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2002年03月分(03/01〜03/29)

2002/03/29

文責:い 80点

No.718

コレクターによる蒐集されたテレカは、使用されることは無いであろう。
まあ、この量は大したことは無かろうが、記念切手と同じく退蔵される金券の額は、発行元の利益である。
こんな馬鹿な話はない。

最近では送られてくる郵便物に貼付(念のためでありますが”ちょうふ”とお読み下さい)された切手を見ると、所謂記念切手が多い。
これが何を意味するのかは解からない。
ただ、記念切手は使い道があるのである。切手本来の使用方法を採用するだけの話であるから、どうということはないのであるが。

テレカはどうか。
かつては電話局窓口での電話料金支払い時に、金銭と同様に利用できたと記憶する。
現在は、この取り扱いは無いようだ。
とすれば、公衆電話で使用する以外に手持ちのテレカを利用する道は無い。
金券ショップで換金という手段もあるだろうが、目減りする。
第一、これもまた退蔵された量を即座には減らしてはいない。

ところが、公衆電話の数が極端に少なくなっているのである。
これは詐欺ではないのか。
我家には趣味により蒐集された分も含めて、額面で数万円分のテレカが存在することが解かったのである。
我家でこうなのであるから、一般的な家庭でも数万円分のテレカが転がったままで存在する可能性は高い。
一時は猫も杓子もテレカを記念品にしていたのである。

今、これに代わるのはコンビニなどのプリペイドカードである。
これは使い道に困らない。
単一の目的にしか使用できない金券と異なり、ガソリンを給油したりタバコを買ったりと、様々な利用法がある。

で、申し上げたいのは、テレカを使用料金支払いに充当させるようにして欲しいということなのである。
既に益金処理しているのであろうから、この制度を実施すると損益およびキャッシュフローにも影響が出よう。
しかし、それは身から出た錆なのであって、自業自得というモノであろう。

多分恐ろしいくらいに莫大な金額が退蔵されているのであり、もしかすると、NTTは企業存続を賭けた戦いになるかもしれない。
それほど無茶苦茶な不労所得(サービス提供が無かったのであるから)を貪っていたことになるのである。

例によって、二日間に渡って引っ張るほどの内容ではなかった。
情けない。
当社は、今月末日にて第3期の決算を迎える。
この内容もまた、情けない。

2002/03/28

文責:い 80点

No.717

自分の携帯電話に迷惑電話が多いので、登録してある方以外からのコールは出ない事にしている。
仕事に使っているので、本当はこんなことではいけないのだろうが、全く迷惑な話なのである。

お前の携帯電話は、俺のことを着信拒否しているのかとのお叱りをしばしば受ける(そういうケースも無くは無い...)。
我儘な性格なので、携帯電話というモノは、基本的にはこちらからかけるのに使用できれば充分だと考えているのである。

公衆電話は例外にしようと考える。
経験的に、公衆電話から携帯電話宛てに電話してくるのは、緊急時が多いのである。

ここまでは前振り。
公衆電話の数が極端に少なくなっている。
カンバシイコトデハナイのである。

出先から取引先などの会社宛てに電話を入れるとき、目的の人物に繋がるまで相当な時間がかかることが良くある。
貧乏性なので、取次して頂いている時間中イライラするのである。
えーい切っちまおうか、と思うことがしばしばある。
流石に実際に切りはしないが、十円玉の落ちる映像と音とが頭の中を駆け巡る。
こんなイメージを抱くのは、公衆電話で培われたものである。

テレカ以前の百円玉・十円玉公衆電話では、サモシイ話が沢山ある。
どうせ長いからと百円玉を入れて電話すると、間違い電話をかけてしまったりする。
お釣は出ないから、”見ず知らずのあなた様には申し訳ないのですが、100円分お話し続けませんか”と喋りたい誘惑に駆られる。
この事件以降、必ず10円玉を入れることになる。

ここからが本題である。
例によって、次回に続く。

2002/03/27

文責:い 80点

No.716

どうも春の嵐といった風情の荒れた天候が続く。
まだまだ寒さ対策を放り投げてはいけないと、経験的には知っているのだが、ここ数日の気温を目の当たりにすると、炬燵なんぞは取り払いたくなるし、外出にオーバーコートを持っていく気にはなれない。
実際には、夜は寒いんだけど...

