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2001年04月分(04/01〜04/30)

2001/04/30

文責:い 50点

No.473

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

久しぶりに賛美歌を聴いた。

校歌なるモノが、日本国内に幾つ存在するか知らないが、私の知る限りの校歌は、賛美歌調か軍歌調である。

西洋音階の曲は、その全てが賛美歌が出発点という見解があるらしいから、取り立てて言うまでも無いのだろうが、改めてそう感じたのである。

良し悪しデハナイ。

2001/04/29

文責:い 90点

No.472

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

反対の場合には、起立して、ご発言ください。

この一言で、賛成に廻ることになってしまう大勢の人々の立場を救う方策を、民主主義は、探り続けねばならない。

たまには、こんな記載も宜しかろう。

2001/04/28

文責:い 50点

No.471

テレビなどで、今日からゴールデンウィークだと騒いでいて、娘たちも休みなので、テッキリ日曜祭日だと思い違いをして、

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

なんて、切り出しで始めようとしてしまった。

これで、結構焦るものである。
その日にその日分を書くなどという、途方も無いことをやっている自分に驚いた次第である。

ただし、今月は、遂に発刊以来初めて、書けなかった日が3日も発生してしまったのだから情けない話である。

サーバに携帯電話を使用してアクセスし、本欄をアップするなんてことも何度か試みたのだけれども、最近の不安定な情況からして、当分の間、止した方が良さそうな気もするのである。

だけれども、外泊先、それもキャンプなんていう事態に至っては、止むを得ないのである。

どうなることやら。

2001/04/27

文責:い 80点

No.470

ブランデーの楽しみ方、にも色々あるのである。
酒として飲むという視点を逸らして、料理にブランデーを使おうという提案を拝見した。

”あっそう”で終わりにしても良い話なのだが、それでは、本欄が持たないので、もっともらしく書く。

この酒に関しては、私の趣味ではないので、よく存じ上げないが、良い酒なんだろうなという感じとダメだねという感じは抱くことができる。
この件には、全く勝手なのであるから気楽なものだ。

高い安い、評判が良い悪いと無関係に、自分の好みだけで酒を判断するのは楽しい。
楽しいなどと気楽な表現は誤解を招くので、より正確に記載すれば、自分の好み以外で酒(森羅万象)を判断しても始まらないのである。

日本酒の甘い辛いは、このことを言っているんだろうな、という自己基準はあるのである。
が、(私が)認める酒飲みの友人と二つの酒を比べ飲みをしてみると、甘い辛いの判断基準が異なることに気付く。

日本酒のビンのラベルにある表示を見ると、何を根拠にしているのかは知らないが、甘い辛いのレベル
を記載してあるものがある。
2人ともこのレベル表示を自分の基準に対応させられないのである。

基本が美味いか不味いかなのであって、それ以外は、料理との相性なんてモノしか考えていないのが実際だからだと思う。

燗冷ましは、料理に使うということを、ある飲食店の方に聞いたことがある。
その店で、本当に使っているのかは知らない。
確かに、酒の成分を利用するという点で、間違ってはいないのかもしれない。

煮込みの料理酒に純米吟醸を使っていると聞いたら、愚かなことよとその店に自費で足を運ぶなんてことはありえない(つもり)。
まっすぐに、単純に飲んだほうが美味いに決まっているからである。
決まっているのだなどと断定した後で何だけれども、試していないから、この項の訂正は吝かではない。

実際のところどうなんだろうか。
私が美味いと感じている酒と、不味いと感じている酒との間に如何許りの成分の違いがあるのだろうか。

2001/04/26

文責:い 80点

No.469

ドラマの中では全く売れていないという設定をしている、NHKの朝の連続テレビ小説”ちゅらさん”に登場するキャラクター人形、”ゴーヤーマン”が商品化された。

マスコット人形、マグカップ、Tシャツなど18種類の商品が、NHKソフトウェアのキャラクターショップなどで販売されているという。


沖縄特産のゴーヤーをモチーフにし、黄色のヘルメットをかぶり、真っ赤なマントを着たたキャラクターが、”ゴーヤーマン”である。

NHK大本営発表によると、放送直後からNHKに、問い合わせが殺到したため、商品化が決定したという。

本当にそうなのかを、確認する必要がありはしないか。

実は”ちゅらさん”を一回しか見ていないのである。
が、たまたまその一回が、”ゴーヤーマン”発売の日を内容とする回なのであった。

この回では、全く売れていないという設定をしていたので、冒頭に書いたてしまったのであるが、もしかすると、今やブレイクしてバンバン売れていることになっているのかもしれない。

