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2001年10月分(10/01〜10/31)

2001/10/31

文責:い 90点

No.647

”今は昔”。
”今や昔”とも記される。

このフレーズが面白いのは、否定形だからである。
今は昔の面影も無い、といった程度の認識でそう遠くない意味を伝える。

”俺は君”。
これを俺は君じゃないのだ、という意味に使用できないであろう。
この意味ならば、”俺は俺”と書くだろう。

気にした?に対する答え。
”全然”。
これは”全く気にしていない”という否定の略として成立する。
だからこその”全然〜無い”用法なのである。

全然足りていない。
全然不足している。
どちらも否定形なのであるが、文法的には前者は否定であり、後者は肯定している体裁を採用している。

Yes、Noで迷う形。苦手である。
空港税関での話である、”ビスケットを持っていませんね”、”はい、私はビスケットを持っていません”の件がこれに該当するのである。
”Yes、I have no biscuit”と答えた私に疑問は無い。
間違いであるという知識はあるが、いまだに”No”と答える自信は無いのである。

柄にも無く英語の話なんぞをしたのは、”Show the flag”にコダワッテイルノデアル。
少なくとも(巨泉指摘のとおり)国旗を掲げた船を出せの意味ではないと考えるが、あの日米間でのこの用例の、本当の意味を知りたい。

2001/10/30

文責:い 80点

No.646

スポーツ番組ラジオ中継のアナウンサーが喋るように、起こっている出来事を、映像抜きで映像を伝えようとする話し方は、テレビでやられるとタマッタモノデハナイのである。

例えば、野球解説者の役割とは何か。

地方局の高校野球中継を視聴していて、各チームのOBが登場する。
この人が現在のチームの選手や監督との直接の付き合いがないと困ってしまう。
アナウンサーも困るし、見ている当方も困惑するのである。
その高校の野球部OBであることは間違い無いらしい。
そして、その日に都合の付く方で、まあOB連の中で一応の格式を戴いた方なのであろう。

だが、現役チームとは全く没交渉の人では話にならないのである。
”責任感のある子だと聞いています”とか、”チーム一足が速いと聞いています”などと、自分の目を通さないでの評価は必要ないのである。
データは、アナウンサーのもとには充分揃っているのである。

2001/10/29

文責:い 80点

No.645

山田太郎に対して、東郷学園の小林投手は敬遠をした。
その後、ハイジャック事件で殿馬と共に姿を見せるまで、彼の出番は無くなった。

一方、里中は岩城・殿馬同様主役扱いである。
里中は小林の控え投手であったので、この一事実が彼の生涯を決めたのである。

敬遠と言えば、巨人軍の松井を思い浮かべる。
松井の一言。
”小学生の時にはいろいろ読んだが、中学、高校と野球の練習で漫画を読む時間が無くなった。”

非常にフザケタ”野郎”である。
松井を嫌いではなかった。この一言を聞くまでは。
ところが、彼の様々な映像が、全く厭な奴の仕草として浮かんでくる。

高校時代、バッターボックスに入るときの、PL学園モドキのお祈りみたいなポーズ。
連続敬遠でのファーストベースまでの走り方やその時の表情。
皆気に入らなくなってきた。
私は、斯くも執念深い性格である。

たった一言の発言で、その人を嫌いになってしまう事がある。
逆もまた真なりではある。

2001/10/26

文責:い 50点

No.644

点、線、面、立体。

線(一次元)上に点は存在できる。
面(二次元)上に点・線は存在できる。
立体(三次元)上に点・線・面は存在できる。
次元の話をするには、必ずしもこういったベクトルを積み重ねる必要は無いのであるが、便宜上こう書いてみた次第。

時間のベクトルと重力のベクトルとをマゼコゼにして、立体の三次元に加えると、訳が解からなくなるのである。

重力のベクトルのお蔭(所為)で、今日の体重計の指針は思いも掛けぬ数値を指し示したのである。
食欲の秋とは良く言ったもので、とにかく全ての食物を美味いと感じてしまうのである。
美味いものには逆らえない性質なので、自然と量的にも捗ってしまうのである。

