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2001年05月分(05/01〜05/31)

2001/05/31

文責:い 60点

No.504

『 キュウリ 』
キュウリには尿の排出を促すカリウムが豊富なので、むくみがちで、水太りの人はぜひとも常食にしましょう。
カリウムは体の老廃物を排出し、血液を浄化、そして腎臓の働きを助ける作用があります。
さらにビタミンA、B1、カルシウムも豊富で、9割が水分だから低カロリー。抜群のダイエット食材というわけです。
最近では発ガン物質を抑制する効果も認められています。ただしキュウリにはビタミンCを破壊する酵素が含まれているので、他の野菜と調理する際には食べる直前に混ぜるようにしましょう。
レモンや、酢をいれることでその酵素の働きは抑制されます。
★プラスαで効果倍増
『 玉ねぎ 』
玉ねぎに含まれる硫化アリルは体内でキュウリのビタミンB1と結びつき、吸収を高めます。ビタミンB1は糖質の代謝をスムーズにするので、ダイエット時のイライラに効果的。

以上は、(株)サイバーエージェント及び(株)オン・ザ・エッヂ 発行の”今日の m e l m a !”による。
ちと長い引用であった。

みのもんたの番組みたいな雰囲気がするが、八百屋の店頭から胡瓜がなくなることは無いだろう。

そんなことはどっちでも良いのである。

毒がある河豚がいる。
しかし、この河豚毒は、体内で”生産”されたものではなく、単に”蓄積”されたものに過ぎないと言われる。
それでも一般に、”河豚には毒がある”と言われてしまうのである。
合ってるんであるが...

水は、電気を通さない不導体である。
しかし、様々な物質を溶かし込むことにより、導体に変わる。
この溶かし込んだ状態の水こそが、我々が普段馴染みのある水である。
曰く、”水に濡れた手でコンセントからプラグを抜くな”。

考える”アッシー君”である私といたしましては、
キュウリにはビタミンCを破壊する酵素が含まれている”というのが問題ナノデアル。

記載が正しいとしよう。
ただし、”破壊する”なんてオダヤカデハナイ表現を、”分解する”に置き換えると良いのではないかと思うのだ。

分解して、何か素晴らしいモノを生成するんじゃないかと推測したいのである。
ビタミンCと聞くと、善玉君と考えてしまう習性に待ったを掛けたいのである。
そのビタミンCをヤツケてしまう酵素を、悪役に感じてしまうのではなく、あるべくしてある存在として遇すべきではないのか。

ビタミンCを分解して、如何なるモノを出現させるのか、とっても知りたくなりませんか?

2001/05/30

文責:い 80点

No.503

久しぶりにチョコッと政治。

小泉総理も田中外相も、安全保障問題は苦手のようである。
私が苦手なのは止むを得ないが、この人々が苦手だとちと困る。

少し前としか認識していない様子であるが、米ソ冷戦時代の核防衛構想(全く防衛になっていないのであるが)は、MAD(相互確証破壊)と呼ばれるものであった。

これは、相手が先制攻撃してきても、生き残った核兵器で致命的な反撃が出来る体制をお互いに維持することにより、”恐怖”の均衡を保つ(ことができるであろう)というものだった。

極めて西洋的な考え方を持つお利巧な人々からすれば、”刺し違えよう”なんていう発想は無いのである。
自分たちでルールを創出し、ルールが存在していることを前提に物事を処理していけばよいという発想である。

しかし、これでは、自暴自棄になった核保有者に対する抑止力にならない。
(核保有者とは、一般に”国”を想定しているようである。が、実はごく一部の狂人の判断に委ねられた組織--これを”政府”と呼んでいる--が、核の保有及び行使に関する決定をするのである。)

こんなことに長い間気が付かなかったのが、”極めて西洋的な考え方を持つお利巧な人々”の実態である。

これじゃいかん、となって、新たな核防衛構想が打ち出されたのである。
アーミテージ米国務副長官の来日は、TMD・NMDと呼ばれるこの種の核防衛構想に関するアメリカ側の考え方を説明するためであり、極めて重要なものだった。

それなのに、田中外相の行動については、お昼のワイドショー的な報道に終始し、”外国の要人”との会合拒否という点に焦点を当てた報道にしかならなかった。

そんな報道は、”真紀子さん””雅子さま”分野に任せておけば宜しいのである。

アメリカの核防衛構想の変化は、極めて重要な意味を持つ。
銘々、今一度TMD・NMDについての理解に務めるべし。

2001/05/28

文責:い 90点

No.501

500号記念のつもりです。

当事者にしてみれば、誠にもって重大事件なのであるが、その他の人々にしてみれば、なんてことは無い出来事。
こんな事象が綿々と営まれてきたのが、人間の歴史なのである。

