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2000年8月分(8/1〜8/31) 
 

2000/08/31

文責:い 80点

No.234

月は地球に大きな影響を及ぼしている。

潮の満ち干、つまり、海面の高さの変化をもたらす。
太平洋では、2mくらい。
湾部での海面高低差は、潮の流れによる湾内海水容量の変化が引き起こす影響が強いから、間接的な潮の満ち干である。
2mの高さにも海水全体を引っ張り上げるのである。

ここまででは、あまり驚かない。普段、水というものを、重さで実感しないからだ。
しかし、次の記載を見てどう思うだろうか。
同じ力(潮汐力)は、当然ながら、地面にも働いている。
この変化の度合いは、数十cmに達する。
地面が盛りあがるのである。

更にである。
同じ力は、月にも影響を及ぼす。
潮汐力というのは、引っ張り合う力なのだが、この力を運動エネルギーに換えて、地球から遠ざかるための推進力にしているのである。
スイングバイという手法で、人工衛星や宇宙船を加速するのに、地球や土星・木星を利用している。
この作用と同じである。

月の遠ざかるスピードは、3cm/yearである。
五億年もすると、太陽の見かけの大きさに比べて、月のそれは小さくなってしまう。
見かけの太陽の大きさの最小値>見かけの月の大きさの最大値

太陽も月も、一年を通じて見かけの大きさは一様ではないのであるから、この条件を満たす計算をしてある。
見かけの大きさが常に一定であると、皆既日食と金環食の区別が無くなる。
もっとも、先の計算によれば、五億年後には、皆既日食は存在できない。
太陽を隠すには、月があまりにも小さすぎるのである。

現在は、月の大きさが最小に近いときの日食は、金環食になりうる。
また、月の大きさが最大に近いときの日食は、皆既日食になりうる。
それほど、太陽と月は大きさが等しいのである。
本当に、極めて珍しいタイミングの時代に、我々は生きているのである。

ダカラナンナノダ。

2000/08/30

文責:い 60点

No.233

毎日、様々な文章に出会うのであるが、ときに複雑な気持ちになる。
前行の”文章に出会うと”なんて表現も、可也奇態。

”暗闇しか見えなかった。”
目を凝らしても見えない場所を指して、暗闇というのである。
それでも、この表現を解かった気になってしまう。

見えないから、ブラックホールと名付けたはずだ。
事実、あらゆる情報・光・電磁波は、直接出てくることが出来ない。
しかし、天文学者は、”ブラックホールが出現する状況”などという表現を用いる。
見えないものを見ようと努力している。
自分たちが、定義することによって、見えなくした存在を、である。

まるで、アインシュタインの”宇宙項”のようだ。
本人都合により、ひとたび取り入れた因子である。
後に、観測事実が提示され、これがあると都合が悪い状況になったときには、罵らんばかり(ま、本人を、ということになるが)で悪者にした。
しかし、しかる後には、この項の有効性が叫ばれると...例の舌を出しておどけたのであろう。

天文学者は、キン肉マン(MACHO:MAssive Compact Halo Object)などという命名までしている。
どうやら、心優しく力持ちなどという物体では無さそうなのである。
波平理論、オバQ定理。こんなモノも持ち出している。
どちらも、キーワードは”毛”である。1 or 3 の違いである。

定義が先か。実在が先か。
この際はっきりしておきたいものである。
論文なら”定義が先”と明確に答えるつもりなのでせう。

2000/08/29

文責:い 60点

No.232

庭に出て、一服してきた。

このフレーズを読んで、お前もか、とお察しくださった方、いますな。
冬には、これでなかなか辛いものがある。
今の季節はどうかというと、日陰で涼しいところで吸う分には、まあ快適である。
嘗ては、庭の椅子に腰掛けての一服だったが、今は、立っている。ひたすら立ったままである。

