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2002年02月分(02/01〜02/28)

2002/02/28

文責:い 50点

No.704

今週は、パソコンとずーとお付き合いしている感じ。

当然独り言が多くなるのである。
自分でちゃんと聞いているところが何とも凄まじい話であるのだが、その一部をお聞かせする。

確認メッセージの有無の切替(この表現はWINNDOWS3.1依頼の伝統を本家は使わなくなっても私は使っている)では、何か操作するときに注意を表示するかどうかの設定をする。
あるとうっとうしいが、ないと大抵間違えるのである。
設定をオフにして随分虐められた。

新しいウィンドウを開くってのは、一度に2つ以上のウィンドウを表示させたいときに使うのである。
複数なのでWINDOWSというのだよ、小林君。

ビデオのタイマー予約もろくにできないようなメカ音痴の中年中間管理職という表現を目にする。
私も娘に任せているうちに覚束なくなっている。
知っていると便利なのだよ、ヤマトの諸君。

使用頻度の少ない、あるいはパソコンに無知な人には使って欲しくないソフトウェアは、画面上(デスクトップ)には存在しない。
無知な人には別に構わないが、子供には見せたくないモノ、ってのはある。
ついでに言えば、隠しファイルというのがあるが、別にいやらしいものではなく、無知な素人がいじると困るもの。
それは、君には使えないのだよ、明智君。

学校に設置されたマシン(とその環境)に初めて遭遇した。
わけのわからんゲームがたくさん入っている。
沢山のプログラムが含まれていて、しかも使われずに終わっている(はず)。
これで学校向けモデルだから始末に悪い。

必要なソフトのみを選んで入れてもらいたい。
学校向けモデルという名称が可也怪しいから言い換えると、不必要なソフトを削除して設置してもらいたい。
パソコンでゲームをやらせ、勝手に遊ばせるのがコンピュータ教育と思っている学校ならともかく...
あっ、....

2002/02/27

文責:い 70点

No.703

”言った、言わぬ”の論争が、ま、収まるべきところとは異なった方向であるが、決着つきそうな感じである。
しかし、ことこの”言った、言わぬ”の争いに関しては、状況証拠だけであって、結論はでないだろう。

今回の”言った、言わぬ”は、本来どちらかが間違っているのは間違い無い。
しかし、ちょっと状況設定が違えばどちらも正しい場合があることにお気づきであろうか。
”言った、言わぬ”の論争は、必ずしも真実は一つではないのである。

Aさんが”私は言ってない”と述べ、Bさんが”私は聞いた”と述べたのが今回のケースである。
ちょっと状況設定が違うケースとは、Aさんが”私は言った”と述べ、Bさんが”私は聞いていない”と述べた場合のこと。

Aさんは確かに何かを言った。
Bさんは、これを聞き漏らした。確かに聞いていないのである。

従って、Aさん・Bさん共に嘘は喋っていない。
この場合に、どちらかを罰する目的で真相を究明するのは無意味なのである。


ところで、”白黒をつける”という言葉があるが、白・黒それぞれの意味するところは何なのか。
単純に”正しいか間違っているかを明らかにする”という言葉である、と考えれば良いのであろうが、どうやら”白”に正義を当て嵌めているような気がするのである。

”黒”好きな私としては、逆の立場を採用したいのであるが如何。

2002/02/26

文責:い 80点

No.702

USBって奴は、全く凄い。
私、大ファンなのである。
まして、昨日仕入れた知識では、コネクタの端子の仕組みに大きな驚きを感じたりした。

驚いた”コネクタの端子の仕組み”とは、こうなのである。
A、Bどちらのプラグでも同じなのであるが、情報信号用の2本の接点金具が、電源供給用の2本の接点金具より少しだけ長い(先端まである)という仕組みである。

まずUSB機器に電源を供給して、機器を立ち上げて、情報を受け渡しする態勢を整えてから情報を受け渡しするということの実現のために、極めて物理的な仕組みを利用していることに驚いたのである。

