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日刊 鬼ノ胃 本日分はこちら
 

2001年08月分(08/01〜

2001/08/27

文責:い 70点

No.591

夏の洪水の話を聞くにつけ、昨今の衛生事情は良くなったと実感する。
赤痢、コレラは、国外からの旅行者検疫所で確認される以外には、とんと聞かなくなったのである。

1822年(江戸、文政時代)に初めてコレラが日本に入り込んだ。
”三日コロリ”と呼んで、当時の人々は恐れたという。
”三日コロリ”の”コロリ”が、コレラの語呂合わせだという説を信じていたのであるが、どうも違うらしい。

というのも、元禄(1600年台最後の頃)時に、江戸で”古呂利”という病気が頻発したという記録があるからである。
ただし、これは急に患いすぐさま死ぬ病気を一般に指し、伝染病に限らない。脳卒中死なども該当したらしい。

何故か南天の実と梅干とを煎じて飲めば病気にならないと言われ、さもないと、ソロリと患いコロリと死ぬので名付けられた伝えられる。

”ソロリと患いコロリと死ぬ”。
商品には使えないだろうが、優れたコピーである。
一度聞いたら忘れられないの類である。

とまれ、”三日コロリ”は、1858年に第二次流行が確認される。
ただし、コレラ菌の発見は1876年コッホによるのであって、コレラの第二次流行と呼ぶのは状況証拠による。

長崎に入港したアメリカの蒸気船ミシシッピ号の乗組員によるコレラの搬入が原因であった。
この時、勝海舟は検疫所の存在を知り、港での国外からの伝染病侵入を防ぐ方法を幕府に進言するが認められなかった。

記録に依れば、夏の50日間に全国で三万人が死に、その後の3年間で死んだ人の数は10万とも26万ともされている。
九州から東北地方まで日本全域に渡っているのである。

2001/08/26

文責:い 60点

No.590

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

ローマ帝国歴代の皇帝は、ワインを鉛のジョッキで飲む習慣があった。
これが、部下の深慮遠謀によるものであるかどうかは解からない。

しかし、鉛中毒による”精神異常”などの症状が発症し、異常な言動をしたとみれば、これこそがローマ帝国皇帝を皇帝タラシメタと言えなくも無いような気がする。

2001/08/25

文責:い 90点

No.589

餅。
中国では、小麦粉を捏ねて作った食い物の総称と知った。
これを知らなかったがために、長い間頭が混乱していたのである。

全く解からないなら悩まずに済むのであるが、なまじ糸口があるだけに問題の核心からむしろ遠ざかっていってしまう。

浅学者にはこの傾向があるから、慎まねばならない。

2001/08/24

文責:い 60点

No.588

台風について。
今回の台風は不思議な台風であった。

現在千葉県再上陸などと報道されている時点では、既に日が差していた。
進行方向前面に、二筋の雨雲が確認でき、確かにその二つの雲が通りかかるエリアに入り込んだときの降雨は凄まじかった。
しかし、それだけであった。

前評判が前評判であっただけに、雨風対策は可也の時間を費やして行ったのである。
働く鬼ノ胃であった。
2000Kmという我国全土を覆い尽くすほど途方も無い勢力範囲を持ち、移動スピードは15Km程度という自転車並みの低速度で移動するという情報により、抱くイメージは脅威そのものであった。

それだけに、朝の9時前後に記録した集中的な豪雨は、夕方からに予想される直撃の被害を想起させるに充分であったのである。
慌てました、なのである。

お客さんの一人から、”屋根の雨水の排水が裁ききれていない”との一報が、09:10に入ったのである。

上下の雨合羽を着て出発なのである。
ところが、ズボンを穿いた途端に胴のゴム紐が”ぷつん”また”ぷつん”と2本とも切れたのである。
不吉な予感。
しかし、時間的な余裕が無いので、緊急時とばかりに腰紐を絞めて出発である。

先の雷雨では大丈夫であったので、安心していたのであるが、今回の雨の集中度はアレを越えたというのである。
さりとて、為す術もない。
はっきり言って、お祈りの世界である。
雨よ止んでくれ。
そして、もうずっと降らないで。