少しばかり言葉を変えれば、そう言いながらも、他者との関係抜きでは自分自身の生活は存在しないことにも、多くの人は気付いている。

この一文を読んでくれている方が、そう、貴方の事です、今まさに欠伸をしたことによって、思いもかけぬ気流の変調が生じ、遠くロスアンジェルスの雷雲は、稲妻を発生させる契機を失ったのかもしれないのである。

これがどんな影響を与えるかというと、二度にわたって放電しようとしていた電気エネルギーを、ただ一度の放電により開放させて、かかる地域の雷被害を幾何級数的に増大させたかもしれないのである。

被害の責任は那辺にありや、なのである。
貴方の欠伸にあり、とは誰も気付くまい。
ましてや私の一文にあり、とは、誰も言わない。

私は運命論者ではない。また、確率論者でもない。
しかし、解からないことを、”定理”とか、”神の手”とか訳の解からないモノを持ち出して、そこから先に踏み込まないで済ますことが出来るほど、モノワカリの良い人間ではない。

歴史については、”日本の歴史”というモノが存在するのではなく、”A氏の日本史”とか”B氏の日本史”とかが存在するのである。
因果関係は、斯くあったのではなく、こうなのであるという創作の範疇で解き明かしていくしかないのであろう。

とすれば、500号という日刊鬼ノ胃の活動も、500回分の文章が存在するということでは無しに、これから先の501回とか2508回のために、あの苦しかった日々に500回駄文を労したという解釈も成り立つ。

いよいよ何を書いているのか解からなくなってきているのであるが、こんな人間の書いた文章に、付き合ってくれている人々の好意に甘えて、これから先も悪戯書きを続けるという宣言をして、500号記念の一文とする。

まあ、コンナトコロナノデアリマス。

2001/05/27

文責:い 30点

No.500

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

何の廻り合わせか、本日日曜日が、”日刊鬼ノ胃”500号なのである。

”鬼ノ胃の大あくび”は休日休刊日ではないか。
500号にあたりの一文は、明日にしたいと思うのである。

2001/05/26

文責:い 60点

No.499

アレだけ派手に宣伝していたプロバイダZEROのテレビCMを、トンと見ないと思っていたら、有料プロバイダになっている。

サブのサブ経路として、このプロバイダZEROとは契約していたのである。

有料になった”無料プロバイダZERO”の存在価値は無い。
契約解除を失念していた私は、阿呆であって、料金を支払うことになるのである。

愚かなことをしてしまった。

2001/05/25

文責:い 60点

No.498

選り取り見取り。選り好み。

私は、それぞれ、”よりどりみどり”、”えりごのみ”と発音する。
もちろん、それぞれ、”えりどりみどり”、”よりごのみ”と発音しても、辞書には載っているだろう。

一見さん(いちげんさん)。
振りの客(ふりのきゃく)。
この二つは同じ意味である。

恥かしながら、の話であるが、後者は、
”フリーの客(ふりのきゃく)”だと思っていたのだ。
実は、これが書きたかったのである。

どちらかというと、耳学問で仕入れた知識よりも、独り善がりの読書で仕入れた知識のほうが多いのである。

(ふりのきゃく)の例は、耳学問知識に分類されるのだろうが、この場合には、失敗は比較的軽症である。

漢字で書かれた横にルビがふってある。
”ママ”
これの意味するところが何であるのか、去年まで知らなかった。
様々な文字に対して、同じ”ママ”の振り仮名はおかしいとは考えていた。

考えてはいたのであるが、調べる手立てが無い。
私の知らないことを、臆面も無く聞くことができて、凄いことに殆どの疑問を解いてくれる人物が一人いらっしゃるのである。

この人物と直面している時に、溜めておいた疑問をぶつけるのであるが、たまたま”ママ”については話す機会が無いままに20年くらいの月日が流れたのである。

知らずに死んでも、知って生きていても、あんまり変わらないような気もするが....

