あっさりメニュー
日刊 鬼ノ胃 本日分はこちら
 

2001年09月分(09/01〜

2001/09/28

文責:い 80点

No.623

世代交代について。

プロ野球もシーズン終了である。
こう言い切るには少しばかりの勇気が必要なのであるが、多数決で採択すればこの考えは支持されそうである。
先の巨人ヤクルト3連戦を、フジテレビのネットワークで(日本テレビ系では無くなのである)放映していた。

今年一番の盛り上がりであったであろうこの3試合は、シーズン前には(そして、シーズン初めにも)重要性において低位のランクが与えられた試合であったのであろう。
既に消化試合になっている時期の放映枠との認識である。

ま、そんなことはどっちでも良い。
問題は、世代交代なのである。

巨人に於いては、投手と捕手とにこの言葉を用いて違和感は無い。
年長のプレイヤーは力が衰え(実はそんなものを計る尺度は無さそうなのであるが、結果として勝ち数の減少とか、盗塁阻止率なんて数字が使われるようである)、その一群よりも若年のプレイヤーが活躍する。
出番が多い訳である。

しかし、単純に考えてみよう。
若年層から年長層に活躍する人々が移った時、これを世代交代と言わないのはオカシイ。
更に、同じ人がずっと活躍していて10年経過したとしよう。
10年前に比べて、全ての人が10歳年をとったのである。
外から眺めたら、10年前に比べて世代が替わったと言わざるを得ないはずである。

若年化という単語では、世代交代という単語の意味を表現しきれないのであるが、代替は可能なのかとも思う。
こんなことを悩んでいる時節デハナイノダロウガ...

2001/09/27

文責:い 80点

No.622

拳を挙げてしまったアメリカは、半月を経過した今、どうやって振り下ろそうかを判断しかねているのではないのだろうか。

それとは別に、報道に携わる人々とその組織とは、もう少し綿密に事実の検証を行い、我々に報道すべきではないのだろうか。

貿易センタービルを二棟狙ったのかどうか。
この点に対して、私にはどうも納得できないものがある。
感情を超えて喋って良かろう時期が来ている。
不遜な表現を以ってしても良いだろう。

例えば、4機のハイジャック(事件直後のニュースでは、十数機とも報道されたが、あれは一体なんだったのか)の意味は、それぞれ攻撃目標を同一にする二組の(つまりフュエルセーフ)集団形成が目的だったのではないか。
そのうちの一組は、2機ともハイジャックに成功してしまい、かつ、目標地点まで辿り着いてしまった。

もちろん到達時刻に差があるから、送れて来た組は、最後の最後に目標修正したのではないだろうか。
もしかすると、一つの目標を目指した二つのハイジャック組は、それぞれの存在を知らなかったのかもしれない。
到達間際に初めてその事実を知り混乱した。

妙に旋回しての突入に、パイロットの技術を云々する議論がある。
が、あれは、目標視認したときに初めて先の組が存在し、かつ成功した事実を知り驚いたのではないだろうか、という意味である。

今一つ、由々しき問題をもっと知りたい。
一つのビルが崩れ落ちたら、隣接する複数のビルが矢張り崩れ落ちてしまった。
こんなのアリか。
ビルが永遠に存続するとでも考えていたのであろうか。

何時かは取り壊さなくてはならない筈だ。
それが200年先で、その時点で画期的なビル取り壊しシステムが開発されていることを期待していたとは言わせない。
私が知っているビル取り壊しシステムは、報道された映像しか知らないが、地域住民を避難させた上ではあるが、まさに今回の崩壊そっくりであった。

都市建造物の有り方に対する警告でもあったのではないか。

2001/09/26

文責:い 70点

No.621

サンリオだと思うのだが、”ぶるぶるどっぐ”を見た。
このキャラクター事体は知っていたのであるが、名称は存ぜずなのであった。
ブルドッグの強さを知らない子供には、この語呂合わせの妙が理解できるのかどうか疑問であるのに、何故人気があるのだろうか。
可愛いだけなのだろうか。この辺りが解からない。

