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2000年12月分(12/1〜12/31)

2000/12/31

文責:い 80点

No.356

2000年12月31日。
31日なのに”ミソカ”。

”オオツゴモリ”の発音で行きましょう。大晦日。
ツゴモリ。月隠り。30夜にして、月が無くなってしまった訳である。
陰暦の名残り。

月の暦だけではなく、この一世紀は、様々なモノを無くしてきたのである。

大晦日の日が暮れたら新年だそうだ。
日隠りで一日が終わるからである。
つまり今日の夜に詣でるのは、初詣である。午前00:00時を待つことは無い。

考えてみれば、陰暦で夜に初詣をすると言うことは、月明かり無しの真っ暗な世界を体験するということであって、それだけでも何か神聖な気分になることができたであろう。
真っ暗な夜中。
体験してみたいものである。
星明りなどという言葉も今は無い。
まあ、実際には地面を明るく照らしたとは考えられないが...

これは、失ったものの一つであろうと思う。

忘れてしまうのも一つの方法。
発想を換えれば、大晦日の暮れてから、満月の下に初詣ができるのは、現代の特権である(今年は違う、念のため)。

来年は、年忘れ(意味違いだが、自分の年齢を忘れて、今年も随分飲んだ)俳句大会でも企画して、この世の憂さを晴らそうと考えている。
興味ある向きは、ご一報を。

鬼が笑っている声が聞こえる。
何てったって、こちとらは”胃”でしかない。
ホンモノの鬼には敵わないので今年の筆を置く。


それでは良いお年を。

2000/12/30

文責:い 70点

No.355

明日は大晦日。
宝くじの抽選会の日である。

今月に入ってから、数人の方に言われた。
来年早々に3億円が入ってくる予定である、つまり、当選予定者なのだそうだ。

当選した人を幸運な人と呼ぶ習慣がある。
習慣こそ文化である、と主張する私としては、こう言う事ができる。
宝くじに当選した人は幸運な人であるとみなすのは、文化である。
ちと、文化の程度が知れてしまう話ではある。

確実に、毎年、宝くじで3億円が当たる幸運者がいる。
断定してみたものの、本当のところは知らない。
自分の知人で当選した人はいないのである。
よって、毎年、宝くじで3億円が当たる幸運者がいる筈である。

ところが、である。
当選番号の記載された籤を購入して、所有している人間でありながら、どういう経緯かは解からないが、当選金引き換え期限が経過しても引き換えに現れない人間が存在するらしい。

最低の金額が当っても、一枚でわざわざ交換に行かず、今度買うときにしようとか、少し纏めてからにしようとか考えて、結果有効期限内に交換に行きそびれてしまうことはあるだろう。

あるいは、1万円程度であれば、幸運のお守りとして秘蔵する人間がいてもおかしくは無い。
10万円となると、有効期限内は秘蔵し、ギリギリで交換に向かうという選択の可能性はある。
ただし、私の金銭感覚では、期限切れを忘れるということは在り得ない。

仮に、当選した人間の金銭感覚が相当に私の感覚とズレているとして、3億円交換権利を失効させてまで、お守りとして大事に保管する人間がいるとしよう。
この人間は幸運者なのだろうか。

宝くじを買ったものの、当たり外れの突合せをせずに仕舞い込んでしまったままの人間がいるとしよう。
本人は当選したことに気付いていないのである。
この時、この人は不運の人と呼びたい気がする。

この不運な人は、そのままにして置いてあげたい。
もし、期限を過ぎてから、仕舞いこんで忘れていた籤を見つけて、番号確認したら当選していたと知ったとしよう。
何と表現したらよいか解からない声をアゲルノデハナイノダロウカ。

ここで一考である。
期限切れの当選籤を所有する不運の人は、芸能界あるいは宗教界へのデビューによって、持て囃される存在になるかもしれない。
このとき、前者では不運な人と称し、後者では幸運な人と称して出現するのであろう。
この活動による収入は、3億円を上回るかもしれない。

しかし、私に相談があれば、そんな可能性に賭けるよりも、期限内に当選金と交換することを奨める。
当然である。
よって、毎年、宝くじで3億円が当たり、その上で確実に交換所に行ってお金を掴む幸運者がいる筈である、という表現が正しそうである。

良くある話であるが、複数の来年早々に3億円が入ってくる予定である当選予定者は、私に数千万の贈与を約束している。
来年早々に、私は、結構な金額の現金を掴む予定である。

年の暮れに、空しい一席でありました。

2000/12/29

文責:い 60点

No.354

年の瀬。

現在時刻は09:30。
困ったことに、こんな時刻になって、机に向かっていると、”とうちゃんだけは暮じゃないみたい”などと、掃除をしないことを詰っている顔見知りの女性は言う。

こんな日に限って、書くのに手間取るのである。
私としては、早く書き上げて、掃除のスキルを皆に見せたいのだ。
換気扇の油汚れを取り除く、磨き込まれたテクニックを、一刻も早く披露したいのである。

お茶の時刻だとのお誘い。
いや、お茶なんか飲んでいる場合じゃなくて、一刻も早く...なのである。
でも、折角のお誘いというものは、一度断ると次回からは呼びかけがなくなる。
この世の中全般の経験則を承知している私としては、誘われたら断らずに従わねばならない。

”このせんべいは旨い、ポリッ”などとやっている場合ではない。
”もう一杯お茶を下さい”などとやっている場合ではない。
入れてもらったお茶は、熱くたって喉を通してしまわねば、と思うのだが、やはりそうもいかぬ。

冷めるのを待つ間に”うん、こっちのせんべいも美味い”と、今度は声には出さずに頷く。
しかし、のんびりお茶などやっている場合ではないのだ。
”お茶よ、早く冷めろ。神様、このお茶を早く冷ましてください”と必死にお願いするのだが、こんなときには普段の行いが悪いので、願いを聞き入れてくださらない。

今、漸く冷めたお茶は、私の腹に納まり、お茶を腹に納めた私は、この文を書いているのである。

慌ただしく、忙しない暮も、かくしてのんびりと、しかし、確実に過ぎていくのである。

2000/12/28

文責:い 80点

No.353

他人の懐勘定に立ち入るのはどうかとも思うが、ここ半月ばかりずっと引っ掛かるものがあって、未だに蟠りがあるので書く。
ダイエーの中内氏に対する退職金(功労金)の支給についてである。

当面の間、その支給を保留するというのが、新聞報道なのである。

木更津の駅前商業地は、先の西口における”そごう”撤退に続いて、この度は、東口の”ダイエー”撤退である。
数年前には、東口の”西友”撤退があった。
今は、”西友”の建物は無く、空地である。
よくぞここまで放りっぱなしにしたものだ、という話題は、別の日に書こう。
建設的な発想をすれば、千載一遇のチャンスを作り出したともいえるのであるのだが...