2001/05/24

文責:い 80点

No.497

車庫証明その2.**受け取り篇**
ちと長いが、内容はたいしたものが無い。飛ばし読むこと。

くどいからどうしようかとも考えたけれども、少し時間が経ってしまったからどうしようかとも考えたけれども、書いておく。

車庫証明の書類を、警察署に取りに行ったのである。
先の申請書提出時に、引換券を渡されていた。
ここには、”交付手数料550円をお持ちください”との記載があったのである。

従って、私は、550円を握り緊めて窓口に立った。
ところが、である。
若き女の担当者は、隣(そう。またしても登場願うことになってしまったのである。)で証紙を買えとノタマウのである。

前回は、次のように書いた。
本来なら、先ずは、証紙を持参したかどうかを確認しなくてはならないのである。証紙の購入場所を指定してはならないのである。
云々。

今回は、”交付手数料550円をお持ちください”なのである。
私は、きっかりとその通り550円(ただし、旧500円硬貨と新50円硬貨とをそれぞれ1枚づつ。新50円硬貨に対する旧硬貨というのは、磁石フレンドリーな奴のことである。古い!)を”お持ちした”のである。

一円玉などでお持ちすると、補助通貨受け取り拒否を宣言される可能性を払拭できないからである。

証紙なんぞを要求されるとは、思っても見なかったのである。
知っていれば、前回の経緯上、絶対に買ってから警察に”お持ちする”のである。

その点(”交付手数料550円をお持ちください”との記載だけから、証紙で交付手数料を納付するなどとは絶対に読めない。読むことの出来る奴は極端に国語力の無い人間である。)を指摘した。

すると、担当者は、上司と思しき方に、鸚鵡の如く片言隻語一言たりとも間違うことなく伝えたのである。

もっとも、一言一言私が区切って発声し、先様がそのセンテンスを伝え終わるのを待って、次を喋っていたのである。
こんなことをしなくても、上司が私の前に登場してくれれば良いのである。
高々2mくらいしか離れていやしないし、顔を遮るものも何もなく、私は、担当者も上司も見えているのである。

はっきり言って馬鹿げた芝居である。
あたかも、担当者は通訳のようであるの図である。
日本語(それも、極端な方言を含まない90%共通語...だと思う)を母国語として使う2人の間に入った通訳である。
こういうものは必要ないと思うが、如何だろうか。

とまあ、こんなことをしているうちに、部屋に居た警官なども集まってきたのである。
”うん、これじゃあダメだな”などと、解かったようなことを言ったかと思うと、”しかし、どうしたら良いんだろう”などと発言する、全然解かってない輩なのである。

”兎に角、訂正するように”と、市民の声を最後に、面倒臭くなった私は、安全協会の窓口で証紙を買い求めることになるのである。

550円を支払うと、お金を受け取った安全協会の証紙販売担当の女性は、証紙を私に渡すなり、向こうを向いてしまった。

これから後の記載は、記憶にある方もいらっしゃるであろうが、止むを得ない。
前回と全く異なるところが無いのである。

私に領収書を寄越す素振りが無い。
お金を受け取ったら、領収書を手渡すのは当然なのである。
当方より、催促する羽目になった。
その時の彼女の言葉が振るっているのである。

”あら、領収書いるの”
カチ〜ン。

安全協会については、まだまだ話の種がある。

2001/05/23

文責:い 60点

No.496

昨日の本稿中、”200年に2階しか...”の記載あり。
チェックミスでお恥ずかしい。
無論”二回”である。

私の家の最寄の駅は3つある。これは以前記載した。
内房線の、君津・青堀・大貫である。

東京帰りに、千葉発の内房線下り最終電車(館山行き、もしかすると鴨川行き)に乗ったのである。
”次は木更津”の案内は、確かに聞いた。
時に、私は読書しているのである。

ふと気が付くと、丁度ドアが閉まるところであった。
ややあって、”次は、大貫”のコールがあった。

各駅停車の電車に乗ったつもりである。
否、乗ったのである。

オカシイデハナイカ。
もう一度考えてみよう。
”次は木更津”の案内は、巖根駅と木更津駅との間で発生した筈である。
その後に起こった事実は、丁度ドアが閉まるところであったのであるから、これは木更津駅を出発する直前であるはずである。
従って、次にドアが開かれた時に降車すれば、私は君津駅に降り立つはずなのである。

ところが、事実はこれと異なる様相を呈したのである。
見まがうこと無しの”大貫駅”に降りたのである。
はっきり言って、そんなに悠長な話ではないのである。

駅員が、改札口で待っている。
私のチケットは、”君津東京間のとくとくキップ”なのである。

駅員さんの言葉が泣かせる。
”明日の朝の上り電車を待って君津駅まで行くか、この場で190円也を支払ってこの改札口を出るか、自分で決めてください”

今になって考えると、この駅員の言葉を信じなくて良かった。
私の手にしていたチケットは、当日限り有効なのである。

念のためだが、当日とは始発から終電までのことを指しているらしい。

2001/05/22

文責:い 80点

No.495

東京大学地震学教室の助教授今村明恒が、明治38年(1905)に、雑誌”太陽”の9月号に、
”江戸(東京)で過去起こった地震は、平均100年に1回の割合で起こっている。安政2年(1855)の安政大地震以来すでに50年が過ぎていることを考えると、今後50年以内に東京が大地震に見まわれることを覚悟しなければならない。次の東京大地震の被害は莫大なものになるであろう。大火災が発生し、死者は10万ないし20万に達すると思われる。”
と発表。

