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2000年9月分(09/1〜09/30) 

2000/09/30

文責:い 80点

No.264

国勢調査の調査票が届いている。

最近出会った人の声を幾つか紹介。

「国勢調査って何?」
正確に答えることのできる人はいない。
ただし、この質問をした人は、そんな厳密な意味でなく、”こくせいちょうさ”という言葉自体を知らなかった節がある。

「何で私の家がそんなものに答えないといけないの?」
「プライバシーの侵害だ!」
地元の人を調査員に任命するからである。
調査員は、守秘義務があるはずなのだが、一部の個人情報が漏洩する瞬間に立ち会ったことがある(簡単に言えば、”俺は国勢調査の調査員をしているのだが、あのうちの記載事項のうち〇〇は出鱈目な記載だ”という発言を聞いた)。
記載内容の検閲は不要である。
一定の確率で記載漏れがあっても、調査結果に影響を与えることはないというのは統計の常識である。
また、意図的に、ある項目に対して答えない自由は確保されるべきである。

「国勢調査って、本当に5年に1回しているの?
国勢調査は、本当に5年に1回している。
ただ、親から独立したり、一人暮らしを始めると、初めての国勢調査になるので、前回までの調査を知らなかった場合がある。

もう1つの例は厄介である。
昔は、調査員が書いてくれていた事例が多々あるらしい。
善意ではない。こうしないと決められた期間内に回収できなかったのである。始めは本人(世帯主)から依頼されて、聞き取りで記入。
次回からは、依頼あるいは承諾無しで勝手に記入。
非常にゆゆしき問題であります。

今回、記入にあたって気が付いたこと。

”国勢調査は、統計法という法律に基づいて行われる”との記載がある。
また、”国勢調査は、日本に住んでいるすべての人を対象として行う”とも。
しかし、調査票の配布は、個人に対してではなく、世帯に対して行われ、調査票も一人一葉ではなくて、世帯単位の記入形式を採用している。

そもそも”世帯”という単位は、何なのだろうか。
世帯主は、如何なる方法で決定されるのか。
世帯は、民主主義に基づく公共団体なのだろうか。

面白い記載がある。
”調査員が、調査のお願いに訪問したときに、ご不在であれば...”とあるのだが、世帯がご不在という現象は無い。
”世帯員全員が不在ならば”であれば、理解できる。
しかし、ここでは、この記載をした担当者は、個人を想定していたと考えた方が自然である。

個人と世帯、個人情報と世帯情報とをごちゃごちゃにして調査票記入をさせるからおかしな話になるのである。

実は、私は世帯主ではない。
これは多分どうでも良い。

念のために、家族全員に尋ねてみた。この調査票の記入を、私がやることに賛成するや否やをである。
これについては、承認する旨の意思表示があった。
我が家の構成員にしては珍しく、より積極的な依頼もあった。
曰く、”適当に書いておいて頂戴。面倒くさいから。”

この結果、調査票の記入を、まるで当然のように私がやろうとしたのだが、当然ではないと考えると、矛盾点が浮かび上がる。
父親(我が家では、じいさんという地位にある世帯主)の職業が何であるかを知る権利は、私に与えられているのだろうか。
ましてや、そのじいさんの職業を決定してやる権利はどうだろうか(職業 欄  選択の自由の剥奪)。
ましてや、じいさんの収入がどの程度なのかを知る権利は、私に与えられている筈が無い。知りたくも無い。
世帯全体の収入の種類の記入は、特に”主なもの”の記入は、憲法違反ではないのかとの疑いがある。

ドナタカ裁判に持ち込んでみませんか?
勝ち負けはどうでも良いのだが、疑問をこのままにしておきたくないもので、結果が出たときには教えて下さい。

結論。
個人情報のみを、個々人が記入する調査にすべきである。
そして、如何なる検閲もなくし、単なる記入ミスすらも訂正することを禁止する必要がある。
個人情報を保護するには、特定の個人とその人の個人情報とを、直接結び付けて見ることのできる人間を排除すべきだからである。

付け足し。
どうしても推測すらできない設問がある。
個人の氏名を記入する意味は何か。
勤め先・業主などの名称を記載させる意味は何か。
”統計以外の目的には使用しない”とあるが、これ(勤め先・業主などの名称)をどんな統計に使うというのだろうか。
アヤシイにおいがする。

2000/09/29

文責:い 70点

No.263

9月もじきに終わり。朝晩は、完全に秋が実感される。
学校の、運動会も一段落か。

最近の運動会は、家族総出で子供の応援に行くという運動会は、減っているらしい。
家族総出といっても、精々両親であろう。
娘の小学生時代は、私・妻・祖父・祖母・妻の実家の祖父・祖母と、場合によっては、小学生のいない家庭のご近所のじいさんばあさんを引き連れての参加である。

学校教育における運動会の意義は存じ上げない。
はっきりしていたことは、父兄としての参加者は、そんなものお構い無しであるということ。
子供の応援をしながら(”しないで”のほうが実態に近い表現か)小学校の運動場でビール片手にバーベキューをしている方々もいる。
子供の年齢が6歳違いまでの親同士が、小さい頃の同級生という可能性は非常に高い。
出欠確認の無い同窓会が、自然発生するのである。
これはなかなか楽しい。

飲酒自粛の声もあがった事があったが、理屈になっていなかった。
私は、飲酒賛成派なので、自粛派の感情だけの呼びかけに、理屈で対抗したのである。良し悪しは、関係ない。
他所の子供と付き合う機会なんてものが少ない昨今では、一緒に運動会を楽しんじゃっている仲間の親を観察するという、良い機会を提供しただろうと思う。

自分の小学校の頃を振り返ると、秋の運動会は、丁度稲刈りの真っ盛りであった。
ほとんど手作業の米つくり農家をしていたので、晴れた日に丸一日を休業にするなど論外であった。
そんな家庭が全体の7割程度であり、お昼の手作り弁当が応援席に持ち込まれるのは(つまり、父兄が応援席に着くのは)昼食時間ぎりぎりである。
食事を済ませて、午後の部に入れば、帰ってしまう。

先に記載した通り、孫の運動会に一日付き合う私の両親は、どんな気持ちで現在の運動会を眺めていたのか。
改まって尋ねたことは無いが、毎年のように、”昔は、一日中観ていたことは無い”という言葉があったから、懐かしみつつも辛かった日々の事を思い返していたのであろう。
もちろん、飲酒批判など決してしない。