輪郭が波打っているだけで、決して震えている情況の描写ではないのであるが、これが実に震えているのである。
ローマ字表記のコメントがフルッテイル。
”yappari kyoumo hurueteru”なのである。
(”yappari kyoumo hurutteiru”は穿ちすぎである)

ブル(bull)といえばベア(bear)なのである。
少なくとも株式市場の世界ではこの対比は一般的であろう。
今は、ベアなのであるなんて言い回しをする。
乱暴な熊を掴まえて、弱気だなんて決め付けているのは何故だろうか。

売り手という意味がもとらしいのだが、牛さんチームと熊さんチームとに分けて、たまたま熊さんチームが売り手だったのであろうか。
売り手は相場の上昇を期待しないからである。

しかし、売り手は凶暴であるなんていう言い回しも真実である。
売り相場は怖い。
空売りの青天井、聞いただけでぞっとする。

2001/09/25

文責:い 60点

No.620

今回の歯痛は、今まで経験したことの無いものである。
通常の食事をするまでに回復する期間が長い。
一箇所にとどまらずに、他の歯に伝染していく。

そう、ここ何日かマトモな食生活を送れないのである。
思考にも影響ありだ。
気になってしょうがないのである。
それでいて、ついうっかり忘れるのである。
充分気を付けているつもりでいて、ふっと忘れて何かの拍子に”痛っ”となる。

思考は中断されて、その後、継続しようにも中断前のことを忘れてしまう。
世のため人のための大発見は、一歩手前までは行っていた筈なのに、このようにして消えていった。
残念である。

小さなささくれが一日に何度となく何かに引っ掛かる時とか、背中の特定の地域に掻痒感を感じどうしても手が届かない時と同じように、自分に対して不愉快なのである。
ささくれ何ぞは救急バンソウコウを貼っておけば良いし、柔軟な身体に鍛えておけば手は届く筈なのである。

明後日来て下さいと言われたら、明後日行くべきであった。
二年も経つと行きづらい。
そもそも、こんな中途半端で歯医者行きを止めてしまったのは何度もあるのである。
ご近所(エリア20Km平方くらい)には、僕のカルテの無い歯医者は無いのではないか。
つまり、行き易い歯医者さんは近くに無いのである。

2001/09/21

文責:い 80点

No.616

心配していたことが現実になってしまった。
これが昨日と同じ書き出しであることを私は知っている。
なんだけれども、歯が痛いのである。

ニ三年前に、一月間ほど奥歯の治療に通っていた。
”仮詰してありますから明後日の予約を取っていらっしゃってください”というのが、担当医の最後の言葉であった。
その担当医がお亡くなりになった訳ではないのは言うまでも無い。

この日には、該当する奥歯の噛み合せ面は平面(やや盛り上がり気味)だったと記憶するが、今や、完全陥没状態である。
この歯は右奥歯なのである。
暫くは、左奥歯をメインにして咀嚼していたのであるが、右を使っても痛さを感じないことに気付いた私は、何の心配も無く食事を採ることになったのである。

半年ほど前に、信じられないことに、何故か口の中が消毒臭いのである。
これが、右奥歯の異常の前触れであると、世界中で気付いた人が一人もいなかったのだ。
気付くのに一番可能性のある私が、迂闊にも気付かない。
これは由々しき問題であった。

やがて、妙に歯の浮いた感覚が知覚されるようになり、左奥歯をメインにして咀嚼するという対処療法を久しぶりに採用した。
こんな時に限って”スルメ烏賊”とか”ビーフジャーキー”を貰ったりするものだから、止せば良いのに、左だけで可也の量をコナシタノデアル。

