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2001年03月分(03/01〜03/31)

2001/03/31

文責:い 60点

No.446

預金利息の利率の低さは、自分には殆ど関係ないのである。
しかし、影響は出ている。

金利が高いほうが良いとか、安い方が良いという議論では無い。
高いほうが良い場合もあるし、安い方が良いという場合もあるという程度のことの一例に遭遇した話。

所属団体の基本財産である定期預金の年間利息額を聞かされると、”おやまあ”という気分にさせられる。

かつては、例えば6%程度の金利時代には、預金利息で親睦旅行なんぞができたのである。
今や、会合でのジュース代程度である。

これだけのこと。

2001/03/30

文責:い 80点

No.445

昨日、”普通の物質では、固体状態にあるほうが、液体状態にある場合に比較して密度が大きい”と記載した。
普通の物質の密度は、特に液体状態にある時に限ってみても、温度上昇につれて減少する。

ところが、これに対して水の場合、摂氏0°〜プラス4°の範囲では、密度は温度上昇とともに増大するのである。
摂氏プラス4°〜プラス100°の範囲では、温度上昇につれて減少する。
言い換えれば、摂氏プラス4°の時に、密度最大となる。大気圧中での話である。

相が変わる温度(水と氷との相の転換温度)と異なる温度に密度最大温度がある。

因みに、摂氏プラス4°の密度最大事時の質量を”質量基準単位として定めた。
1立方センチメートルの水の質量を1gとしたのである。
(水の比熱の熱量単位は、摂氏プラス15°の値を採用している。歴史である。歴史的な裏づけのあるモノゴトは、時にこういう悪戯をして、学生を悩ませ、混乱させる)

湖の表面が凍り始める情況を考えてみよう。
今、水の温度は一律摂氏プラス10℃であるとしよう。
寒気が訪れ、空気中は突然摂氏マイナス20℃になるのである。

表層では、水が冷却され、摂氏プラス6℃迄なった時、密度の上がった水は、沈んでいく。沈むスピードは緩やかで、やがて表面の水は摂氏プラス4℃の密度最大点を通過する。

例えば摂氏プラス2℃になった水は、沈下できない。
直下に、例えば摂氏プラス3℃といった重い水があるからである。
従って、摂氏プラス2℃になった水は逃げられずに、更に冷却されるのである。
通常の対流が発生しなくなるのだ。
そして、摂氏0℃になった時、氷となる。

故に、湖の氷が凍る時には表面から氷になるのである。

こんなとこで終了。

2001/03/29

文責:い 90点

No.444

昨日までの数日間、気温で春らしさを実感できる陽気が続いてくれた。
一転して今日はさぶい。
気が緩んでいた所為か、ちと風邪気味である。

”氷は水に浮く”
不思議な現象である。

水は液体である。
氷は個体である。
何を言っているのかとお思いだろうが、この二つのセンテンスが真であるが故に不思議な現象なのである。

普通の物質では、固体状態にあるほうが、液体状態にある場合に比較して密度が大きい。
つまり、同物質の液体に個体は沈むのである。
例えば、溶けた鉄に個体の鉄を放り込めば、沈むのである。

水(液体)に氷(個体)は沈むというのが、一般的な推測に耐える。
ところが、事実は逆である。

ということは、”水(H2O)は特殊な液体である”と結論付けることができる。

一方、水は、地球上でもっとも多量かつ普遍的に存在する液体なのである。
我々人間の生活環境である摂氏マイナス30°〜プラス50°の範囲で、水は固体・液体(更に気体)という状態を見せてくれる。
これが、身近な(地球上でもっとも多量かつ普遍的に存在する)液体である理由である。

私には、液体と聞いたときに、真っ先に思い浮かぶのが水である。
液体を水に代表させているということだ。
この発想をする私が、特殊な人間だとは思えない。皆さん同様だと思うが如何。

ということは、”液体といえば水”であると同時に、”水は液体の中で特殊な存在である”のであるから、何か釈然としないものが残る。

特殊なのに、普遍。
声の大きい人々の主張が、あたかも輿論を構成しているかのように錯覚している社会状況に似てはいまいか。

今日は別の狙いがあったので、単純に”氷は水に浮く”と記載したが、実はささやかなトリックがある。
別の言葉でいえば、いささか正確さに欠ける記載である。
”水(液体)に氷(個体)は沈む”事もあるのである。

つづく。

2001/03/28

文責:い 80点

No.443

破産とは、借主がその借金を返済することができなくなった場合に、借主の全財産から全ての貸主への公平な返済を主な目的としてなされる裁判上の手続のことをいう。

債権者による回収が早い者勝ちになることを防ぐのである。
この破産手続を自ら申し立てる場合を自己破産という。

破産宣告がなされると、貸主が個別に借主に借金の取立てをすることができなくなる。
従って、借主は、債権者の取立てから解放されるというメリットがある。

こう書かれている、自己破産の紹介文が多い。

メリットという言葉が気に掛かる。

そして、最大のメリットは、破産宣告後、免責を申立てその決定を得ることによって、破産手続で返しきれなかった借金の残りを帳消しにしてもらえるという点を強調する。

ここでもメリットの登場である。

破産宣告を受けても、選挙権を失うことはない上、戸籍に載るということも無い。
破産手続費用として、裁判所に予納金を納付するのだが、これも実務上免責に近い制度がある。