加えて、運動不足なのである。
食物摂取と運動不足とは、互いに同じ方向性を示す傾向にある。
均衡点に向かうことが無い。
流行のスパイラル現象なのである。

困っている。
困ると欲求不満になるのである。
欲求不満になると矢鱈と食べるのである。
何となく体が活動的でなくなり(つまり、運動しなくなる)、拡張した胃は更なる食物摂取を求める。

私の身体は、満腹になれば睡眠を要求するのである。どうやら秋という奴ときたら、睡眠にも誠にカンバシイ季節なのである。
食物摂取と運動不足とに加えて、睡眠もまた互いに同じ方向性を示す傾向にある。

こと睡眠に関しては、運動している時もそうであるから理由にならないという説もある。
もちろん食物摂取も然りである。

とすれば、私の体重増加は、単に運動不足だけが原因であるという結論に達するのである。

森羅万象、複雑に見えても、単純な話なのである。

2001/10/25

文責:い 70点

No.643

一昨日のこととなるが、D工業のY社長の話を伺った。

ステインレススチールについて。
SUS304というのが一般的なステインレススチールであることは、皆さんご案内の通りである。
簡単に言えば、ステインレススチールは磁石に対して無関心である。
磁石がくっつかないのである。

この事実を以ってステインレススチールには着磁性が極めて少ないなどとの判定をしてはならない。
SUS430は、充分な着磁性があるという一事実を以って反論するに充分である。

そもそもSUS(ステインレススチール)とは、鉄(Fe)にクロム(Cr)やニッケル(Nl)などを加えた合金の総称で、クロムやニッケルの成分の割合によって分類されているのである。
日常我々がお目にかかるステインレススチールは、次の三種類であろう。

SUS304。
鉄にクロム18%とニッケル8%とを加えた合金。耐食性に優れ着磁性の少ないステインレス。
SUS316。
SUS304にモリブデンを2%添加し、耐食性を更に向上させた合金。
SUS430。
鉄にクロム18%を加えた合金。SUS304と比べてみれば、ニッケルの含有が無い合金である。
着磁性があり、耐食性はSUS304に劣る。

ついでに言えば、錆汚れ(ステイン)の無い(レス)鉄だからステインレススチールなのであり、ステインレススチールの日本語での通称”ステン”では何が何だか訳が解からない用法である(あなたも今日からは”ステンレス”と呼ぼう。”ステインレス”だと嫌われるかもしれないから少々注意のこと)。

この辺りが面白いところで、例えば、水は電導性が無いという知識を持った真面目な青年が、水に濡れた手でコンセントに誤って接触して死んでしまう愚に似ているのだ。
(念のためであるが、水は電導性が無いというのは正しい。しかし、我々の知る水は、電導性という観点に於いて極めて高水準の性能を持っているのである)

酢は嫌いだけれども寿司は大好きですと言ったら、カツオの握りを出されて手を付けられなかった話と似ている。
これ、解かりますよね!

2001/10/24

文責:い 70点

No.642

今日は紙の枚数を数えるのである。
100枚づつ10セット、都合1000枚を数えていくのである。

一万円札を数える時を想定しても良い。
一般には、片手で束ねた札を持ち、もう一方の手で一枚づつ捲って行くやり方がある。
銀行ではこの方法ともう一つの方法とで確認していくらしい。

その方法とは、片手で掴んだ札の束を大捌きにして扇子状の形にして、少しづつはみ出した端を幾枚か単位で指を挟み込んでいくというあのやり方である。
言葉で表そうとすると厄介であるが、解かっていただけたものとして話を進める。

で、この時に、何枚を1単位にするかが問題ナノデアル。
2枚1単位で括っていくと、100枚を数えるのに50回要する。
3枚であると33回と1枚ということになる。
更に4枚ならば(これは忌数であるから触れない)...
5枚ならば、20回である。