パイプなのである。あまり多くを詰めずに試みるのだが、20分くらいは続く。
良い運動になる。
座り仕事が多いので、結構この時間は貴重なのだ。
畳を焦がす心配も無くなった。
紙巻は、家ではヤラナクナッタ。
大事な書類を焦がすことも無い。
窓ガラスもヤニ色にくすむことも無い。
良い事尽くめの毎日である。

覚せい剤・麻薬とタバコの違いは何なのだろう。
酒についても同様の疑問。
覚せい剤・麻薬には、課税は無く、タバコ・酒には課税している。
結構良い解答であろう。
この意味するところが、真実に近いのではないか。

これはタバコ飲みの発言であるから、嫌煙、更にはタバコ撲滅運動の推進者には、何か別の解答を頂戴したい。
酒の方が、その効能はより覚せい剤・麻薬に近いと思うのだけども、酒を禁止する運動についてはあまり聞かない。
酒では、結構他人に迷惑かけていると思う。
周りの人の健康に害を及ぼさないからだろうか。
殴りつけられて怪我をすれば、充分に健康を害されていると考えられるのだが。
複雑なことは考えない性分ゆえ、突っ込まれても回答できません。

それにしても、廻りから”程ほどにしておけ”なんて言われる事に限って、ちょっと深みに嵌る性格らしい。
誰か私に向かってこう言って欲しい。
あんまり、世のため人のために働くんじゃないぞ。

この声が、私に届くまでは、....

2000/08/28

文責:い 70点

No.231

昨日の本欄は、いつにも増して、唐突な文章だったようだ。
自分では、相当”御感じあそんだ”のだが。

1956年12月06日。これは、私の生まれた日である。

何かのイベントで、毎日だったか朝日だったかの、誕生年月日の新聞をコピーしたものを頂戴したことがある。
記事の内容は失念したが、何となく感慨深い気持ちになった記憶がある。
この時以来なのだ。
記事の内容を憶えていないのには、自分なりの理由を考えてみた。
今日の出来事じゃない、というものだ。こじつけである。

ある書籍を眺めていると、突然この”ほうおう座の流星群”の話題が在ったのである。
宝くじの当選番号確認のごとく、
”せん、きゅうひゃく、ごじゅう、ろくねん、じゅうにがつ、むいか”
と、一度通り過ぎた数字を、一つひとつ読み返して行った次第である。

ただし、どう考えてみても、1956/12/06が多くの方にとって特別な意味を持つとは言えない。
最近多々発生する少年たちの刹那的犯罪は、万人の理解を超えると言われる。
案外、自分にとっては、このことだけは守りきらねばならないと深く意識していた”あるもの”を、当然周りから見れば取るに足らない”あるもの”を、何かの拍子に、周りの者が意識せずに傷つけてしまったのかもしれない。

そんな”あるもの”について、警察の調書には記載するべき項目ではないと、記載を省略してしまうかもしれない。
本人は喋っているにもかかわらずである。
そして、本人はその後”あるもの”については、一切口を噤む。
とどのつまり、原因は不明。はかり知れない少年の、動機無き殺人事件として片付けられてしまう。

”ほうおう座流星群は、この出現が、記録上最初にして最後である。”
この記載は、この日に生まれた私としては、自分の琴線をくすぐって、少し感傷的になるものの、充分に気持ちのよい話題だったのである。
もちろん、説明なんか出来やしないが。

という塩梅で、昨日の本欄は成立しているという心算なのである。

2000/08/27

文責:い 90点

No.230

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

1956年12月06日。
南極観測船”宗谷”は、インド洋上にて、ほうおう座流星群に遭遇する。

火急クラスの非常に明るい流星多し。
ニュージーランドから南アフリカまでの範囲で目撃される。

ほうおう座流星群は、この出現が、記録上最初にして最後である。

2000/08/26

文責:い 80点

No.229

今井美樹の”プライド”の出だしには、こうある。
私は今、南の一つ星を...