今日は、雨がちであるし、風の吹いて来る方角が冬のそれであるから、少し肌寒い感じがしないでもない。
しかし、屋内では少し身体を動かすと汗が出る。

なに、強い風が嫌いなだけなのである。
真夏に、川の流れの傍らで、木陰に隠れてそよ風を肌に受ける。
こんな風なら大歓迎である。
だが、ここ数年来風が吹くといえば、矢鱈目鱈強風なのである。

風は、統計的な数値が(瞬間風速の記録はあるが)無いようなので、具体的に示すことが出来ないが、災害にならないまでも、生活に支障をきたす頻度は高いと思われる。

積極的に統計的な数値を求めている例外は、風力発電の風車設置場所の選定の場合である。
瞬間最大風速は、機械を故障させる可能性のほうが高いから、設置場所としてはあまり好まれない。

常に一定(方向・強さ)の風が吹いてくれるのが理想である。
発電効率を最大にする機械を設計するには、ある地点の風に関する情報は不可欠である。
この調査には時間と手間とが相当注ぎ込まれる。即ち、費用は膨大である。

風は貯蓄しておくことができない、と考えていたのだが、風力発電で作られた電気を電池に電気的に蓄えることで、擬似的に風を貯蓄すると表現するそうである。
もちろん、風車を利用して機械的に水をくみ上げておいて、その水を必要な時に放出するのであっても、擬似的に風を貯蓄すると表現できよう。

日本においては、風力発電以前の風力利用の歴史は浅い。
しかし、太陽光発電に比べてまっこと機械的な仕組みによる発電効率の追求というテーマは、人間的に思えて私は好きである。

これはある種おもちゃなのであるが、50万円程度の”ゼファー”のシステムは面白い。
看板としても使える。
何を言っているのかとの疑問もあろうが、何でも当社にご相談下さい。

今日は商売人の鬼ノ胃でした。

2002/03/26

文責:い 70点

No.715

目がシンドイ。
老眼とはどんな現象かというと、単純には画像入力システムの劣化である。

まず、集光機能が衰える。
眩しいくらいに明るい光量が無いと、画像として認識できないのである。
レンズのF値が大きくなってしまっている。
光の透過率が悪いのだ。

次いで、ピント合わせをするための機能が、バッテリー切れの電気仕掛けのようにとろくなっている。
様々な距離の対象物に、機敏にはオートフォーカスしないのである。

更に、フィルムにあたる結像する部分の感度が鈍く、若いうちのASAを800くらいとすれば、40歳を超えるとASA100にも満たないのではないか。

ツマルトコロ、眼鏡などの補助器具は大した役に立たないのである。
精々極端に遠い方とか近い方とかの像を捉えきれなくなった身体レンズの補正をこなす程度である。
そこにあって、乱視の補正は積極的な役割かもしれない。
ただし、乱視の補正は、直面した(平面を垂直に見る)静止像に関して有効なのであって、水平垂直の感覚は可也阻害される。

とりあえず、結像した情報を脳に伝達するシステムは、まだまだ大丈夫そうである。
メンタマをそっくり替えたいと思うのは、なにも花粉症で目がしょぼついてたまらない時だけではないのである。

何方か取り替えてくれませんか。

2002/03/25

文責:い 90点

No.714

3/22に辻本議員のことを書こうとした。
配信を躊躇しているうちに結局休刊にした。

その時には、何故かかる話題が急に噴出してきたのかを疑問に思い(疑問の余地など無いが)、彼女に好意的な書き方をしたのである。
しかし、真相が解明されつつある報道の通り、悪いものは悪いのであって、結論から言えば、議員辞職をすべしなのである。

彼女個人のこれから先の処遇がどうなるかに関わらず、ましてや国会議員の大半が辞職せざるを得なくなっても、そんなことは大した問題ではない。
ダメなものはダメ。
個人批判を徹底的に遣り合って、党を超えたもたれあいを解消してもらいたい。