現在も行われているとも聞くが、古来天変地異、病気、戦などの全てに、”祈り”が重要な地位を占めていたという事実に、笑っているだけであった私の人生観を変えたと言っても良い。
それほど大袈裟な降雨だったのである。

幸い被害というべきような事態には陥らなかったので、笑い話で済ませることができるのである。
その後には、昼時に第二派の雨雲による降雨は記録されたものの、件の屋根の雨水の排水も正常に機能してくれたのである。

今回の台風で被害に遭った方々には申し訳ないが、何とも拍子抜けした台風であった、というのが率直な感想である。

2001/08/23

文責:い 70点

No.587

遂に決意したのである。
蚊と戦うのである。
世に言う”鬼ノ胃の平成蚊退治”である。

金鳥さんやベープさんには申し訳ないが、この世の蚊を一掃してしまおうと考えるのだ。

刺されるときの、あの痛いとは感じない中途半端な痛感。
その後の痒さといったら無い。
薮蚊ときた日には、その度合いが甚だしい。

なに、一掃を企画した契機たるや単純なのである。

座敷で本を読んでいた。
ちょっとした相手との会合のための刻限に若干の余裕が会ったので、メカシコンデ本を読んでイタノデアル。
世の常で、読書すると眠くなる。
眠くなれば横になる。

そう、横になった瞬間に、その悲劇は起こったのだ。
しかし、その時には、私はその事件が発生した事実を知らない。

横にはなったものの、眠ってしまう時間的な余裕が無い。
栞をあてた私は、少し早いかなと思いつつも出かけることにしたのである。

”背中になんかくっついてるよ”との家人の一声に、姿見なんぞを覗き込むと、やや変色したが、しかし明らかにまだ鮮血と言えるであろう状態の直径1cm程のシミが、我お気に入りのシャツに。

我体内より出でしB型の血液と共に、見まがうことは決してない蚊の轢死体がシミの輪の中心にあるのである。
この瞬間、お気に入りのシャツがお釈迦になったことを悟った私は、トホホ...なのである。

やがて頭にきて、遂に決意したのである。
でも、どうやって戦ったらよいのかの作戦会議を開く日程さえも、いまだ決まらないのである。

2001/08/22

文責:い 90点

No.586

(昨日を引き継ぐ)
県のホームページが難しいなら、私が設置しよう。
これは、ホームページのコンテンツとしては、可也イケル筈である。
民間の”ここがケシカラン”なんて項目から出発してもらい、やがて、”官”の核心に至る、という推移が最高のパタンである。
(パテントが取れるならば、即座に申請したいものだ)

もっと現実的で、このあたりを割り切っていただけると良いのであるが、情報公開をして貰いたい文書があるのである。
議会が動いてくれると実現しそうな気がする。

少なくとも、それぞれの官庁のホームページにある”皆様のご意見はこちらへ”といった場所から送られた、官庁への意見・希望のメールは夥しい数が寄せられていると推測する。
これを、匿名扱いにして、公表してくれるのも面白い。
察するに、こうして送られたメールの送り主は、公務員の方が可也の割合を占めているだろう。

先に”議会が動いてくれると実現しそうな気がする”と記載したが、議会(議員)を信頼しているのではない。
私は、私の言う”官”より、”議会”の方が、より劣っていると思っているのである。

2001/08/21

文責:い 90点

No.585

公務員についての批判的な記載を意図的に行っているのは、個人攻撃ではないからできるのであって、特定の個人を想定してのものではないのである。
そんなことは、解かりきったことなのであろうが、私自身が実は気が付いていなかったようなのである。

私のメールマガジンの読者には、公務員の方々が大勢いらっしゃる。
個々の人々とも親しいと思っている。
オフラインで話をする機会も多々ある。

この時に感じることがある。
彼らは概ね真面目である。
そして、確かに公務員らしさに染まっているのではあるが、そして、最大限その地位(官職ではない)を均衡の感覚で泳いでいる。
センスオブプロポーションである。

私以上に”官”のいやらしさを知っているし、危機感を抱いている。
そして、改革には積極的である。
彼らの意識は、外部からの批判による改革以上に
改革を求めている。
それでいて、個々の事例に於いては、私の批判に抵抗する姿勢をみせる。
素晴らしいのである。