債権者のメリットも紹介される。
が、貸した金(債権)が縮小されても、比較有利な点を掲示してメリットと書かれても、そんなもの納得できる訳が無い。

2001/03/27

文責:い 70点

No.442

大変に迂闊な話ではあるのであるが、久しぶりに友人知人の名簿を整理している。

此処のところ、メールアドレスの変更をされる方が非常に多いのである。
空間上の引越し(転勤)に伴ない、変更になる方々もいらっしゃるものの、個人ベースのアドレスで、プロバイダーを変えたことに起因する変更が多い。

自分で意識している以上に登録先の数は多いものである。
人様のことを申し上げるのは、大きなお世話であろうが、登録したかすら忘れている登録先も結構な数になろう。
クリック一発で登録して、控えなんぞを紙に落として保存している例はむしろ稀であろう。

”登録”とは意識していなくても、何らかの形で自分のアドレスを通知した場合、相手にとっては、まさしく”登録してくれた”相手としての処理がなされているはずである。

例えば、私にメールを送ってくれた人は、私の”アドレス帳”に登録されている。
もちろん悪用するつもりはない。

ところが、この”悪用”の解釈が、曲者なのである。
悪意あって利用することはしないとしても、それぞれの方々にとっては大いに迷惑な扱いをされている場合が多々存在する。
好ましい例とはいえないが(これは私の事情)、私のメールマガジンが配信されること自体、可也の迷惑な話であろう。

複数のアドレスを使い分けている場合には、複雑である。
使い分けている人にとっての都合ではない。
明らかに同じ人であることを承知していて、その方の複数のアドレスを管理している相手方の都合を想定している。

実際、可也の数のアドレスを使っているのであるが、先様は私が私であることを知っているので、こちらの使い分けとは無頓着にメールを送ってくるのである。
返信機能を利用したメールに多いのだが、メールマガジンの発信元のアドレスに、私個人(? まあそういうことである)宛てのメールを送ってくれることがしばしばある。

このメールマガジン発信元のアドレスのメールを読むのは、発信作業の前であって、基本的に一日一回である。
土日祝祭日は発行していないので、メールを読みに行かない場合が多い。

メールマガジン発信元のアドレスにて受信するメールの内で、”個人的な内容のメール”と”配信停止通知メール”というのが、私の好まざるメールなのである。

そこのところを宜しく頼みますよ、皆さん。

2001/03/26

文責:い 80点

No.441

子供の活用。
耳慣れないから奇妙だけれども、してみても良いというより、したほうが良いという世界の話。

人間が何かすると、報酬の支払いが発生するというのが、この世の話なのである。
この報酬を親が搾取してしまうのは、大きなマチガイなのであって、子供が稼ぐことに関しては、何等問題はない筈である。

60歳という年齢を超えた人が、国政の場において活躍(? その地位にいるという意)しているのは、問題があるという意見の対になる意見の発露である。
はっきり言えば、犯罪行為なのではあるまいかという、正直な意見。

未来に対しての責任というリスクを考慮外に置くことのできる立場にいる人々(お年を召した人の意)は、未来のことを語ってはいけないのである。

”子供たちの未来のために”というスローガンで何かを為そうという人は、何もしないほうが”子供たちの未来のために”は芳しいのである。

千葉県知事選挙の結果を確認しての感想。

2001/03/25

文責:い 60点

No.440

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

マイラインの勧誘電話。

NTT絡みは全て外注。
それも、OBなどの動員である。

横柄な輩が多く、不快である。

まして、きちんとしたデータベースを持たない。

やらない方が人気が保てよう。

2001/03/23

文責:い 80点

No.438

徳政令その5(その後)。

この徳政令の項の初回に、徳政令が経済学の”まさに生きた経済学だと思う”と書いたのだが、それが何故なのかという答えを用意してある。
ということで、これを披瀝しないと、この項が維持できないと考えるので、つましく書く。

最前線の経済学であるのである。
ここまで言い切っていて往生際の悪いのは、鬼ノ胃の徳政(もとい、特性)である。

経済学は、古典力学を参考にしてきたのである。
社会科学の中で、唯一厳密な意味での科学である地位を保つことのできた理由は、ここにある。

皆さんの考えている経済学というのは、
政治経済学(political economy)
なのである。

私の論議しようとしているのは、
経済学(economics)
の話なのであって、慶應の加藤寛(税調議長?本人はこう呼んでいる)などのような権威を要求する擬似科学ではない。

そも、物理学の古典力学は、ニュートンの法則を根本とする。
林檎である。
19世紀半ばまでは、世の中のことは全て、ニュートンの法則で描ききった。
ところが、熱力学の法則を導入しないと、不都合が生じてきた。

不都合が生じたら、この不都合を封じ込めるために、新たな理論を導入して、納得したような気持ちにならない事には、人間として気持ちが悪いのであろう。


”徳政令その5(その後)”というタイトルを気に入ってもらえたであろうか。
今日もまた、”徳政令”の話は無かった。
どうなるんだろう。
”だっけんが”、”徳政令その5(その後)”は、まだまだ続くのである。

