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日刊 鬼ノ胃 本日分はこちら
 

2001年01月分(01/01〜01/31)

2001/01/31

文責:い 80点

No.387

明治新政府は、明治4年に郵便規則を制定し、新しく郵便制度をスタートさせた。

この制度ができたのは、旧幕臣の前島密が渡欧して研究した成果とされている。
この制度により、東京、京都、大阪の3都市に郵便役所がおかれ、3都市間が結ばれることになった。

ちなみに、当時は東京から大阪まで郵便が届くのに40時間近くかかった。
第1便が出発したのは同年の3月1日のこと。同年7月には横浜、長崎、新潟などにも郵便網が広がった。

大都市(国にとっての要所と書いた方が良いか?)で、様々な制度が発足して、やがて津々浦々に展開していく。
これはこれで良いのだけれども、”やがて”の部分に不満があるのである。

特に、国の新制度の開始とか、少なからずの行政による補助金を注ぎ込むシステムの開始にあたっては、あまねく全ての国民がその利益を享受すべく配慮すべきである。

ほんの少ししか払っていない私が大きなことは言えないが、国税の徴収基準は、基本的に全国民一律である。
当然、その見返りとなるサービスを期待する。このサービスは、国民一人一人に一律である事を要求したいのである。

多く国税を納めている人に、多くのサービスを提供する、というのも一理ある。
また、提供するサービスのコストを一律にする、というのも一理ある。

一理あるんだけれども、私の要求は、サービスの同等性なのである。
この考えも一理あると思うんだな、これが。

具体的な話は、日々の”日刊鬼ノ胃”にて展開していくのである。

2001/01/30

文責:い 70点

No.386

コンピュータ。
電子計算機の日常語的表現。台あるいは基で数える。
中央処理装置・記憶装置・入出力装置からなる。
計算機と書くから、何か変な感じがするのだろう。

確かに数値計算しているのだろうけれども、使う側にとっては、様々な情報処理をさせているのであって、電子式情報処理装置、略して”電情”なんて名称だと宜しいのでは。

嘗て、デスクトップ型、ラップトップ型、ブック型、ノート型という冠言葉を着けて、パソコンのサイズを表現していた。
私の抱く感じでは、デスクトップ型とノート型との二つだけが生き残ったようである。

卓上と言ったらデスクトップ型が該当しそうである。
ただし、最早このデスクトップ型がパソコンの主役であろうから、冠を省略して、デスクトップ型パーソナル電子計算機のことを”パソコン”と呼ぼう。
そして、携帯型を”持ち運べるのでどんなテーブルの上ででも扱える”という意味で”卓上電子計算機”、略して、”卓電”と呼ぼうではないか。

昨日の書き出しの”電卓”から始まった今回のシリーズも、本日第2回目の”卓電”を持ちまして終了である。

自分の内部コンピュータの性能が、最近急速に落ちてきている。
中央処理装置・入出力装置の働きは、大分旧式で遅いんだけれども、以前からこんなものだったと考えて納得できる。
ところが、記憶装置は、最早如何ともしがたい情況である。
物忘れが激しいのである。破損したセクタが多数存在しそうである。

リムーバブルな記憶装置にしておいてくれると良かったのに。
サンダーバード2号の胴体みたいな感じだとカッコイイ。

2001/01/29

文責:い 70点

No.385

電卓。
”電子式卓上計算機”の略であり、1台2台...あるいは1本2本...と数える。
明快な記述の国語辞典である。

テレビ番組で、瀬川瑛子さんが、電卓のことを”電子式計算機”という言い方をしたときに、いたく違和感を感じたのである。
卓上が無いのがオカシイということではない。

多分瀬川さんは、先ず電卓の姿が頭に浮かんだ。
この名称を表現するためには、計算機という言葉が必要だったのである。
正体は”計算機”であるのに、電卓という文字には”計算機”を表現する文字は無い。

”電子式卓上計算機”というのは、機構にいくつか種類のある卓上計算機の内で、”電子式”のものを指しているのであろう。
きっと、”電 気 式卓上計算機”が、先に存在していたのだろうな、これは。
(今、頭の中には、タイガー式の計算機が浮かんでいる)手でぐるぐるやる代わりに、モーター仕掛けのぐるぐる機構があって計算機を動かしたに違いない。

an electric organ 電気オルガンと、
an electronic organ 電子オルガンとの違いってところか?