一様に、この数年で随分変革したと言う。
多分正しい。
ただし、この変革には、”情報公開”の流れが寄与していることを過小評価している。
全てが、この”情報公開”ゆえに変革したという認識は無い。
敢えて断定したのは、”情報公開”が中途半端であるという現実があるからだ。

そこで、提案がある。
参加者を公務員に限定した掲示板を県なら県のホームページに設置して、もちろん匿名で全てを語ってもらおうではないか。
私なんぞが指摘する事柄など、枝葉末節でしかない実態を赤裸々に表現してもらおうではないか。
(明日につづく)

2001/08/20

文責:い 80点

No.584

生垣の手入れが、思わぬ波紋を呼ぶ。
なあに、大したことは無いので気軽にお聞きくだされ。

先だっては書かなかったのであるが、作業終了後、風呂に入ったときに散髪したのである。
自分で散髪するのは今回に限ったことではないので驚くに値しないのである。
しかし今回は、通常時に比してちとばかり散髪条件に差異が見られた。

タイガーカット(タイガーウッドにあらず)、または、加藤清正と呼ばれる髪型にするのが常である。
(念のためであるが、一般的にトラガリ(虎刈り・虎狩り)のことである)
ところが、今回は、私のこのヘアメイクを見慣れた人々から、”どうしたんだい”という疑問が発せられたのである。

格別”どうした”つもりも無いので、”何が”とこちらから問い被せると、”いつもと違う”との答えである。
本人が”いつもと同じ”と言っているのに、他人が”いつもとは違う”と言う。
他人が客観であり、自身は主観などという事は無いのではあるが、複数の他人の言と単数でしかありえない自分自身の言とでは、最近の私としては、他人の方が正解であると信ずることにしているのである。

”幾千万といえども我行かん”とはならないのであって、多分周りの人の言うことが正しいであろうとの結論に至るのにさしたる時間は必要ではなかった。
何せ、鏡などは見る暮らしをしていないのである。
鏡を見たら、即座にわが主観に誤りのあることに気付いたのである。

じっちゃんの名に懸けたりしなかったが、謎は全て解けた。
今回は、洗髪をしてから散髪したのである。
充分に濡れた髪は、櫛状のすきバサミの刃に、見事束になって切られてしまったのである。

今日で10日も経ったのである。
誰も気付かなくなったのである。
今後も、このままで良いのである。
自分は、一向に気にしていないのであるし。

2001/08/19

文責:い 60点

No.583

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

子供が誕生すると名前を付ける。
字画が良い名前を付けたいと願うのは、親心である。

子供が結婚すると言う。
改姓後も字画が良い時には、良い縁であると判断し、さもなくば結婚反対の理由のひとつに数え上げる。
結婚に反対するのも親心であれば、賛成するのも親心である。

神憑り的な屁理屈は見るに耐えない。

大人になった子供の行動には、親は妙な理屈で反対しないほうが良いのではないか。
理路整然とした反対理由を考えようではないか。

何のことを言っているのやら。

念のためではあるが、我家にこの問題(娘の結婚)は存在していない。

2001/08/18

文責:い 70点

No.582

このくそ餓鬼が。
横に並んで自転車に乗ってやがって。
邪魔だ邪魔だ、ぶつかりゃイテエゾ、とばかりに、スピードを緩めることなく自動車を走らせる。

言葉とおりに、ぶつかり、ホントーに痛がる重傷を負わせた。
これは、傷害罪に該当するらしい。
傷害の故意が明らかだというのである。

同じ情況で、おいおい、そのままだとぶつかってしまうぞ、とクラクションを鳴らして警告し、スピードを緩めることなく通過しようとしたら、その音にびっくりしたのか、よろけてぶつかってしまった。

業務上過失致傷罪として、過失犯なのではと思える。
しかし、この場合にも故意が認められ、傷害罪が成立する場合がある
”未必の故意”なんていう専門用語の登場である。
場合によっては怪我をしても止むを得ない、と結果の発生を認めているという。

ぶつかるかもしれないとは思っても、まあ起こらないだろう、と結果の発生を認めない場合、”認識ある過失”として、故意は認定されず、過失が認定されるのだそうである。

摩訶不思議なり。

2001/08/17

文責:い 90点

No.581

言い訳であるが、書きたい事が山ほどあるときに限って、新聞には今日私が批評を書かないと意味がないような記事が掲載される。
困ったものである。
困っているのは、私だけであって、つまり、ドウデモヨイのである。