2001/03/22

文責:い 80点

No.437

砥石ありますか。
ただし、直方体のアレである。
包丁を突っ込んで器具が勝手に砥ぎ上げる奴は含めない話。
ついでに言えば、鉛筆の芯を研ぐ、手のひらサイズの砥石も除外する。

次の質問は、”砥ぐ”という行為の経験はありますか。

更に次の質問は、包丁以外のモノを”砥ぐ”という行為の経験はありますか。

ここまでを”イエス”で到達された方は、非常に少数であろうと思う。
勿論、私は、全て”イエス”である。
川原の石で、鉈を砥いだこともある。
これは、ちと失言ではある。
第一の質問である”砥石ありますか”に、複雑な解釈を与えてしまうかもしれない。

とまれ、刃物を研ぐという行為のスキルを、いま少し磨きたいのである。
使い捨ての剃刀に飽いてしまったのである。

これは、”ゴミの問題”とは、全く別の発想なのである。
髭を剃るという、極めて即物的な目的を、楽しみの領域に持ち上げようとしているのだ。

日々暖かくなってきたからなのだけれども、朝の楽しみに、剃刀を砥ぐという趣味を導入しようということである。
冬場の夜中にやると、非常に危険な人物という評判が立ちそうな気がするし、先ず第一にさぶそうである。
砥ぐという行為は、リビングでやるべき作業ではないというようなイメージを持つ私としては、外の流し周辺でやりたいのである。

さあ、剃刀を買いに出かけよう。
それにしても、何処に行けば売っているんだろうか。
床屋さんの器具専門店にでも行かなければ無いのだろうか。

2001/03/21

文責:い 70点

No.436

通常の家庭食をご相伴にあずかると、私の交友関係では概ねそうなのである。

飯碗・湯呑み茶碗は、各個人用に購入したものを使用している。
箸もそうである。
味噌汁椀は、区別が無い。
何故だろう。

この疑問は、逆の発想でも可能である。

ご飯碗・湯呑み茶碗・箸は、各個人用に購入したものを使用している。
何故だろう。

先に”ご相伴にあずかる”と書いたが、つまり私が客人であるときには、お客用というのは別にあって、これはどんな客にも一様な代物である。

飯碗は、論理的(? 嘘。あくまでも感覚的である)な解明ができる。
一回の食事の適量が、銘々異なるからである。

飯碗にご飯を盛り付ける場合、その碗特有の適量がある。
大盛にしては美しくない。小盛も同様である。
適量を盛り付けたときに美しいと思われる量を、各自の一度の米飯量に照らし合わせると、各人の椀のサイズが自ずから異なるという説である。

売っている碗の絵柄に原因があるのかもしれない。
だが、そもそも何故異なった絵柄を購入しようとするのかを考えると、”はじめに銘々椀ありき”ということになってしまうのである。

箸についても同じようなことが言えるだろう。
その人に合った、見た目美しいと判断できる箸は、太さ・長さに個人差があるのである。”美しい”は”使いやすい”と言ったほうが良いかもしれない。
いずれにしても、サイズは使用感に影響するのである。

こういう屁理屈は嫌いでないし、通常様々なことが思いつくのであるが、この一連の理屈では、”味噌汁椀は、区別が無い”を説明し辛いのである。

こういうときには、話題を変えるのである。

弁当を利用するときに、テーブルの上に置いて食するようになった。
嘗ては、左手で持ち上げて食したのである。

他の人がどうだったかは記憶に無いが、自分の行動にはその場での違和感があったとは感じたことが無かったから、多分そういう風に持ち上げて食っていた人も存在したに違いない。

何故こうなったのかを解明せねばならない。
勿論、日を改めてである。

2001/03/20

文責:い 60点

No.435

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

とある航空会社の制服の話。

ブラウスはピンク、パープル、グリーン(スカーフも一緒)とあって、その日の気分で好きなのを着ているとのこと。

実際に着用している人の話では、作業性がイマイチだそうである。
ブラウスが、すぐにスカートから出てきてしまい、ダラーンってなっってしまうという。

制服というものは、作業性第一だと考えていた私でありました。
違うらしい。
今書いた事例では、別の効果を狙っていたのかもしれない。

この制服が、来年変わる。

様々な分野で様々な制服が制定されているが、決定権者は誰なのであろうか。

2001/03/19

文責:い 80点

No.434

新聞記事ネタで、考えさせられる一文を発見。
10日の付濃毎日新聞である。

田中康夫知事の「脱ダム」宣言に危機感を募らせる県建設業協会は、各個人が田中知事あてに電子メールで公共事業の必要性を訴えるよう、文書で支部に呼びかけた。「知事が、メールで届く意見を『市民の声』として重要視しているので、対応することにした」と同協会専務理事は説明。

さて、どう読み砕くことにしようか。

本心は、スパムメールのごときもので、知事のメールシステムを壊してやりたいのであろう、なんて裏読みは止しておくとする。
まず、”知事が、メールで届く意見を『市民の声』として重要視している”かどうかは存じ上げない。
が、まあ、そうなのだとする。

市民の声というからには、各種団体名で送信してはマズイということで、県建設業協会は”各個人が訴えるよう”に支部に呼びかけたのであろう。

訴えメールの文面の雛形を用意したかどうかには、大いに興味がある。多分、内部文書としては作成したと想像する。

インフラストラクチャー整備を、誇りを持って生業としている人々の声である。
”私は、この職業で生活しているのです。儲けさせてください。”
こういう意味合いの文面を書くことが出来たならば、この業界も健全である。