何でもかんでもUSB。信奉者なのであった。

この”あった”に注意して欲しいのである。

USBハブを幾層にも重ねて、空いている所に適当に差し込んでUSB機器を作動させていたのである。
一応、スキャナとプリンタとは、一次接続しているのであるが(つまり、USBハブを通さずに本体に直接繋いでいる)、他の器械はいい加減なものである。

どうも変だぞ、と思い始めたのはひと月前くらいからである。
しかし、大好きなUSBちゃんを疑おうなどとは全く考えなかったのである。

本体のケースを何度殴ったことであろうか。
OSの入替もやった。
ローカルな仕事は、ワクチンソフトを停止して試みた(これでクリスマスには痛い目にあった。今回はこれでもかと慎重にやっているのである)
メモリの追加もした(多分これは意味が無い)。

最愛のUSBちゃんの、特にUSBハブとコードとに疑いの目を当てざるを得ない様子なのだ。
頭が痛い。

WINDOWS XPだと、自己診断するのだろうか?
XP使ってますか?
最近私のホームページにアクセスしてくれる人で、95のユーザーは流石に極端に減っている。
しかし、XPの人もちらほらのちら位なのである。

Meもそうだけれども、XPはユーザーの自由度を減らしすぎのような気がしてアンマリ乗り気ではないのだが、替えちゃおかな。

2002/02/25

文責:い 80点

No.701

レギュラーガソリン価格が02/10現在、全国平均で1gあたり前月比1円値下がりして98円になったという。
石油情報センターが発表した石油製品の小売価格調査に依るという。

こういうのが最も解かり辛いのである。
まず、”石油情報センター”とは一体全体如何なる組織なのか。
”全国平均”とは、如何なる算出方法を採用しているのか。
算出方法の変更が行なわれても、我々には解からないであろう。

”1円値下がり”といっても、本当は0.0001円違った時に先月は切り捨ての結果97円で、今月は切り上げで98円だったりしているのではないかと考えることが出来る。
それなのに、”1円”が一人歩きして、下落の要因を”末端のガソリンスタンドの競争激化”なんぞに求める解説が多い。
灯油は18gあたり6円安、などという記載を見ると、あながち穿った見方といえないであろう。

第一、自分の体験からしてみたら、実感としては、ガソリン価格は値上がりしているのである。
去年の暮から先月には、87円なんていう価格のガソリンを入れているのである。
今は、91円前後である。
セルフ給油のスタンドとそうでないスタンドの区分けによる価格差も見当たらない。

私は、高い安いに関わらず、セルフのスタンドは快適なので選択して給油している。
”窓を拭きますか”、”吸殻はありませんか”等々、大きなお世話なのである。
自由に使えるタオルと吸殻捨て場とを用意してくれてあって、更に、タイヤ圧測定器と空気入れの設備を無償で貸してくれれば良い。
自分でやった方が安全なのである。

自宅でオイル交換をしたすぐあとに、スタンドの人が、”オイルが劣化しています”なんてホザカレタ経験を持つ身とすれば、ステロタイプのアルバイトは鬱陶しいだけである。

ただし、セルフ給油所で自分以外の車が入ってくるとちと心配なことがある。
鈴木宗男ではないが、私は小心者なのである。
心配なのは、静電気のスパーク。
皆さんは、給油口で発生しないように、前もって放電してくれているだろうか。

2002/02/22

文責:い 100点

No.700

日刊鬼ノ胃は、 ようやく700号を達成した。

100号単位の区切りの時など折に臨んで過去の文を端折り読みするのが、自虐的ではあるが楽しみになってきた。
良くも悪くもその時々の自分の姿を映し出している。
日記なんぞ三日とつけたことの無い私としては、これでなかなか感慨深いのである。
恥ずかしいといえばこれ以上のモノは無いのではある。

結構滅茶苦茶をやっているし、読み返すと言語的に意味不明であったり、これでもかと言わんばかりに軽薄な視点で世の中を見ている自分に気付くのである。

ここのところ数日、私としては、ちと重い文の日が続いた。
シンドイので、これからはアッサリといこうなんて思ったりもする。
嘘です。
アッサリなんていう言葉は、私の辞書には無いのである。
今後も、恥知らずらしい厚顔さで、文字を追うのに辛い文章を連ねていくことになるのである。