さりとて困ってばかりもいられないので、本題に移る。

某副大臣の発言である。
本人の将来のために、事件の公表を控えたのだそうである。
国民のためには....の議論は、他所様に任せる。
この発言の趣旨とは異なるのであろうが、一点気になっていることがあるのである。

公務員には、所謂失業保険の制度が整備されていない。
勤務先が倒産することはないという前提で、非自発的な失業状態に陥る懸念が無いからなのであろう。
しかし、失業状態になるには、自発的な要因による場合があるのである。

積極的に職を辞す。
これは、基本的人権である。
制度としては、辞職願いが受理されて、晴れて(?)失業することはできるのである。
とすれば、失業給付を得ることができる制度は必要であろう。

逆説的にいえば、公務員こそ職を辞することが容易にできる制度が必要である。
次の職を斡旋するなどということ無しに、退職を勧告することもできよう。
その時に、今回の副大臣の判断に類する判断をするかしないかの悩みは、上司の頭から解かれるのである。

公務員に、雇用保険の保険料を負担させるだけでも良い。
この国庫金収入は馬鹿にならない。
社会保険制度は、国民が一律の制度のもとに成立するべきである。
健保・年金制度を複雑にしているのは、複雑にするように制度を制定しているからなのである。
企業の1/2負担なんていうのもナンセンスなのである。

全て個人負担で良い。
税金と称するか、保険料(保険税なのであるが)と称するかの違いであって、実態は何等相違無い。
自動車税が特定財源などと言っているのと変わりは無い。

実際は、特定財源などという区分は無いのである。
役所の中でこんな分類をしているだけなのであって、国家予算の配分に若干のメリハリを付けているようであるが、特定財源と称する税金の使い道には総額として影響は無い。
入金したお金に、使い道の名称は書いて無いのである。

2001/08/16

文責:い 80点

No.580

帰省と行楽とに伴なう高速道路(有料道路と称したほうが実態を表現する度合いが高い)の混雑予測について。

今年のお盆期間における道路の混雑予測は、私の個人的な感覚によるものではあるが、完全に外れたと総括する。
この種の予測に関しては、予測を見た個人の判断が結果に影響する度合いが高いと考えられるのではある。

つまり、例えば8月11日の東北自動車道の混雑予測が発表されたとしよう。
下り線は、23:00〜翌02:00まで仙台南ICを先頭に60Kmの渋滞が予測される。
この予測の発表を受けて、青森まで帰る人は、如何なる行動を採るのかである。

んなこと言っても、8月11日土曜日の夕方に東京を出発するしかない(それ以前には出発できない)人は、一刻も早く田舎に到着するためには、この選択しかないのである。
この人々は、予測とは無関係に行動する。

この日を休日にした人は、前日に出発することも、この日の午前中に出発することも可能である。

”一刻も早く田舎に到着するため”の行動を選択する人間の気持ちを理解しているつもりでいるのではあるが、この欲求が全体として毎年同じ度合いなのかどうかには、判断に困っている。

厄介なのは、行楽客の行動ではないだろうか。
渋滞には巻き込まれたくない。
しかし、さして急ぐ気持ちは無い。
宿泊先の予約の都合上、制約が無い訳ではないにしても、気楽なものである。
到着を待ち焦がれる家族の顔が浮かぶことも無い。

ただし、一旦自動車のハンドルを握ると、一刻も早く目的地に到着したいという欲求が自然に発生するという経験則が成立している。
時間の制約とは別の次元の話である。

これ以上書いても、意味は無い。

高速道路の混雑予測そのものの根拠とは何か。
予測の必要性があるのかどうか。
予測が外れた場合のペナルティは必要ないのか。

つまり、混雑予測と称する大本営発表そのものに意味は無いのではないか、という点を指摘するのみである。

何らかの意図があって、そもそも、予測を出すのは、その予測を外す行動を期待してのものなのではないか。
こんな邪推が意味を持っているような気持ちにさせる。

混雑予測の広報活動には、それこそ莫大な労力と費用とが充てられていることを考えると、選挙速報と同じ程度に空しさを感じるのである。

2001/08/09

文責:い 80点

No.573

夏が暑いのは、決して嫌いではない。
しかし、ここ幾日かのような、生殺しのような降りそうで降らない曇りの高湿度の天気には辟易ものである。

積極的な汗をかくつもりで、暁の頃合いから生垣の手入れを始めたのである。
埃と汗とにまみれて、着衣の無い腕は傷だらけである。
4時過ぎからの作業予定であったのであるが、明るくならないのだ。