イズレニシテモ、大量に作っていた節がある。
つまり、最初から販売することを画策していたのではないかという疑問である。

小道具として100個作っても、一向に構わないのがテレビ番組製作の現場の発想なのであろう。
だから、大量に作ったのは、一向に構わないのである。

しかし、少なくともプロデューサは、頭の片隅に、はっきり言えば完全に、キャラクターグッズとして一般に販売することを考えていたと考えるのは邪推が派手過ぎるだろうか。

番組で使用された”ゴーヤーマン”の製造原価が、どの部署で経理処理されているのか、確認したいものである。

案外こんなところで足がつく。
犯罪解明は面白いと思う。
金田一よりコナンが好きな鬼ノ胃である。

2001/04/25

文責:い 60点

No.468

日本経営合理化協会出版局から、”絶賛の書 成長の原理』のご案内”が届いた。

ちと長くなるが、面白い紹介文なので、ご披露。

年商3億円、10億円から「100億円企業」に成長させる社長の手の打ち方とは―――
本書は、エネルギー工学の世界的権威 上原春男氏が独自0に生み出した万物に共通の成長原理」を、企業の成長、特に年商3億円や10億円の段階から「100億円企業」を築くための社長の手の打ち方にマトを絞って、分かりやすく説いた異色の書です。
この原理を導入実践した企業の中から、株式公開や年商1000億円を超える会社を輩出し、企業発展の「新しい可能性」を実証、上原理論が、いま最も有益な経営手法として注目され、発刊以来、全国の経営者から指名買いが続く、絶賛の書です。
 先行き不透明な経営環境の中で、経営者必読の書として確信をもって、おすすめ申しあげます。

だそうだ。
知っていただろうか。

私は知らない。
10億円企業の経営者では無いからなのであろうが、逆にこんなものを読んでいる経営者と出会ったらお気をつけ下さい。

出版社から送り付けられたと思しき書物だらけを入れた書棚を背景に撮影された経営者の写真を拝見すると、面白い。

今でこそ百科事典を書棚に入れている人は少なくなったが、古い会社案内を使い続けている会社に訪問して、渡されたモノを覗き込むと、”アルアル”なのである。

そんな方の現在の背景に、世界文学全集、特にトルストイ、スタインベックが並んでいると、嬉しくなる。
会社に文学全集とは...
話題をそこに持っていくと困った顔をするのである。

こういうときは、概ね仕事を採れない。
私も困った顔をすることになるのである。

困ったものである。

2001/04/24

文責:い 80点

No.467

少し前の本欄で、首相公選ではなくて、法的な拘束力の無い国民信任投票を提案した。

その後、色々考えてみたのだが、特に地方(県・市)の首長・議員のあり方と国のあり方とに矛盾があるという素朴な疑問に突き当たった。

地方分権、更に、地方中心行政に移行を求める風潮は、(何処から沸いてきたのかは知らないが、つまり、本当にそんなものが大勢の意見としてあるのかは存じ上げないが)どういう根拠なのかが解からない。

中央権力が、執行にあたり地方地域に代理人官署を置き、国を治める。
そのために、中央の任命で県・市の首長を置く。
これが、現在の我国の地方政治組織の始まりであろう。

それが何時の間にか、地方にも議員・首長が、その地域の住民によって選出されるようになってしまった。

憲法序文には、
”日本国民は、政党に推挙された国会における代表者を通じて行動し”、同43条には、国会における国民の代表たる国会議員が集まって事を決める、という代表民主制が規定されている。

人間でない公務員は存在しないのであろうが、人でなしの公務員は大勢存在する。
実務と理念と、どちらを選ぶべきなのであろうか。

意味が通じているのか不安な今日の散文である。

2001/04/23

文責:い 70点

No.466

先週(04/19)の記載について、訂正があります。

米国史では、
2001年に、51番目の州を迎え入れた”
を、
米国史では、
2000年に、51番目の州を迎え入れた”
に、訂正します。

さて、本日は、久々辞書シリーズなのである。

ちゃちゃを入れる(茶々を入れる)。
話しているときに、横合いから口を挟んで邪魔をする。

京阪地域の言葉としては、”茶々”は、単に”茶”のことであり、要するに、”茶を入れる”なのである。

茶漬け。
冷や飯を食べるときや、酒を飲んだ後におかず無しで急いでかき込むときなどに、飯に熱い茶をかけること(かけたもの)。
料理屋で出すものは、上に海苔・しゃけ・タラコなどを載せたりする。