鈴木問題が色褪せてしまっているのは困ったことであるが、(鈴木問題にしても)所詮彼の悪事を暴くことが目的なので無く、政党間での駆け引きの道具に過ぎないのであって、国民にしてみれば、良い面の皮である。

公私の区分が滅茶苦茶である点だけは指摘しておかねばならない。
彼女が言うには、”手続きは洩れがあった。この点は反省しなければならない。”
しかし、秘書全体の給与
に充当したのであり、私的には流用していないという論理は通用しない。

私設秘書の給与支払いは、形式的にも(第一秘書のように、形式的に公務員として手当てされていない)極めて個人的な支払いである。
職業として政治家を志願した以上、政治家の活動は公の存在ではありえない。
与えられた環境で、自分の活動をしなくてはならないのである。
”私的には流用していない”という発言は、国のために活動しているという自負の現れであろうが、歳費その他の決まった活動資金で活動できると考えたからこそ政治家を志願したはずなのである。

職業選択は自由であるが、選択した職業に不満を持つのであれば、辞めるしかないのである。
そんなに金がかかるなら辞めてしまって、その他の職業で頑張るべきなのである。

疑問。
所得税法違反は、世の中の扱いが厳しい。
すべてこのルートから犯罪を追いかけていったら良かろうと思うのであるが、国税局はなかなか動かない。
5万円10万円の話で何日も税務調査に煩わされる民間零細企業の現状を知る者としては、疑問を抱かざるをえない。

2002/03/20

文責:い 90点

No.713

ガチャピン、バルタン星人ときたからには、もう一つくらいこの路線で書きたいところなのだが、今日は別の話題なのである。

で、今日は”B22”。
千葉県の面積よりでかくて、愛媛県のそれより少し小さいのだそうである。

こう書かれると、何平方キロと記載されるよりも、解かったような感じになってしまう。
しかし、千葉県と愛媛県との面積比較など意識したことも無かったし、ましてや、秤の単位に県の大きさを使用したところで実感は湧かない。
同じことは、ビールの消費量を東京ドーム幾杯分と表現される時にも言える。

”B22”の正体を説明しないで、いきなりこんな記載をしてしまった。
つい最近、南極大陸から離れ、漂流を始めた氷山のことである。
地球温暖化にその原因を求めるのは、ちと短絡的過ぎると考えるが、とにかく可也不気味な自然現象が起こったのである。

85km×64kmの楕円形で、面積は5500平方キロ弱。
これが、千葉県と愛媛県との面積を持ち出す根拠であった。

北極と異なり、南極は大陸である。
海水位を超えた高さを持つ陸地が存在するのであって、この氷河が離れても南極大陸の面積は変化しない。
実際には、氷河の目方が陸地を沈めていた可能性はあるから、細かい話をすれば変化アリとも言えるかもしれないが...

で、ナニが書きたかったかと言えば、単位についてなのであった。
(実は、最初は、大陸漂流説についてとも考えたのである)
ミリバールがヘクトパスカルになったのは、そう旧い話ではない。
当初は発音しにくかったと記憶する。
しかし、今やミリバールを忘れてしまいそうである。

単位は法律で決める。
ユーロという金の単位を変えたことで様々な影響が出ている。
実態は変わっていないのに、単位を恣意的に変えることで実態の方が変わらざるをえない事態が発生している。
換算時に、数字を丸める場合、切り上げ切捨て問題は想像以上に重大な影響がある。

ヨーロッパの住人は、海外旅行客になったような気分であろう。
大雑把な金銭感覚。
ま、個人個人は、桁違いには勘違いはしやしまいが、総体では可也の影響がある。

単位を(名称だけでなく)変えることで、一度流れを断ち切って、気持ちを一新する。
これも悪くないかもしれない。

ただし、僕たちの経済活動なんてモノは、結構いい加減なもので、経済指標の好ましい推移が、本当の意味で好ましい生活水準の推移とパラレルであるかどうか疑問である。

2002/03/19

文責:い 70点

No.712

少し油断すると、悩みのネタが降って湧いてくる。

バルタン星は爆発してなくなったので、現在20億3千万のバルタン星人がミクロ化して宇宙船の中に眠っている。
ハズナノデアル。

ウルトラマンシリーズを振り返っていたら、アレッとなったのである。
バルタン星人の扱いは、いわゆる悪者侵略者(獣)から、決して悪者でない扱いまで数種類あるように記憶していたのである。

