢張り早い。花の咲いている季節の意)でなければ、藤の存在は知られないだろう。
だから、毎年同じ場所に陣取っているのだろうけれども、この季節でなければ思い出してもらえない。

さりとて、この花は、わざわざ観に行こうとは思わない。
藤棚の見事な、所謂名所はあるにはある。
斯く斯くお創り申したという主張が、鼻について嫌いなのである。

”やはり山に置け藤の花”なのである。
暇だと短い。

2002/04/22

文責:い 80点

No.729

白河の清きに魚も住みかねて
    元の濁りの田沼恋しき

節操の無い思考で申し訳が立たないが、昨今の政治家を見ていて、衆人の思いはこんなところではないか。

田沼意次と松平定信との比較はオモシロイのである。
田沼政治の評価はもっと高くても良いような気がする。
重農重商主義は言わずもがな、外国文明の取り入れ、身分に関わらない(もちろん比較の問題であって、限られた範囲からであるが)人材登用など、世の中は生き生きしていた。

子供である若年寄意知が旗本佐野何某に斬殺されたことで、お役御免になったというのを、実は知らなかった。
本人が切られたと認識していた。
思えば、歴史教科書には田沼の後に松平定信が突然登場していただけだった気がする。
人の生き死になど、他人にとっていい加減なものである。

とにかく刃傷事件後には、米の価額が下がり出し、世の中の人々は喜んだ。
で、松平がナニをやったかというと、政治倫理の確立なのである。
更に、商工業をある種否定し、全ての階層に倹約を要求した。
そして、増税までやったのである。

政治倫理を確立した点は確か。
経済を豊かにするという発想は無い。
幕藩体制という行政国家の仕組みを維持するという意味では、田沼の後に松平というのは必然であったかもしれない。

しかし、森・小泉、じゃなくて松平ばっかりだとツマラナイ。

2002/04/19

文責:い 90点

No.728

久しぶりに新聞記事から。

千葉日報県南版に載った天津小湊町でのこと。
給与明細書の袋を再利用するのだそうである。
職員は給与明細書を抜き取ったら袋を所属長を通じて総務課に返却するという。
袋には受領印を押す年間分の紙が張られている。

もう少し記事の内容を続ける。
これまでの袋は、封を切ったら捨てられていたという。
だから、”ゴミが減る”。
町の幹部が言うには、”コスト削減の額は大したことは無いが、物を大切にする気持ちを植え付けるのが狙い”。更に、”今後は各種通知文を入れる袋にもこのアイデアを拡大し、云々”。

これを読んで私は、驚きで声も出なかったのである。
いっぱい言いたいことがある。
”物を大切にする気持ち”、響きの良い言葉である。
しかし、コスト削減を考えると、最大のコストは人件費である。
人件費を固定コストと認識していたら、コスト削減は達成できないだろう。

給与明細書を各職員に渡すシステムを練り直さなくてはならない。
各職員が給与明細書を受け取るのを権利とすれば、受領印を押す必要は全く無い。
袋の存在自体に必要性が無いのである。
返却に要する事務(人件費というコスト)も無くなる。
各職員給与の額(明細)は、公開されても一向に構わない文書である。こんなものは、剥き出しで一方通行で配っておけば良い。

行政をアシストする各種団体に参加して思うことは、参加者の労役を全くコスト意識無しに利用していることである。
例は悪いが、PTA総会を取り上げる。
Tは就業時間に参加しているのである。Pは全く反対給付無しの参加である。
これをT側は意識している気配が無い。

例えば、廃品回収による収益事業を試みている。
あれだけの人間を動員して、どれだけの収益を計上しているかを冷静に振り返れば、ただの馬鹿げた行為であることに気付かなければならないのである。
少なくとも、運動会のように楽しみを求めて参加しているのではないのである。

それでいて、コピー用紙一枚いくらの決算報告をしている。
モノ神話は捨て去らねばならないのである。

2002/04/18

文責:い 80点

No.727

内容には触れないけれどもちょっと気になったこと。
NHKの”その時歴史が動いた”なる番組での指摘。
”淀殿”ではなく”淀君”と称させたのは、江戸幕府の陰謀であり、彼女を貶めた蔑称であるという。