正統な”茶漬け食い”とは、先ず、酒を飲まなければならず、冷や飯に何も載せずに熱い茶をかけただけのものを掻っ込む必要条件があることが解かる。
飲食店の皆様、正統茶漬けをメニューに加えては如何でしょう。

”本家正統茶漬け・食前酒付き”
こんな感じで宜しいかと思います。
採用されても、私への連絡は無用である。

ちゃちを付ける。
この”ちゃ”は”茶”ではないらしい。
今日の話題は”茶”であるのであるから、ちゃちを付けてはならないのである。

2001/04/22

文責:い 50点

No.465

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

めでたいときには、おめでとうと言いたい。
おめでたい人に対しても、である

2001/04/21

文責:い 80点

No.464

労働力の流動性の増加が、居住地域の流動化に発展しないらしい。
地域人口の変化に占める社会増減の割合が、自然増減と比して影響力が無い。

何故、人は、自分の居住地域を変えたがらないのか。
見方を変えれば、自分の居住地域を変える契機は何処にあるのか。

”プー”という肩書きを持つ(私は、肩書きなるものを嫌っての若者の行動かと考えていたが、違うようだ)人々は、各地を流離うなどということは無い。
もちろん、普通に考えうる寝る場所を確保するには費用が発生し、その原資が無いのであろうが、方法を探せば、幾らでもあろう。

流離うべき時に流離えないこの国のシステムは、オカシイ。
諸君、皆で流離おうではないか。

全然アジっていない文章になってしまった。
しまった!なのである。

2001/04/20

文責:い 60点

No.463

こういうのを、”人は趣味が悪い”、略して悪趣味と言うのであろう。

玄関とトイレとには、その家の住民、特に主人(男に限定させていただく)の抱く方向性のイメージが表現されるのである。
この二つは、奥方の外に向けた(言葉は悪いが)ヒケラカシが介入していると思いがちであるが、実は、全くもって違うのである。

更に、知人の、あるいは、偶然訪れることになった初対面の方のお宅に入り込んだ時、各家庭の冷蔵庫を覗いてみたい勧誘に常に晒される。
ここにこそ、本当に隠せない人間性が存在する。
誰か私に冷蔵庫を覗かせてくだされ。

ああ、他所様の冷蔵庫を覗いてみたい、覗いてみたい、とお題目のように唱えていたら、実現する運びとなった。
これを僥倖と言わずして、何をか...である。

願わくば、そのボックス内に収納された品物の処分権をもと熱望すると、かの知人は、構わないと言ったのである。
とりあえず、ビールを取り出して、かの知人にも分け注ぎ、自分のグラスのほうが当然大きいのだが、半分ほど一気に飲み干して、片手に残りのビールとそれが注がれているグラスを持ちつつ、更に冷蔵庫の中を点検した。

ややあって、恥ずかしがった冷蔵庫は、”ピー、ピピ”などという音を発して、扉を閉めるよう督促する。
督促状は無視するのが私の主義なのであるから、気にしない。

バターが素晴らしい。
流石に他の容器に移し替えるなどという愚挙は行っていない。
この人ならば、このバターを長くとも2週間以内に使い切ってくれるだろう。

歳暮や中元に私の元に届けてくれれば、私は、持って来たキミに対して、オクラソテーかオムレットを作ってモテナソウデハナイカ。

お誂えむきに、空豆もある。
そうなのである。
空豆も買ったなら即座に殻を外して塩茹でにするのだ。
そして冷まし時間は殆ど取らずに、冷蔵庫に入れるのである。

残りのビールを飲み干して、もう一缶取り出す。
今度は、空豆とビールとを交互に口に運ばねばならないから、置いておく台が必要となる。
そう、まだまだ探索は続くのである。

熱燗を浸けてくれる様指示(奥様にである)して、これから先は調理が必要だと呟きながら、野菜室の探検に移る。
見つけましたよ、生椎茸。
七輪の用意を、かの知人に指令して、獅子唐発見。