新聞によると、ある地域では、平日に運動会を行って、 お昼は、手作り弁当でなく給食を食べているとか。
一部の父兄からの申し入れなのだろうか。
もしそうだとしても、職場の改革を行った先生の姿勢を蔑む。
これ幸いなんて利用したんじゃないのか。
今の運動会は、先生と子供だけの行事ではないのである。

学校を聖域化するのは良いが、聖人であってくだされ。
少なくとも、父兄が学校行事で飲酒をすることを容認する程度に優れた聖人である必要はある。
運動会の日に給食を食うなんて発想する奴は、頭悪いんだろうな、きっと。

2000/09/28

文責:い 80点

No.262

単細胞生物であるアメーバは、次々と2分裂(単細胞であるから、この行動で同じモノが2つできる)を行って、増えていく。無性生殖である。

従って、細胞(つまりアメーバという生物そのもの)に寿命は無い。

ただし、他の生物に食されたり、化学的汚染や物理的に潰されたりして死亡する場合はある。
核も単純に分裂して同じモノが作られて、それぞれの細胞に割り当てられる。
原因不明の突然変異が無い限り、遺伝情報に変更は無い。

ゾウリムシは、環境が好ましい状態の時には、アメーバと同様に分裂による無性生殖で増えていく。
遺伝情報は全て同じモノである。
しかし、環境が好ましからぬ状態になると、この無性生殖とは変わった行動をする。

一対のゾウリムシが、あたかもオス−メスのように共同して”自家生殖”と呼ばれる有性生殖に似た現象が起こる。

ゾウリムシには、大核と小核という二つの核をもつ。
それぞれの個体で、二つある核の内、大核は壊れてしまう。
この瞬間、細胞内の核は、小核1つだけである。
小核は、減数分裂を行う。染色体の数が半分なるように分かれて、細胞内に二つの核を作り出す。

この状態になった一対の個体は、接合して1つの細胞(つまり、1つの個体)になる。
この段階では、染色体の数が半分の核は4つである。
それぞれ異なる核は融合して二つの核ができる。この二つの核の持つ遺伝情報は同じモノである。
どちらも、もとの二つの個体とは異なる遺伝情報を持つ。
そして一方が大核となり、もう一方は小核となって、有性生殖は完了する。

この場合には、二つの個体から一つの個体が発生するのであって、細胞分裂するのにもかかわらず総数は減少する。
好環境下では数を増やし、悪環境下では遺伝情報を変更することによって、悪環境下でも耐えられる(というよりも、もとは悪環境とされた同じ環境を、好環境と認識する)タイプの個体を作り出そうとする。

このプロセスを通じて、もとの遺伝情報を持つ個体が消滅し、明らかにもととは異なる遺伝情報を持つ個体が発生した。
細胞(つまりゾウリムシという生物そのもの)の寿命は尽きるのである。
ゾウリムシの一生は、有性生殖に始まって、無性生殖を行う期間が生存期間であり、有性生殖により終焉する。

寿命があるのだ。

とまあ、単細胞生物は”単細胞”ではないことがお解りいただけただろうか。
私も、営業はやるは、商品の企画はやるは、制作も、経理も、福利厚生のやるはで大変なのである。
厭じゃないけど、である。

もっとも、今のところ、増殖は考えていない。
環境が悪い情況なので、生存のための情報をかき混ぜて、何か新しいモノを作ろうとしているのである。

2000/09/27

文責:い 80点

No.261

ヒトの身体は、約60兆個の細胞でできている。多細胞生物である。

各細胞は、その細胞の属する器官に特殊化された細胞であり、その種類は200以上である。
見方を変えれば、特殊化された細胞が、様々な器官を作っている。
生殖細胞のように、一つの細胞で完結した器官を構成しているものもある。

巷間”単細胞”なる称号を与えられる御仁がいらっしゃる。
この意味するところは、単純な人間といったところだろう。
しかし、どうやら、”単細胞”は、多細胞の生物の一つひとつの細胞とは可也異なり、大変複雑なのである。

単細胞生物のゾウリムシを例に取ると、繊毛という水の中を移動するための道具を持ち、食物を摂取する口、排泄のための肛門といった器官を持つ。
持つというより、備えている。
これが全て一個の細胞の備える機能なのである。
そして、生命体を維持していくための情報処理を、同じ細胞(何せ、一個しかないのだから)の中でやっている。

多細胞生物は、隣接する細胞間で情報を流し合って、先ず情報処理機関である脳に至り、更に脳から隣接する細胞間で情報を流し合って、それぞれの器官に運動することを指示する。
しかし、脳に指示されること無く運動する器官も存在するし、刺激(外部からの情報)の種類によっては、脳の指示を待たずに器官単独の判断で運動する場合もある。

もう少し続けたいので、明日に続く。
今日の話題を書きたかったのには理由がある。

私は、”脳死”というものの定義を知らない。
私が知らないということは、”多分”多くの日本人が知らない。
(この論理は、私が随分偉いもののように聞こえるだろう。
しかし、そうではなくて、情報収集と情報処理と情報記憶との能力において平均的な日本人であるという宣言である。”多分”に注目。)

脳死を生物の死として認定するかどうかの議論は、どうなっているのだろう。
この関連記事を、最近あまり目にしない。
臓器移植(全てが脳死の方の器官提供ではないだろうが)の可否についてとともに、時々考えを廻らすのである。
学識経験者(つまり、一般常識を自分の専門分野に介入させることを極端に嫌う人々)だけで議論をして、結論を導き出すのは無しにしてもらいたい。

2000/09/25

文責:い 90点

No.259

言葉遊びとしてではなく、根源的な考察としての”文化”の腑分け。

またまた訳の解からないことを言い出す訳である。
文化とは何か。

特定の集団における習慣と考えてよいのだろう。
今日も、シドニーを観ていてふと思いついたというか、考えを廻らすことになったのである。
他の集団の習慣を、我集団の構成員が真似をする。
良し悪しを述べるつもりは無い。
私と同じ集団に所属すると思われる人々が、私の知っている我集団の習慣と異なる行動をとることに、奇異な印象を持ったことについて書く。

全ての種目について共通している。
満足のいく成績を残したり、特定のプレーで好ましい結果を残したときに、いわゆる”ガッツポーズ”をとる。
柔道では、試合終了の合図である”礼”をしないで、喜びを表現する。
同じく柔道で、遺影を掲げるなどという、愚かさもここまできたか(このフレーズは、多分に私の感情)との表現。
野球では、全員共通の胸を張るポーズと、各個人別に決まったポーズ。