結局昨晩作製したタイムスケジュールに遅れること40分、5時少し前に着手した。
精々1.5m程度なのであるが、脚立を2本渡して足場を作り、その上で電動の選定バサミを操るのである。

高所恐怖症の私にとって、1.5mは決して容易な高度ではないのである。
少し暗いくらいのほうが踏ん切りが付く。
これが、明るくなると、夢中になって作業することで、高所にいる頃を忘れて没頭することを以って症状を克服するのである。
大袈裟な話ではない。

目が眩む。
要するに、やりたくない作業であるのであって、この作業を止める理由を探しつつ仕事をしているのだ。
どんな理由でも良い。
雨が降ってくるなんていうのが最高の情況である。

途中で怪我をするなんていうのも、理由としては鋭いのであるが、鋭い痛さを伴うことが多いので、あまり好きになれない。

マラソンランナーに、走っているときに何を考えていますかと問う。
走るのを止める理由を探し続けているとしか思えないのである。
ただし、これはある意味で真実ではないのであろうか。

選手生活を去っていく時期を模索しているとしか思えないスポーツ選手は大勢居る。
名前の大きさで、それぞれの理由は異なるはずであるが、それぞれの位置において、それぞれの理由を探し続けている。
悲しいものである。

さて、作業が終わって、風呂を浴びて、ビールなんぞを飲んでいると、妙に達成感がある。
国民の応援なんぞを背負っていないと、気楽なものである。
生垣の手入れという作業も悪くないんだな、これが。

2001/08/08

文責:い 90点

No.572

冥土の土産を持って旅立つ用意をしている老人に、
”そんなに重いものを提げて大丈夫ですか”
と、尋ねてみよう。
目を丸くしてくれたら成功である。

冥土までの距離(一応地中に存在することになっております。ただし、これは、閻魔様の尋問を受ける地点までの距離であり、この関所から先のことは、今のところ私には解からないのである)は、”十万億土”なのである。

耳慣れない単位が出現した。
”土”である。
この話は、京都祇園の六道珍皇寺の方の説明である。
本堂の裏にある井戸が、冥土に続いているのである。
この井戸の説明の中で、深さに関する段があり、ここにこの数値が発せられた。

残念ながら、1”土”が何メートルであるかの説明は無かった。
でも、”十万億土”という距離は、きっと相当なものである。
そう信じて貰って良い。
そんなものでよかろう。

ついでに書く。
この単位は聞き覚えがあるだろう。
”刹那”である。
仏教とかインド哲学とかでは、日常的に口蓋に出現する単位である。

この単位については、明確な秒換算ができる。
1”刹那”は、7分の1秒である。
1/7は、循環してしまう少数値である。
こんな点も気に入っている。
7”刹那”が1秒であるから、”セツナイ気持ち”に7回浸っていると1秒になるのである。
解かりやすい単位である...。

1メートルにしても、1秒にしても、実際のところ解かるような解からないような基準である。
これを1千倍してみたり、1億倍してみたり、あるいは、60倍してみたり、3600倍してみたりして、自由に(思いのままに)利用している気になっている。

座って半畳、寝て一畳。
これだけの世界で充分なのに....

寝ると1800mmを超えてしまう奴がいるから厭になる。

2001/08/06

文責:い 70点

No.570

ダンボールを緩衝材(単なる入れ物の場合もあるが)に使って商品が送られてくると、困ってしまう。
ネットショッピングでは、どんなパッケージングで送られてくるのか解からないのである。

店頭で買い物をして、自分で持ち帰る場合には、極力包装を省いてもらうことができる。
場合に依れば、メーカーのパッケージ材すら剥きとって商店に廃棄を依頼することもできる。
先様にとっては迷惑なのかもしれないが、当方で処分するよりも、多分環境に優しいと思い込む事にしている。
こう暑いと、火燃しの楽しみなんてメリットは無いのである。