10枚ならば、10回であるが、その10枚を1括りにするのは一目瞭然とはならないであろう。
私の場合には、悩みに悩んだ挙句、3枚を通例としている。
見た目で解かり、スッと括れるのである。
2枚で括ったら、次のを4枚にするなんて業も可能である。

さて、ここから何を教訓としたいかなんてことは関係ないのである。
”教訓”などは、加川良に任せておけば良いのである。

10個ある荷物を30mばかり移動する時にも悩むのである。
重さは各種ではあるが、無理すれば一度に3個運ぶことができる。

この時、2個づつ5回で運ぶのか、3個づつ2回2個づつ2回合計4回で運ぶのか、3個づつ3回最後に余裕の1個を1回合計4回で運ぶのか、相当悩むのである。

こんな感じで悩みませんか?

2001/10/23

文責:い 80点

No.641

久しぶりに報復について。

アメリカの論理(全てについて賛同している訳では無さそうではあるが、アメリカ以外のテロ報復賛同国も根源は同じ)で、政治的に正当化する作業が進展している。

これで良いのか。
報復作戦終了後のアフガンの政権担当者を、当事国国民の意識とは別に決定しようとしているのである。
当事国国民の声が聞こえてこない。

ジャーナリストを自称する人々が、この地に赴いて活動していると聞くが、何をしに行っているのであろうか。
そもそも、一般市民は今何が起こっているのかを知っているのであろうか。
ジャーナリストたちの役割が、この地で起こった事柄を取材することだとのみ考えているのであれば、この人々によって齎される報道は、誰のための報道なのかが解かってしまうわけである。

今何が起こっているのか、そして、これから何が起ころうとしているのか、私も知りたいから現地のジャーナリストに期待するものは大きい。
しかし、私は野次馬に過ぎない。
現地の人々は切実に情報を欲していることであろう。

冬に入る前に、食料の調達貯蔵に駆けずり回っている人たちこそ、私たちが友にすべき人々なのである。
国境が封鎖されたり、バクダンが降ってきたりするのを好ましいとは思っていない筈である。

(生物兵器を含めた)武器管理能力の杜撰な国家であるアメリカは、自分の蒔いた種を潰しに掛かっている。
自作自演、マッチポンプの経済戦略との感想を持つ。
如何。

2001/10/15

文責:い 60点

No.640

お祭りの準備やら片付けやらで、近所の人たちとお付き合いする季節であった。

私の住む集落は、”本郷”と称する。
ここには”本郷時間”という、他所の土地の人々には(そして、住人ではあっても居住期間の短いお嫁さんや子供たちにも)大変迷惑な時間が流れている。

集会場があるのである。
私はその集会場に近い場所に住んでいるのであるが、最も遠い家は1Km程離れた所にある。
遠くなると自動車で来たりするのであるが、イズレニシテモ集まるのには時間が掛かる。

18:00集合と指令されたら、18:00に家を出る支度を始めればよいという考えの人が多い。
で、18:00集合というのは、18:20から何かを始めますという話なのである。

さりとて、役員は流石に18:00には到着していていないわけにはいかないのであって、この辺りの機微を説明するのには少々時間が必要である。

とある役員が、”お見えになっている方は少数ですが、定刻でございますので始めます”なんぞとやってしまうと、この役員は何年間かは覚悟が要る。
”あの野郎は、とんでもねえ奴だ”、こうである。
何かにつけ言われるのである。

夏の共同作業も気を付けねばならぬ。
”5時から始めます”
5:00と17:00とは、大違いである。
どちらもあり得る。
毎年の行事ならば、判断が付きそうなものであるが、時にサニアラズなのである。

この種の例ではないが、今時分の朝5時は暗いのである。
お祭りの準備作業で、この時間を指定しているのがある。
20人からの村人が、銘々鍬・鋤などを手に、道路をうろついている。

車で通りすがる人々はどんな想像をするのだろうか。
私が見知らぬ土地でこんな光景を目にしたら、気持ち悪いが先に立つ。

お祭りとは、かくも神懸りなのである。
暗闇に目が光ってたりして....