ここに、玄関に勢いのある声が木霊する。
筍の登場だ。
15cmばかりの掘りたて皮付き。
でかいのには目もくれずに狙い澄ましたジャストサイズ。

これが来るから、朝食会をやろうということで集まった日の出来事であった。

朝食会の終了は、午後8時であった。
こんな幸せな4月が、過去には存在したのである。

2001/04/19

文責:い 80点

No.462

円周率は”3”でよい、という無邪気な論陣を張る人々が出現している。
解かったような顔をして喋るからいけない。
念のためだが”3.14”を支持しているのではない。
重要なのは、πという概念である。

さりとて、日常生活でπという数値そのものには意味が無い。
”3”でも良いし、”3.14”でも良い。
どれを利用するかは、個人のその場での判断にかかっている。

歴史で習って、教義的に信じてしまっている”794年−−平安京”なんて結び付きが、無意味とは言わないまでも、邪魔なことがある。

ここまでの論旨とは無関係であるが、ちょっと気になるので記載。

西暦の1/1〜12/31と和暦のそれとは一致しないはずである。
従って、歴史書に書かれた、800年の出来事と801年の出来事とでは、801年の出来事のほうが先に発生していた事もありうる。

もっと解かり易い例を。
今年(2001年)の元旦には、”新世紀のはじまり”と称して00:00に様々な記念イベントが開催された。
日本で行われた”新世紀イベント”は、アメリカの歴史書ではどう記載されるのであろうか。

”2000年12月31日、日本において新世紀が始まったという式典が開催された”

全然間違っていないのである。

もう少し極端であり、歴史的な記載とすれば、
日本時間2001年1月1日00:15、富士山
が噴火し、これを契機に国内は6000万人を超える死傷者を見た。
米国時間2000年12月31日23:25、日本側の要請により、51番目の州としてニホン州の成立を即日手続き完了し、日本に対する災害支援は、合衆国の国内支援として行うと大統領表明。

米国史では、
”2000年に、51番目の州を迎え入れた”
ニホン州史では、
”2001年に、米国に征服され、51番目の州となった”

さて、世界が地域ごとに完結していた時代、ある国にとっては、他国の歴史上の位置は、無意味である。

もちろん今でも、超然とした時間の流れを採用する人々は存在して良い。

しかし、今日私を取り巻く世界では、様相が違う。
世界標準時の採用は、インターネットの世界では避けられない。
インターネットバンクの利用には、日付時刻の統一無しでは恐ろしくて参加できないと思いませんか。

2001/04/18

文責:い 70点

No.461

新聞報道に依れば、10分間に一台の割合で自動車の盗難が発生しているという。
この報道に接した時、そんなにかよ、というのが第一印象である。

一日に150台、一月に4500台、一年に53000台程度になる。
と簡単に書いてしまったけれども、計算していただけたであろうか。

残念なことに、10分間に一台という言い回しが妙に記憶に残っていたのでこう書いたのであるが、多分、年間の盗難件数から出発して”10分間に一台の割合”という表現になったのであろう。

この時、誤差として認識される範囲はどの程度であろうか。
6×24×365(=52560)が、10分間に一台という数字を一年間に換算した時の数値である。

7分〜13分に一台というのを、単に”10分間に一台の割合”と表現するのは、そう無理のあることではあるまい。
7分なら、年間75085という数値が得られ、13分なら40430である。

我国の自動車の盗難発生件数は、年間40430台である。
我国の自動車の盗難発生件数は、年間75085台である。
この二つの記事を見た時の印象は、左程変わらないであろう。
何れも”そんなにかよ”なのである。

しかし、数値としてこの二つを見比べれば、誤差として無視して良いかどうか判断に迷う。

日常は、こんな事柄に満ちている。

2001/04/17

文責:い 70点

No.460

善光寺土産として手ぬぐいを頂戴する。
黒く塗られた牛のマフラー(まさにそう見える代物。自分の体の全長より長く後ろにたなびいている)の先端を、老婆が手を伸ばして捕まえようとしているのである。
”牛に引かれて善光寺参り”の図である。


で、この
”牛に引かれて善光寺参り”の解釈なのであるが、長年不思議な思いをしてきたのである。

実は、数年前に、諺辞典なるもので、この諺の解釈を発見したのである。
曰く、
”思いがけないことから、偶然良い結果が生じる。”


何故だ〜、と叫びたくなるであろう。
私はと言えば、叫んだのである。
何故だ。

これは、有名な昔話なのだそうである。
しかし、その昔話を、私は知らない。
私が存じ上げないからと言って、”有名な”という形容詞は使用法に誤りがあるなどとは申すつもりは無い。
つもりは無くとも、私の知人が殆ど知らないと言うから、多分”知っている人には有名な”という意味で”有名な”昔話なのであろう。