みなみのうお座にある一等星・フォーマルハウトがこの星である。
和名、みなみの一つ星。
星座の名前は北の空から付けられていった。
このために、北天の星座(先に命名されている訳である)と同じような南天の星の配列には、”みなみの”と付けられた例が多い。
みなみのうお座、みなみのかんむり座、みなみのさんかく座である。

真夏には、織姫・彦星など天の川の両岸に4つの一等星が輝いていた。
豪華な夏の主役たちも、9月になると、早々と西の空に沈んでいく。
東の空から上ってくる秋の星達は目立つ存在が少ない。
こんな中にあって、輝きを放っているのが、秋の夜空ではたった一つの一等星であるみなみの一つ星・フォーマルハウトなのである。

みなみのうお座では、フォーマルハウトに次ぐ二番目に明るい星は4等星の明るさになってしまう。2等星・3等星が全く無い。
更に、星座を跨いでも、フォーマルハウトを中心にした半径20度の円内には、2等星ですら二つしかない。
この二つさえも、みなみのうお座の更に南にある(地平線にかなり近いということ)つる座に属する星なのである。
従って、日本では、地平線まで視界があることも珍しいし、開けた視界においても、大気の減光を受けて、見かけは非常に目立たない。

フォーマルハウトは、孤独なのである。
秋の夜空にふさわしいと言っておこう。

みなみのうお座は、直ぐ北隣(見た目では、上にあることになる)にある、みずがめ座からこぼれ落ちた水を飲んでいる魚をなぞった星座である。
フォーマルハウトという名前は、魚の口という意味である。

実は、フォーマルハウトを太陽とする惑星系が作られつつあるらしい。
そして、その惑星系が位置するであろう場所には”氷(水)”が見つかってい
る。
太陽の年齢は46億歳であるのに対して、この星は2億歳と考えられている。

何を言いたいのかは、お判りいただけたと思う。
孤独な星フォーマルハウト君に対して、私は熱い眼差しで見つめているのである。

2000/08/25

文責:い 60点

No.228

”継ぎ”って解かるだろうか。

夏休みの子供たちを集めて、地域の納涼会は開催された。
段取り役で出席した大人の中に、3つばかり年上のK氏がいる。
竹竿を長椅子に括り付けるために、近くにいた少年に向かって喋った。
”そこにある継ぎ、持って来い”

私は、その場で竹竿を支え、椅子に押さえつけている。
K氏は、紐で固定しようとしていたのであるが、生憎、晶をなくした(ショウヲナクシタは、これで良いのであろうか?)紐は、結び目で切れてしまった。
彼も押さえつけていなければならず、手が離せない。
そこで、先の言葉を放ったのである。

意味が通じないんですな、これが。
ツギはツギハギ(継ぎ接ぎ)のツギであります。
1960年代以後生まれの、この場にいた親御さんたちにも通じない。
ツギハギは知っているのである。

辞書にはこうある。
着物や布の破れを補い縫うこと。また、そのための布地。
前半を知っているのだが、後半の意味を失念しているのである。
K氏や私にとっては、むしろ、後者の意味での使用法が普通であるのに。

さて、当部落(自治会区)の戸数は60弱である。
若干の増減はあるものの、戦前から変わっていない。
小学生の数は、60年代で30程度だった。
今年は、遂に10を割った。欠けている学年があるのである。
未就学児を数え上げてみた。4人である。
この未就学児だけで小学生を構成する時期が、6年後に生ずる。

他意は無いのであるが、若干書きづらい事柄を書く。
離婚によると思われる人口の変動があるのである。
従って、突然小学生が増えたり減ったりするのである。
その転入者たちは、兄弟が4人もいれば、既存の勢力に充分対抗できる。

私が小学校を卒業する前後には、新日鉄さんの進出により、転入校生のほうが既存在校生よりも多いという現象が君津市の一部小中学校で見られた。

土着文化の継続性は存在できるのだろうか。
良し悪しの問題ではない。
世代間で言葉の問題が発生しているのである。
共通語ではオモシロクナイノデアル。

継ぎ接ぎは、その度を越えると、新品の時の生地は全く無くなり、ツギだらけになる。

2000/08/24

文責:い 70点

No.227

清水義範(今回は、一行ではない)というおじさんが書いていた。
”家業を盛り立てる”と書いて正しいつもりでいたら、校閲の人に、”家業を守り立てる”が正しいのだと指摘されて赤面した...