何故か公共工事が可哀想になるくらい、単に総論としての公共工事の必要性を訴える内容のメールだったら、愚かなものである。

個々の具体的工事の必要性を書き連ねたものであれば、知事は真摯に対応すべきである。

「脱ダム」宣言なんてモノは、観念的なものなのである。
この文言に縛られて、本当にダムを一切作らないという魂胆であれば、それは間違っていると言わざるを得ない。
殿のご乱心であると糾弾されてしかるべきである。

最近の報道を聞いている限りで判断するが、実際、ヤスオチャンは、少々ご乱心模様である。
ただのワガママ官僚になってしまった趣があるのである。
もっと遊んでいただきたいのであります。

2001/03/18

文責:い 60点

No.433

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

同じコンビニで買い物しても、店の雰囲気が違うと思うことが良くある。

仕事の”できる店員”と”できない店員”との違いであることが解かった。

レジ前に長い列が出来ているときに、よくよく眺めていると、客をこなすのに要する時間は変わらないのだけれども、待っていてイライラする店員と、決してそう感じない店員とがいる。

接客業の個人ノウハウ恐るべし。
マニュアル言葉・態度では克服できないと考える。

2001/03/16

文責:い 80点

No.431

徳政令その4。

交易とか金融とかの極めて経済的な活動の起源は、宗教という形態とは言い辛いが神秘性の中から生まれてきた。

単純に余りモノ同士を交換する物々交換には、相手が見えている。
所有されているモノは、それを所有する人の魂が染み付いていると思っているのである。

この発想は古いと否定すると、現代人の行動を説明できない。
ある有名人の使っていたモノを欲しがり、驚くべき高価な金額で購入するという現象は、この例である。

どなたからかのいただきモノを大事にしまって置く。
例えば、結婚指輪なんてモノは、概ね単なる商品であって、価格は決まっていて、価値は決まっていないものなのである。
この価値の発生源は、贈ってくれた人の魂が染み付いていると思っていること自体なのであろう。

従って、交易という経済活動をする場合に、無造作に売買すると所有していた人の魂が一緒に付いてきてしまって厄介だったのであろう。
で、”市”の登場なのである。

”市”は、聖的な空間に開かれたのである。
曰く、一度神仏に供えて、それを神仏から賜るという儀式を経ることによって、纏わりついた呪縛を解き放つのである。

ということで、最初の商人の役割は、神仏に仕える人々が担ったのである。

徳政令その4なのに、今日も徳政令の話が出てこなかった。
奥が深いのである。

2001/03/15

文責:い 70点

No.430

危険物積載車マークについて。
何度も書くような気もするが、あのタンクローリ車などに付けてある、”危”のマークが癪の種なのである。

”当車は、危険物を積載しております。まことに恐れ入りますが、天下の公道を、そーっと走らせて下さいまし。”
こんな意味合いを込めたマークの筈である。

ところが、道路を通行している”危”のマーク車は、
”当車は、危険物を積載しているんだぜ。
無茶な運転をするけど、巻き添えになりたくなかったら道を譲れ!
何てったって、危険物を積載しているし、危険な運転をする人間なんだぜ、俺は。”
とばかりに、あの”危”マークを、自分の危険さ(運転のである)の免罪符に仕立て上げている。

タンクローリ車ばかりを例にして申し訳ないが、眼に余る振る舞いの”危”マーク車が、ガソリン輸送車の場合、私は、そのブランドのガソリンスタンドで給油することを選択しないようにしている。

こんなことの積み重ねが、大衆の声に出さない声として企業にダメージを与えると信じている。

とはいえ、百歩譲っての話としては、この”危”マーク車は許す。
自分のことだけを考えれば、近づかなければ良いからである。
勿論、そうもいかない情況があるから問題にしているのではあるが。

何、許せないのが他にいるからである。
”法廷速度遵守車です。お先にどうぞ。”マーク車のことである。

このマークは、何を訴えたいのであろうか。
会社の姿勢を衆人に伝えようとして、この宣言を運転者に押し付けているのだろうことは想像できる。

やるならきちんとやるべきである。
このマークを付けていながら、言行不一致の車輌を見ると、むしろ悪い印象を受けるのは、私だけではない筈である。

ここからは推測(ただし、可也根拠アリ)なのだけれども書く。
このマークを付けさせている会社は、交通行政上の表彰企業であることが多い。
建前の世界での優良企業なのである。

愚かなことである。

2001/03/14

文責:い 70点

No.429

一言も喋らないで仕事をしている。
仕事というのは、ちとばかり何なのであるが、つまるところコンピュータの前に座っていれば、そんな気になれるのが私の仕事なのである。

他人との会話が無いから、一言も喋らないで仕事をしているなどと簡単に言ってしまったのであるが、どうやら客観的には----カッカンテキニハ(ワ)と発音するのであって”キャッカンテキニハ(ワ)”ではないのである----言葉を発しているらしいのである。