嘗て経営の神様とモテハヤサレタノは、一向に構わない。
そして、その規模の拡大に伴ない、充分に報われてきた筈である。
創業者であるという事実は間違いないのだろう。
しかし、現在の彼を会社は必要としていない。むしろ邪魔なのだ。

事実、支援する(この言葉は適切では無い気もするが)銀行は、彼の退陣を迫った。
当然なのである。

ダイエーという企業が伸びてきたのは、彼の力ではなくて、様々な要因の下にあったゴチャゴチャの結果なのである。
たまたま、これまでは、彼の号令の下に動く組織として機能して来たに過ぎない。

莫大な税金も注がれてきたのである。
現在の補助金・助成金あるいは金融支援がなされてきたのである。
彼は、そんな企業の経営者という役柄を演じてきたのであり、その場においては充分な報酬を得るに値したと考えるべきなのだ。

従って、今回の支給保留は、ナンセンスである。
結果企業は儲かっていないのであるから、辞退するのが礼儀であろう。更に付け加えれば、自分の資産の大部分を企業に対して寄贈すべきであろう。
彼に冷静な判断力と人間の心があればの話である。

経営の神様と呼ばれるくらいだから、人間の心の存在を期待してはならないのか。
敗戦の将には、ケジメをつけるという舞台を必要とする。
自分でできないことが多いから、廻りが面倒見て差し上げるのである。

税務署さんの言うところの役員報酬等の経費算入基準は、今一度問われなくてはならないだろう。
今、裁判所はまともに機能していない。そして、ここには誰も手を出せない。
期待してよいのは、国税局の判断であると思う。
曖昧で温情的な政治的判断を示せば、零細企業の調査制度に相当なダメージを与えるであろう。

怒りと希望の一文であったつもり。
ほんの独り言であります。

2000/12/27

文責:い 90点

No.352

面白くなきゃ、ツマラナイ。
お客先でイベントの打ち合わせをしていたときに、つい口走ってしまったフレーズである。

文字に落として考えてみると、不思議な感じ。
ツマラナイというのは、
無駄である
馬鹿馬鹿しい
取るに足りない
値打ちが無い
などが、ご存知私の”机上の辞典”に書かれた説明だ。

ところが、私の提案している企画の内容といったら、”面白いと思いますよ”と言いながら提案するのであるが、まさに、
無駄である
馬鹿馬鹿しい
取るに足りない
値打ちが無い
というしかない内容なのである。

特に、
無駄である
馬鹿馬鹿しい
の二点は、客寄せイベントにとって必須であると考えている。

年齢層に関係なく該当すると考えるのだけれども、お施主産がある程度の年配の方であると、先ず否定的に話が進展する(つまり、話が進まない)のである。
最近少し解かってきたのだが、肯定なのか否定なのかの意思表示が曖昧で、そこを良く見極めないととんだ事になる。

了承と判断して持ち帰り、それから一週間くらい煮詰めた企画を携えて再訪問すると、”他の案がないかねえ”の一言。
そして、”あなた(これは私のこと)の性格の生真面目さ(この辺りの観察眼は鋭い)を全面に出した企画を考えてくれないか”と続く。

年寄り恐るべし。

2000/12/26

文責:い 80点

No.351

身分証明に関しての興味深い話を盗み聞きした。
私が私である事は、私自身では証明できないとのことである。

本人確認書類というものが必要だ、という意味においてである。

ちと頭が痛くなってしまうような、ややこしい話なのだけれども、簡単に言えば、本人確認書類を所持している人が、その書類に記載されている人間であるとみなす、というお約束事があるというのだ。

本人が登録した名称とこれに組み合わせたパスワードを知っている人は、誰が何と言おうと本人であるとみなすのだ。
つまり、パスワードを忘れた人間は、本人ではないのである。
パスワードを盗んで知っている人間は、本人なのである。

あなたは、この考え方を支持できますか。

先頃行われたアメリカ合衆国の大統領選挙人選挙の得票数は、これこれの機械で読み取って集計した結果を採用するという規定が、州の法律にあったという。

あの一件では、手集計という言葉を使っていたが、これは機械集計の対義語であろう。
機械集計では納得できないが、手集計なら納得できる、との前提が暗黙にあって、手集計を始めたと考えざるを得ないのである。

あなたは、この考え方を支持できますか。

最近の判決に、納得のできないものが多い気がしないだろうか。
今、裁判官の資質が問われている。

2000/12/25

文責:い 70点

No.350

乱視がヒドイノデアル。
ここまでが、先週末の話。

安直に眼鏡を作る。
眼鏡屋さんで、一時間ぐらい掛けて検査をして、先方の言いなりに製作させると、眼鏡で疲れてしまう眼鏡ができあがる。

単純に凹凸の度合いを決めるための検査をして、希望する距離における希望する視力を回復させてくれる眼鏡を作って使用したほうが疲れない。

乱視は個性なのである。
勿論遠近視での目が悪いのも個性なのである。
同じ絵画を見ても、この個性という奴で、それぞれの人間は受け取る感動は異なる。

視点が異なるのだから、得ている情報が異なり、更に、情報の分析手法も個々人で異なる訳であり、解釈はそれぞれなのだ。

遠くが良く見えないことを、短所としてではなく、調書として積極的に利用する道があるのではないかと思っている。
実際、夜が明ける瞬間に、山々の情景を眺める際には、嘗て目の良かったときには拾得できなかった景観情報を得ている。
美しいのである。