一歩譲れば、集団競技の勝利の雄叫びには、何らかのポーズが必要であろう。合図とともに皆が揃えなければならないだろうからである。
しかし、この行動は、あくまでも、試合終了のケジメとしての行事である場合に限る。
聞くところによれば、評価点数を競う競技(体操、シンクロナイズドスイミング、ボクシングなど)では、顔による表現力や、疲れてないぞッて感じの表現力が審判の採点に及ぼす影響があるという。

ナンカオカシクナイノカ。

表彰式では、見ず知らずのおじさん(おじいさん)から、祝福の抱擁を受ける少女たちの姿が映し出される。
少なくとも我集団では、こんな習慣は無い。
どころが、はにかむ事も無く、それに応じる。
あんなもの、平手打ちをかましてやれば良いのである。”無礼者”の一言を添えて。

先に、他の集団の習慣を、我集団の構成員が真似をする、と記載した。
しかし、何処の集団に個人の勝利をひけらかす習慣があったかと考えると、思いつく対象が無い。
とすれば、これこそが、ワールドスタンダードなのかもしれない。
私の知らない世界である。

私が観たいのは、ワールドスタンダードを身に付けた人々の中での一等賞を決める戦いではない。
それぞれの習慣(これぞ文化)に基く競技解釈で、オリジナルな戦法を生み出してぶつかり合う姿こそが観たいのだ。
そうでなければ、国(地域もあったか)代表参加のスポーツ大会ではない。

少なくとも私には、勝者が敗者の目の前で喜びを大袈裟に表現する習慣を持つ集団に所属しているという自覚は無い。
習慣は変遷していくものであるとは承知しているが...

2000/09/24

文責:い 60点

No.258

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

源 頼朝(みなもとのよりとも)

源 純夏(みなもとすみか)
よくがんばりました。

2000/09/23

文責:い 70点

No.257

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

全て自分のためじゃないか。頑張るんだ!
この手の激は、
”俺は別にそんなに頑張らなくったって一向に構わない。この辺にしておこう”
という結論を下すことが可能である。

私のために頑張って!
こんな風に激励されると、
”訳解かんないけど頑張っちゃおう”
なんて気がしてしまう。

”自分の欲のために”より、”他人のために”というのは、大義名分などという意味合いよりも、人間を動かすモチベイションとして、より機能する。

運動に限らず、である。

2000/09/22

文責:い 90点

No.256

殿(+軍)--しんがり。
当時の殿軍は、相当な確率で、そのグループ構成員の”死”を意味する。

攻める時には、”殿”様が位置する場所であるが、退散するときには決して居る事の無い、軍隊の最後尾である。

越前朝倉義景攻めのときのこと。
朝倉・浅井勢に挟み撃ちとなり、絶体絶命の信長は、脱出をはかり、秀吉を殿軍にした。
秀吉が買って出たと言ったほうが事実に近い。

秀吉の行動は、概して、勝算の無い行動をとることは無かった。
一般常識に凝り固まった周囲から見て、如何に無茶な作戦であっても、少しばかり(今だから言える。当時としては画期的に)考え方を変化させただけで、成算のある作戦にすり替えた。
”墨俣の一夜城築城”にしろ、槍奉行上島との”長短槍の試合”にしろ、完全に勝算アリだったのである。

もっとも、拝命してから実践に移るまでは、相当の期間があるのが通常である。
その間に、適材を調達し、その者たちに徹底したモチベーション付けをする。
技術的な訓練よりも、精神・知力のスキルアップを中心に据えた支配方法で、部下を統率したのが秀吉流である。

もう少し踏み込んで推測すると、そもそも、信長と秀吉の間に、予め約束があったような気がする。
秀吉の戦略が纏まった頃に、大勢の武将の前で、ある作戦を告げ、引き受ける武将を募る。
どう見ても他の武将が逃げそうな作戦である。
当然、数ある武将の中でも格下の秀吉が拝命することになる。
出来レースなのだ。

しかし、秀吉が殿軍を買って出たこの時ばかりは、秀吉には生還する自信が無かったらしい。
これは出来レースではない。
何故に秀吉は勝算の無い行動に出たのか。
どうしても理解できないのである。
本来ならば、殿軍を買って出たことをもって、秀吉の命運は尽きたのである。

ところが、優柔不断な朝倉勢は、退散する信長軍に対して追撃軍を出さなかったのである。
この好機を逸した朝倉の行動も、どうしても理解できないのである。

二つの理解不能事を提示して、本日これまでにございます。

私は、騙されやすい性癖を持っているのかもしれない。
酒を飲むと酔う性癖を持っているのと同じである。
意気に感じて行動してしまうのである。
周到な準備というのが面倒で、地道な用意など出来ないから、刹那的に行動している、との分析が真実に近い。
猛省。

2000/09/21

文責:い 90点

No.255

今日も心理学の用語を一つ二つご紹介。

コーシャス・シフトとリスキー・シフトという一対の概念であります。
いずれも、集団の同調行動が一方的に雪崩れ込む現象であるのだが、その方向が全く逆のベクトルを選択する。

ケネディのキューバ派兵決定過程における、彼を取り巻く専門家たちの会議は、リスキー・シフトが支配していたと分析されている。
アメリカの、いわゆる強気であった時代背景を無視することは出来ない。
しかし、会議での結論をもたらす人間の行動に、特徴的な現象があるという。

一般に、この決定に参加したごとき専門家集団というものは、非常に優秀な人々の集まりであった。各々が自信に溢れ、また、やる気もある。
更に,団結心も強い。会議では、反対意見が述べ難い。
この手の集団による会議は、楽観論に陥りやすい。
従って、成功の確率が低く、危険の高い決定を下すことが多い。
これを、リスキー・シフトと呼ぶ。

凡人(定義は難しい。先の、”非常に優秀な人々”も同じ。)の集団では、反対の傾向がある。
成功することよりも、失敗しないことを選択基準に据えるのだ。無難に、無難に、安全第一である。
こちらは、コーシャス・シフトと呼ぶ。
新鮮で突拍子もない意見を出す人がいても、多勢の人間は、まあまあ、と宥めながら、結論としては、安全で全く面白みのない決定になる。