かかる事態は、一般的に世の中の人は、病人の仕草と称するのであって、普通ではないのである。
普通ではないという形容詞を好んで受け入れるタイプの人間である私は、微妙ではあるが----と言っておく必要がある----こういう日常生活を送っている。

あちゃーとか、う〜ん、とか、おっーとか、やったーとか、あちょ〜とか、よっしゃとか、ーや〜の多い感嘆の奇声は、茶飯事である。

これはまだ大したことは無い。
”頼みますから、上手く動いてください”とか、”叩くよホントニ”とか、”そのタイミングで繋がるべきである”とかのように、会話調すら成立しているのである。

パソコンのご機嫌を取ったり、脅したりと極めて人間らしいやり取りをしているのである。
これは、危ない状態である。

貴兄には、思い当たる節は無いでしょうね。

----------今、読み返してみたのであるが、可也危ない人の書いた文章である。
星を眺める生活にシフトする必要がありそうだ。

今日は、批評ではなく、あなたの悩みを受け付けます。
今日の文章を、頷くところアリと読み進んだあなたは、本当に危ないのである。

2001/03/13

文責:い 60点

No.428

幾つかのプロバイダと契約している。
理由は多々ある。
不満も多々ある。
が、今日書きたいのは、そんなことではなくて、別のこと。

契約しているプロバイダの中に、ZEROがある。

派手なコマーシャルを流し、どんなことをやらかしてくれるのかと楽しみにしていたのだが、一向にその正体を見せなかった。

ま、時々メール確認に利用したりしていたのである。
ZEROでゲットしたアドレスで遊んだりもしているので、たまにはメールを受け取りに行かねばならないのだ。

ところが、今日一番に入っていたメールには笑った。
私がどんなに落ちぶれていても、絶対に書けない内容のメールである。
コメント無しに掲げて、本日はお仕舞。
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ZERO会員各位

 平素は、ZEROをご利用頂きまして誠に有り難うございます。
さて、弊社では平成12年7月より高品質・接続料無料のインターネットサービスを提供して参りました。しかしながら、インターネットサービスプロバイダーを取り巻く環境変化の中、今後もZEROサービスの高い品質を維持し続けていくために必要最低限の収益をあげることが不可欠となり、今回サービスの原則有料化を決断いたしました。
会員の皆様にはご迷惑をお掛けいたしますが諸事情をご察しのうえご理解を賜りますようお願い申し上げます。

 また、現プランは平成13年4月30日で終了させていただき、5月1日より新プランへ移行させていただきます。
 新料金・移行手続・清算方法の詳細につきましてはホームページhttp://www.zero.ad.jp/news/user_f.html  に詳細を掲載しており
ますのでご確認頂きますようお願い申し上げます。

                          ゼロ株式会社
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コメント無しのつもりだったが一言。
”諸事情をご察しのうえ”のクダンが最高に可笑しい。

これでもまだ、何事かやろうとしているのだから、見守ろうではないか。

2001/03/12

文責:い 80点

No.427

この国には、様々な組織が存在する。
そして、組織には必ず”長”が存在する。

その”長”を選出するのに、様々な方法がある。
民主主義の名のもとに、住民による選挙を行うことで決定する方法もその内の一つである。

千葉県知事選挙が始まった。
推薦(というか、何となく候補者の支持基盤)母体が明確に記された方々がいらっしゃるのは承知している。
しかし、どういうことをやりたいのかが伝わってこない。

何を言いたいのかを簡単に言えば、ナンカオモシロクナイノデアル。

組織があるから”長”を選ばなければならないとしているから、訳が解からなくなっているのである。

”地方の時代”などと叫ばれているが、”県”という単位が、”地方”の代表格かどうかを検討する必要があろう。

また、代表格かどうかを別として、もし、”県”という単位が必要でないということになれば、その組織の”長”である知事を選出する必要が無い。

首相についても触れてしまおう。
首相の首を据え替えることを画策する人々の内で、可也の力を持つ人々は狡猾である。

”長”は責任を取らなければならない時に、責任を取らなければならないのであって、これが主たる任務である。
責任をとることのできない人間を、”長”に据えてはならないのである。

従って、責任をとることのできない人間を、”長”に据えてしまうという過ちを犯した人々は反省しなくてはならない。

何と言うことはない、我々国民の責任なのである。
政治家の責任を云々する前に、我々一般人が猛省する必要がある。

2001/03/11

文責:い 70点

No.426

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

インターネット電話。
使うに堪える。

長距離電話通信の世界は、一体今後どうなるのだろうか。

2001/03/10

文責:い 70点

No.425

本日は、親バカを一席。

上の娘が中学を卒業した。
皆勤賞を頂戴してきた。

皆勤・精勤という学校を欠席しないことを称える制度には、様々な批判があると承知する。
しかし、皆勤・精勤という結果は、矢張り、多分、きっと尊いことであろうと考える。

副賞にアルバムを授与されたのはイタダケナイガ、親としては、こんな事柄が、妙に嬉しいのである。

どう考えても親バカの話であった。
目出度いのである。お許しを。

2001/03/09

文責:い 90点

No.424

徳政令その3。

法律はマモラナケレバナラナイモノという認識がある。
そうでないと混乱するからである。

では、何故法律を作るのか。
誰かのために作るのである。
誰のために作るのかが問題なのである。

私に利益となる法律ならば、私は遵守するのにやぶさかな訳がないのである。
いいねえ、なんて感想は、腹の中に仕舞っておいて、知らないふりをして、黙ってその利益を享受するのだ。