焦点の定まらない目(これを”空ろ”というのだろうが)で、空と虚を眺める。
立派な技であろう。


今期の私のラグビー終了。年を越せないのは寂しい限り。

2000/12/24

文責:い 60点

No.349

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

年末交通事故防止の講演会より聞き書き。

道路交通法には、血液中のアルコール濃度が、0.05%以上であると「酒酔い運転」、それ以下が「酒気帯び運転」と定められている。

「酒酔い運転」の場合、最高2年の懲役、違反点数15点で免許取り消しと規定。
「酒気帯び運転」は最高3ヶ月の懲役、違反点数6点で免許停止となる。

検問では測定された呼気のアルコール濃度が0.25mg/リットルで血中アルコール濃度0.05%と推定されるという。

こう推定して良いのであろうか。

数値の間違いはあるかもしれない。
しかし、ある基準値と、別の方法で得た数値から推測して取得した数値とを比較することの是非を問いたい。

ご心配される方がいるといけないので、念のために書いておく。
昨夜、私が検問で引っ掛かったという事実は無い。

2000/12/23

文責:い 80点

No.348

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

市役所の各課の窓口を訪れると、様々なパンフレットの類が置かれている。

私にとっては貴重な情報源になっているのであるが、一体どれだけの市民が持ち帰っているのであろうか。

官公庁の関連機関の発行するものが大部分だと感じているのだが、”無駄”の一言で片付けて良さそうに思う。

置いてある窓口の担当者に、パンフレットの記載内容に関しての質問をしても、何も答えられない。
それは、多分、そういうものなのであろうが、そうあって良いというものではない。

少なくとも、内容に目を通しておくくらいのことはしていて良いはずである。

行き着く先は、ゴミ処分なんだろう。
スペースの無駄使いとゴミの発生。
ちょっと引っ掛かる問題。

2000/12/22

文責:い 70点

No.347

目が悪くなっている。
視力検査を前提にしたときの話である。

同年生まれの仲間たちの内で、最近目が悪くなったというときには、ちと意味の違う話になる。
所謂目の良い人々は、老眼の始まりを”目が悪くなった”と称しているのである。
視力検査では、視力良好との判断がなされるそうだ。

学生の頃には”嘘だろ”と思っていた。
眼鏡を掛けないと、あの検査表の一番上に陣取った文字文様が判別できないのだという。
世にも不思議な物語である。

ところが、25歳を過ぎた頃から、視力検査の結果は次第に悪くなっていく。
30歳を目前に眼鏡の使用となった。
近視度はともかく、乱視がヒドイノデアル。

とまあここまでは、前振り噺なのであって、ここから二つの話を展開する予定なのである。

今日は手抜きでここまでにしようと思う。

困ったことに”手抜き”なんて言葉を使用してしまった。
別件記載ということで”手抜き”について。

”当然しなければならない手数を故意に省くこと。”
浜ちゃんならこうする。
右手の指を左手で包み込んだあとに、さっと引き抜くのである。

根拠となる文献は無いのであるが、将棋用語に”手抜き”があって、これが語源だと思っている。
明確に”一手抜き省く”のである。

将棋では同一の側が連続して2回指すことを禁じている。
”二手の禁じ”という。
禁止しないで、例えば”一局中一度だけ連続して二手指すことを認める”なんていう項目をルールとして定める。

どうなるかというと、後手は二手目に5二または6二に玉を移動させるか、4二に金を移動させなければならなくなる。
そんな細かなことはともかく、王手をしたほうが勝ちとなるのである。

まあこの反対が”手抜き”なのである。
当然応手しなければならない指し手を指さずに、別の手を指して、勝ちに行くのである。
つまり、手抜きして勝つのである。

言い換えれば、手抜きは勝負の意思表示なのである。
意思表示すれば勝つ、というものでもないのであって、敗因にもなり易いのである。

手抜きにはご用心。

2000/12/21

文責:い 80点

No.346

現に利権を持っていて、その権利が規制という名の保護を受けているとしたら、如何なる人でもその規制を継続して欲しいと願うに違いない。

私が、規制緩和とか情報公開とか記述するときに、常々思っていることがある。
私にも、他人から見れば、もしかして既得権を利用して不善をなしていると感じられるだろう事象があるのではないか。

間違っても巨万の富を生み出す保護された利権などありはしない。
私の生活水準をご覧になれば一目瞭然であるから、後ろ指を指される、ましてや、ナイフで刺されるなどという心配ではない。

冬になれば、海苔を生産している漁師から生海苔は頂戴できるし、庭で焼肉なんぞをしていて”そうだ!大根おろしで肉を食おう”と思ったら畑に行って大根を引き抜く、なんてこともできる。
今晩のおかずは何にしようかなと考えるのは、畑の作物とにらめっこで、”そうだとろろにしよう”などと決定する日々が続く。

とまあ、一生懸命既得権(?)メリットを掲示しようとしているのであるが、こんなものなのである。
天体観測は、空がダメである。綺麗に澄んだ星空があった頃を知っているからなのだが...。娘なんぞは、こんなものだと思っている。

急激な変化は、その対応に戸惑っているうちに、行き着くところまで行ってしまえば、そこで変化が生じるだろうし、それがいい方向にいってくれるのを願ってみるのも一法であろう。

目指すべき方向を示すべく、様々なアイデアを提示するのが政治家の務めなのではないだろうか。
今は、明確なビジョンが無いのに、つまり示されていない目標に向かっての手法に、労力を注ぎ込み過ぎているのではないのだろうか。

後になって、この計画の目標はAとして出発したが、実はこんな風(B)にしたかったのだ。
これが委員全員の合意であった。ただし、そうは発表できなかったのである。
が、失敗した。
などと言ってお茶を濁している。

本来、目標が無いのに、その目標 のための手法なんてものは、あり得ないのである。

2000/12/20

文責:い 80点

No.345

明け方の05:30頃に、庭に出てタバコを吹かしていた。
20センチ角くらいの水溜りに、雀が一羽水浴びをしている。
寒くないのか。

吸殻を片付けて戻ってみると、既に雀は去っていて、何事も無かったかのように水溜りの表面は凪ていた。
巻き上げられたと思しき粘土の濁り水が、今まさに水底に収まろうとしていたところである。