いずれにしても、集団の同調行動が一方向になっている。
ところが、仲間はずれになることを一向に恐れず、頑なに自分の意見を押し通そうとする人間は存在するものである。

こんな奴は、その会議のリーダーにとっては厄介な存在である。
しかし、こういう人こそ大切にしなければならない。
リスキー・シフトの場合、集団が間違った方向に向かってしまう危険な結論に対する防波堤になりうるのである。
また、コーシャス・シフトの場合には、無難な選択しかしない硬直した集団に、新風を巻き起こし、革新を齎す役割を努めてくれる。

少数者の行動が、多数者に大きな影響を与えることが出来る組織にしておく重要性を再認識したい。
ハミダシモノは貴重なのだ、と心得るべし。

2000/09/20

文責:い 80点

No.254

ブッシュがへまをした。
サブリミナル効果を利用した映像の放映を、選挙戦に利用したという。
陣営では、偶然の為せるわざというコメントを発表。
それはないだろう。
練りに練った戦略的映像と考えるのが自然である。
しかし、解せないのは、相手陣営から指摘されたときに、如何に応じるかの台本を用意していなかった点である。

私も懲りないもので、今日もまた危機管理の話をしている。

とにかく、この事件は、予め予定した台本の作りようでは、より一層宣伝効果を期待できたはずなのである。
恐らく、相手陣営は、突発的に攻撃をかける。マッテマシタなのである。
むしろ、相手が気が付かなければ、情報を漏らしてまでも攻撃させる。
こんな素敵なスキームが描ければ、格好良かったはずである。
マイクのスイッチがオンになっているのを気付かずに、ジャーナリストの悪口を言ってしまう人だから、正直者なのであろう。ま、馬鹿です。
アメリカの選択は、ブッシュにならない、と予言しておこう。

サブリミナル効果のように、本人無自覚のうちに(つまり、人間の目では知覚できないのに、見た情報はしっかりと脳に送達する)宣伝効果を受けてしまう性向を利用するのは、非常に危険である。
ところが、一般の生活をしている人にとって、広告宣伝というものは、そもそも、受容しかないのである。
受け入れたくなければ、広告を流している宣伝媒体を利用しないという選択しかないのである。
テレビを観ないという信念を持って、実際に観ないという行動は、その一つの例である。

マスコミュニケーションによる広告宣伝の効果は、何処に根ざしているのだろうか。思い当たるのは、次のようなものである。

単純接触の心理効果。
人は、繰り返し何度も何度も目に触れるだけで、その対象を好きになる傾向がある。
深く知る必要はなく、ただ単に繰り返し見るだけで生じる効果である。

熟知接触の心理効果。
よく知ればより好きになるという効果である。

対象は、人間でも食品でも自動車でも何でも該当するという。
例えば、対象が人間だとしよう。
直接話をするでなく、写真以外の情報は一切与えられなくとも、同じ写真を繰り返し見た回数の多い対象人間ほど高感度が高まるのだそうだ。

この二つの効果には、人はそもそも全ての対象に対して、好意を持とうとしているという前提があるように思われる。
そうなんだろうけれども、逆の場合もありうるのではないか。
あるいは、何処かにターニングポイントが存在して、突然逆転する(再逆転を含む)ことがあるのではないか。

もう少し考えてみる必要がありそうである。

2000/09/19

文責:い xx点

No.253

2k/09/19 15:30 復旧。

不眠不休でやりました。
ちょこっと居眠りをした感じがする。記憶にはない。あるなら寝ていない。

perlでのCGIの書き方とHTMLの書き方との違いに悩まされた、とっても貴重な二日間でありました。
データファイル自動生成型のCGIだったので、運用中の既存データファイルとの競合が発生した模様である。
ループによるサーバシステムダウンにならないミスであったのが、不幸中の幸いでした。

必要は発明の母、というか、火事場の馬鹿力というのか、何とかなって良かったのであります。
しかし、知識の無さに、改めて驚き、かつ、意味無く笑う自分を観察する絶好の機会であり、”危機管理についての考察”などという文章を書く自分に、腹も立てたものであります。

今日は爆飲するはずである。きっとする。
あの店なら、もう大丈夫とそそくさと出発せんとする私であります。

ご迷惑をお掛けしました。

2000/09/18

文責:い xx点

No.252

夜中に、新しいCGIをUPしようとしたところ、見事に”syntax error”発生。
他の今まで正常に稼動していたCGIも変調した模様。

一旦昨日の状態に戻して、とりあえず運用中であります。

本日は、m( )m

 

マチガッテモ、オリンピック競技の見過ぎによるものではありませぬ。

2000/09/17

文責:い 50点

No.251

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

まわり道して、いつもと違うコースを選択。
雨の中を走るのも気持ち良い。

× × × × × × ×
 --------------------
〇 〇 〇 〇 〇 〇 ×  

×は空席、---はテーブル、〇は既に参加者が着席していることを示す。
もちろん席次の決まっていない会議である。
今、ここに一人で入ってきたあなたは、片側に残った一席に座ることが出来ますか。

2000/09/16

文責:い 100点

No.250

高原(17)の”チームの勝利が嬉しい”発言。心中や如何。

昨日の本欄にては、この(17)は記載していない。
まず、普通、(17)は、年齢だと思いますな。
ある新聞報道の、写真に付けられた説明書きである。
背番号が正体なのであるが、馴染まない。

で、心中について。
釜本が、現役を引退してから喋っていた、試合が終わった時の自分の正直な気持ちをお聞き願おう。。
一番嬉しいのは、自分が得点して、チームが勝った試合である。
次が、自分が得点して、チームが負けた試合である。
ここまでは、嬉しいのだそうである。
そして、自分は得点しないが、チームが勝った試合−自分は得点しないし、チームも負けた試合と悔しい度合いが増加する。

ストライカーと呼ばれるのも、因果な商売である。
釜本に対する個人的な好き嫌いを別にするが、心がけや良しである。
試合を楽しんで来ます、などという発言で試合に臨む選手は、国代表なんかにしてはいけない。
負けたときの逃げ道を用意しているからである。
自分を納得させるには、自分が活躍して試合に勝利するしかないのである。
個人競技でも団体競技でも同様なのである。

勘違いされるといけない。国の威信をかけて戦ってきます、という発言をする輩も、ドウシヨウモナイ選手である。
貴殿に対して、そんなことをお願いした記憶は無いのである。

スポーツ振興プロジェクトなんぞを口走ってから、スポーツに定義を与える必要性を感じている。
今のところ、以下のように考えている。

それぞれの種目の競技規則に則って、他者との争いに勝利することを目的とする、肉体的および精神的活動−−−−試合及び訓練−−−−

今日までのスポーツのイメージを払拭するために、精神面を強調したいのだけれど....