この地震の話とは直接関係無いのである。
”平均100年に1回”について。

今年、100年に1回規模の地震が起きたとしよう。
前回は、1901年に起きていることにする。
さて、次は何時か。

一般に、もう当分(少なくとも50年くらいは)大丈夫と思い込む。
思い込むのは一向に構わないけれども、来年発生したりする。

学者にとっては、それでも”平均100年に1回”と片付けて、一向に構わないのである。
今の例で、簡単に言えば、二年続けて地震発生した後に、100年程発生してくれなければ、200年に2階しか起こっていないことになるからである。

10年に一人の天才少年は、同い年に3人存在しても一向に構わないのである。

自分が、”10年に一人の天才”だと思っているあなた。
同時期に生きる”10年に一人の天才”仲間を誘って、楽しい人生を送ってください。
あたしゃ、何時でも誘いに乗りますよ。

2001/05/21

文責:い 80点

No.494

千葉市美浜区にある(社)千葉食品コンビナート協議会並びに新港地区の団体の”意見広告”が、05/11に千葉日報に掲載された。

この工業団地地域に、分譲マンション建設の動きがあり、それを阻止したいという広告である。
ちと長くなるが、内容を引用する。

”千葉市美浜区新港地区は「住工混在」を避けた工場集積地として、昭和四十二年に千葉県の埋め立てによりできた工業地域です。ここは計画的に土地利用が図られ、企業が誘致された工業団地です。誘致された各工場は、二十四時間操業し規制基準値内ですが、臭気、振動、騒音などがあり、大型車輌の通行が多いうえに、高潮に対する備えも十分とはいえず、環境及び安全上からも居住には適していません。
〜中略〜
このままマンションが建設されれば、近い将来マンション住民と当地域内の各工場との間で、住宅環境を巡るトラブルが発生することは容易に想像できます。
後略。”

面白い、いや、興味ある内容である。
実は、10日間経た今日でも、考えが纏まらないのである。

切実な気持ちを表現したのだろうと想像する。これは間違いなかろう。
”各工場は、二十四時間操業し規制基準値内ですが、臭気、振動、騒音などがあり、大型車輌の通行が多いうえに、高潮に対する備えも十分とはいえず...”の件なんぞを読むと、どきりとする。

この地は、人の住まう場所ではない。
しかし、工業団地としてならこのままで良い、というコトデハナイ。

特に、少なくとも”規制基準値内”であるという点、間違いが無いことを祈るが、その規制値そのものが甘いのであろうから、その甘さに甘えてはならないのである。

大型車輌の通行が多いことを、交通事故の危険性に結び付けてはならない。区域内の道路の通行を安全に導く努力をすべきである。

高潮に対する備えも十分とはいえず云々に至っては、それを承知でこの地に進出したあなた方は愚か者です。

こうとしか書けないではないか。
私の焚き火擁護論と変わり無いと言えば言えなくも無い。

2001/05/20

文責:い 60点

No.493

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

東京都板橋区では、新規に職員向けの手引を作成した。
区役所の窓口サービスを向上させるのが目的であるという。

その内容は、区役所に来た区民には”お客さま”や、名前で”〇〇さま”と呼び掛けるようにする。
また、「納付」「還付」などのお役所言葉も「お支払い」「お返しする」などに言い換える、としている。

意識の前に形。
これはこれで悪くは無いのであろう。

2001/05/19

文責:い 90点

No.492

女性の一人客を泊めてくれる温泉旅館は、大変少ないのだそうだ。
特に、突然行きたくなった温泉地にふらりと出かけて宿を取るのは至難の業なのだとか。
もちろん、旅行業者を通じて、何週間も前から予約を取れば問題は無い。

何故だろうか。
商品があって、お客が購入の意思表示をしているのに販売しない。
愚かなことである。

どんなホテルでも、”特別な”お客のために、所謂”満室”のときでも用意できる空き部屋を残してあるという。
これは、商売上重要なノウハウだと説明されている。
サービス業の心得だとされる。

こんなバカな心得で商売している業界は、必ず滅びる。
内部からである。

競争の社会では、善悪は市場が決めるのであり、その社会に参加するメンバーは、自分のスタイルを確立しないと弾き出されるのである。
業界の常識(心得)なんぞを振り翳していると、そうなる。