ふーんなのであるが、そんなもんかという気がしないのは、自分の勉強と感性との不足なのである。
こういう事が理解できないのは一番腹が立つ。

好き嫌いの問題、身体障害者の悩み、有事立法の必要性など、理屈だけで理解しようとすると頭が痛くなってしまうのであり、ツマルトコロ何等結論に辿り付かない。

国会議員(国会に限らないのだが)の足の引っ張り合いは、究極是々非々で法律に触れた者は全て辞職してしまうという事態が訪れても一向に構わないのである。
だけれども、輿論はボランティア活動を無償の行為と認識しているらしい現状は放置できない。

志願兵(volunteer)は、むしろ積極的に金銭を求める職業軍人なのであり、徴兵される者は嫌々仕事をするのに比して単に気持ちの上で勝っているに過ぎない。
それも本当のところは、志願兵にしたってどのくらいのものかは解からない。

NPOの活用という言葉が政治家(知事など行政の人間も含む)の口から出てくるとき、善からぬことを考えているのではないかとの邪推(自分で言っていれば世話は無いが)をするのは、経験的には当っていそうである。

ある特定の事象を念頭に今日の記述をしているのだが、それを明確にはしていない。
純粋に頭から読んでみると何を言っているのか解からないようだ。
こういうのを狂気の文章という。

イツモソウダヨ、との指摘があれば、返す言葉は無い。

2002/04/17

文責:い 90点

No.726

ありがたいことに、2週間ほど前から誠に沢山の筍を頂戴する。
どう考えても例年より半月も早くからの賞味である。
という訳で、筍とアサリとの炊き込み御飯が食べたくなったので、昨日潮干狩に出かけた(I had gone gathering shellfish at low tide.)。

平日であり、かつ、これでもかというくらいの強風であったので、客など誰もいまいというのが読みであった。
木更津海岸(ここの潮干借狩場は、健康保険協会が300円で配布したチケットを購入してあったのである)に向かうあの橋の上は凄まじかった。
身体を前傾させて、あたかもスキーのジャンプの飛行中のような姿勢がとれたのである。

干潮時刻を挟んだ潮干狩適合時間より可也早く着いたので(午後に仕事があったので、それまでに終了するという計画である)、いきなり潮に浸かっての採取作業に入った。
この強風では、東京湾内は潮の引きが悪いから、待っている場合ではないのである。

11時を過ぎた頃に、とりあえず規定量は採取済みではあった。
しかし、選別をしていない。
最低サイズの基準を最初は低く設定し、採取具合を読みながらその規準を変化させていく訳である。
ある程度の量目を確保したら、新たに最低サイズの基準を設定し直して取捨選択するのである。

と、少し足りない。
時間は無い。
ええい、と振り翳したマンガは砂に入り込み、掻き出された貝がある。
アサリではない。蛤だ。
抜いては刺しを繰り返すと、半径60cmほどのエリアに15個の蛤なのである。

当然のようにビニル袋をリュックから取り出した私は、15個の蛤を入れると、これまた当然のようにリュックに仕舞った。
少し足りないままにアサリを持って帰ることにした。

ちなみに、計量所で計ったら20%ばかり多かったようだ。
”こんな日だから、この位イイよね”と係のおじさんに言ってみたら、”まあ、いっぺよ”だったのである。
念のために申し添えるが、計量所において後ろに並んでいるお客さんが居たらこういう展開にはならない。

夕方、さやえんどうの初物を採取。
さっと茹でて、マヨネーズだったのである。
こんな生活も悪くは無い。

2002/04/16

文責:い 80点

No.725

公的資金の投入時に掲げられた大義名分には、”金融システムの混乱を防ぐ”とあったはずである。
みずほグループにおける今回の一連のトラブルは、金融システムの混乱以外の何ものでもない。