こういった行為は、顎にとっては迷惑な話であり、また、左にしたって決してマトモな歯ではないので、右も使うことになるのである。
と言うか、左が痛くなっちゃったので、右メインで咀嚼するという対処療法を採用したのである。

このまま、左右の繰り返しでずっと生活できるほど世の中は甘くないのである。
実りの秋なんだよな。
歯が使えないと、美味そうな食い物が全然美味くないのである。
どうやら年貢の納め時であるらしい。
ニ三日様子見の後、どうなることやら。
決して楽しくは無い。

2001/09/20

文責:い 90点

No.615

心配していたことが現実になってしまった。
小泉の本心なのであろうが、対米支援7項を発表してしまった。
具体的な話なんぞは、こちらから積極的に喋ることではないのである。

ましてや、軍としての自衛隊派遣など、アメリカは望んでもいないのに、臨時の法律を制定したい勢力に乗じられてしまった。
乗じられたというより、小泉本人も至ってやる気があるのであるから、その気持ちを利用されたというべきか。

国家的に狂気に陥ったアメリカは、戦争がしたいのである。
人間一人ひとりに聞いてみれば、誰も戦争など望んでいないのである。
ところが、仕事における立場、特に、選ばれて国家の運営を任されたと錯覚している人々にとっては、大義名分を探し出しては、個々の人間の気持ちを踏みにじる。

その大義名分は、個々の人間の気持ちを正直に表現することがアタカモ”悪”であるかのように錯覚させるのである。
大義名分など振り翳してはイケナイ。
アブナイのである。

繰り返すが、報復は、相互にエンドレスである。関係する人の数を無限に多くしていくのが最大の欠点である。
イスラムの教えに於いては特にその傾向が顕著である。
キリストの教えは、片方を殴られたらもう一方を差し出すとされている筈であるが、自分自身については斯くあっても、友人である隣人に対しての仕打ちを見捨てることができない。

宗教と政治とを分離した国家でなければ平和は維持できないだろう。
日本は政教分離した国家のままでいたい。
エコノミックアニマルで良いではないか。
損害を補填してもらうという、唯物論で今回のようなテロを解決する道はある筈である。
エコノミクスの根源は個々の人間の良心なのであるから。

従って、靖国問題は、重大事である。もっと深く考えたい。

何か最近10日程書いていることは、面白くない。
星の話とか、京都の話にしなければ...と思うのである。

2001/09/19

文責:い 70点

No.614

大分前になるが紹介した現役スッチー複数のメルマガ
フライト ア GO!GO!  http://www.f55.co.jp/melma.html
 には、活発な発言が出てくるかと思って注目していたのだが、全然無し。

アメリカは正義を謳いながら、ニューヨークの株式市場では、露骨な銘柄選択している。
もっとも、この株式市場に参加しているのはアメリカ国民だけでないことは承知している。
しかし、それでもいわなくちゃナノデアル。呆れたものである。

”なくちゃ”のフレーズで思い出すのが、陽水の”傘がない”だ。
なんのどうのこうのああのと言ったって、問題は今日の雨傘が無いなのである。

キリンの聞茶のCMをやってて貰って一向に構わないのであって、初期の作品が名曲であることと大いに関係がある。
矢張り陽水は陽水である。
聞茶も良品であることでもあるし、大いに飲むべし。

週刊朝日(読売かもしれない)を読んでいたら、台風の話題が有った。
気象衛星を実用化した初期の頃のこと。
台風の発生を見落として、40号の次の41号を命名してしまった後に、衛星によって齎された情報を解析したら、この二つの間に2つの台風が存在したことが明らかになった。
ところてん式に号数を後送りにすると、41号以降が紛らわしいので、40.1号・40.2号と名付けたそうである。