民間は、そうなのである。
官は、どうなのかは知らない、とだけ書いておく。

2001/05/18

文責:い 80点

No.491

ふふふ、なのである。

山芋の蔓が勢い良く伸び始めたのだ。
水気の不足を懸念していたのだけれども、この分なら心配要らない。

杞憂という言葉は、知っていても使ってはいけない(心配しているとそうはならなくても、妙に自信を持つと失敗するという経験則がそうさせるのである)と構えていたほうが、逆に気楽なのである。

梅雨の鬱陶しさは辟易するけれども、台風の齎す水よりも良しと考えることにして、大地に思い切り水を供給してもらおう。
そして、真夏の太陽さんの力を振り撒いてもらい、来る12月には、トロロご飯の誕生である。

暮の、とある日の夕食献立を、今日5月の半ば過ぎに立案して仕舞うというのは、これで中々楽しいものである。

そうそう、取り敢えず、今日の夕食の献立は、1月に掘った芋のトロロご飯に決定する。

この決定により、今日もまた、飲み過ぎになる予定なのである。

2001/05/17

文責:い 60点

No.490

講談社コミックス”バリバリ伝説”1巻から38巻までを読み切る。

私は、バイクに乗るという時代を経験しなかった。
去年くらいから、自動二輪の免許を取得しようかな、などと漠然と考えていた。

そんなときに、スズキのアルトワークスに乗る機会を得たのである。
こいつがトンデモナイ奴なのである。
660CCの軽自動車なのだが、ターボなんぞというモノを装備してあるのである。

車重は、私の体重込みで600kg程度らしい。
3,000CCクラスのモンスターマシンは弄ったことが有ったが、軽自動車の”モンスター”は、初めてである。

オートマチックなのである。
それでもってこんなことを書くのも気が引けるが、気分は”巨摩郡”である。

ハングオンした状態の自分の体が、シートに収まっているような感じなのである。
どう考えても、生身の身体で外界と接しているような気分なのである。
これは、ちょっとだけ鉄板で覆いをつけたオートバイなんじゃないのか。
はっきり言って、運転していて怖いのである。

最近では、自動車って奴は、自分が壊れて乗員を保護してくれるものだという”妄想的信頼感”を感じている。
だけれども、こいつはぶつかったら絶対ヤバイなと思わせるところがある。
右カーブを走っていて対向車があると、”ヒデヨシ”になるんじゃないかと、身を竦ませるのである。

二輪と四輪とのモータースポーツへの思い入れは、決定的に異なると感じさせられた次第である。
多分、相当ズレタ感覚なのであろうが、3,000CCクラスのモンスターマシンに乗ったときには感じなかった貴重な経験をした。

もし、今後オートバイに関わる仕事をすることになっても、レーサーではなく、メカニック、あるいは、単なる評論家でありたいと思う。

ま、こうして、自動二輪の免許取得をしようなどという”暴挙”への思いは、永遠に封印することに決めたのである。

2001/05/16

文責:い 70点

No.489

決算にならない。

決算期を3月末日にしてあるために、今月中に、法人の確定申告を済ませねばならない。
動いている額など知れたものなのであるが、進まない。

他社の決算・申告事務は、職業としてやっていたことがあったのであるが、この時には、さして気にしないで、まさしく”事務的に”処理をしていくことができたのである。

ところが、漫画的に言えば、大掃除時に畳を上げた時に(実際にはこんな作業を、年の暮にしたことは無い)見つけた古い新聞を、つい読んでしまうような、そんな気分で伝票を引っ繰り返しているのである。
(畳を上げると、その下に新聞紙が敷いてあった。これは、常識として、皆が知ってる筈だと思っているのだけれども、もしかして...)

どうせ最終赤字なんだから、こんなものスパッと終わりにしてしまえば気楽なんだけれども、そうは問屋さんが卸さないのである。

卸してくれないことには、小売することができないのである。
最近は、この問屋さんを排除する方向に世の中が動いていると聞くが、我社の決算では、まだまだ存在するのであって、小売屋っと(コリャ−っと)決断できないでいる”鬼ノ胃”なのである。

決算終わるまでは、飲み屋さんには行かないと決めたのだが、自宅で飲むのを止めると決めなかったので、大いに飲みすぎる日々が続く。

2001/05/15

文責:い 80点

No.488

どうも最近、涙脆くなってしまったようだ。
誤解の無いようにしておくと、決して今まで私の涙が壊れ辛かったというコトデハナイ。

悲しみを紛らわすのに最も優れた方法は、それ以上の悲しみを感じることである。
喜びを忘れるのは簡単である。
単に月日が流れれば良い。
痛みも同様。

屈辱は、なかなか手強い。
私は、根に持つタイプである。

一般論と可也個人的な話とを、ごちゃごちゃにして論じるのも面白いだろうから、こんなことを綴ったが、今日の話は、”恐怖”についてなのである。

夜中に、一人起きていて、こんな文章を綴ったりしていると、突然恐怖心に駆られる事がある。
こんな時に、鏡を覗き込んだり、人形を眺めると大変である。
目がイケナイ。

特に、人形の目は危険である。
自分の心の奥を見透かされているように感じるからではないかと思っている。
左程に、自分の心の奥は穢れているのである。
何が、と問われて、答えてしまうことができないのだけれども、自分を信用していないことだけは確かであると告白しておく。