しかし、私に不利益となる法律ならば、私は遵守するのを躊躇するのである。
ただし、大声をあげて不満をぶちかますほど力は無いのであって、酒を飲んで少し文句を呟く程度で、黙ってその不利益を甘受するのだ。

ということは、私にとって利益不利益に関わり無く、私は黙っているのである。多分あなたもそうである。

ところが、自分に利益をもたらす法律を作るように働きかける力を持つ人々は、確実に存在する。

同じようだが異なることである、自分に不利益をもたらす法律を作らないように働きかける力を持つ人々も、確実に存在する。
作られてしまっても、即座に骨抜きにする別の法律(特別措置法なんぞという、元になる法律と正反対の理念--従って内容も--を掲げた法律がその例である)を平気な顔をして作らせてしまう。

だから、マモラナケレバナラナイ法律なのか、という疑問には答えられない。
そう、制定されてしまったからマモラナケレバナラナイのである。
法律を作る段階では、そもそも皆がマモラナケレバナラナイ法律であるかどうかとは無関係なのである。

徳政令その3なのに、徳政令の話が出てこなかった。
理由はあるに決まっているのである。

2001/03/08

文責:い 90点

No.423

酒は体に良いという記事発見。

そんなの言われ続けてきたことじゃないか、という発言はご尤もだが、まあ暫しお付き合いくだされ。

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酒を飲んで酔っぱらうと、良い気持ちになる。

酔って陽気(ということにしておく)になるのは、アルコールが脳細胞に働き、麻痺が始まるからである。
飲み過ぎて、歩くのが困難になった経験は、誰でもある筈だ。
これは、アルコールにより、運動神経が鈍っているからである(正常な活動がなされていない)。
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ここまでを読む限り、酒は体に良いとは思えない。
運動神経が鈍らされては、周りにいる敵からの攻撃に耐えられないではないか。
外を出歩く男たちにとって、7人以上の敵に対して常に身体を晒しているのである。
困ったことだ...

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とはいえ、ほろ酔い程度のお酒(量は個人差があるが)は、むしろ心身にとってプラス面の方が多い。

例えば
緊張感・不安感の緩和、ストレスを和らげる、食欲の増進、あるいは血液の中の善玉コレステロールを増やし動脈硬化を防ぐなどというようなことが効用といえる。

また、飲み会などの集まりはコミュニケーションの場でもあり、酒が入ると人との関係をより深めることができる。

飲みすぎはもちろん体に悪いが、適量の酒は心と体、両方にとっていいのである。
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申し訳ありませんでした。
”酒は体に良い”という記事を発見したつもりだったのであるが、内容が無いことに気付いた次第である。

特に”適量の酒”ってところが情けない。

何でこんなことを平気で書けちゃうのか知りたいものである。
こんなのでは、まるで”日刊鬼ノ胃”程度のモノではないか。

結構有名な方が有名な雑誌に書いてあったのを見て、面白いと感じた記憶があるのである。
”適量の酒”を飲んでいるときにこの記事を読んだのだが、確かに目に心地良い文字の連続に見えたのである。

今は、宿酔状態。

2001/03/07

文責:い 70点

No.422

徳政令その2。

そも、徳政令とは何か。

”徳政”というのは、徳(仁)なる政治なのである。
ありがたい方が、民衆にとって有難い政治を執り行っている状態を指してこう呼ぶのだろう。

”令”というのは、命令である。
法律と言い換えても良いだろう。

従って、徳政令とは、為政者が自分の”徳”を隈なく行き渡らせるために、自分の治めるエリアに制定した法律という認識で良い。

ところが、今用の意味では、特定の人々や団体の財政を救済するために、負債を棒引きにする政治的命令なのである。
徳政令から”徳政”の”徳”は消滅している。

続日本紀には、”公私の債未だ納めざる者。悉く原免に従ふ”とあり、752年の東大寺大仏開眼供養の時に発令した”徳政令”が記載されている。
これは、徳政であると言えるのかどうかは解からないが、最初の徳政令と認識されている。

さらに、現代的な意味で(つまり、民衆に徳を広める一環ではなく、為政者が一部特定の人々のために発令したという意味で)の最初の徳政令は、1267年の”文永の徳政令”である。
御家人の所領回復令という、鎌倉幕府七代執権北条政村が出したモノである。

実は、この文永の徳政令では、まだ借金棒引きを規定していない。
更に、後にも触れるが、この徳政令は、誰かからの要請ではなく、為政者側の都合で発令した。

2001/03/06

文責:い 80点

No.421

食い物のことを書いていて、ふと思った。

マヨネーズが美味いということを、改めて感じたのである。
何、特別誂えのマヨネーズではない。
キューピーマークでも明日の元でもよい、まんまだけで舐めてみよう。

でもって、知識抜きで、その構成する素材が何なのかを推察してみよう。
”知識抜きで”と書いたが、知っていてもよい。自分の舌が、その知識にある素材を察知できるかどうかなのである。

市販のマヨネーズを食い比べると、味の違いは顕著である。
顕著であるのに、それら全てをひっくるめて”これはマヨネーズである”と認識しているのは何故だろう。
まあこれは置いておく。