見知らぬ顔の方々が多いはずなのに、書いているときにはこんな方もいらっしゃるだろうと特定の人物像を思い浮かべている。
学生さんであったり、公務員さんであったり、ごちごちのおじさん、あるいは、主婦などという抽象化した像をである。

反論・意見・叱咤・激励、これが楽しみなのであります。
お待ちしています。
ちと、感慨深げな姿を想起してもらえたであろうか。
今後も宜しくご愛顧の程を。

2002/02/21

文責:い 80点

No.699

昨日の続き。

この縛りによって得られるものは何か。
合併による利益を現在の行政・議会関係者に与えないのである。
何のために(何故する状況にあるのか、そして、何を求めてなのか)合併するのかを考えれば、この提案は無謀な話ではない。

倒産しそうな複数の子会社を合併させて存続しようとしたら、私ならそうする。
経営陣を一掃し(これは必須)、そうしないと潰れるなら人員削減も止む無しなのである。


個々の市町村合併に関するカマビスシイ議論を読み聞きしていると、そもそも今までの市町村が市民のための存在ではなかったのだと気付いたのである。

個を離れて、その集団である組織は、個の利益と異なる判断をすることがままある。
誰も戦争などしたいと欲していないのに、集団の利益を求めて戦争が起こる。そして、個はその戦争に駆り出されるのである。

だから、個と離れた厄介な存在である行政組織は幾重にも重ねられている必要は無いのではないか。
否むしろ、複雑にしないためには、幾重にも重ねてはイケナイのではないか

市町村合併の究極の姿である一県一市(一国一市の方がより説得力がある)にしてしまったらどうだろう。

市町村合併を推進するのが国の意向だと認識しているが、最終目標は一国一市ですと所轄官庁の役人さんが言い切らないのは、何か問題でもあるのだろうか。

最後に申し上げておく。
市町村の職員の皆様に個人的な恨みなど全く無い。
財政的に貧しい富津という市(この地域は、貧しい地域ではない。むしろ豊かさを誇るべき地域である)に住んでいるがゆえ、行政機関から受けるべき市民サービスが、他の市町村と比較して劣悪な状況であることを出発点にしている。

私は日本人なのである。
自分の意思でこの国の国民になったのでは無く、生まれたらこの国の国民たる地位にあったのである。
だから、同じ国の他の地域の行政サービスを妬むだけでなく、同種のサービスを要求する権利があるのではないかと思っている。

地球上の市民である、とまでは認識できていないところがまだまだで悲しい。

2002/02/20

文責:い 80点

No.698

庭の梅は満開。
メジロが10羽ほど遊んでいる。
蜜を吸いに来ている。
これは、じいさんがそう言ったのであって、従って正しいのである。

広島県で、4町村での合併を検討しているうちの一人の町長が、合併後の新町役場の誘致争いに敗れ、引責辞任した。
これに類する理由による辞任劇は前例が無いという。
しかし、この因果関係には充分に思い当たる節がある。

前例が無いから類稀な事件ということは無い筈である。
前例は今日まで無くても、今日からは存在するのであって、事象の解釈に特殊な判断を要求しないのである。

市町村合併に取り組む自治体間のあつれきが各地で発生していると聞く。
市民は、総論(人件費を中心とした経費削減)賛成・各論(個々の地元サービスの縮小懸念)反対の姿勢で市町村合併に臨む。
こんなところが実態であろう。

そんなに単純にはいかないとのお叱りを多方面から頂戴することになろうが、頂戴するなら何でも頂戴することに吝かでない私としては、事は単純である。

市町村合併に縛りを付ける案がある。
エイ・ヤっとやるのである。
現在の首長および議員は、新市町村の首長・議員には永久に就任できない。
現在の役所役場職員数は、合併前の半分にし、給与体系は最も低水準の市町村の体系を採用する。