自分とは、それほど恐ろしいものなのである。

ナンノコッチャ。

2001/05/14

文責:い 80点

No.487

富士山噴火か?という話題が報道されていたのがついこの間だったのに、そんなことも忘れた最近になって、またまた、富士山で低周波地震が多発しているとの報道があった。

私は、”富士山は休火山である”と学校で教わった記憶がある。

富士山は過去何度も噴火をしている。
奈良時代や平安時代に噴火の記述がある。
しかし、1707年の宝永噴火から以降噴火の記録は無い。

かつては火山を活火山、休火山、死火山と区分していた。
死火山とされながら、1979年に噴火した木曽御岳山のケースを機に、気象庁は、過去2000年に噴火したことがある”活火山”と”活火山ではない火山”との2つに区分するようになったのである。

そこで、今日では、休火山という分類は用いられていないのである。
そして、この分類によれば、富士山は活火山なのである。

特に、宝永噴火は”過去8000年間で最大級”のもので、この時は山麓にあった50以上の集落が火山灰などで埋まり、灰は約100km離れた江戸市中にも降り注いだという。

徒に煽る訳ではないが、富士山は”活火山”であり、それも若い火山なのであり、油断はできないというのが専門家の一致した考えである。

と、こう書いてしまうのは、所謂筆の走りなのである。
”専門家の一致した考え”なんて、あるはずが無い。
”そうだと考える専門家の一致した考え”と、書くべきなのであるが、この文章に特別の意味があると考えられないのは言うまでも無い。

答えてくれた方には粗品を差し上げますと喧伝して、”小泉首相と森前首相と、どちらを好ましいと思いますか”というアンケートを行うとしよう。
この結果、”小泉首相”と答えた人々の割合を、小泉支持率であると報道することが可能なのである。

絶対に、変である。

2001/05/13

文責:い 70点

No.486

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。


任期満了に伴う岐阜県萩原町議選(定数14)は定数通りの14人の立候補しかなく、全員の無投票当選が決まった。

同町議選は1989年から4期連続で無投票となった。
過去に選挙の洗礼を受けた議員は、14人のうちわずか1人だけ。

2001/05/12

文責:い 70点

No.485

こんな記事を発見。

先日宿泊したホテルは、客室にADSLがひかれていました。フロントでモデムとLANカードを貸してくれるので、ノートパソコンだけ持っていけばすぐ使えます。
いままでホテルでは、高い電話代を気にしながらモデムで接続していましたが、時間を気にせず快適に使えました。これからホテルはインターネット環境も考慮して選ぼうと思います。


仕事でホテルに泊まるという習慣無しに、今日まで過ごしてきてしまった身ではあるが、私としては、可也ショッキングな記載である。

安くて、通信速度が速くて、常時接続という環境が我家で可能になるのは何時になるのか。

地方の時代などという、心地良さそうな響きの言葉に騙されてはならない。
究極の地方(田舎)に居住することが、アドバンテージになるような時代は、多分、訪れない。

2001/05/11

文責:い 90点

No.484

さて、ユウちゃんである。

予てより、楽しいことが大好きな人間であることは存じ上げている。
本人が愉快なのである。
先日誕生日を迎えたのである。
”幾つになっても、誕生日は良いものである。そして、誕生日は楽しいのである”という、私の断定に対して、頷いていた。

ニシやんにしても、ナカムラ君やタグッちゃんにしたって、楽しいことは好きなのである。
他人の誕生日も楽しんでしまうのである。

仕事とか休暇とか言っていると、全ての時間を楽しさを忘れて生活している感じになる。
先ず苦しんでから楽を得るのではなくて、全部楽しんでしまいたいのである。

そこで、面白くない世界からの”独立宣言”をすることにする。

ボーソー半島は、今日から”アソボー半島国”となりました。
国民を募集します。
応募資格は、
アソボー半島で、遊ぼうとする気持ちのあること”のみです。
(ここまでのフレーズは、とある事業所の記事で書いたことがあるのであるが、使ってしまった。多分、許される。)