投入時には気が付かなかったけれども(つまり、どういうことが規定されていたのか憶えていない)、金融システムの混乱が生じた金融機関に対するペナルティは無かったのであろうか。

二重引き落としされた場合、その口座の所有者は、銀行に対して何か請求権は発生しないのであろうか。もちろん正規でない引き落としを埋め合わせること以外の話である。
少なくとも自動振替規約には、一枚の引き落とし依頼書で2回引き落として良いという記載は無い。

更に続ければ、二度にわたり出金側に記載された金額を入金側に戻し入れる行為自体を平気でやってしまう根拠も無いであろう。
余分に引き落とし、その補填として入金するという2回の約束外行為をしていることになる。

返しゃ良いというモノではないのである。
残念ながら(ちと誤解されそうである)かかる銀行には取引が無いので(もちろん株主でもない)、直接尋ねることはできないのである。
税金が投入されているということで、間接的に尋ねる権利を持っている訳なのであるが、代弁してくれる議員なる存在が愚か者ばかりと来ている。

株主訴訟に期待する。

2002/04/11

文責:い 90点

No.724

バニラを食した。
これがバニラであると意識して食ったのは初めてである。
可能性としては、何処かの結婚式か何かでバニラアイスクリームを口にしたことはあるかもしれない。
バニラエッセンス(バニリンという香り合成物)との香りの違いは解からなかった。

バニラアイスクリームを食べているというのは、香りで承知でき、小さい黒い粒々が、アイスクリームに混ざっていたのである。
不覚にも、この粒々がバニラであることを知らなかったので、傍にいた人に尋ねて了解した。
その了解後に口にした瞬間に、私は”これがバニラである”と意識して食った訳である。

ま、話はこれで終わりのようなものである。
しかし、毎日の食事では、蕎麦のような蕎麦で無いものを、マツタケのお吸い物のようでマツタケのお吸い物では無いものを、あたかもそれこそがホンモノであるかのように平気で口にしているのである。

野菜となると、話は複雑である。
確かにほうれん草なのだけれども、知識としてある鉄分豊富なほうれん草デハナイほうれん草は、むしろ当たり前のほうれん草になってしまった。
規定上問題は無い(というか、斯くあることが規定されている)下関のフグを有難がって頬張っている。
トマトにしても、香りなんぞ無いものだと思っているし、栽培自然薯などという自己矛盾型名称の作物もある。

私は、 とりあえず野菜は(多分)それぞれ本来の野菜を知っている。
少しばかりではあるが、歳を重ねているのである。
かに風蒲鉾は好物であるから、まがい物などというジャンルから隔離して独自の食材だとみなしているが、これも本当は問題なのではないかと考える。
ナニがモンダイなのかは、整理できてはいないのだけど...

2002/04/10

文責:い 70点

No.723

世の中満更捨てたもんじゃないものである。
ちょっといい事があったのである。

”ほのぼの”、”のほほん”、”ほんのり”(こう綴ってみると、”ほ”という音はイイ感じらしい。新しい発見である)、そんな形容をしたくなってしまう話である。

前を車が走っていた。
車種からすると、若くて、あんまり上品とは言えない輩の好みそうな車で、後ろから見て若いカップルなのであると想像して欲しい。
茶色い髪をした(この髪の色は嫌いではない。そのうち私の髪もそうする可能性がある)男の方が、腕(肘)をドアにかけて運転しているのである。
当に田舎者なのである。

煙草を挟んだ右手の指を、時折車窓から出して灰を叩き落としている。
イヤーな雰囲気の車なのである。
信号待ちしていると、やがて、右の手の指から、明らかにポイ捨てで、道路に煙草は落とされた。

信号が青に変わると、突然左折のウィンカーを出して曲がった。
私は、その後ろを同様に左折したのである。
交差点を抜けて10mも走った所で、再び左折のウィンカーを出して停まったのである。
車間距離無しでくっついて走っていたために(何せ、この間のろのろなのである)、ウンザリしながら停まってしまった。