2001/10/12

文責:い 70点

No.637

コストパフォーマンスという概念が邪魔になった。
自動車について考えていたのである。

ご存知カローラを基準車に据えてみる。
まずは、この基準車とF1カーとを較べてみる。

ノットイーブンな(伊丹十三の随筆で読んだだけで本当のところを知らないが、イギリスで普通の道路を走っていると、ノットイーブンという表示があり、確かに日本の高速道路にある道路の継ぎ目程度の段差があったという)我家の近辺の道路を乗り回すときに、カローラは快適である。
昔、妻が乗っていたことがある車であるから、これは実証に基づく。

さて、ま、フェラーリでもトヨタでも何でも良いのであるが、F1カー(今日はフェラーリ、明日はトヨタなんてのも良さそうだ)に乗って、DIYショップにでも買い物に行くことにしよう。
”赤いペガサス”では、ボンベイブラッドを求めて、アウトバーンを疾走するF1カーとF1ドライバーという設定があった。
だから(?)一般道を走ることも許されていることにしよう。

しかし、多分、辿り付けない。
我家の庭から面の道路まですら辿り付けそうも無い。
これは想像の域を越えない話ではあるが、許して貰う。
こんな車は役立たずなのである。
高い金を支払って、役にたたねえ奴である。

これで話をお仕舞いにするわけにもいかないので、仮に、最低地上高の問題はクリアできたとしよう。
DIYショップに到着したのである。
今日の買い物は1斗缶のペンキである。

駐車場までえんしょと運んできた。
ここに至り、私は、”何処に積んだらイインダ”と、叫ばねばならない。
こんな車は役立たずなのである。
高い金を支払って、役にたたねえ奴である。

この手の罵りは、幾らでも書くことができる。
枚挙に暇が無いって奴だ。

とりあえず今日はここまで。
コストパフォーマンスという概念が邪魔になった話まで辿り付けないのである。

フェラーリは、私の好きな車の一つであります。
罵ったままにするわけにはいかないのである。
何時かきっと...

2001/10/11

文責:い 90点

No.636

昨日の珍味については、今後触れることは無いであろう。
問題は、ボルドーなのである。

普段は夏でも熱燗を願い出る私である。
米の酒なのである。
穀物を利用する酒である。
日本人の場合、主食を酒にも利用している。

ウイスキーやバーボンなんていう酒も穀物を利用している。
ところが、ブドウのように主食に認定されることの無い原料を酒にしている民族がある。
何故だろう。

そもそも、貯蔵の利く穀物が、偶然の産物として酒になってしまったというのには考えが及ぶ。
置いといたらこんなんなっちゃいました、という感じ。
ブドウを蓄えようという発想はオカシイ。
オカシイ、というのは、私の思いが至らないという意味である。

穀物は、貯蔵ができるから貯蔵するのである。
この置いておくという行為が、醗酵するという工程に一致するのである。
ブドウが貯蔵できるとは思えないのである。
貯蔵という人間の行為無くして、醗酵してもらっては困るのだ。

葡萄酒は作ったことが無いから確かなことは言えないが、もしかして、葡萄酒の製造工程には”水”の添加が無いのであろうか。
そもそも美味い水が無いから、何とかブドウ水を貯蔵しようとしたのだろうか。
穀物酒は、水の添加というよりも、水そのものが主原料である。

現在の日本酒は、多分、史上最高峰の品質である。
洗練された(極めた)製造技術が存在する。
素晴らしい水が存在する。
技術は維持できるであろうが(希望を込めて言えば、まだまだ進歩するだろう)、水は劣化する一方であろうことを考えると、今後数年を経ずして、現在の水準の日本酒が飲めなくなるだろうと思う。

呑むのは今しかないのである。
大いに呑もうではないか。
最高峰の品質の日本酒を呑めるというのは、大いに結構なことなのであるが、これは決して楽しい話ではないのである。