舌触りの滑らかなレバー系列のテイストなのである。
敢えて言葉にしよう。反論は必至である。鈍感な鬼ノ胃露呈である。
”アンコウの肝””ガチョウの肝””カワハギの肝”。

何れも、空腹を満たすために食したとき(腹一杯にするのに他の食物を食さないで)、美味いと感じられるかどうか自信が無い。
さりとて、”ガチョウの肝”を腹一杯食らうという実験は、余りに無謀である。

しかし、実践これあるのみの精神で今日まで生きてきた私である。
どうしてもやってみてくれ、と申し付かれば、何時でも実験に取り掛かることができるように用意だけはしておく。

青空の下で、仲間と一緒に昼食を採る。
握り飯を両手に持って、交互にがつがつ喰らい、喉元をぐびぐび通していく。
ご飯に限ったものではないが、こんなことができるのは、ご飯とガチョウの肝とは、”美味しさ”の質が異なるのであろう。

さて、庄司薫の”赤頭巾ちゃん”シリーズを読み返すべきかどうか迷っている。
一日あれば事足りるのであるが、新しい発見はともかく、あの頃の感覚が蘇るかどうか不安である。
ちと狡猾さを加えたという自覚を持つ自分を、好きになれるかどうかの戦いになりそうな気がするのである。

ナンチャッテ。

2001/03/05

文責:い80点

No.420

国家の予算編成の取り組み方について。

我国は、膨大な負債を抱えている。
個人的な借金なんぞで頭を抱えている場合ではない...

こんな中で行財政の構造改革が叫ばれている。
その対極の考え方が、景気回復を優先し、抜本的な見直しは、景気が安定してからにするという姿勢である。

公共事業には景気浮揚の効果がないとの主張がある。
この主張が正しいかどうかに関わらず、この国の予算の組み方に重要な問題点がある。
突き詰めれば、このまま借金を増やして本当に大丈夫なのかとの疑問があるのだ。

現在は、不況であるから景気優先で考えることとし、財政出動は余儀なきものであり、様々な景気対策を講じることとしている。

この論理は、多くの国の歴史上、不況といわれる時代には、しばしば登場する。
この論理を素直に逆さ読みすると、こうなる。
好景気の時には、政府は財政出動する必要が無い。

つまり、この論の導きによれば、もし、国の借金が先にあって、好景気の時代が来て国家財政に潤沢な資金があれば、借金を返すことを第一とすべきである。

ところが、依るところの論理に一貫性が無いのが役人(官僚のみを指していない。決して官僚に操られているわけでないという政治家を含む)らしいところであって、好景気の時には、別の論理を振りかざす。
もっとも、国民一般は知ってか知らずか、好況時には失政に寛容である。

曰く、
この景気を維持し、否、ますますの好景気を呼ぶために、リゾート法を作り、大きな公共投資を行なって行かなければならない。
この景気が続けば、発行する国債の償還など容易いものであるから、大いに発行すべし。

何の事は無い。
好況時には、借金を大いに(無闇に、である)作るのである。
そして、不況時には借金を借金で返すためにも、プラス、どうしても必要な支出のために借金を作るのである。
一体何時返済をする気でいるのだろうか。

ところが、手法は存在する。

この期に及べば、伝家の宝刀を抜く。
その刀とは何か。
徳政令である。
借金を棒に引くのである。
す、す、すご過ぎる宝刀を隠し持っているのである。

流石に、現代では、江戸時代のように、国内の富裕層を狙って刀を抜くことはできない。
流石に、現代の日本では、国際戦争を利用して、他国の富を狙って刀を抜くことはできない。

とすれば、残るところは、アレしかない。
そう、狙いは定められたのである。

主要な金融機関には、相当なお金を注ぎ込んで体力は付けさせた。
中小金融機関は、今後切り捨てである。
金融システム崩壊を防ぐという建前論理の使用は終了し、これからは、同じ論理を政治的説法で事後処理していくという実質論理の使用に移す。

中小金融機関切り捨ての帰結としては、零細企業と平均以下の個人の切り捨てなのである。
この二年くらいの間に、多くの零細企業には特別枠(単純化すれば国の保証)貸付で貸し込んできた。
貸してくれなければ、チャラで精算可能であった企業に、麻薬のように注ぎ込まれた貸付によって、その企業を最早精算不可能状態にまで追い込んだ。

(これはちょっと偏った見方であります。が、結果としては、オモシロイ見方であると思う。国も、当初は、こんなことを画策した訳ではなかっただろうが、ある時点で気が付いたのではないかと考える。気が付けば、推し進めることに関してはプロ集団の活動は素早い。)

債権償却基準の変更は、現代の徳政令発布の狼煙である。


こんな話を毎日続けたらやんなっちゃうだろうと思うが、”徳政令”の話は続けたいのである。
まさに生きた経済学だと思うからである。
ということで、当面一日おきくらいのペースで記載することにする。
我慢してのお付き合いを期待します。