すると突然、男がドアを開けて出てきたのである。
私は身構えた。
(喧嘩っ早いほうだと指摘する御仁は多いが)護衛術なんぞを知らない私は緊張した。

と、私の車の横をすり抜けて、交差点を右に折れて行ったのである。
そして、彼は捨てた吸殻を摘み上げたのである。
若いカップルの間で何が起こったのかは存じ上げないが、ま、とにかくそういう風にならざるを得ない会話があったのであろう。

男は煙草を手にして、再び私の車の横を通り自分の車に乗ることになるのであるが、通りすがりざまに”すいません”と一言あったのである。

多分、決して良い事をした訳ではない。
自分が吸殻を捨てたという行為が前提で、はじめて成立する話なのである。多分この行為は誉められないのである。
なのであるけれども、ちょっとイイ感じなのである。

2002/04/09

文責:い 90点

No.722

4月になったと思っていたら、もう9日。
昨日は、当に夏の趣のある一日だったし(夜が辛かった)、雲は入道雲だし、”どうなっちゃってるの”なのである。

で、何の脈略も無く”ハンター×ハンター”について。

集英社のジャンプ・コミックス版第4巻は、”矢張り”の第4巻なのである。
一般に週刊誌などの連載は、読みきりと異なりストーリーすら同時進行である。行き当たりばったりなのである。
単行本にすると4巻目あたりの所で、何か矛盾やら思い違いやらが発露する。
必ずしも作者の気合が抜けるという意味ではないのであるが、そんなものなのであって、至極人間的で、この現象は悪くないと思っている。

ちばてつやの”てっぺい”に至っては、主人公の顔が最初”明日のジョー”だったのに、”のたり松太郎”になってしまったりしたのである。

さて本題。
ゴンが384番に持って行かれたプレートは、44番と(本人の)405番であった筈である。
44番ヒソカが384番から取り戻してきてくれたのは良いが、44番のプレートだけをゴンに渡したように描かれている。

これでは3点にしかならず、不合格である。
もっとも、結果表示では本人プレートも所持していて6点での合格となっているから、そして、話の筋としてそうであろうとの判断はスムーズに納得できる展開なのであるから、見過ごしてしまっても良い。

ま、こんな疑問を持たせてくれるこの第4巻は、198番プレートを掴んだ時のハンゾーの描写をどう理解するかという落とし所もあって、好きなのである。

44番だ、384番だ、405番だと、訳の解からないことを書いているとお嘆きのあなた。
素直に読んでみなされ。
クラピカに惹かれたり、キルアに惚れてみたり、サトツさんの不思議な世界に触れることもできるのである。
特にサトツさんは、他に類を見ないキャラクターである。
必見。

2002/04/05

文責:い 80点

No.721

大嫌いな強風が続く。
滅入るのである。
しかし、社会人である私は今日は働かなくてはならない。
考え様によっては、好ましい条件かもしれない。
遊ぶ日には素晴らしい天気を恵まれ、働く日々には悪条件の天候に見舞われる。

こんな呑気なことを書いていてはいけないのであろうが、実は剣呑な話なのであるから、単純ではないのである。
仕事それ自体が楽しみなのであり、遊びと思われることが大変苦痛である場合だってあるのである(場合だってある、との表現はちと遠慮のし過ぎかもしれない)。

シカツメらしい顔をして遊び、ニタニタと仕事をする。
斯くありたいと思っているのである。
ゆとり教育に、危険な(芳しくないという意味である)落とし穴の存在を考えているのである。

子供たちに”せかせかさせない””詰め込まない”、言い換えれば型に嵌めない教育を目指すというのは間違っている。
教育そのものを否定しない限り、ゆとりとは何かを知らない教育者がゆとりを子供たちに詰め込んでいくのである。

がんがん型に嵌めて行って欲しいのである。
個性はその反発から自然に目覚めるのであり、その教育が厳しければ厳しいほど弾ける力が強くなるのである。

週5日制度が開始されるにあたり、教師の休日確保という側面がお印的にしか記述されていないが、これこそが週5日制度の本質であろうと推測する。
更に、教員の定足数確保も視野に入れて一連の教育システムの変更を観察してみると、子供に対する愛情が根本的に欠けている事に気付いてしまう。