2001/10/10

文責:い 70点

No.635

珍味。
山海の..という用例だと、ご馳走の意味だそうである。
テーブル一杯に盛り付けられた刺身なんぞをイメージする。

これに対して、キャビアなんかに対してこの言葉を使う場合には、乙な味のする、そして重要なことは、アンマリ多量には口にすることができないという意味合いが強い。

キッチンに入って(厨房に入るという表現に倣ったのであるが、そんな大袈裟なエリアがあるわけではない)、例えば肉なんぞを捌く。
こんな食い物に出会ったからちょっと真似してみようなんて思いつきで始めるのである。

最初に全ての材料を用意して、さて、と仕掛かるわけではないので、香辛料などあれも使ってみよう、そうだこれも使ってみよう、という具合に進展する。
ややもすると、火の通り方はこれで良しと思った瞬間に、あれも入れてみようとなる。
煮物なら被害が少ないのであるが、炒め物なんかだともう駄目である。

”自分で釣った魚は絶対に食う”と宣言している釣師がいる(こんな人に限って釣れない魚は食えないなどと嘯いて、肉を食ったりするのであるが)。
私は、自分で作った料理は絶対食うのである。
不味いものを作ってしまったときこそ進歩の契機なのである。
臥薪はともかくとして、嘗胆なる心意気である。

つまりですね、今日は朝からエライモノを作ってしまったのである。
沢山食べようとするから美味いと思えないのかもしれない。
珍味(上記用例2)としては面白そうなのである。
これに合うのは、ボルドーでしょうな。

2001/10/09

文責:い 90点

No.634

これを書いて良いのかの判断に迷っているうちに、連休に入ってしまい今日になってしまった。
連休中のテレビニュースでは、異なる側面からの批判が相次いでいたから書く。

過激な発言かもしれない。
しかし、当たり前に考えればこれ以上当たり前な発言は無いとの結論に達したと了解して貰う。

10/3の農水大臣の昼飯についてである。
千葉市内の焼肉店で、堂本千葉県知事、花沢県議会議長等とともに焼肉と牛乳とで会食し、安全性をアピールしたとのこと。
牛乳での乾杯の後に、カルビ、ロース、ホルモンを、”おいしい”との言葉を発しながら味わったのである。

この代金は誰が支払ったのかについても関心があるが、これは深入りしない。
4人で食事をした写真を見たのだが、もうひとかたがどなたなのかは、腕だけしか移っていなくて解からない。
このかたがどなたかによっては、少しばかり意味合いが異なってくるのであるが、国費で賄われたことを祈る。

で、問題は、食った部位なのである。
脳、髄を食ったとは報道されていないのである。
焼肉屋の定番メニューではないかもしれないが、わざわざ取り寄せてもらってでもこの部位を食するほうが、安全性をアピールするのに効果があるはずである。

もう一度記者団を集めて、昼食会を開いても良い。
是非とも”脳、髄”を食いながら、笑顔で(げっぷの一つもすると尚宜しい)安全性をアピールして頂こうではないか。
この会食に要する費用を、県の会計から支出することに対して、千葉県民である私は有意義であると認める。

役人が作った”風評被害なのである。
念のために言っておくが、本当に狂牛病が蔓延しているのにそうではないと宣伝していたら、これは犯罪である。
この可能性を捨て切れないから、牛を食べないという賢明な選択をしているのである。

なんてったって、今や国内初の狂牛病認定牛は、最初の検査機関の判定では狂牛病にアラズであったのである。
実際私は、あの牛は”国内初の狂牛病に罹った牛”デハナイと思っている。
”認定”されたのは確かに初めてではあっても、という意味である。

狂牛病と確認された牛を最初に検査した時に、”シロ”判定をした機関の処分(というか、そもそも何のために存在しているの?他の検査結果の信憑性は?)は不要なのであろうか。

最後にもう一つの疑問。
狂牛病と確認された牛と一緒に飼育されていた46頭を処分させたのは、国と県とである。
46頭を検査結果を待たずに処分した理由は一体何であったのか。