ダカラドウナノダ(久々に使うフレーズである)ではない。
それだけのことである。

2001/01/28

文責:い 70点

No.384

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

またまたどか〜んと降雪・積雪。
15:30雪かき終了。ご苦労様でした。
途中、レスキュー部隊にも参加。
そんなこんなで、今日のサーバーへのアップは、16:00前後。

我車は、四輪駆動のスタッドレスタイヤ装着で、全く問題ないのだけれども、後ろを走る車と対向車とに神経を使う。

停車時には、前の車との車間距離を充分に確保する。
ルームミラーで後ろの車を観察して、突っ込みそうなときに我車を前進させることで事故を回避する。

二台ほどの車が、私のこの操車術で加害者にならずに済んだのである。

逆に、前が空いているときに、ある程度の速度で走ってしまったときは、申し訳ないことをした。

後続車は、自分も大丈夫と勘違いしたのであろう。
交差点で右折が出来ずに突っ込んでしまった光景を
ルームミラーで確認。
私に非は無いと確信するが、何か申し訳ない気分である。

雪の装備無しに雪道を走るのは犯罪行為である。
この考えを、スタンダードにして欲しいものである。

2001/01/27

文責:い 80点

No.383

しばらく聞かない話だったのだが、最近良く耳にする。
これも昨今の景気のなせる技か。

”俺んちは、NHKを見ていない。だから、受信料は払わない。何なら、受信できないようにしてくれ。”
と、受信料支払を拒否している人の話である。

[放送法32条1項]
協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。

視聴しているかいないかに関わらず、受信設備を設置しただけで、NHKとの契約をしなければならないということらしい。。
受信についての契約”の中に、受信料支払う旨が謳われているのである。
受信設備(つまりテレビ)を持っている全ての人が、公平に負担する受信料制度が定められている、とされているのである。。


NHKはその公共性ゆえに、広告放送が禁止されている。
ここでちょっと疑問。
NHK総合チャンネルで、NHKのBS放送の広告を流しているのである。
私は支払っていないので実際の額を良く知らないが(受信料の額を正確に言える人がいるんだろうか?)、NHKのBS放送を受信する場合、地上波放送とは異なる金額の受信料を支払わなければならない筈である。

この疑問を晴らすには、広告放送の定義を確認しなくてはならない。
今のところハッキリしない。不勉強を反省。

受信契約を締結しなかったとしても、罰則規定はない。
民法の原則によれば、NHKは受信契約義務の不履行として、損害賠償請求ができることはできるのだろうが、そうした事例はない。

少なくとも、契約を拒否すれば、契約が成立したとみなされることはない。
従って、受信契約を締結しなければ、受信料支払義務が発生することはない。

ただし、ここが面白いところなのだが、契約を締結してからの不払いは債務不履行になる。
このあたりが、法律のヘンテコリンなところだと思うのだが、如何。

そうそう、例外がある。
学校や生活困窮者、災害被災者などは、受信料が免除されているのである。
私は、生活困窮者に該当していないのかしら。

2001/01/26

文責:い 60点

No.382

ニュースでは良く聞く言葉なんだけども、解かっているようで解からない言葉が多い。恥ずかしい限りであります。
そんな中で、今日取り上げるのは”懲役”・”禁錮”・”拘留”。

懲役15年とか禁錮5年とか報道で使用されるアレである。

懲役(刑法12条)も禁錮(刑法13条)も監獄に入る。監獄に拘置されるという点では、同じである。

懲役は、刑務作業に服する義務がある。
禁錮には、この義務がない。
禁錮となる余地のある犯罪は限られていて、政治犯や交通事故犯、過失犯などである。

禁錮の場合も、刑務作業をしたいと申し出ることにより刑務作業に参加できる。
同様の刑務作業に付くのに、片や義務であり、片や権利なのである。
この違いは大きい。

何故権利などという書き方をするかというと、やることが無いというのは辛い事態であるらしいのである。
まして、監獄では、就寝時間以外に、横になって寝るのは、禁止事項。
禁錮の場合も、退屈さと諸々の憂さ晴らしに、刑務作業をしたいと申し出る者が非常に多いのだそうである。

拘留(刑法16条)は、懲役や禁錮と同様、一定の期間、身柄を拘束される。
ただし、1日以上30日未満の間、刑務所ではなく、勾留場に拘置される。
軽犯罪の場合の最高刑がこれ。

本日は、言葉の説明で終わってしまった。

”前科”って言葉についても書きたかったのだけれども、これは結構難解な言葉なのである。纏めることができたら披露することにする。

2001/01/25

文責:い 80点

No.381

深夜番組を観ていたら、細胞分裂のシミュレーションCGが映った。

染色体のDNAの端っこに、他の染色体とくつかないようにするために配置された部分がある。
この部分は、細胞分裂する度に、少しづつ欠落していって、やがて全てが無くなる。従って、その役割が果たせなくなり、染色体は、完結した遺伝情報を存続できなくなる。

ここに、細胞レベルの死(複製ができなくなる状態)が発生し、生物を死に至らせるという。

幾度細胞分裂を繰り返すと完全欠落になるかという、その回数は、生物によってほぼ決まっている。
生物の寿命は、その時間的な長さがほぼ一定であるのは、かかる事情による。