山頭火ならどう詠むのだろうなどと考えていると、山頭火ではなくお前はどう詠むのだということが大事なのだとの啓示があった(...ような気がした訳である)。

幸い俳号は”鬼ノ胃”でぴたりと嵌りそうである。
こうなったら詠むしかない。

俳人(廃人)28号の誕生秘話である。
可也短い今日の原稿であるが、17文字を大幅に越えた字余りと考えれば、全く画期的なことであろう。

詠むしかなくなった私の作品を一句だけ紹介しておこう。
今日の書き出しが、それである。

明け方の05:30頃に庭に出て
あ・け・か・た・の
れい・ごお・さん・れい・  こ・ろ・に
に・わ・に・で・て
(中七の”こ”の前のスペースはミスプリではない)

前書き無しに詠んでしまった、ということなのである。

2000/12/19

文責:い 70点

No.344

”とうちゃん、ポルノグラフィティ好き?”
下の娘が突然の質問を投げつけてきた。
”ポルノグラフは嫌いではないけど...”
これは、喋ってはいない。

二三日前に、とある”年末大賞”会場に行き、生で見てきたという。
それ以前から興味はあったようなのであるが、この経験の後の熱狂振りは異常である。

大勢の歌手が出演したテレビ番組の会場であった訳で、このグループの特別なライブ演奏ではなかったようなのだが、同じ場所で空気を吸うという機会は、何か違うのであろう。

一曲をアレンジ変更して聴かせるという、コンサート会場でないと味わえないなんてことが、最近のバンドには無い。
CD聴いてても同じ(場合によっては、口がパクパクだけの出演)ことを生でやっている。

他人が唄う番組に人気が出るという現象は、むしろ納得がいく。
上手い下手ではないのである。
逆に解からないのは、所謂ベストアルバムの売れ行きだ。
極端な話、写真を取り替えただけでCDそのものは一緒なんてモノもあるらしい。

かくしてCDプレーヤーが売れ、MDプレーヤーが売れていく。
恭悦至極である。

テレビの世界はどうなっていくのだろうか。
これだけのチャンネルを抱えていると、矢張り質を落としていく(言葉を変えれば、安価に制作していく)しか道が無いと思われる。
スポーツ中継は増加の一途であろう。
それは望ましいのであるが、スポーツに関わる人々は招致しているのであろうかと、心配である。

初武道館のアイ・シャル・ビー・リリーストが良かった。
もう25年も経つのである。

2000/12/18

文責:い 90点

No.343

日刊鬼ノ胃は、日記である、との指摘があった。
私は、三日以上日記をつけたことがない人間であるから、これを根拠にして、否、と答えておいた。

私の論拠は、つまるところ、日記とは、本日出会った出来事を一日ごとに書き綴ったもの、との認識によるのである。
夏休みの絵日記の対象から類推しているのである。

しかし、考えてみると(考えるまでもないことなのであるが)、私の日記概念はちと狭義の日記であって、日々綴れば日記であるという解釈は当然成立する(これが本来の姿か)。

現実に出会ったかどうかは関係ないのである。
コギト、なのである。”我思うと我思う、ゆえに我ありと我思う”なのだ。
空想したこと、思い出したこと、感じたこと、全て、日記をつける時点では、その日の出来事なのであり、徒然草はそうだった。
断腸亭日乗が絵日記に近いか。

徒然草・断腸亭日乗と同じ俎板の上で勝負している気もないし、滅相もないことではあるが、読者があると想定して記述している点だけは一緒なのだ。

でも、日記の公開というのは、言うまでもなく、鼻持ちならぬ行為であるような気がする。
だから、日刊鬼ノ胃は、日記ではないのである、としておきたい。

今日の文章は、2001年元旦に新たに刊行するメルマガ”
鬼ノ胃の大あくび”創刊準備号に利用するつもりで書いたモノである。

2000/12/17

文責:い 70点

No.342

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

雨粒の最大重量は如何ばかりなのか。
霰雹の類の最大直径(重量)記録から判断してよいものか。

前を降りる雨粒の直後についた雨粒は、自動車レースの走法のように、抵抗が極端に無くなり、更には、後ろから押されて、前後二つが一つになるという繰り返しで徐々に大きくなっていく、なんてことは無いのか。

2000/12/16

文責:い 60点

No.341

むふふと唸らせる記事を発見。


台風は極東における名前で「タイフーン」ともいいます。
メキシコ湾・カリブ海付近で発生するものは「ハリケーン」
インドの東、ベンガル湾で発生するものは「サイクロン」といいます。

多くの辞書、事典ではこう書かれていますが、これは一つの誤解に基づいて
います。
タイフーンもハリケーンもサイクロンなのです。
つまり熱帯性低気圧はすべてサイクロンCyclon。
そのうち極東で発生するサイクロンを「タイフーン」
メキシコ湾・カリブ海で発生するサイクロンを「ハリケーン」というのです。
(悪魔、というような意味だとか)
ベンガル湾で発生するサイクロンには、特に別名がつかなかったので、
そのまま「サイクロン」と呼ばれているに過ぎません。
原義は単に「渦巻き」です。


ここまでで充分むふふナノデアル。
が、更に誤解があるというのである。解かりますか。


”発生”というのが問題なのである。
誕生という意味だとすると間違っている。
猛威を振るう場所こそが、極東地方でありメキシコ湾・カリブ海地方ナノデアル。

対象が暮に相応しかったかどうかは別にして、気象に対する関心は薄れてきているのではないだろうか。
猛威を振るう気象現象は”渦巻き”だけではない。
この冬は、温かいふりをしているが、大雪が降りそうな気がするのである。

年内にスタッドレスタイヤに履き替えるか、それが問題ナノデアル。

2000/12/15

文責:い 70点

No.340

久しぶりに”古井戸”を聴く。

ちゃぼのソロは珍しいのだけれども、その一つに、私がふと口ずさむ曲がある。
♪〜日向ぼっこをします。それで今日が終わりです。〜キヨシ君たちもこのごろは顔を見せなくなりました〜
キヨシ君とは、清志郎である。RCである。

で、日向ぼっこなのである。
日向ぼっこしてますか?