で、今”私の知人が殆ど知らないと言う”と書いたのは、知っている輩が一人存在したことを意味するのである。

久しぶりに、反復のクドイ文章を綴っていることに満足している。
駄洒落と反復とは、私の最も好む文体である。
そんなことはどうでも良い。

不信心な、そして、可也の強欲婆(ばばあ、と発音のこと)がおったとさ、である。主人公である。
大事にしていた布キレを牛に持って行かれたのである。
如来の化身であったこの牛は、角に引掛けて奪い取り、善光寺まで(何処からかが不明なのが昔話の良いところである)、強欲婆の手が届くか届かないかの微妙な距離を保ちつつ案内するのである。

善光寺にたどり着くと、何故か知らないが、強欲婆は、自分の強欲と不信心を悔い改め、まっこと善人になるのである。

”引かれて”は、”惹かれて”という字をアテルことが出来る意味であって、引っ張られてデハナイラシイノデアル。

納得なのである。

2001/04/16

文責:い 80点

No.459

総裁選。
KSD問題で騒がれた党員名簿であるが、党員名簿の公開をしてもらいたい。
党のHPで各県単位の氏名の公表は容易なはずである。
国政の選挙では、自民党に投票しない党員がいて良いし、当然、党員でなくて自民党に投票する人はいるのである。

これは全ての党に対しても言えるのであるが、総裁(党首・代表等の名称如何を問わず)と総理大臣候補者とを区別していただきたい。
その党の顔足りえる人と、総理大臣足りえる人とは別であって良いであろう。


最高裁判事の国民投票は無意味であると感じている国民は、私だけではあるまい。
しかし、面白い制度ではある。
首相(総理大臣)公選制度の検討前に、毎年一度決まった日に行う首相信任投票制度を創設してはどうか。
投票日は、当然、国民の休日にする。
正月が良い。移動式休日である”成人の日”の翌日なんてどうだろうか。

法改正は必要ないであろう。
国民投票の結果を、内閣総辞職とかの拘束力を持たせないものにすれば良い。
こうなれば、必要なのは、政治家としてのモラルの問題にスリカエレバヨイと理解しよう

信任されても、信任率の低さをもって総辞職と判断する政治家が存在して良いし、信任されなかったとしても、信念を持って内閣を継続する政治家がいても一向に構わない。

マスコミの輿論調査が、信頼できるものであるかのテストにもなるであろう。
輿論操作は、政治家とマスコミとの得意分野である。
政治家は、露骨に行おうとする。
マスコミは、巧妙に行う。
街頭調査の本当の意味が発覚するのを恐れているのがどちらかは、明確であろう。
正義の味方然とした愚者は、叩き潰す必要がある。

我々人類は、インターネットという手段を手に入れた。
結構使えますぜ!

2001/04/15

文責:い 60点

No.458

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

開発コードX−33。

200万円/kgから30万円/kgになると言う話。
地球脱出価格である。

2001/04/14

文責:い 60点

No.457

元禄15年(1702年)12月14日、本所吉良邸で討ち入りを果たした赤穂浪士は、裁きが出るまでじっと待ったという。
その裁きが出たのが元禄16年(1703年)2月4日である。
この間は、4人の大名に預けられた。

大石内蔵助と同じ場所に軟禁された同士と、それ以外の場所に置かれた同士とは、同じ環境に合ったとはいえない。
それはともかく、裁きは全員切腹であり、同日執行されることになった。

この判決に不満を持つ江戸市民も多かったという。
(江戸市民以外は、何の関心も無かったというより、情報が到達していない国民が多かったという点にも注目したいが、ここでは省略。また、市井の人々にとっての”国”とはどのエリアを指していたのかも興味あるが、ここでは省略。)

本当だろうか。
やるかたなき不満である。
そんな不満を捕まえて、少なくとも不満であるという認識を持つ人々がいたという情報の発信源は何処であろうか。

また、赤穂浪士については、武士としては名誉ある死であり、むしろ喜ぶ者が多かったという。
(喜ばないものもいたという点にも注目したいが、ここでは省略)
これもまた、怪しい。

確かに、裁きの結果としての刑執行にあたっては、彼らに対する最高の礼であるとされる方法を採用した。
切腹にはひとりづつ別の介錯人がつき、それぞれ名のある武士があたった。