とまあ、こんなことを教えてくれた訳である。

今日まで大丈夫だったから、明日も大丈夫。
というくらいにしか考えていない私にとって、誠に解かりやすいものの、ショッキングな情報であった。

情報伝達そのものにとっては、何の役割も持っていない部分が、全体の体系の中では、その崩壊を防ぐための重要な役割を担っている。

人員削減、利益に直結しない部門の廃止などといった企業の行動は、裏に隠れた重要なシステム維持装置を、自ら外しているようなものなのではないか。

こんな感想でも書いておかないと遣り切れない。

2001/01/24

文責:い 70点

No.380

敢えて、年末年始の雑記記載。
21世紀になって知ったこと(解からない点を含む)。

サンタクロースは、4世紀ごろ、トルコのミュラにいた司教だった、聖者ニコラスの愛称である。
昔は12月6日をニコラス司教の祭日として、この日には子供たちにプレゼントをしていた。
何で、12月24日の夜中に、サンタクロースがトナカイに乗ってやって来て子供たちにプレゼントをする習慣になったか、解からない。


お年玉の玉は、”餅”のことを差している、ということを知った。


日本のお寺では、人間にある108つの煩悩(欲)を撞き砕くという除夜の鐘を、旧年の間に107つまで、新しい年になってから108つめの鐘を撞く、ということを知った。

韓国は33回であり、日本の植民地時代、独立運動に立ち上がった人の数だ、ということを知った。


テレビで見た、下鴨神社の蹴鞠初め。
いかにも寒そうな空気の中で、昔の優雅な遊びを、地元の”蹴鞠保存会”の人々が再現、というか実演。

平安時代の蹴鞠に興ずる人々が、あんなに下手だったとは思えない。
優雅では無いのである。
”蹴鞠保存していない会”と言わざるを得ない。


”経済大国”とは、世界のGDP(もしくはGNP)に占める比率の高い国のことをいう、ということを知った

2001/01/23

文責:い 80点

No.379

久しぶりにおもちゃ売場と子供服売場とを覗く。

”切手を貼ろう”などという、郵便局が応援している人形(貼ろう!切手。ハロー・キティ。ちと苦しいか...)が、今も健在なのは喜ばしい。
かつては、このブランド物は高価である印象であったが、現在はそうでもなさそうである。

最近のテレビコマーシャルで見かけなくなったのが、
”幹は臼”(ミキハウス)。
枝で臼が作れるようなら、信じられないくらいの大木だろう。
ふむふむ。

替わって、最近目に付くテレビコマーシャルは、
”缶詰食べる?ヨセ。”(ティンカーベル。妖精。)

この店舗では、ベビー服・子供服が売れていないと聞いた。
どちらかというと、ブランド物を始めとして高級(高価)な品揃えである。

実は、先日、街の衣料品店でお聞きした話では、若い奥さんの来店が増えているとのこと。
ここのところ、オバちゃんおばあちゃん中心のお客層から、どうやら変化しているらしい。
子供服なども、決してブランド物ではないが、可愛い柄の安価な品物が品揃えてあるのだが、売れ行き好調なのだそうである。

昨今の景気情況は、必ずしも悪いことばかりでなく、健全な生活様式を選択する心が蘇ったと、プラス思考で捉えても良いかもしれない。

ま、景気は悪いですな。止むにやまれぬ行動ではあろう。

2001/01/22

文責:い 90点

No.378

日本列島に寒波襲来とは聞いていたが、この地の久しぶりの降雪にまで至るとは。
私の中の、寝た子を起こした。

スキー場の雪便り。ここ数年の情況と大分趣が異なる。
何処も”良好”なのである。
”一部可”なんて記載が並ぶ紙面は、今年に限って無い。
随分と売れ行きの良かったらしいスノーマシンも泣いているだろう。

そう、スキー場が、私のことを呼んでいるのである。
愛車は、松の内にスタッドレスタイヤに履き替えてある。
スキー板は、流行を追いかけるなんて事の無い私のことである。もう何年も履き古したロシニョールのブーツと共に、直ぐに積み込める場所にある。

去年も書いた。
好きに生きたい(すきにいきたい)、
スキーに行きたい(すきーにいきたい)、
なのである。

このコピーを、JRとかビクトリアとかの来年のCM用に売り込みたいと思っているのであるが、残念ながら伝手が無い。
ドナタカ組みませんか?

とまれ、寒い日が続く。
受験生諸君、頑張ってくれたまえ。

2001/01/21

文責:い 80点

No.377

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

住んでいる地域の関係上、通話エリアの充実度で携帯電話を選択している。ドコモである。私用は、iモードではない。

毎月の請求書に同封される雑誌に依れば、iモード対応の コンテンツが勢い良く増えている。
子供たちは、クレジットカードをサイン無しで使っているようなものである。接続料で小遣いがパンクしている。

恐ろしい。

2001/01/20

文責:い 70点

No.376

枯草色一面だった我家の庭。刈り込んだ芝生である。
新しい芽(かどうかは知らない)がちらほらと覗いてきた。

先日来の寒波は、当地にも訪れ、芝の禿げた地面は霜柱となって、朝早くは、歩くと微妙に心地よい感触である。
しかし、お天道様の導きによって、やがてぐじゃぐじゃ地面と化す。
これはもう、近寄らないに限る。