家屋内(居宅・事務所)は、化石燃料や薪炭での暖房は影をひそめ、電気による暖房が主になっている。
自動車の暖房は、エンジンの放熱を利用しているのだろう。

寒い朝、暖機運転しないで飛び出すときの車内は冷えびえである。
家の暖房で暖まっていた身体も、車に乗り込んで直に凍えてくる。
これは堪らん、と感じた頃に、暖房が利いてくる。
暖かさとは、ありがたいものだ。
心の問題も一緒。これは、今日の話題ではない。

日中であれば、お天道様さえ出ていれば、この時期たとえどんなに強く冷たい風が吹いていても、窓を閉めた車内はぽっかぽかである。
これを日向ぼっこと言わずして、何を以って....

縁側での日向ぼっこは眠くなる。
気持ちの良い覚醒と睡眠の境に、体と心を漂わせる。
至福のときである。

至福のときを、自動車の運転をしながら楽しめれば最高なのであるが、これはちと困ったことになりそうである。
で、窓を開けて、冷たい風を導き入れる。
これがまた気持ち良いのである。

この一年間もまた、長いようで短く、短いようで長く、はたまた長いようで短かった。
それなりに様々な出来事があり、喜び悲しんだのである。
変化というか、振幅があって世の中面白い。

残り半月。
歳を取って行くのである。

2000/12/14

文責:い 60点

No.339

No.9800202923
これは、社団法人日本将棋連盟が、私に対して三段と名乗る権利を認めた番号である。えへん。

とはいえ、この三段に何の意味も無いことは、重々承知している。
間違っても、二段の人より強いなどという話ではないのである。
これは、真である。公理と言って良い。

この公理を、社会の事象に当て嵌めることができる事例には事欠かないと考えるのである。

例によって、以って廻った書き方をしたのだが、どうです、お付き合いしませんか?

百円のきゅうりと50円のきゅうりとどちらが良いものであるか。
百円のきゅうりと百円の鉛筆とどちらが価値のあるものなのか。
刑務所で服役している囚人(刑務所で服役していない囚人という言語矛盾を知っているだろうか)の犯した罪と、この囚人を咎めた法律を作った人間の罪の重さの比較。
10年の歳月を掛けて制作された技巧に凝った絵画作品と、一日で仕上げた手間のかからない絵画と、どちらが優れた作品なのか。
民芸品的作品価値と芸術的作品価値との価額比較。

日刊鬼ノ胃のネタは尽きない。

2000/12/13

文責:い 80点

No.338

大都市における家賃が郊外の家賃より高い理由。
昨日来、この大問題を考えていたのである。
それを今日のテーマにしようとしていた。
どうも納得がいかないのである。

こんな例がある。
東京にオフィスがあって、通勤している私の友人がいる。
経営者なのであるが、仕事で遅くなって、しばしば帰宅せずにシティホテルに宿泊すると言う。

終電に間に合うとしても、交通機関に支払う金額よりも宿泊費用の方が安価なのだそうだ(翌日も出勤するのであるから、往復運賃を計算している)。
ただし、毎日そうすると人間の家庭生活はなくなる。
タマニデアル。

需要と供給理論からでは理解できそうもないので、この角度から攻めてみようと考えたのである。
アプローチの方向は決まったのだが、解決には至らない。
いつものことであるが、継続審議である。

交通機関に支払う金額という話が出たついでに、公務員のタクシーチケット利用問題。

他に交通手段がなく、移動するのに(帰宅を含む)タクシーを利用するのは止むを得ないと言う。
簡単に納得して良いものかどうか。

普通に考えて、深夜に及んだ場合なのであろう(これは誠に好意的な推測である)が、何故深夜に及んだのかどうかが重要な意味を持つ。
告白すれば、私自身、公務員のタクシーチケットのおこぼれの恩恵に与った経験がある。
良い気持ちなのである。

だからということではないが、タクシーチケット利用問題という一具体的な件で云々ということではなしに、組織における規則の制定を問題にしたいのである。

規則の制定時には明確な理念が存在して、汎用の規約を作製するのであろう。
ところが、この規則は、実務上の解釈によって運用されている訳である。
骨を抜いても皆で支えていれば、型崩れせずに存在できるのである。

チェックが大事。
公務員が公務員をチェックするシステムは、どう考えてもオカシイ。
会計検査院は仕事の内容が限定されているし、手に心があるとしか思えない活動内容である。

この問題もまた、情報公開要求に行き着くのである。
公務員のプライバシーの扱いに注意する必要はない。
もし、公費の支出明細上にプライバシー保護を要求する項目が現出するとすれば、それは即ち公費支出に相応しくない項目だからである。

2000/12/12

文責:い 80点

No.337

不況で倒産している会社は多いのに、特定の企業の倒産についてのみ、公的資金という美名の下、巨額の血税が投入される事態は、本当にその根拠が国民一般に理解できるものなのであろうか。

こう記述したこと自体、私は理解できていないと述べたのと等しいのである。

実際腹が立つのである。
この暮は、地元の企業経営者と真剣に話す機会が多い。

多くの方々が、現在は不況であるという言い訳をしない。
バブルの時代が特別であったのであって、今は、努力すれば報われるという経済社会では当然の時代である、との認識に基づく。

大企業と称される企業の経営には、それに相応しい経営者が必要なのである。
企業が所謂倒産に至った場合には、その企業の一般社員を含めて、全てはその企業の人間に責任を取らせる必要があるのである。

甘えてはいけない。

倒産企業の元経営者の一部は、何か背信行為を行った廉で逮捕されている。
しかし、何も行わなかったという理由で何か責任を取らせられた、という話が聞こえてこない。

株式会社とは、有限責任の組織であることは承知している。
有限責任は、株主にとっての責任範囲であり、経営者のそれではない。
零細企業の株主群は、概して経営者群と同一人物である。
株式会社といっても、その株主は、資本金の範囲という意味での有限責任を遥かに超えた責任を負っているのである。