どちらも(判決に不満を持つ江戸市民も多かったという点・切腹を喜ぶ赤穂浪士者が多かったという点)政治的な歴史の記述にしか思えない。
史実があって、歴史は後世の人々が創る。
概ね体制にとって有利な方向を目指すのであり、体制が変わると歴史は再構成される。
ところが、置き去りにされる(つまり、どちらでも良いようなことは歴史を書き換えない)事柄は多々在って、時代が進むに連れて解釈論争の種になる。

2001/04/13

文責:い 70点

No.456

ちと思うところあって”ドカベン”を読み返す。
秋田書店のAkita Bunko版(A6変型)である。
24巻まで一気に読み流したのであるが、幾つかある単行本装丁の中で一番読みやすい。

先月来、頭の中で微笑三太郎を主人公に据えて読み返してみたいと思っていたのである。
このこと自体に、大した意味が無いのは毎度のこと。

はっきり言って、水島新司の臭いところが厭で、週刊誌連載中は見なかったのである。
が、10年も前になるだろうか、旭川を訪れた時に、気まぐれに入った喫茶店に”秋田コミックス”版のがあって、不知火のスローボールが登場する辺りまでを二日間通って読んだ。
例の、投げたボールに蝿が止まっているアップのシーンがある、アレである。

これを契機にして、千葉に帰ると即座に全巻を買った。
今回の秋田書店のAkita Bunko版は、その後に買ったモノで、裏書を見れば、平成7年12月10日初版発行とある。

どんな書物を購入しても、カバー(本当は何と称するのか知らないが、表紙を覆うカバーである)を外してしまうのが癖なのである。
本”本体”がズルッといくあの感覚が我慢できなくて、嫌いなのである。
本屋で文庫本を買うときに、レジに居る店員さんが”カバー(この場合のカバーは、本屋さんのロゴなんぞがついた大概黄色っぽい、くすんだ紙質の奴)はお付けしますか?”という決り文句を発するが、毎度”結構です”と言って断るのである。
できれば、商品本来のカバーも外してくれと言いたいところを、ぐっと我慢しての”結構です”には思わず力が入る。

古書店は、このカバー無しは引き取ってくれないところばかり。
コミックスなんてモノを、皆さんはどう処分しているのだろう。
私は、溜まる一方の積読本が好きなのだけれども、愚妻は罵るのである。
これもまた快感の一つである。

2001/04/12

文責:い 60点

No.455

当然解かっていることなのだけれども、日常会話では可也いい加減に使っている。

縦1m横2m厚さ0.1mの板がある。
日常会話で、”この板の半分の大きさの板”と言ったとき、どんなサイズの板を想像するかである。

半分の大きさは、1m^2なのである。
ナノデアル、が、その形状はどうなるのであろうか。
縦1m横1mの正方形、あるいは、縦0.5m横2mの長方形、はたまた、底辺2m高さ1mの三角形(それも、直角三角形)といったところが普通の感覚であろう。

実際には、面積1/2の形状は無限に存在するのであるが、大工の見習人が、円に切り抜いた1m^2の板を親方に差し出したら酷い目に遭わせられるだろう。

半分の大きさは、0.1m^3なのである。
ナノデアル、が、その形状はどうなるのであろうか。
縦1m横1mの正方形、あるいは、縦0.5m横2mの長方形、はたまた、底辺2m高さ1mの三角形(それも、直角三角形)といったところが普通の感覚であろう。
ここまでは、繰り返しになっている。
しかし、厚さを半分にした縦1m横2m(厚さ0.05m)の板というのも捨てがたい選択なのではないだろうか。

縮尺1/2のときの、縦0.5m横1m厚さ0.05m(面積は1/4の0.5m^2、体積は1/8の0.025m^3)という板を想像した会話が随分と存在するのではないか、ということが言いたかったのである。

が、上手い文章にならなかった。
ここのところ頭が思ったように巡っていない。
物忘れと根気の無さは、陽気がもたらしているのである。
昼間の時間の長さも関係していそうである。

2001/04/11

文責:い 80点

No.454

こういうのを人に話すのは、”日刊鬼ノ胃”を衆目に晒す以上に気恥ずかしいのである。

何に対してでも気後れするなどということは無い振りをしている私としては、何とも気恥ずかしいのである。
何、大層なことデハナイ。

セルフのガソリンスタンドにて、セルフ給油をしたのである。
これだけのことなのだけれども、中々のスリルであった。
愚妻と2人でちょいと東京にいく用事があって、袖ヶ浦あたりで給油する事態が発生。