統計的には重要らしいのだけれども、私どもには何等影響無さそうである。
あくまでも、問題は、今日の雨傘が無いなのである。
今日の返済 金が無いとも書く。

2001/09/18

文責:い 80点

No.613

アメリカの正義に多くの国家が付き合う振りをしている。
付き合わされているという表現が正しそうに見えるのが、何とも困った問題である。

ところが、我国ときたら、積極的に付き合おうとしている。これが第一点。
具体的にどう付き合ったら良いのかが見出せないでいる。これが第二点。
これでは、政治的にすら正当化することができそうな正義は無い。

お喋り好きな経済界の人々のコメントも出てこない。哀悼の意すら表明していない。
仕事中に殉じた同朋の存在があるのであるから、何らかの言葉が発せられて良いのではないだろうか。
正直な気持ちを表現すれば良いだけなのにである。
戦後自分たちだけの金儲けに走ってきた年寄りの集団は、世界における居場所が無いのである。

自分の肉親や友人を傷つけられたら、物事の経緯なんぞ関係なく、残るのは傷つけた人々に対する憎しみだけである。
報復なんてモノは、この憎しみの規模を広げていくだけなのである。
止めて貰いたいのである。

ここのところ、この問題でヒキズラレテイル。
でも、自分に災いが降りかかる可能性があるだけに、個人レベルでの反戦は謳い続けなければならないと考える。
他山の話ではないのである。

2001/09/17

文責:い 80点

No.612

宴会の席で、季節感の無い料理ばかりを食わされると、不機嫌になる。
大好物づくしであっても、何か違うんじゃないかという気がしてきて不機嫌になるのである。

自分で注文して肴をつまむのとは話が違うのである。
店が気に入らなくても、呼ばれた席には顔を出さない訳にはいかないのであって、もちろん出席するからには料理を期待してしまうのである。

天麩羅の揚げてから1時間くらい経ってしまったの(嫌いではないのであるが)は、見苦しい。
こんな店に限って、給仕用のお盆が、零れた汁であろう液体に濡れていても頓着しない”お姉さん”に、どすんと鉢を並べられたりするのである。

この項については、当方に問題があるのは承知で言えば、矢鱈に早く食器を片付けたがる給仕係員を好まない。
暖かいものは暖かいままに、冷たいものは冷たいままに食して欲しいという料理人の言葉を本人から聞くと、納得するのである。
しかし、フランス料理や会席膳のように、決められたルーチンで貪っていくようなスタイルは馴染めないのである。

あれもツマミ、これもツマミ、又あれに戻って味を楽しむ。そんな形式を望むのである。
お銚子も呑んだ分は全て目の前に並べておきたいのである。

田舎の晩餐に慣れ親しんできたという自身の歴史にその根源が求められると思っている。
大皿にてんこ盛された料理の数々を、(箸を裏返すなんて方法をマナーだと考える人が一人二人いたりするのも良い)大勢で突っつくっていうのが好ましいのである。

庭の畑からモイデキタ素材で、これでもかと言わんばかりの量の惣菜が、タダッピロイテーブルに載せられている。
いいねえ。
季節感も出ますわな。

2001/09/14

文責:い 90点

No.609

アメリカも少し冷静になってきたか。
パウエルの目つきが、湾岸戦争の頃と比較して、可也柔らかくなってきている。
もともと血気にはやるタイプではないと見ていたが、当時、現場にいるとああいう感じになるのも仕方なかったのであろう。

彼が中枢部にいる限り、大統領の小心さから来る無茶な行動には歯止めがかかりそうだから安心である。
小泉はまだまだ感情だけで動きそうである。
牽制する人材も我内閣には存在しそうも無いので(官房長官は違う立場で感情((勘定?))だけで動くフシがあり、時に対立していそうではあるが、健全な歯止めにはならないから厄介である)、アメリカの報復問題が拗れると、国内でのテロの発生は免れないだろう。

あんなに早く、具体的(我々の日常会話での”具体的”とは違って、アソコまでコメントしたら可也”具体的”なのである)な国としての方針を述べてしまってはダメナノデアル。
総理は本当に外交音痴なのであろう。