株主が怒らなければならない。

2000/12/11

文責:い 60点

No.336

千円札を観察してみた。
私は細かい性格なのである。繊細という意味ではない、念のため。

番号を記載したインクの色が、何度か変えられたことは知っていた。

番号は、アルファベット2文字+数字6文字+アルファベット1文字で構成されている。
と、思い込んでいた。
従って、26×26×10×10×10×10×10×10×26通りの番号がある。17,576,000,000通りだ。
千円札一枚は、千円分の購買権利を付与されているから、
1シリーズは、17兆5760億円分である。

理由は愚か過ぎるのであるが、多分、数字6文字の内
”000000”
は、流通させないだろうから、ちと減額の必要があるかもしれない。
アルファベットの”I”も見た記憶が無い。これも減額か。

ところがである。
番号が、アルファベット1文字+数字6文字+アルファベット1文字で構成されている千円札が、この私の手に存在するのである。
この構成(1・6・1)を2・6・1構成の亜流とみなすならば、即ち、1シリーズに含めるならば、ちと増額の必要があることになる。

この1シリーズの総数が確定できないと、これ以上に話が進まないのである。
総数を分母にして、分子に何を想定するかが、提案しようとしている内容なのである。

何方か、お教え願います。

ここまでで、今日の掲載分を終了してしまうとは。
疲れ気味なのである。パルドン。

2000/12/10

文責:い 50点

No.335

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

20世紀は、1901年1月1日に始まり、2000年12月31日に終了する。
こんな説明を、去年の今頃に、しきりに唱えられていたのが、最早懐かしい。

さて、
紀元1年1月1日から紀元1年12月24日までは、紀元前なのかどうかを問いたい。

この疑問は、近く訪れるクリスマス祭がキリストの誕生日である、という私の理解に基づいている。
そして、紀元前とはキリストの誕生以前のことである、という私の理解に基づいている。
違っていたらゴメンナサイ。

2000/12/09

文責:い 70点

No.334

異常気象について。

明日は12月下旬の気温です。例年より2〜3度高い気温です。
天気予報の番組の中では、こんな言い方で語られることがある。
何となく解かったような気にさせられるのは事実である。

しかし、本当のところは良く解からないのである。
質問しよう。
7月下旬の気温と8月上旬の気温とで、どちらが高温とされているのか?

例年より半月(15日)早い雪の便りが、札幌から寄せられました。
”例年”の基準となる期間は、何年間なのであるか。
先に記載した平年の気温についても同様である。

もし5年間だとしよう。
今年”例年の初雪日”と言うときの、最初の1年目が11/30とする。
2年目、3年目、4年目、5年目が11/15とする。

すると、例年は11/18が初雪日となる。
来年になると、例年は11/13が初雪日となる。

ペルー沖の海水温の情況であるエルニーニョ現象と、その逆の位相であるラニーニャ現象とを引き合いに出して、異常気象をもたらすやっかいな現象などという表現を使用する説明も耳にする。

エルニーニョ・ラニーニャは、共に異常現象ではないのである。
詳しく言えば、その分布の範囲や周期についての予測が、人間には非常に難しくて厄介な代物という感想はあるにしてもである。

現在の地表気温が、概して言えば、生物が生息することが可能な範囲内にあることのほうが、まさに異常現象なのである。
従って、誤差の範囲内での地球規模の変化を異常現象(異常気象)と捉えるのは、人間の利己主義の賜物なのであろう。

利己主義を前面に出して世の中を改革しているのが人間の歴史だとすれば、これを否定しはしない鬼ノ胃であります。

自然の流れは変えられないと悟って、自然の変化するに身を任せるのが得策であり、その方向で環境整備をしたほうが良いと考えているのも、鬼ノ胃であります。

2000/12/08

文責:い 80点

No.333

二年程前の記事を読んだ。
愛媛大学の中川教授の見解である。
‐‐‐
年齢階層別の農業就業人口の推移を基にした、農業の将来について。

戦後の農地改革後に農業に取り組んだ世代(昭和一けた世代)が、昭和35年ごろには、25歳から35歳くらいで、その当時農業を支える中心世代として、もっとも多い人数となっていた。その後、現在にいたるまで、5年ごとの統計により推移をみてみると、中心世代となっているのは常にこの昭和一けた世代であり、その後に続く世代は急激に減っている。つまり、日本の農業は、戦後一環して同じ世代の人たちが担ってきたということである。
現在、この世代は、65歳から75歳となっており、やはりもっとも多い。
この世代の後の世代は、年齢が若くなるほど急速に就業者が少なくなっていく。
このため、農業を支える中心世代であるこの65歳以上の世代が、引退していく(おそらくこれから5年くらいの間に)と、そこで、日本の農業は事実上消滅するのではないか。
‐‐‐
どういう意図での発言かは解からないので、中川教授が正しいとか間違っているとかの問題は置いておく。

今年の確定申告の時期に、2000年分農業所得の計算方法についての改正(法改正ではなく、通達改正)について書いた。
何故こんな非現実的なことをやるのかと思った。

今まで市役所が窓口となって、営農面積・所有機械等の聞き取りをしてみなし所得の算定を行っていた。
これを、本則にあるとおり、収支計算に基づく所得算定に変更し、証憑類の保存まで求めることになった。

あくまでも、私自身の周囲で展開される小規模農業を前提にして憤っていたのである。
自分の所有する田畑は、自分で作るという農業を支えてきたのは確かに現在70歳以上の方々だろう。

実際、引退していっているのである。
田畑所有者とその土地を借用しての農業就業者とが存在する情況が、農業用の土地の大部分に浸透してきた。

小作契約は諸般の事情で結ばれない。
年貢と称する生産物物納で、農業就業者は、地主に擬似地代を支払う。
地主側は、事業といえるほどの収入ではない。

この土地所有者の所得税を狙ってはいないのである。
農業就業者は、これまでの計算だと、所有する田畑面積だけの、みなし収入から算定していたので、殆ど農業からの所得が遺漏されてしまっているのである。
現実に農業生産法人(登記すれば)の形態はできあがっている。
課税がモレテイルノデアル。