如何なるメカニズムのなせる技なのか、芝生面は霜柱が発生しない。
今一段強力な寒さがあれば、矢張り発生しそうな気もするが、その時には本当に枯れてしまうのだろう。
この辺りで春を探していきたいものである。

先だって、田んぼの一斉芝焼きをした。
およそ2km四方のエリアに農地を所有する人々による、一斉動員作業だ。この他にも農家の一斉事業は多いのだが、別のときに譲る。
この場合の”芝”は、雑草のこと。

因みに、”芝”はイネ科だそうだ。信じられない。
稲と芝とどちらがイネ科の仲間の中での特殊な存在かは知らないが、イネ科といえば稲を思い浮かべるのは、私だけではあるまい。

霜の降りた田んぼの畦道に入り込んで、廃油を染みさせた布キレを入れた缶からに火を燈し、枯草を燃やして歩くのである。
とは言え、そう簡単に燃えるものではない。
逆に、風向きと風の強さがうまいタイミングで揃うと、思いのほか大きな炎が発生してギョッとする。

ギョッとするんだけれども、何とも言えない快感が身体を走る。
不適切な表現を承知で書けば、放火は楽しいのである。
火を見て嬉しがっているのだから、まだまだ春は遠いのだろう。

株式市場の諺。”まだ”は”もう”なり。

2001/01/19

文責:い 90点

No.375

ちと気に掛かる新聞記事。

比較コスト高なリサイクル製品(及び、リサイクル可能製品)を県が購入するかどうかという問題で、三重県知事の環境問題に関する施策のコメントが掲載されていた。

コスト高を理由に顧客を獲得できず苦労しているであろう製品こそ、県が購入して下支えし、循環型社会の構築を進めていく必要がある、として、購入することにしたそうである。

即座に”そうだ”とばかりに、賛成してしまいたくなる話ではある。
が、この手の製品が比較コスト高である理由について、検討はしたのであろうか。

”環境にやさしい”というのは、現在、付加価値として捉えることができる情況にある。
つまり、市場価格が、それ以外の検討対象になる同様の使用目的製品の価格より高価に設定し得るのである。
製造コストが割高(この製造コストが製品価格を押し上げている)とは限らないのである。

ま、これだけの注意を喚起して、ここは素直に、県知事の見識を評価することとしておく。

ただし、である。
例えば、印刷用の紙が、比較コスト高なリサイクル製品だとしよう。
”このパンフレットは、再生紙を利用しています。”なんて、記載はしていないことを祈る。

その記載(のインクとスペースの分の材料)は、微量ながら環境にやさしくなく、負担をかけているのである。

2001/01/18

文責:い 80点

No.374

10枚のカードがある。
一枚だけは当りである。一億円を頂戴することができる。

一回カードを引く権利は、千円で買い取ることができる。ただし、一日一回に限る。

此処までの条件は公表されている。

右から順に引くか、ランダムに引くかは、性格が現れるという議論は別にして、とにかく、最大10日間と一万円とがあれば、一億円をゲットできる。

このゲームをやることに、誰も異存は無いだろう。

カードの枚数を10,000枚にしてみよう。
最大10,000日間(ま、30年であります)と一千万円とがあれば、一億円をゲットできる。
このゲームをやることにも、消極的ではないだろう。

カードの枚数を30,000枚にしてみよう。
三千万円で一億円が約束されている。
さあ、どうする。

途中で撤退すればよいのであるが、何時の時点で決断するか。
もう一日やれば、当るかもしれないのである。
次の日には、もう一日やれば、当るかもしれないと思うのである。

”撤退するときは、あとに後悔を残さないようにすることが肝要である”、という教えも脳裏にちらつく。
幸いにして、天からのお迎えで撤退できるかもしれない。

さあ、どうする。
今日は、年金とかの税金の話ではないことを、念のために記載しておく。

2001/01/17

文責:い 60点

No.373

ちょっと微妙な記事を読む。
スタルヒン(戦前戦後を通じて活躍した野球選手)についての記事で、亡命ロシア人の子であったとか、303勝175敗という公式記録が残っていることなどを知った。

その人となりを綴った一文に、
”彼は、夏でも長袖を着て腕を冷やさないようにするなど、きびしく自己管理したという。”
とあった。

自己管理というのは、自分で自分を率するということであろうから、その行動が正しい選択かどうかに関わらず、こうと決めたらこうするという決まりを安易に変更しないということなのだろう。

夏に長袖を着ていると、却って腕を冷やしてしまうことになるのではないかと心配する。
そもそも、腕を冷やすとマズイことがあるのだろうか。

私の中学時代には、野球選手がプールでの訓練を採用するなどとは、天地が逆さまになるような出来事であった。
それが、いつしか、むしろ奨励される訓練法になったのである。

意味合いはちと異なるが、運動中の水分補給についての考え方も、天地である。
水なんぞ飲もうものなら、”気合が足りない”の言葉と同時に物体が飛んできたものである。

ところが、現在の教えは、充分に水分補給をしろとなった。
更に、水に溶かして栄養分も補給しろという。

人類が変化してしまったのだろうか。
間違っているのだろうけれども、こう考えると得心する。

2001/01/16

文責:い 70点

No.372

グループウェア。
知ってますか?