毎日毎日長くなるのも何ですから、明日に続きます。

2002/02/19

文責:い 90点

No.697

社会保険事務所からの郵便物を読んでしまったのである。

毎月納入告知書が送られてくるのであるが、その封筒には様々なパンフレットなどが同封される。
ここに、奇妙な記載が散見されるのである。
だから、社会保険事務所からの郵便物は、時間的な余裕のあるときにしか開封してはならないのだ。
他の、優先すべき仕事に手を付けられなくなるのである。

私の場合、法人を営んでいく上で、日常的に訪問するお役所としては、この社会保険事務所と法務局(登記所)とが双璧。
何の双璧かといえば、”お役所的”。

まず、昼の12:00〜13:00は、執務が停止する。
(休日については、あまり多くを喋らない事にするが)本来市民相談窓口を有する場合、各種証明書発行業務(個人向け)を有する場合には、社会一般的な休日・休憩時間こそ業務時間とすべきであると考える。

相談に来て順番待ちをしている市民を待たせたまま、昼休みの時間であると主張して、平然と(周りの同僚に気を使って、という言い訳を聞いたことがあるが、周りにしてみれば本人が回りの同僚となる堂々巡りであって、論理的でない言い訳の典型だ)昼食に取り組む。
アンビリーバブル。

もう一つを挙げる。
それでなくても専門用語が溢れているのであるが、更に短縮形を頻繁に使用する。
ま、これは聞き流していて、訳が解からなくなったらその旨を尋ねれば、ニコニコと話してくれる。
当方が解からないということが、彼にとってはとても嬉しい様相である。

聞き流せないのは、一般の日本語の用例と異なる使用法をする単語である。
事業主の皆様へのお願い、と冠書したパンフレットには、ニコニコしたおじさんの漫画があって、厚生年金保険の加入年齢が延長になります、とノタマッテイル。
ここでは、最も書きたいのは”保険料を納めていただくことになります”なのであるが、この文言に至るまでが中々シブトイノデアル。

時事問題なので、あらすじを書いておくと、厚生年金保険の被保険者の年齢の上限が70歳未満まで引き上げられ、適用事業所(この単語もちとキニクワナイ)に使用される65歳以上70歳未満の人も厚生年金保険の被保険者となるのである。
保険料(保険税という税金であることを忘れてはならない)は雇用主との折半負担であるから、本人も支払うし、一般に会社も支払うのである。
会社は追加の費用支払いを好まないから、給与額を低めに設定するべく誘導されるだろう。
ここが問題ナノデアル。

長くなっている。
今日書きたかったのは、次の文言であります。

”厚生年金保険の資格取得により、新たに被保険者番号を払い出すこととしておりますので、健康保険被保険者証の番号は記入しないで下さい。”
この中の、”払い出す”という文言。

絶対に普通の言葉ではない。

2002/02/18

文責:い 50点

No.696

先週末から今日にかけて、書きたいネタが大量に舞い込んだ。
全て積極的な意味で自分が取り組んだ結果なのであって、非常に満足しているのである。
ダラダラとではあるが、その日暮らしをしていても、刺激的な出来事は時に嬉しく舞い込む。

のではあるが、兎に角今日は実質的な意味での確定申告初日なのである。
申告書の提出は今日と決めてあったので、それゆえに今日申告書を提出に行くということが必要であり、また、すべきなのである。
することができる、とも言える。

ということで、いざ出発の時刻が到来したのである。
到来すれば出発なのであって、書き残し(実はここまで何も書いていないのではあるが)は後日に廻すのが、好ましいか好ましくないかに関わらず、今日の仕儀なのであって、そうなるべくしてそうなるのである。

よって、本日これまで。
いざ税務署である。受付印を貰うだけなんだけど...