スポーツ振興には、主体となる参加者の数も重要だけれども、メディカル面のサポートとか、審判員の資質向上あるいは広報組織の拡充などという、非常に広範囲な問題が山積みである。

思い切って、種目範囲を狭めて、試行錯誤の森の中に突入してしまおうと思っている。
多大なるご協力をお願いして、本日これまで。

9/15 74-0(1勝)

2000/09/15

文責:い 60点

No.249

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

先ずは目出度い 2−1。

高原2得点。
試合直後のインタビューにて。

”チームの勝利が嬉しい。”

心中や如何。

それにしても、オリンピック開会宣言前のオリンピック競技とは。
公式試合ではないとの抗議で試合そのものの成立が否定され、今回の予選リーグはやり直し、なんて事態は...無いんでしょうね。

2000/09/14

文責:い 70点

No.248

利腕。右利きと左利き。

私は、左利きである。
自分で気付いたのではない。
野球のグローブを、右手に嵌めていたのである。
その日から、私は、左利きといわれているのである。

高跳び・幅跳びの踏み切り足は、左足である。
箸・筆は、右手に持つ。
先に、”グローブは、右手に嵌めていた”と書いたが、右バッターボックスに入っていた。中学一年まで、左投げ右打ちである。公式試合で、三塁を守った経験もある。中学二年からは、左投げ左打ちに転向した。
ソフトボールの大きさを超えると(ドッジボール・ハンドボールは)右手で投げる。

野球をプレイするときには、ボールを投げる、という点に焦点を当てれば、右利きの人が右手で投げるのは当然のように思える。
しかし、ボールを捕える、という点に焦点を当てれば、右利きの人が、右手にグラブを嵌めて捕える方が自然なのではないのだろうか。

前段が書きたかったのである。

で、アミノ酸について。
アミノ酸は、水素・炭素・窒素・酸素の組み合わせである。
実験室で合成されたアミノ酸は、右回りと左回りとの2種類の物質が存在する。
ここにいう”右回りと左回り”というのは、光を通したときに、右回りの光を吸収するか、左回りの光を吸収するかの違いである。
実験室では、通常、右回りと左回りとの2種類のアミノ酸は、ほとんど同じ割合で合成される。

しかし、我々人類を含む地球上の生命が用いているアミノ酸は、左回り種類のアミノ酸のみであり、右回りは存在しない。
実験室でも、左回りの光を照射しながらアミノ酸合成を行うと、左回りのアミノ酸ができる。

今日は、ダカラナンナノダ、は、禁句である。

すべて目による知識である。
残念ながら、”左回りの光”って奴が、何者なのかの記載が無かったから、そいつがどんなモノなのかの知識は無い。

2000/09/13

文責:い 90点

No.247

まだまだ、鶏子について。

妊婦は鶏子である。
こういう風に視覚的に思えば、やはり、大切に大切に扱わねばならぬと納得しよう。

産科病院について。
”病院”の定義を問いたい。
以前からちょこっと引っ掛かっていた疑問。
聞いたことはないだろうか。
妊娠は、病気なのかという疑問である。

産科は、臨床医学の一部門である。
これでは何も解からない。
臨床医学は、実際に個々の病人について、病状の観察・治療をする医学。
とすると、産科は、病人を扱うらしい。
”病状の観察”というあたりが、この問題の解決の鍵か。

実際、助産婦制度が存在するところを見ると、はっきりとは病気と認定していないようである。
しかし、母体が、人間の通常とは非常に異なる状況にあるし、胎児を一人の人間として扱うときに、可也危うい境遇にあるとみなせば、逐次”観察”し、一旦緩急あれば、直に”治療”にかかれるように”病院”で見守られることは妥当であろう。

最後に、ちと話は変わるが、鶏子が先か、鶏が先かという疑問に対しては、鶏子が先であると答えよう。
突然変異が、成体に起こっても、遺伝情報としては残らないからである。
こんな断定で良いのかどうかは知らないが、専門家が明確に答えを示してこなかった理由が解からない。
一応の答えは、何処かで発表されても良いのではないだろうか。

尚、本日の話題をもって、当家では、三女の誕生を待つという状況にあるのか、との問い合わせをいただくと煩わしいので、ここに回答を記載する。
”否”。

ついでに。
文中に、”一旦緩急あれば”というお年を召した人々にはお馴染みのフレーズを記載した。
何処かにも書いたが、”一旦緩急あば”が正しい用法である。これは、これとする。
緩急とは、遅いことと速いことである。
しかし、”一旦緩急あれば”の緩急には、遅いことという意味は除かれてしまった。
何故だ。

2000/09/12

文責:い 70点

No.246

まだまだ、鶏子について。
本当は、牛乳の話。

生鶏子については、鮮度に関する知識と、買ってみて味わうという実践を何度か繰り返せば、安くて美味いモノが手に入る。
とにかく生鶏子は、総じて安価なのである。
誰が選んでも、大した違いは無い。

しかし、牛乳は、ちと厄介なのである。
金額の差がありすぎるのだ。
値段が高い牛乳の中には、美味い牛乳が多くある。
高い牛乳ほど、余分な手を加えてはいないはず(だから美味い、という独断的な読み)なのだが、とにかく高価である。
国全体では、大層余っているらしいのだが、高い。
これは、我が家向きではない。
安価な牛乳の中に、美味い牛乳を探すのである。

牛乳の味については、我が家に一人妙な奴がいて、これは二女なのだが、こいつに任せておけばよい。
牛乳好きなのだが、美味い牛乳好きなのである。
この子の牛乳好きを知って、好意で、土産に持ってきてくれた方がいた。
しかし、一口、口をつけただけで、飲まないのである。
この時は参った。実際、弄りすぎ(調整しすぎ)の、コリコリ牛乳であった。
もう一つ参ったのは、”学校給食の牛乳は厭だ。飲みたくない”と言った時である。今でも、無理して飲んでいるらしい。

この子に言わせると、美味い銘柄というものは無いそうだ。
同じ銘柄でも、買う度に味が違う。
自分の体調が頗る良いときに、味わってみると、確かに違いがある。
ただ、美味い不味いに関しては、概ね、紙パック(の蝋分)の問題ではないかと推察する。
有害だなどということではなく、味(ニオイを含む)の問題としてである。