特定のグループがお揃いで着用する衣服。ま、ユニフォームである。
こう推測して、もう少しで人前で使ってしまうところであった。

四半世紀も前、フランス語を習いたての頃の話である。
シャンソン”♪オー、シャンゼリゼ。オー、シャンゼリゼ”というのがあった。
その意味を、”オウ凄いぜ、シャンゼリゼに来たぜ!”という驚嘆を歌い上げていると思っていた、田舎出のほほえましい青年は、実に赤面したのであります。

カフェ・オー・レの”オー”であり、”ア・ル・シャンゼリゼ(もちろん、こう記載することは無い)”であると知ったのは、”ア・ラ・スタシオン”とセットであった。
”H”を”アッシュ”、”Y”を”イグレック”と発音すると学んだとき以上の驚きであった。

今日は、カタカナ表記が非常に多く、目がちらちらする。
も少しの辛抱である。

靴墨(シュークリーム。シュー・ア・ラ・クレ。)をおやつにいただいて、美味しいと言っている日本人は、このカタカナのお蔭で言語記載に重宝しているのだけれども、怖い。

そういえば、伊丹十三は、”シェイブドフィッシュ”と記載した”鰹節”の話を書いていた記憶がある。
”髭を剃った魚”。商品名なら面白そうではある。

あっ。忘れるところだった。
グループウェアなんだけど、グループで作業を支援するソフトのことで、データベースや電子メールなどを使って情報の共有や交換をして、作業の効率化をはかる、のだそうである。

意味解かります?
今のところ、私が出くわしたこの言葉の説明書きは、これ以外無いのである。お粗末。

2001/01/15

文責:い 60点

No.371

私の配信するメールマガジン”鬼ノ胃の大あくび”の受信者である複数の方々から、
”最初の方に並んでいるブロック崩しみたいなのは何ですか?”
という趣旨の問い合わせをいただいた。

”!!プロポーショナルフォントでは正しく表示されない部分があります!!”
と、メールマガジンのタイトルの前に記載しているのだが、知っている人は知っていて、知らない人は知らない知識なのであろう。

最近は、メールソフトとして Outlook Express を使用している人が多数を占めていると感じているのだが(私もそうである)、このメーラーの読み取りと作製のフォントの標準設定が”MS P ゴシック(明朝だったか?)”なる、プロポーショナルフォントを採用している。

他のメーラーの標準設定がどうなのかは知らないが、単純な文章系のメールを読むには、読みやすいからなのだろう。
私も、何の疑問も無しに標準設定で使用していた。ただし、文字のサイズは、目にツライので、大き目のフォントに変更してあったが。

ある種段組を意識した構成のメールを作っている仲間が、私のマシンを覗き込んで、”俺のメールを、P付きフォントで読んでいたのかよ〜”と怒ったのを契機に、P無しフォントに変更したのであります。
ま、今思えば、怒るほどの構成でもなかった、という事を、ここに記載して報告しておくことにする。

”MS P ゴシック”の皆様、この際”MS ゴシック”に設定変更をなさってみてくださいませ。

最初の方に並んでいるブロック崩しみたいなのは、もうじき無くす。
体裁変更で、も少しシンプルにするつもりである。

2001/01/14

文責:い 60点

No.370

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

この正月に頂戴した年賀状は、減っていない。
年賀メールも相当数受信したが、これらの人の大部分は、年賀状との併用である。

年賀状の売上枚数の統計を存じ上げないので推定であるが、今年は昨年と大差ないのではないか。

来年は、激減するという予感がする。
郵政省、おっと、今度はなんと言う省庁だったか忘れたが、年賀状発行を管轄する省庁は、どう読んで印刷枚数を決定するのだろうか。

楽しみである。

2001/01/13

文責:い 60点

No.369

五感って、何だったけナア。

五官とは、目・耳・鼻・舌・皮膚である。
これらのそれぞれが、外界の情報を感じ取る感覚が、見る・聞く・匂いをかぐ・味わい・肌で感じるという五感を構成する。

というのが、教科書的な答えだろう。
しかし、こんなのはどうだろう。

玉葱を切っているときに、涙が出てくる、鼻水が出てくる。
どの感覚器とどの感覚とを利用しているだろうか。
また、少なくとも自分の声は、頭蓋骨の振動を音として認識している。