大蔵省(今度何という名称になった?)は、この実態を知っているのである。
なるほどな、ということ。
農業は、米つくり農業においても、事業化されてきているのである。

ある産業の就業者とその産業の生産量とが比例するとはいえまい。
中川教授の説くところの、日本の農業は事実上消滅する事態は回避されるに違いない。
政治家の票に結びつかない農業(就業者数が少ないの意)は、着実に始まっている。

ただし、農業就業者の所得の把握は、かなり難しいだろうと思う。
来年三月の確定申告結果が楽しみである。

2000/12/07

文責:い 80点

No.332

今週は至極気楽な(通常は至極無しの気楽な)文章を書いているつもりなのだが、気が急いていて、思い通りにならない。
師走なのである。
さぶいのである。

クリスマス関連のメールはバンバン入るし、夕方が早いから飲み始めが早くなるし、傍から見れば至極気楽なんだろうな、とは思うが、実態は異なる。

もうアレもコレもが頭の中を去来して、思考停止なのである。
他人の年賀状は随分と仕上げた。
自分がらみは何時でもできると思うからまだの状態。
ついでに言えば、”喪中につき...”はがきの舞い込む量が例年よりかなり多い。

不謹慎な話だが、”喪中につき...”の来た方を、一度年賀状リストから外してしまうと、次の年に復活させ損なってしまう。
幸い今日まで、年賀状欠礼のはがきを出したことが無く、専ら頂く側なのである私のような人間は数アマタ存在するらしい。

ひょんなことでこの話題が肴になった。
一昨年親を亡くした友人曰く、
”今年の元旦は、年賀状があんまり来なかった。通常の半分以下だった。”
そして、5日を過ぎた頃に続々と配達されたそうである。

彼から賀状を受け取って気が付いてから出した側が、次の年のリストに付け加えるという作業をしたかどうかは来年の正月に判明する。
私の判断は、付け加えていないという答えを言った篠沢教授に500点である。

ところで、去年の今頃はY2K騒ぎで大変だった。
本当のところは解からないが、少なくとも社会をパニックに陥れるようなことは無かった。

厭な予感がするのである。
12/23・24・25あたりで、何か起こるような胸騒ぎなのである。
徒に煽ってはならない、としても、自己防衛することを宣言しておかねばならないので、敢えて書かせて貰う。

この3日間、サイトを閉鎖し、頂戴するメールも全て中身を見ないで削除する。
または、サイトの管理を放棄して26日に新規にUPする。
メールは、いずれにしてもサーバに取りに行かねばならないので、単純に通常使用していないマシンを使って読み、全て捨ててしまう。
後者が現実的だと考えるが、それでも少し別の危惧が引っ掛かる。

本当に実行するかどうかの最終判断は、12/20にするつもりである。
場合によっては生じることになる空白の三日間に、表示されないからといって、お気に入りのリストから外さないで頂きたい。

復活に二年もかかっては大変なのである。

2000/12/06

文責:い 90点

No.331

今日は特別な日なのである。

毎日、星を見るのが楽しい日々が続く。
オリオンを中心にして上下にシリウスと木星が眩いばかりに輝く。
その木星の直ぐ上には昴がぼーっと存在をアピールしている。

上だ下だは、夜半までの表現。
23時を超えてからは、やはり東西南北で表現せねばならない。
天文書というか、星の本を開いて最初に戸惑うのが、この位置の表現方法であろう。

星の位置は、季節によって、また時刻によって変化していくのであるからヤヤコシイ。
解かってはいても、なかなかなのである。

天体望遠鏡を覗いたことのある人の数が、非常に少ないことに最近気付いた。
初めての方には、月を見せる。
いきなり恒星を見せたりすると、視野がどう開けているのかすら最初は解からないらしく、何も見えないと言う。
慣れというか、テクニックというのか微妙だが、アイピースを通しての視野の確保(簡単に言えば、対象物からの光を瞳に導き入れること。むしろ簡単ではないか?)は、確かに練習が要るようである。

突然であるが、練習などという大嫌いな言葉を発して気付く。
行き当たりばったりで丁度44年間生きてきた私が、こんなことを書くとはお笑い種ではあるが、日々目的に向かってガンバラネバナラナイ、ということだ。

なに、目的なんぞ解かっていなくとも良いのである。
要するに自分を騙すことなく”日々これ精進せよ”なのである。

自分に対する戒めの文言なのである。
特別な日の”日刊鬼ノ胃”は、深い自己反省と誓いを以って終了。

2000/12/05

文責:い 60点

No.330

食品成分表には、”タンパク質”、”ビタミンB群”、”ビタミンD”、”塩分”、”鉄分”などの数値が、食品別に記載されている。

このうち”鉄分”という表現が解からない。
我々一般にレバーには”鉄分”が多く含まれている、などと日常会話で使用することがある。。

成分としての鉄、などと、解かったような記載が辞書にはある。
でも、解からないですなこれでは。
”塩分”も同様。

食品成分表には、かつて、”脂肪分”と呼称されていたものがあった。
これとの対応で”鉄分”もあったのだろうが、最近では”脂肪分”は”脂質”と改称されて使用されている。

この改正時に、何故同時に”鉄質”と改称されなかったのか。
栄養学を馬鹿にするわけではないのであるが、非常に実学的な分野の研究であるのであろうに、どうも妙に矛盾が多いのである。

神の見えざる手、といった不思議な道具を使わなくても学問として成り立つと思い込んでいる節があって、矛盾を疑問に感じる方がいないらしい。

一日の摂取塩分を計算するがためにのに、病院食では、食事全体から塩辛さを抜いてしまうことがある。
一点豪華主義ではないが、一点塩辛主義で献立を作製したらどうなんだろうか。