外務省の騒動がこの場面での日本の行動を制することを不可能にしたという意味で、一連の不祥事発覚及び大臣との確執があったこの時期に今回のテロが発生したことは、我々国民にとってまことに不幸なのである。

2001/09/13

文責:い 90点

No.608

狂気に対して狂気で報復する。
これを戦争というのであろう。
しかし、戦争を回避するための方策を模索してきたのが、先の大戦からの人類の歴史ではなかったのか。
少なくとも、国連の名のもとに狂気からの覚醒を期待しようとしてきたはずである。

アメリカという国は、自分の正義を疑わない。
政治的に正義として正当化しようとして、制度の運用を謀って来た国である。
念のために言えば、小泉という人は、アメリカを大好きなのである。

ここまでは、熱に浮かされている輿論に対する警告だ。

ピッツバークにて墜落した飛行機の乗客の携帯電話による家族に送った言葉が気になる。
爆発音がして室内に煙が立ち昇ったと告げているのである。
その電話で話をした相手である家族は、その言葉を聞いた後、どーんという音を聞いて即座に電話が切れたと報告した。

アメリカ政府の指示で飛行機にミサイルが打ち込まれ、撃墜されたと考えるのが普通ではないのか。
そうだとすれば、何十人かの乗客(テロリストを除くことにしよう)を殺戮したのは、国家である。

そうしたことに正当性はある。撃墜しなかった場合、その後の展開を考えれば納得せざるを得ないであろう。
しかし、誰かがその責任を取る必要があろう。
説明を要するのである。

ここ数週間、テロ発生の可能性が高いと囁かれていたという。
私は聞いていない。
何故、周知させていなかったのか。何故、報道しなかったのか。

ここに記載した2つの隠滅は、政治的に正当化されてしまうのかもしれない。
しかし、事実の報道が人類に不利益を与えた例を私は知らない。
隠すことで不利益を与えた例は数え切れない。

アメリカの国会議員は、党派を超えて一丸となってこれからの事にあたるという。
大政翼賛会である。

なんでも反対というグループがいなくなるのは危険である。
一つの方向に流れる風潮を、政治生命を懸けて抵抗する政治家の出現を期待する。

我国内においても、なのである。

2001/09/12

文責:い 80点

No.607

昨日は、午後からずっとテレビの前に釘付けであった。
午前中も、時々合羽を着ての外回り確認時以外はテレビを見ていた。

各局の台風特番でもイライラしていたのである。
それが、夜の23時になって、ニューヨークに移ってからは、何倍にもツノッタノデアル。

筋書きが彼らの手元に無い情況では、取材記者・キャスターの未熟さが目立つのである。
もちろんディレクターも訳が解かっていない。
情報源の確認(信頼性の判断)が、普段訓練されていないのであろう。
大本営発表を取材するのが取材だと、常日頃怠けているからである。
建物が瓦解した瞬間、大変だと視聴者と一緒に驚いてしまっている。
自分の目で見た情報だけで、あの建物が崩れていくことは、想定内の出来事としていなければならない。
何時何分頃瓦解予定であるというショーの筋書きを渡されて、若干の時間のズレを指摘するだけの報道に慣れてしまっている。

筋書きの無いドラマ等と言って、スポーツ番組報道を得意とする人もいるが、彼らの即興と称されるのは、彼らを取り巻く多くのライターが想定した原稿から選択しているだけなのであろう。

キャスターにどれだけの権限が与えられているかも問題である。
渡された原稿に記載された情報の採否の判断をしていない。
従って、同じキャスターという語り手の口から、矛盾した情報がなんの躊躇いも無く発せられるのである。

具体的な事例は明日披瀝。

2001/09/10

文責:い 80点

No.605

新米登場。
もう既に今年度米を食した方も大勢いるだろう。

我家は、所得税法上米作り農家である。
農業委員会にも、農地購入権利を有すると認定されている筈である。
しかし、現実には我家の誰一人として米作りをしていない。
それは一向に構わないのであろうが、何かが変であることに変わりが無い。