2002/02/15

文責:い 90点

No.695

確定申告のシーズンが到来なのである。
私の場合、法人からの給与の他に別の所得があるので確定申告をしている。
こう書くと大層な雰囲気であるが、総額は可也少ないときっぱりと言い切れる金額である。
ま、それはどうでも良い。

確定申告の申告書の様式が大幅に改められた。
今まで理不尽な記入を要求する項目が多かったのが、大分改められた。
これは特筆すべきである。
しかし、旧様式に慣れた者にとって何かしっくりこなくて、書き洩れがありやしないかと不安になる。
会計事務所では多分何時に無く混乱していることであろう。

年をとってしまった所為なのであろうが、決まりきったモノを扱う時には無い戸惑いは、恐怖にも似ている。
通勤路を変更できないのに似ているのかもしれない。

(もっとも、最近の私は通勤をしていないのであるが、兎に角何処か決まった目的地に行くのに全く同じルートを使用するのである。理由としては、交差点の飛び出しの有る無しの雰囲気なんていうモノに対して、第六感が働くという点も否定できないであろうけど。)

ちょっとの冒険が煩わしく、また、何とは無しに恐いのである。オノノクというか畏れるのである。
新しいモノに果敢に突き進んでいく人々の態度を、率直に称えたい。
後からついて行く者にとっては、より良いルートを選択して行くという計り知れない利点があるのであって、先駆者の偉業に対して控えめな賞賛しか与えないのは間違っているのである。

様々な法規制・慣習に行く手を邪魔されながら、何か新しいJOBを模索しているのであるが、世の人に認められるような何かを見つけ出すのはシンドイモノデアル。
自分には”イヒ”が無いんじゃないかと悶えている。
どうしたもんでありやしょうか。

2002/02/14

文責:い 60点

No.694

今日は2月の14日、”せんとばれんたいんでい”なのである。
少し前まで、この国で”せんと”と言えば”ちひろの...”であった筈である。
(前なら遷都であり、ずっ〜と前なら、勿論銭湯であった)

チョコレートなんぞの話は良く知らないが、バレンタイン君のことは知っている。
というのも、悪ガキだった頃3丁目の空き地でベースボールモドキを夢中になってやった仲なのである。
妙に気が合ったので、グリコのおまけを賞賛、そして自慢しあったりもした。
せっかち君とおとぼけ君とは、その当時どう利用していたのか思い出せない。
ああいうお仕着せの器具は、子供にはどうも馴染まなかったようである。

ヘラクレスのような肉体を持つも、気は優しいというのが当時の衆目の見るところであった。
学校の勉強は、残念ながらお世辞にも出来の良い子供ではなかった。
下級生の面倒見は非常に良かったから、今日という日のお祭りで彼をマツリアゲテイルのは理解できる。

久しく会っていないが元気なのであろうか。
今日のお祭りで見かけることがあったら宜しくお伝えください。
お蔭様で私もそれなりに元気ですよ、と。
そして、たまには顔を出してくれたまえ、と。

ま、そんなこんな書きましたが、決して自分で調達したのではないチョコレート喰いてえ〜。
明治のミルクチョコレートが最高である。

2002/02/13

文責:い 70点

No.693

先週何気なくラジオのスイッチを入れたら、”イムジン河”の前奏が流れ出した。
”あっ、イムジン河だ”と不覚にも声に出してしまった。
車には他に誰も乗っていなかったので、別に”不覚にも”などと表現する必要は無いのであるが、自分自身で照れちゃうのである。

文化放送、担当甲斐よしひろのセイヤングであった。
甲斐よしひろには、”安奈”を時々歌わせて頂いているが、特別彼に対する思い入れは無い。
(こんなことを書くと又怒られるのは承知であるが、私の性格は、〜〜セズニハイラレナイノデアル。それは、愚妻は甲斐のファンを自認している、ということである。それだけのことだけど...)

番組に出演していた誰かが喋った内容に驚いたのである。
フォークル時代の加藤和彦は、”イムジン河”が放送禁止になるや、これに怒って、”イムジン河”のコード進行を逆にして”悲しくてやりきれない”を作って売り出した。これは有名な話。

”コード進行を逆にして”の意味は不明である。
”有名な話”ってのも気になる。
しかし、例によってこれはこれで良いモノとしよう。

”悲しくてやりきれない”と”イムジン河”とは、確かに似ているのである。
”ブルーシャトー”と”月の砂漠”との雰囲気の似方とはちょっと違うけれども、より似ている。

さて、著作権について書こうと思っていたのである。
普通に生活していて、著作権とか特許権とかについて考えを廻らせているだろうか。
違法(と主張する人々にとっての、である。私は必ずしもそうではないのではないかと考えるのである)コピーに関する議論が新聞雑誌では喧しい。