当面私は国家元首を名乗ることにする。
沈黙の艦隊の海江田の気分である。


ケイゾウ氏はどうしているのだろうか。
我国民たらんとする応募を期待する。

2001/05/10

文責:い 80点

No.483

車庫証明の書類を、警察署に提出しに行ったのである。
日付をブランクにして、実際に行った日を記載しようという、まあ気を使う方法で用意してあったのである。
日付を書き込めと言う。
宜しい、書き込みましょう。

証紙を貼付しろという。これも宜しい。
ただし、その前の文言が少々気に触ったのである。
提出窓口の横には、安全協会が間借り(正式にはどういう扱いになっているのかは知らない)しているのであるが、そちらを指差して、隣で証紙を買って、申請用紙の指定場所に貼付しろというのである。

本来なら、先ずは、証紙を持参したかどうかを確認しなくてはならないのである。
証紙の購入場所を指定してはならないのである。

この近くで、何処か証紙を買える所は在りますかとの問いかけに対しての答えに、それなら隣の安全協会で買うことができます、と説明するのは良い。

最初はそうしていたのであろうが、来る人来る人に同じことを喋っていた彼女は、途中を省略する方法に気付いたのであろう。

しかし、窓口の女性は、お役人さんなのである。
全ての人々に対する奉仕者なのであって、手間を惜しんではならないのである。
まあ、ここまでは、窓口担当者個人の責任ではないから、つまり、署内での対応マニュアルが不備であるとの指摘に留めよう。

ところが、不思議なシステムについては容赦するつもりは無い。
私が窓口で”車庫証明”と言った、サダンリに、安全協会の窓口の女性は、2,200円也の証紙を千切って用意したのである。
そう言ってからの私は、前述の通り、日付を書き込んだりしているのである。

千切られた証紙は、角を欠くことなく私に渡された。
素晴らしい手際である。
.......
2,200円を支払うと、お金を受け取った彼女は、向こうを向いてしまった。

私に領収書を寄越す素振りが無い。
お金を受け取ったら、領収書を手渡すのは当然なのである。
当方より、催促する羽目になった。
その時の彼女の言葉が振るっているのである。

”あら、領収書いるの”
カチ〜ン。

安全協会については、まだまだ話の種がある。

2001/05/08

文責:い 90点

No.481

昨日、東京湾アクアラインのトンネル部内部で車輌火災が在った。

下り車線(川崎から木更津へ向かう車線をこう呼ぶ)のうち、川崎浮島と海ほたるとの間は、半日にわたって通行止めとなったのである。

報道機関のニュースの扱いが、非常に小さい。
この理由は、大きく分けて二つあろう。

一つ目。
報道機関は、結果としての災害が極めて小さかったために、報道ソースとして寂しいと判断したのである。

開通以来初の火災発生であったにも拘わらず、死傷者無しでは、話(ニュース)にならないのである。

交差点に信号機を設置するのには、その地点での事故実績を積み重ねる必要がある、という、警察署長のコメントを聞いて呆れた記憶があるが、そんなものなのであろう。

二つ目。
本当は、こちらの理由で、今日のこの話を展開しようと考えていたのである。

アクアラインの運営事業体が、報道規制(大きく報道しないことのお願い)を敷いて、記事の扱いを、極めて穏やかに、かつ、小さくするように行動した。
危機管理の初歩である。この点は成功した。
というよりも、あまりの反響の無さに、担当者は驚いたに違いない。

如何なる消火作業と、それに続く開通までの諸作業とが行われたのかに、興味深々ナノデアルが、映像としての報道を目にすることができなかった。
映像は、それを見た人々にとって疑似体験足りうる。

トンネル内(地下駐車場も似たようなものである)の火災に遭遇するチャンスは滅多に無い。
実体験して、次の機会の為の学習するなどということは、非常に稀であろう。

私は、朝刊を漁って、このニュースの扱いを確認したのである。
自分に身近な(距離的な話であって、常に利用しているの意味ではないが、それでも年に何度かはこのトンネルを通行するのである)道路施設の安全性を確認しておく必要があると思ったのである。

海ほたるの建物等様々な施設は、既にボロボロである。
船舶と同様の新造保守を求められる自然環境にあるのに、都心の施設の新造保守をやっているだけでは、こうなるのは必定である。

開通時には、トンネル部の内部構造図とか、災害発生時の対応システム図とかを、盛んに配布していたが、今はどうなのか。
トンネルは二層構造になっていて、一般車輌通行道路の地下にもう一本緊急車両用道路が存在する、と図にはあったが、きちんと利用できたのかしらん。