料理を味わうときに、自分はどの器官を利用して美味いとか不味いとかを判断しているのだろうか、と考えていて、思考に詰まったのである。

詰まったで思い出したのだが、鼻が詰まっていて、今日は食事が楽しくないのである。
だからこんな話を書こうとしたのだが、オチが出てこない。
さあ、いま少し続けよう。

見た目は大変素晴らしいが、全然美味くない料理。
これは誉め言葉ではない。
見た目は悪いが、食ってみると大層美味い。
一般に、これは誉め言葉であるだろう。

この認識は正当なのだろうか。

2001/01/12

文責:い 70点

No.368

ご存知”北風と太陽の話”。

私なら”北風と太陽との話”と表記する。これは、お気づきの読者もあるだろうと思う。
ただし、”太陽と北風との話”とはしない点に注意して欲しい。

北風さんが、コート脱がしに励んでいるとき、太陽さんは、どうしていたのか思い出せない。
太陽さんの活躍するときには、北風さんは休んでいて、風吹かしに取り組んでいないというような情況は思い起こせる。

しかし、このことは、太陽さんの活動時に北風さんは見届けているのであるということを意味する。
これに対して、北風さんの活動時に太陽さんは見届けていたのかどうかが記憶に無いのである。

北風さんが待機するというのは、風吹かしをしないだけであるから理解できる。
ところが、太陽さんの待機というのは、如何なる行動をしている(していない)場合が考えられるのであろうか。

意味不明の文章が並んだついでに、不思議な話をもう一つ。

月と太陽とのみかけの大きさがほぼ同じ、という時代に住んでいる不思議。

月の裏側が見えない(いつも同じ半球しか見えない)、という時代に住んでいる不思議。

定期預金は初日を算入しないのに、借入金は初日を算入するという、銀行の計算の不思議。

2001/01/11

文責:い 80点

No.367

料理に使用される器で、食材を平らげたあとに残された姿を観て思うことがある。

青磁・白磁の食器は美しい。
この二つについてを、纏めて評価するのは大変乱暴な話なのであるが、感覚勝負なのである。
ただ、食器としての本来の使用に供したときに疑問が残る。

調理人が仕上げて給仕された状態での料理を観れば、器が目立つことなく、テーブル上の他の空間を遮断して、メインを引き立たせる。
ところが、食の当事者がその料理の良さを享受した後に、この情況は一変する。

食べ終わった皿が、汚いのである。
汚れている、という意味ではない。

ナイフ・フォークの習慣があり、ギャルソンの存在を前提にした食事の席では、”早く下げろ”とばかりに、ナイフ・フォークを定型に置き、自分の目の前から無くそうとするのも無理は無い。
とにかく、美しくないのである。
美味しさの余韻を楽しむどころではない。

写真家にお願いして、皿に盛り付けてお客に差し出す状態の写真と、同じモノをごく一般的に食してもらった後の写真とを撮影してもらおう。
示唆に富んだ作品が出来上がるだろう。
鑑賞に堪える食器は、確実に存在する。

食器選びは云々前と云々後との両方を確認して選びたいものである。

日本料理を堪能した後の余韻の深さは、食器にあるのではないか、という一席でありました。

とまあ、この一席を、日刊鬼ノ胃の一周年記念(本日第367号。昨年は閏年でありました。)の挨拶に結びつけようとしたのだが、確実に失敗した次第。
お粗末でした。

今後もお付き合いの程、宜しくお願い致します。

2001/01/10

文責:い 80点

No.366

国レベルでの、所謂組織の再編と新しい省庁名の採用とが行われた(筈である)。
新しい省庁になると何が変わるのだろうか。

電話をかけてみよう。
電話がたらい回しにならなず、1つの課で完結するように改編していると聞く。
ただし、どの課にかけたら良いのかの判断は、誰がするのだろうか。

官庁総合窓口を用意してもらわないと、どの課が何をしているのか解からないし、縦しんば解かっても私は電話番号を調べなければならないのである。

省庁間のテリトリー争いというのは、私の生活観からすると外れていたと思う。
テリトリーの奪い合いよりも、案件を他の省庁に押し付け合いをしていると感じられる事が多い。
もちろん、巷間伝えるところに依れば、”利権”の発生源の奪い合いがあるという。

昨日の利権は今日の負担。今日の利権は明日の負担。
この繰り返しがあるから世の中面白いのであって、とにかく何でも唾を付けて置けば、何時か利権が舞い込むというものでもあるまい。

組織改革なんぞと言っても、そうはスムーズにいかないのではないのだろうか。
”何も変わっていない、と揶揄されるのを受け入れる態勢だけは整えてあります”なんてことにならないよう祈る。