バルタン星人がウルトラマンシリーズの中で宇宙怪獣エレキングと共に人気がある(絵面的にウルトラマンを扱う時にセットで取り上げられる事が多い)のは何故か。

エレキングは、ウルトラセブン第2話「湖のひみつ」に登場したのであるが、ウルトラセブン最初の怪獣(撮影順序である。クール星人よりも先)なので撮影陣もかなり気合が入っていたのであろう。
可也特殊な形態の怪獣であるから、印象深いのである。

バルタン星人は、ウルトラマン80までで、6代を数える。
そう、バルタン星人は6人(星人だから、これで良い)いるのである。
”である”と威張ったが、今日までそんなこと思っていなかった。
同じく、20億3千万のバルタン星人が眠っていることを忘れていたのである。

彼らは1万5千t〜3万tの体重を持っている。
それを”ミクロ化して(体重はほとんど零だという)宇宙船の中に眠っている”のであるから、何処かに蓄えられたエネルギーは莫大なものである。
なんたって”イーイコールエムシージジョウ”なのである。

この蓄えられたエネルギーを奪ってしまえば、我々の星である地球上のエネルギー問題は解決しそうな気がするのである。
今日の私、至って正気である。

2002/03/18

文責:い 70点

No.711

またまた無断で休刊しました。
滅多に無いハードな一週間でありました。
更に言い訳は続くところなのであるが、まあ、花見の季節も来たことであるしお許しを願う。

鬼ノ胃ホームページでは、ThisWeekというコンテンツがあって、その週の毎日の花言葉と、なんかの記念日と称する毎日が何の記念日かを掲示している。
その3/24を見ると、
ハナビシソウ 希望の持てる愛・私の希望をいれて下さい・私を拒絶しないで
とある。

可也セツナイ花言葉である。
ハナビシソウがどんな花なのかを存じ上げないでナニですが、とまれ、花言葉からは女性的な雰囲気が察せられる。
こういう類の事柄は、物事を突き詰めない方が宜しい。
図鑑なんぞを引っ張り出して、その姿態を確認してしまったりすると興醒めするのである。

ところが、昨今のこの国の輿論の流れは、西洋的に物事を確認することを善とする風潮が鼻につくのである。
悪事を徹底的に暴くとか、とにかく情報公開をという叫びはマチガッテイナイと考える。
のであるが、その風潮を逆手に取って利用しようとする魂胆を持つ輩の片棒を、輿論が担がされていることに気付かねばならない。

書き方が具体性に欠けるが、やぶにらみ人間としては警告だけしておけば充分と思っているのである。

ナンカ思っていることが通じる文章じゃないなあ。

2002/03/12

文責:い 80点

No.710

番組のスタイルは変わっても、ガチャピンの凄さは変わらない。

子供と一緒に見ていたポンキッキは、子供が見なくなった今でも時々見るのである。
彼女らはといえば、今では土曜日の放送なので見られないのである。
学校が休みでない土曜日は家にいないし、休みならば起きている時間帯ではない。

ジャカジャカじゃんけんは聴覚的に面白いものを作ったと感心した。
現在の爆笑問題の”鼠シリーズ”は、完全に大人向けの内容である。
これを見ずにいられるか、なのであるが、何と言ってもガチャピンなのである。

これはもう20年近くも前からそうであったのであるが、あのガチャピンがスポーツをこなすのだ。
スキーのジャンプ(どう考えてもほんまもんの競技ジャンプ台である)、モーグル、ハーフパイプのスノーボード、アイスダンスをしている映像が続々と映し出される。
夏にはマリンのダイビングもしたし、ハンググライダ−だってやってしまう。

で、当然着包み(”きぐるみ”のつもりだけども、違うか?)の中にはドナタカが入っているのであろう(間違い無く入っている筈である)が、その人は一体どんな方なのであろうかという話しになるのである。