生ビールのサーバみたいな感じで、購入者が容器を持参し、決まった場所で量り売りする販売システムは、できないものだろうか。
バルブの洗浄に難点アリか。

2000/09/11

文責:い 80点

No.245

突然、日本海が見たいと思って、それが成就すると、当然(突然の誤記ではない)ミルクシェイクが飲みたくなる。
もちろん脈絡なんぞは無い。

フィラデルフィアのロッキー氏は、生鶏子(この表記は、皆さん解かってくれているはずである)を一気飲みして対戦に臨んだ。
アメリカでは、生鶏子をそのまま食べる習慣が無く、しっかりと火を通して食べるのが普通だと聞いている。
なのに、何故、
生鶏子一気飲みしたのか。
謎解きにご協力願う。

で、ミルクシェイクなのである。
黄身だけを使うのではなく、全卵(全鶏子)を入れる。
氷は少なめにする。もちろん牛乳と鶏子とは冷やしてある。
ひたすら、シェイクする。

ミキサーは、片づけが厄介なので使わない。
小言を気にしなければ、ミキサーで作って、放って置く所であるが、小言が気になるのである。
----シェイカー片付けの厄介さ<ミキサー片付けの厄介さ<<妻の小言の厄介さ-----

本当は、白身の処理には
ミキサーが良いのだが。

鮮度が極めて良いと、炭酸ガスを感じる。
これは、知識を得てからの感想である。
生鶏子の味は、濃厚卵白が勝負である。
時間の経過につれて、濃厚卵白は、粘度を低下させて、水溶性卵白に変化していく。
また、濃厚卵白の炭酸ガスの含有量は減少し、黄色みを帯びていたものが透明度を増して透明になっていく。
もちろん、全体的に水分は蒸発して、気室の空気の容積が増え、劣化が進む。

つまるところ、新鮮な生鶏子を欲するのである。
欲すれば、供与されるのである。ただし、新鮮な生鶏子を新鮮な生鶏子として食すためには、サダンイートが肝要である。
日本語化すれば、サドンイート。

ゴルフでのサドンデス方式という表記の解明には、可也の年月を要した。人の名前だと思っていたのである。
”sudden death”
これを教えてくれたのは、田谷さん、あなたの兄さんであります。

本日のミルクシェイク。無漂白の砂糖で造ってみた。
非常に美味い。美味いんだけど色が...
この風味をそのままに、色の無い砂糖はないものか。

2000/09/10

文責:い 50点

No.244

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

鶏子は相場で価格が決まるため、1年間で常に価格が変動する。
それにしても安価な商品である。

東京市場・鶏卵(こう書くのは止むを得ない)相場 
99
年度 Mサイズ中値 1sあたり
1234567891011 12
157  190  193  198  192  168  165  177  220  206    214   226

市場の相場とスーパーの相場とに、対応する関係を見出せるや否や。

2000/09/09

文責:い 80点

No.243

日本書記にある。
『古に天地未だ剖れず、陰陽分かれざりしとき、渾沌れたること鶏子(とりこ)の如くして、ほのかに牙を含めり』
中国古書『三五歴記』の中にも、同じ字綴り(鶏子)が出てくる。

”たまご”である。

漢字で”たまご”と書くとき、どの漢字を使うか迷う。

”玉子”は、たまごの形(玉のような子)からきた当て字というのが有力説だ。
“卵”の方は、ボラの卵巣、いわゆる ”からすみ ”起源の象形文字で、もともとは、魚の”たまご”のことを指す。

通説として、生の状態のものを 卵、調理済みのもの(ゆでたまご等)を 玉子 と書くのが一般的だと、金田一さんが言っていた(ような気がする)。

”tamago”と言われたら、鶏卵を思い起こす。何故だろう。

今まで食した”tamago”では、やはり、鶏卵が一番その機会が多かったと思う。
しかし、数の上では、タラコではないかと思う。何せ、一口幾百という数であろうから。
もっとも、タラコは魚の卵だ、と解かっていても、タラコと言われて、普通には、あの一粒一粒を思い浮かべることは無い。

今日から私は、努めて”鶏子(とりこ)”と呼ぶことにする。
皆さん如何。

2000/09/08

文責:い 80点

No.242

日本海について。

突然、京都に行きたいと思ったことは無いだろうか。
そしてまた、突然、日本海が見たいと思ったことは....

糸魚川を目指す。フォッサマグナなのである。
上信越自動車道は、藤岡IC−信州中野IC間開通の時代に、須坂長野東ICまでは、走行経験がある。
須坂長野東IC−上越JCT間は、初めての走行となる。
北陸自動車道は、新潟西IC−金沢西IC間は経験済み。
今回は、中央道諏訪IC出発で、糸魚川ICまで220km・2時間。

須坂長野東IC−上越JCT間を走った印象。
第一感。
道路の作り方(舗装の仕方とか、ラインの引き方とかでなく、全体の構想とでもいうようなモノ)が手馴れてきたな、という感じがした。
素直なルート設定なのである。
何故、わざわざ大きく曲げて、この街を通さなくてはならないのか、などという余分な詮索をしなくても良い感じなのである。
だが、それだけ。
このルートに関しては、一般道がほぼ並行して走っている。絶対に一般道の方が楽しい筈だ。
もっとも、一般道は、地元の生活道路である。観光客を通す(特に、冬)と事故が多発して困るだろうから、あまり歓迎されないかもしれない。

糸魚川−松本を一般道で走る。帰りのルートである。
三年ほど前にも、このルートを走行した。この時は、各所で(感覚的には全区間の半分以上)工事が行われており、交互通行で酷い目にあった。
このたびは、 道路が格段に整備され、糸魚川−大町間の70kmは、一時間半程度であった。
大部分は登り坂であるから、そして、前を大型の車両で塞がれることが無かったから、この時間で走破できた。
逆の下り坂ルートでは、一時間は余計に要するだろう。
登り坂、下り坂による消費時間の差も、通常の感覚と異なるところである。

ちとばかり、 奇妙なことに気が付いた。
確か、糸魚川−松本間は、国道148号線と147号線とで構成されている。
前者を松本街道と言い、後者は糸魚川街道である。
つまり、新潟に松本を名乗る道があり、長野に糸魚川を名乗る道がある。
ここが私の書き方のしつこいところだが、松本街道には、松本は無く、糸魚川街道に糸魚川は無いのである。