何事にもお客様(学生はまさしくお客様である)に対する愛を第一に考えないと、その商売は破綻してしまうのである。
今回の改正に携わった教育者たちには再考の必要は無い。
もっともっとズルイコトを考え出しそうであるからである。

とにかく、システムの変更は止めて貰いたい。
学校での教育の欠点を教育の現場以外で補正しますから。
欠点を正しく認識する作業に時間を割いている時間は少ないのである。
変更すると、欠点を正しく認識する作業に可也の労力を注がねばならないのであるから。

2002/04/04

文責:い 70点

No.720

運動不足である。

小中学生の頃、ラジオ体操を馬鹿にしていた記憶がある。
第一第二をフルセットでやる夏休みの朝一番の行事なんぞ、全く持って愚かさの極みであるなどと整然と考えた訳ではないのだが、眠いとの感想と共に思い浮かべていた(筈である)。

ところが、最近ちと考えが変わっているのである。

ゴルフ・水泳・テニス・ラグビー・サッカー・釣・スキーを日頃の運動不足解消の手段として試みた時もあった。

全然違うのである。
これらの種目はすべて楽しみでやるものなのであって、これらを楽しむためには、日頃身体を鍛えておかなくてはならないのである。
(はっきり言って、気付いてはいた。だから、それぞれのシーズン入りの前に、2〜3週間ジョギングなどのトレーニングをした時期もあった)

運動系の人間である私としては、現実問題として、何か(軽い)運動をしないと、心身ともに駄目になりそうな予感がするのである。
そう、動物的な勘て奴だ。
で、ちょいとラジオ体操(っぽい)運動をしてみたのである。

これが中々宜しいのだ。
ジャンプ系の仕草は夜中にやると問題が多そうなので割愛して、無理の無い程度にリズムをとって身体を動かす。
特に深呼吸系の動きが宜しい。
激しい運動をすれば、自然と深呼吸をするのであろうが、さにあらずの立場では、無理矢理(まあ、意識的にという程度の意味)深呼吸をするのは日常生活では稀なのであって、中々快適である。

県民体操(なのはな体操って奴)は、身体に馴染んでいないのである。
解からないのだ。
ラジオ体操を否定して県民体操を創作した時の、予算化にあたっての企画書を見てみたいものである。
公開文書リストに入っているかしらん。

2002/04/01

文責:い 80点

No.719

最初は、”エイプリルフール”ネタで書こうとしたのである。
しかし、毎日が”エイプリルフール”ネタで書いているようなものであるから、今日くらいマトモにという意識がより強く働いたのである。

さて、マトモにというのが中々難しい。

3月後半の、所謂年度末の日々は忙(せわ)しなかった。
忙中閑ありとは良く言ったもので、具体的に仕事で忙しい時には、仕事外でも様々な行事をこなす。
多くの人との出会いがあった。
小人は閑居していてはいけないのであろう。

で、今日新しい年度を向かえて思うのである。
私たちは本当に年々豊かになっているのであろうか?
今更ながらの疑問なのである。
答えてしまうのは簡単である。
豊かになっていないのである。

ただ、この答えを正しいと言ってしまうのを憚っているのである。
もし、”私たちは豊かになっていない”と認定してしまったら、(豊かになるために活動していると思い込んで頑張っているのに)日々の活動は何なのだということになってしまう。

嗚呼。

ま、いつもならこれで終わりにするのだけれど、初年度第一声が”嗚呼”では、これから先が思いやられるので、終わる訳にはいかぬ。

年度末に多くの人と出会ったことで、ちょっと希望が持てたのである。
今まで権力(金銭を含む)を所持していたと考えられるグループが、力を落としてきている。
これは、新しい時代の芽生えかもしれない。

取って代わるのではなく、このグループを利用して前面に出てくる新たなグループを、一般市民がコントロールできるシステムを創造する手段が、既に私たちに有るからである。