第一、我家の田んぼには、稲の刈り取られた跡が残っているだけで、そこに耕作されていた米は手元に無いのである。
ただし、我家のではない玄米が、物置に搬入されたのである。
一日も早くと精米をして食するこの時期こそは、おかずモノも夏物と秋物がどちらも堪能できて楽しみである。

それはそれとして、毎年この時期に、向こう一年分の玄米が物置に貯蔵されるのである。
次の年の新米が搬入される前日に、今年の米が全て消費されれば好都合なのであるが、そう上手く行くものではない。
計算上からして、要消費分に若干のスペアを貯蔵するのであるから、基本的に余るのである。

この余った旧年度米が問題ナノデアル。
仮に1俵の玄米が残ったとしよう。
実際、この程度が要消費分に上乗せしたスペア米量なのである。
この量目は、我家の約2ヵ月分の消費量に相当する。
単純に言えば、この1俵をどのタイミングで食するかが問題ナノデアル。

新米を早い時期に食べたいのであるから、とりあえず前年度スペア米を残したままにして、新米を精米し、親戚縁者にお裾分けし、神仏に供え、我家の住民も食うのである。
これは、気分的にも大変良いモノであって、実際美味い。

しかし、問題は1俵の前年度スペア米なのである。
我家でこうなんだから、もう一月もすると(当地域は米の収穫時期が早いのである。一般的には10月がその時期であろう)、市販の米が全て新米に変わってしまうというのは現代の奇跡なのである。

新米という表示の、販売される食品に対する表記基準はどうなっているのだろうか。

2001/09/05

文責:い 00点

No.600

さて、600号なのである。

最近決して忙しい訳ではないのであるが、いやむしろ暇なので、忙中閑ありの逆で、だらだらと日々を過ごしているので、日刊鬼ノ胃を”随刊”に貶めている。

とはいえ、別に義務的に発刊せねばならぬという約束も無い筈だなどと自分を慰めて、いい加減な生活に理由付けしているのである。

これではイケナイと、何かのきっかけで正当なる”日刊”鬼ノ胃にしなければならないのであるとの気持ちがある。
こんな時にちょうど600号を迎えた訳である。

言い訳をだらだら書いてもタメならないのであって、自戒を込めて短文にて挨拶とする。

今後も宜しく。

なお、取り決めとか、法律とか、自戒(自分で決めて自分に課した戒律)とか、全ての約束事は破られるために存在することを、読者諸兄は忘れてはならないのである。
人間の営みの歴史は、こうであることを教えているのであるから。

2001/09/03

文責:い 80点

No.598

完璧。
”完全な壁”だと思っていたのである。
今まで何度も”完璧”という文字を綴ってきた。
もちろんワープロ機能を使用してである。だから、多分間違っていなかったであろう。

この手の熟語については、その故事を知っていれば、こんな思い違いをする必然は無い筈である。
そう考えて、ここのところ意識して故事を綴った書物を買い求めている。
何、”故事を綴った書物”なんて言っても、要するに”雑学教養本”の類である。

諸説入り乱れているのが実態であって、そのコジツケもまた楽しいのである。

スズムシとマツムシとの名称交換は、割と有名な話らしく、様々な本に書かれている。
ただし、今なら秋を感じ、歌にするなどいう風流心を抱かせてくれるようなこれら二つの虫たちも、実際の和歌の世界では、モダンな題材であるらしい。

マツムシなどときたら、”待つ”の発音に引掛けた作品しかお目にかかれない。
もともと言葉遊びの世界なのであろうから、今風の風流さを平安までの歌に求めても仕方が無いのだろう。
それが風流なのだと割り切れる御仁はそれでよいのだろうが...

いよいよもって、ほんま、秋ですぞ。