今回の災害にどのように対応したのか、詳細な報告を求めたい。
これは、アクアラインの運営事業体および報道機関双方に対する要求である。

”火災発生当時、トンネル内には、他の通行車輌は一台も無かった”
新聞に、
こう記載した記者とデスクとの頭の中には、どういう気持ちがあったのであろうか。

黄金週間の通行量はどうだったんだろう。
一トンネル一台だったりして。

2001/05/07

文責:い 80点

No.480

気の合う輩というのがある。
これは、趣味やものの考え方が一致しているという意味ではないようである。

妙に読みを外されたりしても、コイツナラコウスルダロウの範疇で読みを外してくれるのである。

もちろん、外してくれるその内容は私の読みを外していなければならないのが私の読みの範疇なのであり、そうでなければ、ただの通りすがりの人か、耳の遠い人々の会話になってしまうのである。

ま、黄金週間は、気の合う輩に会うこともできたという意味で、自分にとっては有意義な期間であった。

皆さん、本日は、メール整理も大変であろうと察する。
依って、短文に越したことは無いとの考えであります。

2001/05/02

文責:い 70点

No.475

人と人との最初の出会いは、ある種突然である。
偶然でもある。

しかし、出会うという必然性を抱えて出会いを設定される場合がある。
それでも、出会うまでは、相手がどういう人物であるかどうかは解からない。

例えば、私が新しく自動車を購入したいとしよう。
テレビや雑誌で気に入った車種を選び、ほぼ購入の意志を持って販売店に出かける。
この意味では、販売店の担当者と”出会う”という必然性を抱えて出会いを設定している。

けれども、その場に特定の何方が登場するかは解かっていない。
これがトンデモナイ担当者だったりすれば、この場における商談は纏まる事は無い。

トンデモナイ担当者の”トンデモナイ”が問題ナノデアル。
the man in the street だと思っていた人が、a woman of the street だったりするようなもので、出会って交渉するまでは解からないのである。

没交渉の通りすがる人は、ナイフを懐にニコニコ顔で歩いていても、私に関係してくれなければ良い(ナンデモナイの意)のである。
が、逆に、ニコニコ顔で歩いている人の中から、ナイフを懐に忍ばせている御仁を見つけ出そうとしたら厄介なのである。

何故こんなことを書いたのかの種明かしをする。
外出先から自分が送り出すときに使用する、ファイル送信用の秘密アドレスに、全く存じ上げない人から、私の個人名をヘッダーに付けたメールが届いたのである。

このメールアドレスは、接続プロバイダに割り付けられたのではないものであって、私(可能性としてはサーバ屋は在るが...)しか知りえないし、自分ではちょっと凝った文字列の並びを使っていて気に入っているから変更したくないモノなのである。

もちろん、********@kinoi.co.jp という形式であるから、何方かの仕業で、8桁の文字列記号が任意に作成されてメールが届く可能性はある。
ただし、一発でこの並びを選択しない限り(つまり、試行錯誤で文字列を作って送信した場合には)、痕跡が残るのである。
全て@kinoi.co.jp のメールは、あるアドレスに届くシステムにしてあるのである。

黄金週間に、悩ませる話題を提供してくれたことには感謝するが、困ったことなのである。

2001/05/01

文責:い 80点

No.474

個人的には、非常に忙しなかった4月が終わった。

今月は、いきなりゴールデンウィークで出発する。
実は、イベント仕掛け人なんぞをやっている関係上、世が休日などと気持ち良さそうなときには、結構きつい仕事をしているのである。

さりとて、今年は古くからの友人と連れ立って、キャンプなんて行事を入れて、結構遊ぶ気でいるのである。
今回の行き先は、2年程前のお盆時に、神奈川津久井湖エリアにおける川の氾濫で絶命した方々がいらっしゃった、あの川の少し上流なのである。

その災害時にも、同所でキャンプをしていたのである。
これぞ半端じゃない激流は、恐怖を齎したのである。
対岸では、可也の規模の土石流が発生し、30m以上の山肌を、大木とともに夥しい量の土砂が川に雪崩れ込む様を、文字通り目の当たりにしたのである。

当初キャンプサイトに予定した場所は、実際に川の氾濫が押し寄せ、夕食の時間には、足元に川の水が見る見る増水してきて、緊急避難をしたのであった。

管理キャンプ場であったのであるが、上水道の供給が断たれ、炊事場の屋根に集められた雨水で食事用の水を賄った。
それ以来、我々は少々のことでは驚かない、チョコッとだけれども肝の据わったキャンパーなのである。

こんなことは自慢にならないのが、この世界の掟なのであろうが、土石流をリアルタイムで目撃した、実際自分に降りかかるかもしれない災害の様は、少しばかり人生観を変化させたのは間違いない。
イワンヤこどもたちにおいてヲヤ、なのである。

矢鱈に寒い今年のゴールデンウィークの陽気である。
何かが起こる予感をさせる。

ま、兎に角、少しリフレッシュなのである。