2001/10/05

文責:い 70点

No.630

(書き手としては、話が昨日に続いている)
戦国時代を見てみよう。
戦い破った相手の領地は即座に勝者の所有になるのであるから、戦功のあった者に対する褒賞の源泉は豊富に存在する筈である。
しかし、戦いはしても勝ち負けの決着のつかない場合、褒賞の源泉はその戦では奪い取れない訳であり、大将自身のストックを放出しなければならない。

勝ちはしなくとも、例えば相手の名将の首を取った者に対して、あるいは、先駆けを務めた者に対しては、それなりに評価して論功行賞はなさねばならない。
こんな無益な(収穫が無い)戦いが続くと、大将は家来に対して何もしてやれなくなるのである。

命懸けで戦っても大した論功行賞が無さそうだと思ってしまった家来衆は、馬鹿らしくてそんな大将を見限ってしまう。
専門武士化した下級武士にとって、意気に感じて仕える大将など存在しない。
稼ぎが問題ナノデアル。
明確なモチベーションを提示して、下級武士を家来として纏め上げていくことが大将とその側近の仕事なのである。

この場合には、”そんなに貰えるのか”と感じさせるくらいの金銭・領地をぶら下げるべきなのである。
どうせ負けてしまえば、大将・側近は殺されるのであり、金銭・領地は全部没収なのであるから、ほぼ全てを家来に行賞してやるくらいでも丁度良い。 家来は自軍の負け(大将の死)情報を知れば、散り散りになってしまい、別の仕えべき大将を探すのである。
(もっとも、下級武士が普段は百姓に従事していた時代は別である)
秀吉はいち早くそれに気付いた。
自分が露骨に行賞好きであったからである。

2001/10/04

文責:い 90点

No.629

トーナメントでの勝者決定システムの面白いところは、力の差を吸収してしまう可能性が高い点にあると考える。
これは観客の側に立った視点で捉えた考え方である。
実力あるモノが、ある種正当に評価されないシステムであることから離れられないからである。
こう考えていたのである。

10回戦って1回勝利する。
こういった実力差が存在する。
この戦力的に下位のチーム(あるいは個人)が優勝する可能性が存在することは、悪くない話である。

ギャンブルの対象にしようとすれば、胴元にしてみればハンディキャップ制度を導入したくなるところであろう。
レクリエーションとしての競技観戦者の私には、そんなものが無くても充分楽しめるのである。
特に、贔屓のチームが戦力的に下位のチームであるときには、一層興味が湧く。

競技中に偶然が左右して、一方に流れを作ってしまうケースがある。
このケースでは、両者の力関係が、3回戦って1回勝利する程度まで拮抗している場合にのみ発生し、試合結果として大差の得点が残るだけである。
だけれども、今回喋ろうとしているのはそんな話ではない。

実力的には、10回戦って1回勝利するチームの戦いなのである。
この1回をどんな舞台で達成するかなのである。
気迫・根性などいう言葉を書いてしまうと、興醒めである。
”モチベーションの問題である”、なら書き手の私が躊躇いを感ぜずに書くことができるのである。

お金であったり、名声であったり、名誉であったり、単にモテタイであったりするのである。
富とか名誉ならいらないけれど翼が欲しい人はいた。
(サッカーの応援歌にこの歌を採用した経緯を知らないのである。ご存知の方がいたらお教えください)

残念ながら翼を背中につけて差し上げて、自由に飛びまわれるようにしてあげたいのだけれども無理なのである。
従って、翼を下さいと願う人は、これを何かの行動を起こすモチベーションにするのは止めて欲しい。
実現不可能な事柄は、結局高度なモチベーションにならないのである。

2001/10/03

文責:い 80点

No.628

そうそう、”ちゅらさん”なのである。
これだけ何度も取りあげれば、諸兄にはこの番組に対する私の思い入れが理解していただけていることであろう。
じゃあ、何にも書かないで終わりにしても良さそうなのであるがそうはいかないのである。