愚妻は”それぞれの分野のスペシャリストが、トッカエヒッカエでそれぞれのスポーツをこなしている”などと解かったようなことをノタマウ。
冷静に考えると、ガチャピンの動きを過大評価している。
確かに凄いと思わせるのであるが、あの風体に惑わされて、スポーツが様になっている程度のスキルを表現するだけで、非常に高度な技を見せているように錯覚させていると察するのは邪推か。

あの全身着包み(視覚をどう確保しているのか解からない構造である)が鍵である。
で、スポーツにおいて最も重要な要素である、周囲の状況判断ができる類の才能を持つ人間は、どんな種類の職業人間かが問題ナノデアル。
どう見ても、あの着包みの中では、認知できる視界の範囲は狭い。
それでいて、首を常に左右に振って視界を確保している様子はない。

私の推察では、テレビカメラマンである。
これはもう確信に近い。
ただし、確認していないから、あなたの周りにあなたの知識として喋らないようくれぐれも念を押しておく。

少し否定的なことを書いたが、ガチャピンの凄さは変わらない。
ガチャピンの相棒であるムックは、はっきり言って存在感が薄い。
しかし、コンビで一体なのである。
あなたも、このコンビ関係で思い出す芸人がいるだろう。

染之助染太郎に似ているのである。
週刊読売(最近は名称が英語表記だった気がするが)によれば、芸達者な弟は、50年間で”あの土瓶”を3つしか割っていないそうである。

ガチャピンとムックと、ギャラは同じなのであろうか。

2002/03/11

文責:い 70点

No.709

”普段は時計をはずそうと思い付”き、そしてどうなった、については、次回なのである。
という、時間稼ぎの言葉で締めくくった先週であった。

時間に縛られて仕事をする習慣が無い職業を選択したのである。
人と約束をして、決めた時間にある地点にいなければならないという事態もときにはある。
しかし、定刻に出勤し、定刻に帰宅(ま、これは一般的に、必ずしも定刻ではないだろうが)するなどという日常の”しばり”が無いのである。

締め切りという魔物も、”ごめんなさい””風邪を引きまして””身内で不幸が”等々の文言で、少しオマケシテモラウ癖も上手く取り込んだのである。

”今の俺は、何秒間息をしないでいられるのだろうか”と思い、しばしばチャレンジすることも無くなった。
以前なら、3日に一度くらいはやっていた。
これには、測定器として秒を計測できる時計が必帯である。

そういえば、酒を飲んでいる時に、チャレンジしたことがあった。
これは悲惨な結果が待っている。
救急車の手配をしてからやった方が、回りの方々にかける迷惑度が下がることを憶えておいたほうが良い。

これの意味することは次の教訓である。
大酒を喰らうということは、滅多に訪れないであろうビッグチャンスを逃す可能性があることを認識していなければならない。

例えば、飲んだ後にいい気持ちで歩いて帰る途中で、側を流れる川底に数枚の大判小判を発見した時を思い浮かべて欲しい。
つまり、少しばかりの時間、息をしないで潜っていられるならば、その大判小判を手にすることが出来る状況が、目の前にあるのである。
しかし、多分そんなことをすれば、完全に息が止まってしまうのである。

息止め遊びの生涯最高記録(今後トライしないのであるから破られることの無い記録である。ただし、開始時刻は解かっても終了時刻が解からないので、公認されない可能性がある)は誕生するかもしれないが、誕生以来たゆまず自分を支えてきた呼吸行為が無くなるのであって、事後何の楽しみも享受できなくなるのである。
生涯最高記録達成の談話を発表することすらできないのである。

で、止むを得ず、誰かにこの大判小判のことを告げ、彼と富を分かち合うことになるのだ。
独り占めというカケガエの無い喜びを放棄しなくてはならないのである。
更に、周囲の知れるところとなれば、富の分配は繰り返される。
まあ私なら、友人知人に何処かで一杯を奢ることになるわけである。

独り占めなら、黙っていれば良いのであって、あいつ最近金回りが良いが、窃盗でもしたのではないか位の評判は起っても、ひたすら笑っていれば良い。

酒飲みは、こんなビッグチャンスを逃す可能性があることを認識して、毎日大酒を喰らうのである。
そして、時々財布を落としてしまったりして、女房に怒られ続けるのである。
嗚呼。