本来は受け取るはずであった利益が、不当に享受できない状態にさせられているという主張は、本当に正しいのであろうか。
こんなアプローチで考えてみたい。
と、ここまでは纏まったのであるが、またまた、これ以上進展しないのである。

困ったまま、終了。

2002/02/12

文責:い 70点

No.692

正式には何と言うのかは知らないけれど、”雛飾り”が登場した。
今これを書いているすぐ横に、でんとしている。
即ち私は”肩身の狭い”という表現の様相である。

これを物入れから出してきて飾り上げた面々からすれば、そんなところで仕事しているから全部を出すスペースが無いとのことである。
す、すいません、などと思わず喋ってしまったのは不覚である。

雛を祭るという行事が”ひなまつり”であるならば、こうして段飾りを拵える行為そのものが”まつり”なのであろう。
ここも拘りたいところではあるが、もし、3月3日を否定するような結論になると、大威張りで酒を飲める日を一日減らしてしまうことにも成りかねないので素通りする。

そこで、これに代わる命題を模索してみた。
”おひなまつり”の”お”は、”ひな”に冠するのか、”まつり”に冠するのかという疑問で時間を潰してみたのである。
”おひなおまつり”という表現が、この言葉の定着までの過程で存在したかどうかが大問題ナノデアル。

大問題であると提起はしたものの、これ以上の進展は困難なのである。
頭の中で、時間だけは随分と潰してみた。これだけである。
まあ良い。

この季節に、嫁の実家から贈られた人形を出したり仕舞ったりすることで、嫁としては嘗ての実家での母親との同じ行為をしている時に語り合ったことなどを懐かしく思い出すというのがこの行事の歴史なのであろう。

こんな習慣(クドイヨウデスガ、これが文化なのである)が、住宅事情とかその他の寂しい事情で失われつつあるのは悲しい。
斯く言う私も、子供が男の子だったら、庭に立てた幟棹に鯉幟を泳がせてやったかどうか疑わしい。

何だかんだ(つまり、肩身が狭い、とか、邪魔だなとか)言いながらも、手間の掛からない雛飾りだから成り立たせているのである。
後で仕舞うのも私の手は掛からないのであるし。

今年はいつご馳走酒盛りをやるんだろう。
その日取りが告げられるのを、じっと待つのである。
こちらから訊くなどという愚は、決して犯すべからずなのである。

2002/02/08

文責:い 80点

No.691

この国は、法治国家である。
である筈なのである。
放置国家では無いという意味である。

政治は法律に従って行なわれる。
この法律を作るのは国会であり、行政は法解釈を行ないつつ執行する。

ところが、時として、相反する記述のある法律が制定される。
勿論、基本となる法律の除外規定としてである。

身近な例を挙げよう。
お医者さんの領収書には印紙の貼付が無い。
税理士もそうである。
領収書を見るとこんな文章を記載してある。
”印紙税法第5条17号の非営業につき印紙貼付せず”

(貼付−−”ちょうふ”と読みませう。”テフフ”の誤読から訛って”てんぷ”という読みも定着している様子である。張付とも書くのであるが、これは”チャウフ”なのであって、単に現代語で”ちょうふ”と読んでしまうだけで別物だ)

医者も税理士もその商売は”営業に非ず”なのだそうである。
納得はできないけれども、まあ良い。
良くないのは、インターネットで取引する所謂ネットオークション等における古物商の免許問題である。

確かに、事業として参入している業者は当然縛りがあっても良かろうと考える。
しかし、個人間売買にまで介入する切っ掛けを作ってしまうのは危険である。
古物商の免許問題というのは、詰まる所警察権力がインターネットの世界に介入するということなのである。

知らない法律でいつ何時逮捕されるか解からないのは、現実の世界でも同じといえば同じだけれども、常に監視されているという状況は気持ち悪いのでありやす。

2002/02/07

文責:い 10点

No.690

骨折り損のくたびれ儲け。
さて、この一件では儲けから損を差し引いて利益が残るか。

薄利骨折などという言葉があるところをみると、一般に利益があるのであろう。
この剥離骨折が解からない。

骨折ではなくてひびが入っていた、と説明する時、重症さの度合いが低い印象を持つ。
ただし、折れちゃった方が直りが速いなどというもっともらしい噂も聞いた。
本当のところは知らない。