通常、地元の人は、その土地を訪れる人々の、来たりし方の地名を付けて道路名にするのだろう。
北風、西風などと同じ考え方である。
反対かもしれない。
日光街道、甲州街道というネーミング同様、行き着く先にある地名を付けて道路名にしたのかもしれない。
さて、どっちか。
現代風には、糸魚川−松本線などというところか。
これまた、奥床しくも何ともない。面白くない。

それはさておき、一般道を走るのは、本当に気持ちが良い。
あくまでも比較の問題であるが....
街道筋の地名を追いかけて行くだけでも、何かと想像力を刺激される。
地名の読み方を、ローマ字で表記されているのを読むと、可也の頻度で意外な読み方に出会う。
”小谷”なんぞは、絶対に読めまい。

古くからある有名な地名にあやかって、東西南北・上中下を冠した地域名を付けるのは止めて貰いたい。方向感覚が混乱する。
旧軽井沢はともかくとして、軽井沢を出発(地域の名前としての)に中軽井沢である。
これを発展させると東中軽井沢。さらに、北東中軽井沢、下北東中軽井沢、南下北東中軽井沢。
この辺まで来ると、後ろの部分を切り捨てたりする。南下北東中軽井沢は、南下北東中軽。...こんなとこにしとこ。

高速道路網は、都市と都市をピンポイントで結ぶ。確かに、短時間で目的地にたどり着くことができる。
しかし、どの道路を走っても、面白くないのである。
サービスエリアも、それぞれの特徴が少なくなった。
コンビニと同様である。
何処へ行っても、同じような造りのコンビ二が立ち並ぶ。
ついつい、この批判対象のコンビニで、買い物をしてしまう自分が情け無い。
だが、コンビニエンスである事は間違い無いのだろう。

日本海の話はどうなったのだろうか。

註。
所要時間の記載は、あまり正確ではない。
本稿に記載した数値を当てはめて、距離/時間を計算すると、各道路の制限速度を超過する場合がある。
この註の記載は、重要である。

2000/09/07

文責:い 60点

No.241

今日は何を書こうか。
と言っても、いつもとは状況が異なる。

通常は、何もテーマが決まっていない状態から、本日のテーマを搾り出している。
これで結構苦労しているのである。
ところが、今日は、書きたいことがあまりに沢山ありすぎて、逆に迷ってしまって、絞り込みが出来ない。

そんな馬鹿な、と自分に言い聞かせても、そうなんだから仕方が無い。
0を1にする作業と、5を1にする作業とを比較すると、(多分、今日に限ってみれば)後者が難しいのである。
過ぎたるは、及ばざるが如し。
杉樽は、及び腰にて飲むべし。
昔の人は旨い事を言う。感心しますな。

具体的には、単位の話、日本海について、地名の話、有料道路考、二千円札と五百円玉、老酒の話等々なのである。
ナノデアルが、未だに結論が出ない。
全て、今日書かねばならないというカレントな話題ではないのだ。

と、ここまで書いてみると、もうちょこっと書き加えれば、本日の日刊鬼ノ胃として掲載できる最低量に近づいて来たことに気付いた。
これはしたり。
明日も、もう一日考えてみようと思う。

今日の内容についての質問・意見は無いことを祈る。

2000/09/06

文責:い 70点

No.240

九月は、林家三平の亡くなった月である。
1980年のことであるから、既に20年の歳月が流れた。

源氏物語を、本棚から取り出して、思い出したのである。
念のためであるが、読もうとして取り出したのではなく、その奥にあった文庫本を探しているときに、前面を塞いでいたこの本を取り出したのである。

もしかすると、この林家三平と源氏物語との連想の意味も、話す必要があるかもしれないので記す。

高血圧で倒れたのが1979年の1月。
可也厳しいリハビリに耐えて、カムバックを果たした。
リハビリ期間中に、本人いたって真面目に練り上げた(と言っていた)新作落語が”源氏物語”なのである。
残念ながら、この作品は、高座は勿論、何かのメディアでも観(聴い)ていない。

いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき.....
で、ハジマルラシイ。
これだけだと、原典と何ら変わるところがない。
まさか、何処まで暗記できるかとの挑戦だったのではあるまい。
もし、この挑戦説が正しいとしても、林家三平ならば、立派な新作落語として、高座にかけても、誰も文句など言わなかったろう。
多分、10分が過ぎた頃に、拍手喝采で大変だっただろう。

そして、何処かで支えてしまい絶句する。
ここに用意したセリフを言う。
”申し訳ありません。もう一度勉強しなおしてまいります”
桂文楽(八代目)は、この詫び口上まで稽古していて、本当にこの口上を述べたときには、引退してしまった(1971年8月31日)。その後には、一度も落語を遣らなかった。
林家三平は、毎回この口上を、オチに使うのである。
こんな荒業ができるだろうと想像できるのも、三平ゆえにである。

そういえば最近、林家三平に対して高い評価をする声を、何度か耳にした。
残念ながら、何れの声も、テレビ人としての評価であった。
落語家林家三平に対する再評価も、丁度没後20年となる今年辺りにはお聞きしたいモンデアル。

異句にて繰り返す。
根岸の旦那は、彦六よりも、無論円生よりも上。

2000/09/05

文責:い 90点

No.239

先週は、続け様に天体に関する文章を書いた。
私の文章を好きだとか嫌いだとかを抜きにして、この分野の話題を好まれる方は非常に多い。

特に専門的にでなく星を眺めるという催し(実は、こんなことは、催事として企画して実行する、というような性格の行為ではなかったはずなのである)に、実際に参加したいという希望が寄せられた。
星を眺めたという経験が無いというのである。
百武彗星だ、流星群だ、と声高に叫ばれ報道されても、本当に僅かの人々だけが、実際に眺めたに過ぎないらしい。

振り返れば、実に浅いのであるが、可也広い範囲の分野に首を突っ込んできた。
キーワードは、面白そう、お金をかけない、責任を担わない、これだけ。
自分に対して、これだけのお約束で世の中を色々見てきた。
迷惑をかけてしまったり、かけそうになったりということを感じると、その分野から暫く遠ざかるという処世術を使った。

お蔭様で、曖昧な、言葉を変えれば、隙間あるいは複数の重なる分野を跨ぐ対象に、眺める視点に囚われることなく抵抗無く、接することが出来た。
科学的な分析には感情を込め、感性での分析には論理を導入して記述する、という奇行で、その分野の専門家を煙に巻いてきた。
申し訳ない話である。

本人は、面白くてしょうがないのだから、そうせざるを得なかっただけなのである。
記憶力が、決定的に低下した今、もう一度脳に刺激を与えてやろうと思う。
今までに増して、廻りに迷惑をかけていく決心をしたのである。
キーワードは、面白そう、お金をかけないの2点。

そう、”責任を担わない”という、もう一つあったキーワードは捨てる。
逆に言えば、責任を負うというキーワードの導入で、私の好奇心の発露は変化するはずなのである。
権威も権力も縁故も関係ない。
新しい時代の幕開けだ。

乾杯。

珍しく、酔っていないときに、この稿書き上げる。前行の”乾杯”は実際に飲み始める合図である。
中締めをやってくれる方を手配していないのが気になるのだが...