こんなことを書いているから、どうも話が先に進まない。
”普段は時計をはずそうと思い付”き、そしてどうなった、については、機会を改めて詳細を書くことにしよう。

2002/03/08

文責:い 70点

No.708

3ヶ月程前までの約5年間、腕時計を常に装着していた。
もちろん、幾つかの時計を交換して身に付けるのであるから、その交換時には肌に時計の付いていない瞬間はあった。
更に言えば、時計を掃除する時とか調整する時とかにもはずれてはいた。
ま、それは気にしないで良い。

それが3ヶ月程前に、メインで使っていた時計のバンド繋ぎピンが折れてしまった”折”に、普段は時計をはずそうと思い付いたのである。

この時計はシチズンのCittaシリーズの安物で、所謂エコドライブである。
光発電システム駆動で、つまり、電池交換を要求しないのである。
(本当は、光発電システム駆動とはいえ、光発電システムで発電した電気を電池に蓄電し、その電池の電気を利用しているので、長期的には電池交換は必要。永遠に蓄電性能の落ちない電池は無い)
安物時計の場合、電池交換に要する費用が無視できない金額なのである。
馬鹿みたいナノデアル。

携帯電話の電池を単体で購入しようとするのと同様である。
このタイプの充電電池は、10ヶ月くらいで交換が必要な消耗品なので、この交換のタイミングで本体ごと新しくしてしまおうという(たぶん、あなたの)消費行動は理に適っているのである。

話を戻す。
腕時計の場合、電池交換は別の意味で更に重要な欠陥がある。
防水性能に対するダメージという点。
出来れば時刻合わせのボタンなどのように、機械的に内分と外部とを遮断する方式が望ましいのであるが、こと電池に関しては電池そのものを守ってやらなければならないので、短期間で交換するために防水層を弄るのは望ましくないのである。

という屁理屈が、Cittaの購入時の妻への言訳であった。
ついでにその時の反応を紹介すれば、”また腕時計買うの”である。
しかし、2年後に彼女は自分もCittaシリーズの安物を買うのである。
”とうちゃんの理屈は正しい”というのが、購入時の彼女の言葉。
これでは反論できない。
私はもう少しで、”また腕時計買うの”と口にするところであったのである。

”普段は時計をはずそうと思い付”き、そしてどうなった、については、次回なのである。

2002/03/06

文責:い 90点

No.707

恥かしながら、昨日”知恵熱”(と思われる)症状発現にて休筆。
”10日でおぼえるExcel VBA”を、1日でおぼえてしまおうという試みに挑んだ結果である。

マルチプラン(ふ、古い!)のマクロは随分書いた記憶がある。
実際、エプソンの98コンパチモデルで現在も稼動している。
17年も使っているのである。

しかし、Excelのマクロなど、自分で書く必要を感じることが無かったので昨日まで無縁なものと考えていた。
ところが、状況に変化があったのである。
如何せん、当時のNEC仕様MS−DOSが使用されたソフトウェアが動くことのできるマシンがなくなりつつあるのである。

流石にNECも旧アーキテクチャのマシンを、1シリーズだけ製造してはいる。
しかし、付けられた値段を見るとびっくりするのである。
ま、2〜3万円なら(性能比較で考えれば、こんなものであろう)しょうがねえと買い続けるが、人の弱みに付け込んだ25万円(最少構成)では、バカバカしくて話しにならない。
で、全て書き直そうという次第なのである。

ここが諦めの悪い人間によくあることで、楽をしようとして苦しむことになるのである。
絶対参照することの無いと断言できるデータまで、全てを取り込むべく、ネットワークを構築して(つまり、あの旧きエプソンの98コンパチに家中LANの仲間入りをさせた(正しくはさせようとした)のである。

本来何の問題も無い筈なのであるが、WINDOWSの指示に慣れた私には、指示無しで認識させる手法が拙いのである。
これで、何時間を費やしただろうか。
結局諦めて、必要と思われる幾許かのデータを手書きで(!)写して、この原稿を書いているマシンに移し保存したのである。