自分自身には骨折の経験が無いのである。
医者にかかるのを極端に嫌う所為なのかもしれない。
だから断定は出来ないが、少なくとも骨折したと認定されたことは無い。

右手中指の第二関節やや爪側が雰囲気なのである。
第二関節で折り曲げた状態で机の角にしこたまブツカッタノデアル。
づんという鈍い音がした。
暫く眺めていると7mm程度の傷口がぱっくりと開いて鮮血の登場である。

舐めるべきか拭き去るべきかそれが問題だ、などと呟いてから、オモムロニ(当然)舐めたのである。
この味がどうであったかは、あまり上品といえないので伏せておくが、久しぶりの味覚であった。
記憶にある通りの味であったので、味付けには失敗していないようである。

右手中指はタイピングに最も重要な指なのである。
この表現は誤解を招きそうだ。
実のところ、この指だけでタイピングしていると言って過言ではないのである。

こんなところで二日間の休刊についてのタドタドシイ言い訳に替えさせて頂きます。
ホント、今日の文章は酷いのである。

2002/02/04

文責:い 80点

No.689

既報のとおり、本日仕事始めである。
仕事始めであっても、眠いのである。それなりに寒いし。

梅の花は、節操が無い。
ついつい、たまたまある日中の暖かさに誤魔化されて開花してしまうのである。
その後に凄まじい寒気が襲ってきてもじっと耐えている。
大して気になりゃしませんよ然としているのであろうが、見るほうの人間にしてみれば、何とも気の毒な風情である。

梅にしても、桜にしても、別に花を人間に見せるのが目的で一年を送っている訳ではなく、ましてや通常の形での繁殖に非協力的な人間のために実を付けている訳ではなかろう。
そうではあるが、様々な意味で人間に有用と考えられている現在の境遇は、満更でもないのであろう。
絶滅の心配は無いのである。
昆虫が絶滅しても、受粉さえ人工的にやってくれるのであろうから。

気の毒な風情の代表なんだけれども、雪中梅というか花をつけた梅の木に雪の被った姿が好きなのであるが、これ見る機会が少ない。
我家の庭には積雪がここ二十年で数回なのである。
ここに突然の話であるが、地球温暖化を地球規模で語る前に、生活圏レベルで探求する必要がある。

私の焚き火好みも荷担しているのだろうかと思いつつ、”暖かいなあ”などと今日も呟いてしまうのである。
仕事始めも焚き火からなのである。
呑気呑気。

2002/02/01

文責:い 70点

No.688

さて、2月が来た。
正月が去ってしまったのである。

とはいえ、立春は02/04であるし、本日でさえも旧暦ではまだ12月である。
旧暦はトモカク、私の近辺では年越しの行事が節分の夜に行なわれるのであるから、思い切って02/04を新しい年の始まりと思い込んで、この日を境に新しい年の仕事始めにしようなどと呑気なものである。

ただし、呑気なのは表面的な気持ちだけであって、生活というモノを考えた時、生活費の捻出という点において、剣呑なのである。

剣呑と呑気とを比べたら、呑気なほうが好ましいのであって、出来得れば、こちらにクッツイテイタイノデアル。

ついでだから、この剣呑という単語に拘ってみることにする。
どうやら”剣難(けんなん)が訛って”けんのん”となり、これに”剣呑”という漢字を当て嵌めたらしいのである。
呑気の”呑”などという、最も相応しくないような漢字を利用してしまうところなんぞ、日本語もシタタカデアル。

日本語が強かなのであるから、斯かる(かくある、であろう)言語を弄ぶ私も強かにありたいものである。

斯くして(そう、かくして、とこういう風に使うのである)、当面のテーマは、”シタタカサ”で行こうと思う。
そして今年もまた”スキニイキタイ”は継続中である。
スキーに行きたい。好きに生きたい。