ガソリンスタンドがあったので何気に(最近こういう使い方をすると聞いている)入った。
人間が寄って来ないのである。

これが噂の”セルフスタンド”かと、2人で同じことを言った。
数量で攻めるか、金額で攻めるかの第一関門がある。
数量を選択して、いよいよである。

給油口の蓋を開けて注ぎ口を突っ込む。
レバーを指で引っ張って流動物が動く感覚を手に感じさせる。
やがて、規定数量近くになると、自動的に流量を絞り始め、規定数量にてピタリと止まる。

上手いもんである。

お金を払いに窓口に行く。
これが何だか不思議な作業。
機械に全部任せれば良さそうなものである。
入れ逃げをする気など毛頭無いが、何だかこのまま旅立って行った方が自然な感じがするのである。

払っている時に、場内放送では(私からお金を受け取った人間が、そのお金を握り締めたまま)、”6番の方、蓋を閉め忘れています”と流している。

全て監視されているのである。

逃げなくて良かった。

2001/04/10

文責:い 70点

No.453

久しぶりに三石山に登った。
もちろん車で山門近くまで行ったのであり、歩いたのはほんの数百メートルである。

行かれたことの無い方は、一度訪ねると良い。
なかなか急な坂道を抜け、本堂に覆い被さる3つの巨石を目の当たりにし、また、石に挟まれた(石そのものの中の)アスレチックな遊歩道(?)を巡ると、ちと趣のある気持ちになる。

久留里街道は桜が満開。
巨木も多く、ドライブがてらの花見スポットとして推奨。
来年まで憶えておいて良し。桜は裏切ることが無い。
意図的に植えられたとは思えない配列であり、並木が直線的でないのが良い。

手入れが行き届き、”桜の名所ですよ”然とした観桜街道はつまらない。
両サイドから襲い掛かるような圧倒的な態度は、桜の本心ではあるまい。

今回訪れたのは、04/07という子供の入学式の日であり、お礼参りである。
私は、もちろん、平坦な通常参道経由で速やかにお参り。
子供と愚妻とは、石登りルートで本道に到着。
この間、他に人もいなかったので、幾許かの静寂な時間を過ごすことができた。

桜が、この寺の持つ厳かな(決して壮大ではない)雰囲気とは相容れない極めて華奢な桜が一本、本堂の前に咲いている。
密に込み入った花びらを付けるでもなく、花見客に手折られたことなど一度も無い、存在感の無さそうな一本の桜が、妙に気に掛かる。

こんな時間も好ましい。

2001/04/09

文責:い 80点

No.452

例えば、東京都の甘木誰兵衛氏が殺人を犯したという報道がある時に、私にとってその”甘木誰兵衛”という名前は意味を持たない。

概ねの場合には、名前の前に”住所不定無職の”などといったその人間を特定しようとする修飾が付けられる。
これも私にとって何の意味も持たない。

それなのに何故”住所不定無職の甘木誰兵衛”という風な報道をするのであろうか。

深刻な問題である。
新聞社や通信社、データベース事業者が持つ過去の記事のデータベースには、例えば逮捕され、その後不起訴になったケースでも、そのまま実名が報道されている場合がある。

こうしたデータは、インターネット上で利用できる記事データベースに検索をかければ、だれでも簡単に入手することができる。
謝罪訂正報道があっても、報道機関の扱いは小さく、まして、データベース上の個々の記事に遡っての訂正は無い。


個人情報の取り扱いと報道・表現の自由の問題とは、論議される必要がある。

ただし、この論法が情報公開を否定する人々に利用されるのは好ましくない。
かかる例は、そもそも情報の作成に問題があるのである。
情報公開を求める理由は、作成された情報が一部の人間にだけ利用できる制度が悪いからなのである。
または、作成すべき資料を作成しないで誤魔化そうとする姿勢を無くすべく監視するシステムを確立したいからなのである。

2001/04/08

文責:い 60点

No.451

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

フライトシミュレーターで遊んでいて、ふと感じたこと。

あたりまえの事ではあるが、窓から眺めているつもりになっている外の景色は、外の景色ではない。
しかし、可也リアル感はある。

本当に滅多に利用しないホンモノの飛行機に乗っていて、生憎(これは私の気持ちであって、ある方にとっては幸いにしてかもしれない)悪天候で窓から外の景色が見えないとがっかりする。