全ての惣菜に少しばかりの塩分を残すのではなく、全く塩分を除いたおかずと、少量の通常の味付けのおかずとを一つのメニューに仕上げてくれると有難いんじゃないか。

今日は、唐突に、栄養素についての話になったような感じがあると思う。
実は、スポーツドリンクに含まれる塩分について、少し気になっているのである。

2000/12/04

文責:い 70点

No.329

完勝ゆえ乾杯(カンショウゆえカンパイ)。

5年ぶりなので、なりふり構わず書いてしまう。
13:00頃には、確かに曇りではあったが、割と明るい国立競技場であった。
この段階で、ワンカップは一本空いている。

13:30一陣の風が舞うと、俄かに暗くなってきた。
この段階で、ワンカップは二本空いている。

14:00キックオフ。
14:15ワンカップは三本空いている。
これから先、試合が終了するまでワンカップに手は伸びない。

試合は動くのだが、単発勝負で点が入るので面白くない。
グラウンドに近い席だったので、ラインが良く見えないのもイライラの素である。

ハーフタイム。
異様な雰囲気。空は真っ暗。

横井が出てきた頃には、隣の友人と話す。
”見ていて面白くは無いんだけど、もしかすると、後に名勝負と称される試合なのかもしれない。”

試合が終わり、下の喫茶店で、ビール。
慶應の上田氏が二人連れで居た。
そこに早稲田の宿沢氏が四人連れで登場。
宿沢氏は上田氏に声を掛けてから自分の席を確保。
私達の直ぐ脇の席であった。

私は、宿沢氏に声を掛けた。
”おめでとうございます”

何時の間にか上田氏は退席していた。
私は、どうしようもない奴なんじゃないのかという感想を初めて抱いた。
今まで好意的にその振る舞いを見ていたのだが、今後は変える。

飲み屋では、どんなに親しい知人にも声を掛けてはならない、という不文律があるそうである。
例外は、声を掛けた方が奢るつもりの場合だそうだ。
今回は違う状況下での出来事。

まあこれはどっちでも良い。
家に帰って、ビデオを観ると、そこには全く違った試合が行われていた。
ライブがつまらなかったという、稀な例である。

2000/12/03

文責:い 70点

No.328

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

有料道路(高速系)と並行して一般道路が走っている、というのは結構あるものだ。
それも、殆ど同じ高さにあって、お互いの道路から相手側の道路の様子を見ることができる場合もある。

一般道を走行している車の方が、スピードで勝っている場合がある。
そんな情況に出くわして、悔しい思いをしたことがある。

2000/12/02

文責:い 70点

No.327

挫折じゃない。方向転換だ。
こう自分の小説の中で叫んだ作家がいた。
誰かは忘れたことにしておいて良い。忘れたのである。

不勉強な私には、過去が見えない。
いかに多くの先人が悩み苦しみ死んでいったのかを知らないのである。
その重みも解からない。

我々の営みは全て、先人の苦悩の末に培われたものの上にあるだろうことは推察する。
が、しかし、それだけで、あたかも自分が全てを考え出したかのように振舞う。
勝負は知識としてあるかどうかである。
この知識と言う奴は、記憶力とは異なるらしい。

”もう落ちるところまで落ちたよ”
”いえ、苦労ってものは、そう思ってからが長いんです。経験上”
これは、浅田次郎の作中の言葉。

この言葉には、頷く方も多いだろう。
ここまでそして明日の景気の状態を物語っているようで味わい深い。
オソロシイ気もするが...

今日は暗い雰囲気を味わっていただくことができただろうか。
このサイトでは、それなりに文章制作の試験もさせて貰っているのである。

”覚えは遅く、忘れは早く、メカには弱く、酒には強い。”
こういう投書を読んだのである。
58歳の女性であった。
堂々たる論陣を張った最後に、自己紹介に記載されていた。

この一行の文章は、書き方テクノロジーに優れている。
また、そのヒトトナリを奥行きにひそめた含蓄のある一文である。
素晴らしい。

還暦を迎える頃に、私も、かくありたいものだ。

2000/12/01

文責:い 90点

No.326

河豚の季節である。

私の地域では、東京湾で捕れる小さな河豚を食する習慣がある。
所謂下関河豚も、東京湾で捕ることができるのであるが、これは美味い。
ただし、相当高価で取引されるので、近在で食する習慣のある河豚は、これとは全く別物である。

自分で捌いて食べる。
書いて大丈夫と思うから書くが、自家用であるから、河豚の調理免許などと言うものは持っていないで、しかし、自分で調理して家族(もちろん、時には知人)を交えて喰らいつく。

そうそう、この河豚の調理免許という代物は、都道府県単位の試験制と聞いている。
例えば、千葉県で取得した免許では、神奈川県では商売できないらしい。
しかし、一部例外があって、例えば、東京都の免許は、千葉県でも通用するなどということが成立しているという。

内臓などの処理にも相当厳格な規定があるとのことで、鍵の付いたゴミ箱なんてモノも要求される。
最終処理も専門の業者に依頼することが必要である。

とは言え、素人が自分で汁にしたときに、少し痺れるのが宜しい、などという御仁もまだまだ健在であるし、
内臓なんぞ自宅の庭に埋けて終わりということが罷り通っている。
ナンカよくわからない世界だ。

よく言われているので、聞いたことのある方は多いのだろうが、例の
伊藤博文が”ふく”を解禁した話。

明治21年のことである。
伊藤博文は、日清講和条約の締結のために下関を訪れた。
”春帆楼”という料理屋にて食事をすることになり、そこでは、ふく料理が出されたのである。

明治に入ってからも河豚の食用は全国的に禁止されていた。
なのに出たのである。
その味は、彼を満足させるに十二分であり、河豚の味と店(春帆楼)を誉め称え、この件をきっかけに、その禁制が解かれることになった。

ここまで書いて、ナンカヘンナンジャナイノ、という気持ちになった。
禁止されていたって、食うものは食うのである、と結論付けるのは容易い。
けれども、なのである。

全国的に禁止されていたことを、政府のトップがやった。
まあ、これは、良いとしよう。
禁止から解禁に移るにあたっては、伊藤博文に可也の利権が絡みついたとしか思えないのである。

彼が、アマタある美味しいものの中から、河豚を食い、河豚料理(屋)のために行動するインセンティブというかモティベイションとして、”美味い”という感動だけでは、割り切れないものがある。

美味いというのは、事件と言うに相応しい出来事ではある。
それにしてもナノデアル。

如何。