2001/01/09

文責:い 70点

No.365

一昨日、軽い言葉遊びなんてものをやった(日刊鬼ノ胃。メルマガは休刊であった。)のであるが、こんなものでもやってみると、神様は少しお恵みをくれるのである。

感謝を込めて、今一日、言葉遊びをしてみる。

”器”と”機”との違い。

簡単な道具。
これが、”器”。

動力を備えたり、精巧な仕組みを持っていたりする道具。
これが、”機”。

こんな説明は、次の名詞を解明したら吹っ飛ぶ。

”開閉器”。
 電気回路を切ったり、繋いだりする器具。スイッチ。

”開閉機”。
 踏み切りに備え付けて、列車や電車の通る時に、人や車を横切らせないようにする設備。遮断機。

実は、この言葉(”開閉機”)を昨日発見したのである。
なんと、俳句の本の中で、である。

英国の産業革命期をテーマにした経済史書(の和訳本)にあったこの言葉は、20年来意味が解からず気になっていたのである。
長生きはしてみるものである。なんちゃって。

2001/01/08

文責:い 70点

No.364

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。


幻のチケットになるところだった。
雪は首都圏を恐怖に陥れるのである。

成人された皆さん、おめでとう。
成人式に関するコメントは、今日のテーマではないので改める。

2001/01/07

文責:い 60点

No.363

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

今日は、軽い言葉遊び。

”会話”。
日常生活で、用を達するための話のやり取り。

日常会話でない話のやり取りとは如何なるものなのか?

”雑談”、”口喧嘩”は、仲間に入れてもらえるのだろうか。

2001/01/06

文責:い 90点

No.362

新年のテレビや新聞の特集を追いかけてみた。

一年程前から、風力発電・太陽熱発電について、少しずつではあるが勉強してきたつもりである。
電力会社(東京電力)の取り組みの真剣度が、今ひとつ解からない。
流石、自分の商品の需要を削減するためのCMを打ち続ける組織である(でんこちゃんのコマーシャルが中心)。

まあ、こちらのエネルギー問題の特集は、面白い時代が来た、という感想を記述してお終い。
今後、この問題は、私的に、順次展開していく予定があるからである。

初日の出暴走族取締りは、警察の関係者は成功したと発表している。
確かに、高速道路上での暴走行為に関しては、評価できる成果があったらしい(大本営、もちろんマスコミはこれに含まれる、発表の情報しかないのである)。

しかし、あれだけ取り締まるぞと事前報道していれば、アノ連中も馬鹿ではない。
嘗ては、こんな事前報道があると、尚一層、衝突することに意義を感じた連中がいただろうが、今は冷めているのである。打算的と言っても良い。
懐かしい時代の暴走行為を賛美している訳ではない。
アノ時代のアノ行為を知っているものの一人としては、恭悦至極なのである。

しかし、物事が筋書き通りに進展したことにはガッカリシテイルのである。
世の中の勢いが感じられないのである。
つまらない。馬鹿をやる風潮が無いのは、停滞の証である。

ケシカランのは、当然、警察の筋書きの後半には入っていたはずの”一般道での小暴れの発生”に、取締りが全くと言って良いほど為されなかったことである。

どこで発生するか解からなかった、という言い訳は成立しない。
全て、締め出した高速道路の周辺で起こっているのである。
今年初めて出現した場所ではないのである。
例年、高速に突っ込むのを諦めた連中が、規模の違いこそあれ、小暴れしていた場所なのだ。

警察さんも、方針をハッキリして欲しい。
暴走族といわれる連中を120km/hで捕まえて、速度超過を窘めるなんてのは、国家権力のやることではなかろう。
汚したナンバープレートを見て、整備不良を言っても仕方なかろう。

日々の首都高を走ってみたら、気付くだろう。
特に物流トラックが、一般車を後ろから煽って走っている。
あれを取り締まった方が良い。
一般人(私)の社会生活において取り締まるべき(取り締まって欲しい)は、かかるトラックの方なのである。

制限速度の設定を撤廃して、個々のドライバーの良心に任せ、事故時には厳罰を与えるのも一法ではある。飲酒も然り。

捕まえることが大切なのではない。
犯罪が発生しないようにすることが重要なのである。
税金の使い道を考えるときに、この発想を導入しよう。
犯罪が発生するから、犯人を捕まえる組織が必要なのである。
犯罪が発生しなければ、犯人を捕まえる組織は不要なのである。

絵空事でない理想なのである。
取り締まる方を巨大化するから、取り締まる組織の中に取り締まられてしまう人間が大勢発生してしまうのである。
こうなると、組織外、つまり、本来取り締まられる方にいるとミナサレテイル一般の人々のモラルが低下する。

警察官の不祥事は、犯罪を助長していると言っても過言ではあるまい。
今年、警察官の不祥事は、どのくらい発表されるのだろうか。

退職させてから逮捕なんて真似をやらないことを願う。
それと、もう一つ。
隠すなよ。

2001/01/05

文責:い 80点

No.361

いつもそうじゃないか、とのお叱りはご尤もであるが、今世紀に入ってからの”日刊鬼ノ胃”は、冴えないとの自覚あり。
よって、今日は、鬼ノ胃拾八番のお尋ね方式を採用する。

京都で学生生活を始めて、初めての正月を迎えたM君が帰省してきた。一人暮らしを少しばかり経験しただけなのに、大分大人になった様子である。

京都のお正月は、八坂神社のおけら火でお雑煮を煮ると聞く。
火縄を振り回して家に持ち帰るアレデアル。

かつては、市内の交通機関も、このおけら火だけは、裸火の持込を許可していたと記憶する。
今はどうなんだろうか、なんてことを尋ねるつもりであったのだが、訪ねて来てくれると即座に杯を重ねることになり、何時の間にか失念したのである。