この文章の前に、一文ある。
”私は作家であるくせに、字をよくまちがえる人間なのだ”

テレビの画面に映し出された、皺くちゃのばあさん。
”あたしゃ、学が無いから、難しいことは言えませんが....”
何かの式典で、親族(遺族?)代表みたいな状況だったと思う。
朴訥とした雰囲気は、悪くは無かったが、敢えて、あの冒頭の文言を喋ったあたり、かなりの芸達者と見た。
あんな演芸会は、あんまりいいもんじゃない。
学歴は無くとも、学問はあって良い。
そんな言葉が脳裏を過ぎった。

年寄りと子供とを、政治的なこととか、商売とかに利用して欲しくないのである。
そして、年寄りと子供との側でも、何となく利用されて喜んで欲しくないのである。
普段は、子供は喧しくて嫌いだなんて言っているくせに、子供を数人集めて、ポスターなんぞを作る。
書かれたコピーは、”子供たちに、豊かな明日を”
こんな事を言う政治家が多い。
このスローガンは、何も内容が無い。
ゴミの量の”豊かな”様子でも思い浮かべているのか...

”家業を守り立てる”という姿勢は、現代でも評価されるのだろうか。
伝統を、世襲で維持・継続していくというのは、どうも違うんじゃないかと思っていた。
しかし、他に方法が無いんじゃないのかと、この頃感じるのである。
同世代である各業種の技術者たちと話をすると、みんな自信がないのである。
意外にも(当然ながらと同義)農業の技術者(経営者)だけが生き生きしている。
雇用されている人々は、大きな企業の人ほど元気が無い。
技術の追求なんていう遊びに、付き合う余裕が会社にないのだそうである。

稼業 なら 盛り立てる で宜しいのでしょうか。

2000/08/23

文責:い 90点

No.226

素朴な不満。

ローカルな話題であるが、君津中央病院(註)の国道からの坂道の入り口に、看板スペースがある。
五つ六つの看板の内、四つまでが、葬儀場のものなのである。
穿った見方をすれば、誠に便益を感じる方もいらっしゃるのであろう。
看板スペースを所有している人、または、このスペースの広告看板の手配をしている人が、葬儀社に積極的な営業をかけたのではあるまい。

厭なのである。不快なのである。
これは、廻りからの反対を受けて、掲示を止めるという話にするような問題ではないと考える。
葬儀屋さんには、言い分があるのであろうか。お聞きしてみたいものだ。
念のために書いておくが、葬儀屋さんという商売についてどうの、という話ではない。
病院の入り口に、競うような形で葬儀社の看板があるのを見て、その会社の良識を問いたいと感じたということである。

少なくとも私は、この看板の葬儀社名は記憶した。広告効果ありである。
しかし、これら記憶した会社に、依頼をすることはないだろう。
これを称して、”負の宣伝広告効果”という。

構造は違うが、インターネット上の広告にも不快感を感じることがある。
ナビゲーション型というのだろうか、自動的に小さくて新しいウインドウが開いてそこに広告が貼ってあるヤツだ。
これが消しても消してもポッと生まれてくる。
いい加減にしてくれ、と夜中に叫んで、家族を起こしてしまうなんてことがあったら、どうしてくれるんだ。

”負の宣伝広告効果”。
この頭に、もう一つ”負の”と付けて、”負の負の宣伝広告効果”を考えたら、画期的な出来事かもしれない。
恐ろしい世界である。こんな事ばかり考えて暮らしている、この頃である。

(註)近隣四市の出資に基づく、地域一の総合病院のランク付けにある病院である。

2000/08/22

文責:い 90点

No.225

ゴミを捨てる話。”宇宙空間にゴミを捨てる企て”をしよう。
続き(その3)。

地球上には、地球外から、日々様々な物質が飛び込んできているのであるから、地球の目方はどうなっているんだろう。
こんな素朴な疑問はそのままにして、先を急ぐのである。