2001/03/04

文責:い 70点

No.419

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

雑誌にあった”シーメンス事件”の記事が目に付いた。

日本海軍がドイツのシーメンス社から賄賂を取っていたことが、ロイター電で暴露された。

海軍が注文する軍需物資に、シーメンス社は3.5%から15%のコミッションを払っていたという事実。

”ロイター電で”という点が、まず一つの驚き。
二つ目は、”15%の”という点。
15%ってのは、掛け算の元になる金額を思い浮かべると凄まじい。
ついでにだが、そんな莫大な金額をどういう手法で海軍にもたらしていたのかに興味がある。

2001/03/03

文責:い 70点

No.418

進化論という名称に問題があるのであろう。
変遷論位の感じで良いのではないか。

進化したとかの価値判断を込めることなく、変化していったのであろうという考察。
ダーウィンなのである。

人類は進化しているのかという問いにどう答えるかの問題と異なることはないのである。
どうしても、進化していると答えたい気持ちは解からないではないが、そしてまた、進化すべく努力しているのだという考えも解からないではないのであるが、それは、文化の話であって、肉体的なレベルの話ではないはずである。

100mを9秒を切って走りきることができる人間が出現することがあっても、人類が進化したとは考えない。
努力した人がいると皆で評価賞賛してあげるだけの話であって、身体が優れているとは必ずしも言えまい。

一流のスポーツ選手は、肉体的にはボロボロになっている事が多いと聞く。
自分の求める肉体条件以外の部分には犠牲を強いているのである。
または、自分の求める肉体条件を作り上げた上で、その能力の限界を利用するのではなく、内輪で(90%発揮するだけで)戦うことができるようにしてあるというのである。
膝に故障を抱えた選手が、”騙し騙し”やっているとは、そんな情況を指す。

自分で自分のことを言うのは、頭が悪い上に考察も不足している証拠なのだが、突然変異という概念の捉え方がオカシイ気もする。

ま、専門外の人間の考えることなんてモノは、こんなものか。

2001/03/02

文責:い 80点

No.417

圧倒的に強いチームは、トーナメント表のどの位置に置かれても、優勝するのである。
しかし、このチームに続く二番手チームは、どの段階で優勝するチームと対戦するかは、つまり、トーナメント表のどの位置に置かれるかは、決定的な意味を持つ。

それでも番狂わせがあるから、一発勝負は面白い。

敗者復活ルールを考えていて、こんなことに思い巡らしていた。
私が知る限り、トーナメント戦で、1回負けても優勝するシステムを持っている競技が、将棋のタイトル戦にある。

どんな風にしているか解かるだろうか。
単純にして極めて明確な決まりに基づくトーナメント戦なのである。

将棋といえば、三月号将棋世界誌の”初段・二段・三段コース”問題が解けない。
生意気を言えば、”四段・五段コース”は、解けるのである。

一般論としては、これは、別に不思議なことではないのである。
しかし、悔しいのである。
あと一日二日は書店に並んでいると思うので、確認してもらいたい。

何故こういう事態が発生するかといえば、つまるところ、じゃんけんぴょんなのである。

三竦みの決まり事は大切なのに、じゃんけんには重大な欠陥がある。
同じモノを出してのアイコは許せる。
5人でじゃんけんした時に、3人が”ぱあ”で、あとの2人がそれぞれ”ぐう””ちょき”であった場合に、アイコになるのは解せないのである。

このような問題に対処するために、”日本じゃんけん協会”は、じゃんけんの公式ルールを毎年公表すべきである。
前年に改正された部分があれば、その経緯を充分に解説して、じゃんけんという競技の歴史に加えるのである。
プロ化の問題にも、真摯に取り組んでもらいたい。
世界の流れがプロ化にあるのは、衆目の一致するところである。

早くに、統一ルールのもとに日本選手権を開催する必要がある。
先ずは、大会事務局設置とスポンサーの獲得とに動くべきである。

以上、言いたいことは言ったので、終わりである。

今週は、肩の凝らない話ばかりだったでしょ。
来週から、少しヘビーな連載を考えているのである。

2001/03/01

文責:い 70点

No.416

半月ほど前に、”あそこ面白いよ。見たことあるかい?”という調子で知人に教えられたホームページを見て廻った。

最近、意地の悪さに翳りが見えると反省しているのであるが、割と素直に疑問をぶつけてみるのである。
”問い合わせ・ご意見はこちら”とあるメールのアドレスに送り付けるのである。

どうも返事が遅いのである。
企業へのメールの問合せが激増し、多くの企業で、この対応に苦労しているという話を良く聞く。
何を苦労しているのかは、それぞれの企業で異なるらしい。

上場企業においても、ホームページを管理する専任の担当者がいない企業があるという。
一週間に一度しか問い合わせメールを確認しないなどというのである。

あるいは、回答を作成するのに、関係する各部課に問い合わせを出して、そのすり合わせをして、この回答で行くことにしたが如何と再び関係する各部課に問い合わせを出して....と、大騒ぎをするらしい。

そんな経緯は、メールを送ったこちら側にしてみれば知ったことではない。
挙句に”良くある質問のサイトをご覧下さい”などと返信が帰ってくると、もうこの企業とは金輪際お付き合いしない(もっとも、今までもお付き合いさせていただいていないのであるが)気持ちにさせられるのである。

対応如何では、企業イメージさえもダウンするということである。
ホームページを一生懸命作って、企業イメージを悪くする。

ま、人間の活動なんて、所詮こんなものかもしれない。