それでも、夕方になって、炭をおこして豚の肝臓なんぞを喰らう時には、矢張り火遊びは楽しい。
ささやかな夏休み気分である。

しかし、夏休みなのに、何か寂しいのである。
房総半島に入り込む自動車の数が、減っているのではないかと思う。
土日に木更津以南の道路が混んでいないのである。

ただただ、何か寂しいのである。日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

2001/08/05

文責:い 60点

No.569

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

五臓六腑とは何ぞや。

五臓とは肝臓、心臓、脾臓(ひぞう)、肺臓、腎臓。
六腑とは大腸、小腸、胆、胃、三焦(さんしょう)、膀胱(ぼうこう)。
とまあ、漢方でいう内臓のことである、と書いてある。

三焦とは何ぞや。
調べることは肝腎であるが、解からないこと多し。
もっとも、心臓とは何ぞや。
この答えも難しい。

2001/08/02

文責:い 70点

No.566

あら捜しのようである。

一杯やっている時に、隣の酔っぱらいが”ガス臭い”と言ったとしたら、あなたはどうしますか。

プロパンガスか都市ガスの匂いを嗅ぎつけようとし、もし、それに準じた匂いを察知したら、同意して言葉を発し、その臭いの元を探すであろう。

斯様に、”ガス”とは、特定の物質を意味している。

しかし、これが新聞記事だったらどうだろう。
”一昨日、営団地下鉄銀座線新橋駅付近でガスのようなにおいがしたと通報があり、...
改札近くにいた駅員の話では、ガスのようなにおいがかすかに漂ったが...”

この記述からは、プロパンガスか都市ガスの匂いを想像できない。
どういう種類のガスなんだ、とお聞きしたくなってしまうのである。

さりげなく書いてしまったが、実は、私には都市ガスの匂いが思い出せない。
プロパンガスは、あの匂いであるとはっきり思い描くことができる。
田舎者なのである。これは正しい。

”地下鉄でガス騒ぎ”というフレーズは、もっと違った種類のガスのイメージが出来上がっている自分に気付く。

あの集団の動向は、最近報道される機会が少ない。
何となくなのだが、恐ろしい。胸騒ぎがするのである。

2001/08/01

文責:い 90点

No.565

宮城県警の報償費支出関連文書を非開示にした理由には、妙に納得がいく気にさせる。

ほかの捜査協力者に(額などを)知られると、値上げを求められたり、協力を拒まれたりする。”

”太陽にほえろ”では、山さんがタバコの箱に千円札を入れる細工をして、お抱えの情報屋に渡し、捜査上の情報を得ていた。
あれは、山さん個人がポケットマネーで処理していたものと思い込んでいた。

現実は違っていたのである。
もちろん、個人的に処理しているケースもあるのかもしれない。
しかし、今回の宮城県警の話に依れば、公費で処理しているケースがあることは明らかである。

大人の世界では、こういうこともあるのさ。
こう言ってしまっては終わりなのである。
専守防衛とは、拡大解釈を許されないものなのである。

ただ、”値上げを求められたり”することはあっても、”協力を拒まれたりする”ことは無いだろう。
拒むことで当人に利益になることは無い。
その情報を(警察以外の)他の誰かが欲しがっていて、金銭を交付してくれるのでなければ、当人にはメリットが無い。

他の誰かが金銭を交付してくれるケースはあるかもしれないが、それは、情報を漏らさないでくれと依頼する場合であって、継続的に情報料(口止め料?)を期待できない。

とまれ、この種の報償費支出を社会的に認めてよいものかどうかの議論は無い。
外務省の、あるいは内閣の機密費問題も、根本的な問題は、機密を要する支出が存在して良いか悪いかなのであって、内部管理が出鱈目で個人の経費に振り変わってしまったことが問題ではないのである。

表沙汰に出来ない金銭の支出を認めて良いかどうかは、議論されるべきである。

財務省の見解を聞きたいものである。
法人税申告上の処理としては、この手の機密費は経費(損金)処理を認めていない。
しかし、この手の機密費は、必要悪ではあるが存在することを認めていて、わざわざ特記させている。

大人の世界は難しい。
子供に説明しても(説明できないが...)納得しやしまいし、純粋な大人もまた納得しない。