2000/09/04

文責:い 90点

No.238

子供たちも、本格的に、二学期だ。
まだまだ、夏休みの宿題に追われているのだろうが、その内容について一言。

大層驚いた。
読書(読後)感想文を書く、という宿題が、今だ現役の宿題としてあったという事実を確認したのである。

何冊かの本を読め。
作文を書け。
この二つのことを宿題にする。
これについても言いたいことはあるが、まあ良いだろう。
読書感想文を書け、というのは、この二つの宿題をセットにして一つの宿題にしているのだろう。

本を読んだ、と本人が言ったとしても、ソンナノ信じられましぇん。
先生の気持ちは解かる。事実その通りなのである場合が大部分だろう。
少なくとも私なら、読んでなくともそう言う。

で、読書感想文なのであるが、名称は間違っている。
世の中では、本を読んで感想を書くという行為を”書評”と言う。
夏休みには、好きな本を読んで、独自のセンスで書評を書いて持ってこい。
読書感想文を宿題に出す、というのは、こういう意味であることを、先生方は理解しているのだろうか。

書評のスタイル(そんなものは無いのだが)を、誰かが書いたものを見本にして教えてくれたのだろうが、書評は大方の人間には無理なのである。
自由な作文(文章綴り)が出来ない子、つまり、作文嫌いな子を大量に創ってしまうという効果しかない。

本屋に行くと、夏休み前頃から、学年別の推薦図書が展示販売されている。
読書感想文を書かせるという仕組みに、こんな商売ベースの思惑が絡んでいるとしたら、廃止も出来ない。
逆に、そういうことなら、納得できるのである。
はっきりと言ってくれれば良い。

2000/09/03

文責:い 50点

No.237

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

闇の夜は吉原ばかり月夜哉(其角)

闇の夜に吉原ばかり月夜哉(円生解釈)

2000/09/02

文責:い 80点

No.236

過日、久しぶりに青山通りを歩く。
実に20年ぶりか。

原宿駅を降りて、表参道を坂に助けられて移動する。
進行方向右サイドの歩道を歩いた。
明治通りを過ぎたあたりで、全く、土地鑑が目覚めてこないことに気付く。
道路は変わっていないのだろうが、建物の形、色が、記憶を呼び出させてくれるきっかけにならない。間違い無く変わったのだ。

地下鉄表参道駅の出入口から駆け上がってきた少女と、ぶつかりそうになりながら青山通りを右折。
紀ノ国屋に入ってみる。
高いだけ。品揃えはなっていない。

魚売場は、悲惨としか言い様が無い。
肉は、まあまあ。ただし、近寄る客は無い。
七面鳥と合鴨の間にあった”ペット用生肉”、冷凍だけども、本当に美味そうだった、と書いておく。
流石に、チーズのコーナーと缶詰・瓶詰のところだけは、面白いものを沢山置いていた。
パスタはダメ。乾燥物ついでに言えば、うどん・蕎麦なんて、私の知る限りこんなのだけは置くなよの展示会。
果物売場にも精彩を欠く。

買い物客の質が落ちたのだろう。
コンビニで買い物してる人と変わりないと見た。

話は変わる。
原宿駅で、乗車賃の精算をした。
機械による自動精算なのだが、使用方法の説明が無い。
実は、隣の人に聞いてしまった。
設置してから、可也の年月を経ているのだろうが、初めて使う人は居るのである。

サービス利用者が戸惑うようなシステムに、優れたシステムは無い。
こんなに威張ってしまっていいものかどうか、自信はないが、不満だらけの原宿・青山であった。

2000/09/01

文責:い 80点

No.235

グリーンフラッシュが観たい。

緑閃光。
太陽が緑色に輝く。

日の出、日の入り時に、太陽は赤く染まる。
ここまでは、どなたも一度ならずご覧になっているだろう。
サイズも、天頂にあるときに比べて、かなり巨大化している。

何故低高度の太陽は赤いのか。
可視光には、様々な波長の光が含まれている。
簡単に言えば(難しい説明が出来ないのである)、赤く見えるような組み合わせの波長しか残っていないのである。

それ以外の波長の光は、大気中の塵や水蒸気に吸収されてしまったのだ。
一般に、短い波長の光は、長い波長の光に比べて吸収されやすい。
この段階で、残された光の波長で最も短いものは緑である。

つまり、虹の七色のうち、すみれ・あい・青は吸収されて光の成分からは取り除かれた。
残るは、緑・黄・だいだい・赤である。

さて、日の出、日の入りも、太陽が地平線下に埋もれている部分が非常に多い時、日の出の瞬間・日の沈みきる直前という時、またまた大気がいたずらをする。
太陽を眺める人にとっての水平方向には、層状に空気が重なる。
上層が冷気で下層が暖気という、ちょっと不思議な空気層である。
この空気層を、四色を含んだ光が通ってくる。

蜃気楼現象が起こるのである。
蜃気楼現象については説明をしない。何となく、あああれか、で宜しい。
今度は、眺めている人に届く光は、波長の短い光である。
今回は、吸収ではなく、屈折度合いの相違によってモタラサレタノデアル。

こんな風に綴ってくると、さも面白く無さそうである。
しかし、大層美しいのだそうだ。
”そうだ”なんて、観たこと無いのかと問われれば、その通り。
写真は観た。
画像処理ではない(そうだ)。
輝く時間は非常に短く、一秒にも満たないことが普通らしい。もっとも、長い時間なら、フラッシュとか閃光(同じであった)という名称は使用しないだろう。

何としても、観たいのである。