こんな時に、好天時にその飛行ルートを運行した時の景色映像を、刻々とモニタ映像で見せてくれるといいなと思う。

2001/04/07

文責:い ##点

No.450

諸般の事情で3日間(04/04〜04/06)休刊しました。
エイプリルフールからシステムの調子が悪かったとだけ言い訳しておきます。

本当なら今日が花見の絶頂日の予定であった。
私の家の近くの池の端の桜である。

去年は写真をUPした。
創刊から今日まで、唯一の写真入りの”日刊鬼ノ胃”である。
URLを書き込んでの写真参照をすれば幾らでもできるのであるが、どうも馴染まない気がして、映像の使用は控えてきた。

冒頭記載の通り、創刊来449号までの休刊無しの記録は途切れてしまったのである。
丁度良い機会であるから、旧来の陋習に囚われることなく、新たな試みをガンガンやっていきたいと考える。

ま、大したことはできないだろうが、意気込み新たに継続していく。
お付き合いの程宜しく。

2001/04/03

文責:い 60点

No.449

左側が私の用法。

フリーダイアル/フリーダイヤル
ダイヤモンド/ダイアモンド
スタッドレスタイヤ/スタッドレスタイア
ジュース/ヂュウス
輿論/世論
右を読むとしたら”せろん”。
私(わたし)/私(わたくし)
ただし、”私事”は、”わたくしごと”。
肝い/気持い
いくらなんでも”気持い”という否定を含んだ肯定形は馴染めぬ。
”全然”の肯定形終わりも馴染めない。同じ雰囲気。

”ナウい”は、日本語になった様子だが、極お年よりの方しかお使いにならない。
新しい言葉なんてモノを、ありがたがって何十年も使い続けるには、忍耐よりも不感性が必要であるのであろう。

辞書を引いていて、全く触れたことのない世界の記述は、信用して他人に話したりもする。
しかし、少し齧ったことのある分野の記述を見ると、どうも見当違いをしているのではないかと思われる記述が多い。

ということは、私の知らない世界の記述も信用するに中らないのではないかと言う疑問が湧く。
または、私の知識が間抜けているのかのどちらかであろう。

此処のところ、一歩通行ではない気候の変化に身体も頭も付いていけない。
こんなことでは、時代に付いていくことができる訳が無い。
反省だけである。

2001/04/02

文責:い 80点

No.448

地元の地域共同体の総会が続く。

地元に古くから”家”が存続しているがために、得体の知れない(こういう書き方は不遜ではあるが、要はかつては必要に迫られて活動母体を組織する必要があって設立したのだが、今ではその活動の必要性が無くなったがために、存続しているに過ぎない任意団体然としたもの)組織に加盟しているのである。

ところが、こういった諸団体は、基本財産を持っているので決算報告の必要があるのである。
設立から今日までの間に、共有財産の売却(収用等によるもの)で得た金銭を預金にしてあったりして、ま、結構な額の財産である。

この諸団体に加盟しているのは”家”なのである。
しかし、”家”には人格が無いので困った問題は多々ある。
共有財産のうち土地に関して言えば、”何兵衛他何名”などという登記がされていて、その”何兵衛”は既に亡くなってから50年経過しているなんていう事例に事欠かない。

まして、この団体というものは、時代によって構成員が異なるのである。新規に加入する者や脱退する者がいるので、”他何名”とは一体誰のことなのかを解明するのは不可能である。

更に、この登記を生かすとすると困ったことが出てくる。
現在の所有者は誰なのかということである。
5世代を遡って、現在の相続人を確定することなど、現実に出来はしない。

困ったことである。

と、私は思っているのだけれども、役員さん達は困った顔をしない。
後世に禍根を残す(現在も残されているのだけれども)ことに無頓着な世代は、気楽なものである。
多分、私もこの雰囲気に慣れていく。

居心地は悪くは無い。

2001/04/01

文責:い 70点

No.447

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

祝い事の記念品には、包丁などの刃物はタブーだという。
縁を切るのだそうである。

しかし、鋏は、左右の刃が互いに寄り添いピッタリ合わさって仲睦まじい様の象徴とされ、良いイメージを持たれ、結婚式の記念の品などに用いるという。

こういう講釈は、説明されると納得した気分になる。

私には、包丁と鋏の解釈文は、逆の結論にする自信がある。
政治の世界みたいな話である。