そも、おけら火の習慣が現在も健在であるのかどうか、この辺りから尋ねる予定だった。
観光客には優しいが、生活を共にしようとする余所者には厳しい京都人は、旧来の習慣をどう捉えているのだろうか。
おけら火を採りに行く習慣が現在も存続しているとしても、まさか、今でも竈で雑煮を炊いているとは思えない。

この時、おけら火を貰ってくるという行動習慣は生かしたまま、それをどう利用して、この行事を将来に残していく発想をしたのか。
知りたいのである。

とりあえず、M君に尋ねることにしてみよう。

2001/01/04

文責:い 70点

No.360

正月が来たら、正月が来たら、と色々考えていた。
ところが今日はもう4日である。
オメデタイ頭を、やる気モードに切り替えなければならない。

身体はといえば、例年の通り炬燵に入りすぎて腰痛が勃発。
日がな一日飲み続け・食い続けのために、三度の食事だけでは腹が納得しない。
腹だけではない。

頭はもちろん、喉、そして手さえも、飲食を求めて活動している。
私だけなのだろうかなどと、他人も仲間にして自分を慰めても始まらない。
断ち切らなければならないのだ。

弱い人間には、物事の節目をつけるには切っ掛けというものが必要なのである。
帰省でもしていれば、田舎から生活の場に戻っていくことこそが契機足り得る。
惜しいかな、生家が現住所なのである。

年末年始に旅行にでも行っていれば、これもまた、生活の場に戻っていくことこそが契機足り得る。
惜しいかな、旅行には行っていないのである。

仕事場に出勤すれば良いではないか。
これもまた、惜しいかな、職住は同じ場所なのである。

今年は、仕事場を独立させよう。
もし、為し得なかった時には、年末に旅行に出掛けることにしよう。

一月四日。まだまだ正月をやっている。

2001/01/03

文責:い 80点

No.359

毎日強い風が吹き、気分が良くない。
雨は苦痛ではないのであるが、風は苦手である。
竹薮のある一点から、呻き声に似た竹の声が聞こえてくる。
全てを、新しい世紀の産声として捉えるほど、オメデタクナイノデアル。

年末年始のスポーツを、テレビ観戦して気付いたことがある。
管理された選手の動きを観ていると、面白くないのである。
意外性のある選手がいないのである。
多分、こういった選手は、選考されないシステムが出来上がってしまったのではないのだろうか。

報道する側も、個々の選手のデータを可也の量で掴んでいて、解説者はデータ中心の話ばかりなのだ。

今は高校のラグビー監督をしている森(元新日鉄釜石)の、”ここは、が−ッと行って、ぐっと切り込んでぱーっと放して後ろについてまたがーッと行く。そう、そこ右!あっ左行っちゃった。まいいや、それで右行って、も一回右!”という感じの解説が懐かしい。

これを解説というかどうかは議論があるだろうが、それぞれの競技のトップレベルのチームのメンバーとして存在した人間のハートが見たい・聴きたいのである。

テクニカル面の解説は、ライブではなくて、ビデオを駆使して改めて行えば良い。
結果を知ってからでも”解説番組”に視聴者はつくであろう。
現在のスポーツ番組では、相撲がこの形式を採っているが、独立の”解説番組”として成立させていない。

テレビはチャンネルが頗る多くなり、コンテンツ不足が囁かれて久しいが、まだまだ量を増やすネタは存在するだろう。

これが言いたかった。

2001/01/02

文責:い 40点

No.358

     。


”冬眠”だったか、”蛙”だったかのタイトルの作品があった。


まさしく私の正月。

2001/01/01

文責:い 80点

No.357

あけましておめでとうございます。

今日からは、日刊のメールマガジンを配信するのである。
”無茶だ”という声が多くあり、それゆえにやってみようと決心したのは二ヶ月前のこと。
流石に土日祝祭日は休刊にした。賢明な選択か。

”pubzine”や”まぐまぐ”などといったメールマガジンの無料配信システム利用は、今しばらく経ってからにしようと思う(今月末くらいを想定している)。

当面は、自分の知っているアドレスに向かっての配信(無料配信システムでは、送り先のアドレスが、発行者に判らないようになっている)で、読者の顔が見えていることを前提にした文章を心掛けてみたい。

とにかく自分の力でできる範囲で、逆に見れば、自分の思い通りに運営してみたいのである。

唯我独尊ほど横柄ではないが、”ここに我あり”程度の意気込みで進む私に、末永くお付き合いの程をお願いし、新年の挨拶とする。

”である”体から”です・ます”体への変貌は、今日しかないと思っていたのだが、結局従来どおり”である”体で書く。
こんなもので、横柄さが伝わっているだろうか。

繰り返すことになるが、本年も宜しく。