最終回は観ていないのではあっても、最終週に展開された出来事は知っているし、その中に自分だったらと考えさせられる内容があったのである。

自分の妻の手術を自分の手で行なう。
本当に可能なのであろうか。
私は医者ではないから、この例をそのまま自分に当て嵌めて、さてどうだろうかとはならないのは当然である。
ただし、ここまで極端な例は、普通の人間(医者ではない人間という程度の意)には少ないだろう。

その例を探してみる。
警官が、自分の身内を現行犯逮捕する。
これは、可也近いような気がする。
民事で、自分の妻が訴えた相手の弁護士として法廷にて合対峙する。
これも、例としては良い線を行っているような気がするけれども、現実には無さそうである。
”別れた妻”なら現実味はあるが、逆に情況が全く異なってしまってこの種の例にならないのである。

第一、私は警察官ではないし、弁護士でもないのである。
さて、これは困ったものである。
何か良い例は無いだろうか。

自分の子供が急流に流されて溺死しかかっている。
泳ぎに自信ある親は、その急流に躊躇い無く飛び込む。
躊躇い無く飛び込んではいけないのである。
躊躇わなくてはならない。
泳ぎに自信が無くても、躊躇い無く飛び込みそうでもある。
困ったことだ。

この例を探し切らないと、話が先に進まない。
私は、本当に困っているのである。

言い辛いのだが、今度の”ほんまもん”も悪くない。

2001/10/02

文責:い 80点

No.627

”談志が死んだ”は笑いが取れるが、志ん朝ではそうはいかない。
久しく聞く機会が無かった。落語という芸能は、本当に東京だけになってしまっている。彼をして、こんな問題を解決する方向性を示せなかったのだから、もはやこれまでである。合掌。

実は昨日書きたかったのであるが、考えが纏まらなかったので一日送りにしたことがある。
そう、”ちゅらさん”なのである。

先週で終わってしまった。
何度もになるが、矢張り名作であった。
本当に久々である。
と、ところがなのである。

最終回を観ていないのである。
昼休みのこの放映時間には、爺さんに話し掛けられても空ろに受け答えするだけで適当に相槌を打っていたために、トンデモナイことになったりした事もあったりしたくらいに大切にしていたというのに、なんと最終回を見逃したのである。

仕事を優先させるという、通常の私にはとても考えられない失態をやらかしてしまったのである。
それも、一日中テレビを観ることアタワズの場所にいたのであるから、これ以上のミススケジュールINGがあろうか。
この一件にて、秘書は解雇である。

もちろん、今までの秘書は私が兼務していたのであるから、気分的に今までの秘書部分を解雇したのであり、新たな秘書部分を体内に設置したということになる。
あいつはトンデモナイ奴だったが、今度の奴もあんまり大したことが無いように見えるのが心もとない。

で、”ちゅらさん”なのである。
ナノデアルのに、ここまでで大分升が埋まってしまった。
結局何も書いていないのではあるが、本日ここまで。
毎度のことではある。

2001/10/01

文責:い 70点

No.626

タカハシが世界最高記録とかナガシマが辞任だとかは、ドウデモヨイ。
サイトウの最後の球については、始球式が試合の最後にあるとは思わなかったなんて感想を述べておけば良い。

2001年は10月になってしまったのである。
7月があまりに暑く、それに比べてしまうゆえに8月の夏が霞んでしまったために、夏が彼方に送られてしまった。
何かこう冬を感じてしまう秋が感じられるのである。

利尻では雪が降ってくれたと言うし、富士山も冠雪を呈しているし、もちろん自分の財布の中身を見るにつけても寂しいのである。
暖かいが陽であり、寒いが陰であるという観念から抜け出せないでいる。
私とすれば、寒いほうが好きである。
汗じっとりの真夏の午後も好ましさに於いて捨てがたき魅力はあるのであるが...

で、10月である。
とにかく食い物の美味い10月なのである。
そして、オリオン座の流星群があり、11月のしし座流星雨の予行演習をする月が到来したのである。
体重増を気にしながら、天気の日には明け方まで頑張るのである。