ま、そんな訳で、ここ当分の間は、独り言をぶんぶん喋りながら、近眼だか老眼だか乱視だかで相当参っている両眼を酷使して、何か意味の無さそうな作業を続けるのである。

シェアウェアで売るっきゃない。
しかし、出来上がったソフトには汎用性は全く無いと、これもまた断言できるのであって、見通しは非常に暗い。
困ったことである。

2002/03/04

文責:い 80点

No.706

一月は充分にオメデタク暮らしていた。
二月は様々な問題があることに気付かされた。
それはそれは処理しきれない程の量と質となので、三月に持ち越されたのである。
今月は今月で、新たに発生する諸問題が存在するのであるから、全ての問題を解決してしまうということは困難を伴なうのである。

いやはや、早くも4日になってしまったのである。
個人的にではあるが、コマッタコトナノデアル。

ところで、これは、フローの問題なのであります。
片や水槽に水を注ぎ込み、片やその水槽から水をくみ出すのである。
放って置けば、やがて水は溢れ出し、一定以上の貯水はできなくなる、筈なのであるが。
その水槽のキャパシティがあまりに大きいと、なかなか溢れるまでに至ってくれず、先送りされる問題が果てしなく大きくなるのである。

上場企業のいわゆる”倒産”は、こういうことなのではないかと考える。
零細企業の倒産(これは夜逃げを伴なったりする奴)は、厄介ではあるが、片手で持ち上げられる位の水槽から水が溢れた状態であるから、影響は小さいのである。
しかし、件数が多いから、水量は掛け算の世界での計算が成り立ち、世の中全体では、想像を超えるであろう。

だから、片手で持ち上げられる位の水槽を持ち上げようとはしないで、何故絶対に持ち上げられないサイズの水槽を持ち上げて中身をこぼそうとするのかが解からない。
例えば、ダイエーを潰した時に出現する現象は、日本全体で本当に耐えられない規模のクラッシュなのかどうか。

多分、副次的に出現すると言われる金融システムが崩壊するのを畏れているのであろう。
金融システムが崩壊したら大変という脅し文句は、実際にはどういう影響があるのか説明が無い。
”金融システム”という概念すら良く説明されていない。
銀行の発行した手形帖を使って振り出した手形が期日に落ちないという現象は、金融システムが崩壊したとは言わないのだろうか。

社会が公正さを欠くとき、経済の痛みより影響の大きかろう暴動が起こりはしないかと憂えているのである
自分の問題は先送りにして、である。

2002/03/01

文責:い 80点

No.705

昨日の千葉日報”わたしの徒然草”に、世紀の大発見かと思しき記載を発見。

体温の調節機能がへたになった現代人は、食品添加物などとの相乗作用で、平均寿命が大幅に短くなる。
−−略−−
具体的に解説すると、昭和三十五年以降に生まれた現代日本人の平均寿命は、四十五歳に短縮される...

私も筆者と同じで、辛うじて難をのがれている。
この証拠が厳然としていて良い。
曰く、
”昭和三十五年以降に生まれた人間で、四十五歳以上長生きした人は見当たりません。”

この思考回路を、笑ってはならない。
単純に面白いのではあるが、頭をがんと一発やられた感じがしないか。
我々が日常の意思決定をするときには、この手の論法はしばしば利用している。

昨日まで平気だったから、今日も大丈夫である(何が、は別にして)。
たまたま今日に限ってあの道を通ったら、事故に遭遇した。
あいつは普段良い奴なんだけれども、酒を飲むとなぁ。
こういった納得してしまいそうな話は、全て同類である。

”アメリカ(で発生した)同時多発テロ”という名称は、事件の当日から使用されている。
最初に耳にしたときには、何か違和感があった。
一つの理由は、全ての報道機関がおしなべて同じ名称を使ったことに起因すると分析した記憶がある。
2.26事件という名称も揮っているが、この事件の時は、残念ながら生まれていないので、歴史の語り部たる資格が無い。

ソルトレイクシティオリンピックという報道も、最初はソルトレイクオリンピックだった。
皆が同じになるのが全くもって面白くない次第である。