極端な例ということで、核廃棄物をゴミと認定して、このゴミをどう処分するかを考えよう。
日本国内にあっても、海外のとある国にあっても、大した違いは無い。
ここでいう”違いは無い”とは、地球上の生物に対する悪影響に関してである。イズレニシテモ、最終的に処分できたとは言えないのだ。
地球上にあっても、地球外の宇宙空間にあっても、宇宙空間全体から見れば、違いは無い。
今度ここでいう”違いは無い”とは、存在しちゃったからには、宇宙に存在しちゃっているのだ、という意味である。

一部地域で進められている、非処理の埋蔵などは、兎に角、一箇所に集めておいて、何時か処理技術が進んで何とか処理できるまでは、目を瞑っておくという考えである。
まさか、自然崩壊を待つなどという、恐ろしく遠大な計画ではないだろう。
しかし、現実には、某国の軍事目的製品は、弾薬貯蔵庫で、かなり杜撰な保管方法で放置されていると聞く。予算不足がその理由である。
全ての保管施設は、いずれの日にか、同じような道を進む。

で、何時かは、こういう選択を迫られる。
”宇宙空間にゴミを捨てることにしよう。”
費用は、何とかなる。せざるを得ないことには、止むを得まい。
実行する技術は、とりあえずある。ただし、確実性の問題がある。
人類の夢を載せた地球脱出可能飛行物体は、飛び立つのだ。
失敗は許されないのである。
この模様は、当然全世界に放送される。
多分、現在考え得る最大視聴率番組であろう。全ての人の命が懸かっているのである。

こんな冒険の道を選択しなければならない時期が、必ず訪れる。
もう一つの方法が、あることはある。人間中心に考えればである。
地球を脱出するのである。
これを言い換えれば、人間というもう一つのどうしようもないゴミを、宇宙空間に捨ててしまうことである。
核廃棄物というゴミの処理は、人間以外の生物に委ねるのである。
これも迷惑な話ではある。

今日は、不燃物のゴミ出し日だ。
昨日の内にキツク言われていたのを、忘れるところであった。
こんなものを書き綴っている場合ではない。
ということで、三日に亘るテーマは、現実的なことは何も語らずに終了。

2000/08/21

文責:い 90点

No.224

ゴミを捨てる話。続き。
”宇宙空間にゴミを捨てる企て”をしよう。で、あった。

地球上には、地球外から、日々様々な物質が飛び込んできている。
流星観測をしているときなど、火球が走ってくれると、思わず”ワオー”と叫ぶが、そうも言っていられない出来事も、ままある。
この”まま”は、時間のスケールで言えば、かなりである。

そもそも、地球創生の歴史として、かなり巨大な二つの塊の衝突を起源にしている方がいる。
そこに、夥しい数の、最初の二つに比べれば誠に小さい塊(この程度になると、隕石と呼んで良いらしい)が突入した。
やがて安定した時代(巨大な隕石が突入することのなかった時代)に、生物は、恐竜の全盛期を迎えたのである。

シューメーカー・レビー彗星の木星激突は、記憶に新しい。
あの時は、一個の彗星が分裂して、次々と木星に飛び込んだ。
音は聞こえないはずなのだが、頭の中で、ごーんという音が繰り返された。
そんな馬鹿な、なのだが、そんな感じなのだ。
映像には効果音がつきものである私の世代である。
週刊誌の漫画には、吹き出し無しで、効果音を書き込んであるのだ。
従って、頭の中で音を発生させる技は、誰もが持ち合わせているのである。

話を戻そう。
恐竜の絶滅は、巨大隕石の地球突入が原因であるという説は有力である。
直接恐竜に当って死滅させた、などということはない。
勿論、食物連鎖を通じての恐竜の絶滅である。

もう少し小さな物質の話。
そして、かなり信憑性の薄い話。
ヨーロッパでは、大きな彗星の見えた翌年に、伝染性の病気が大流行して、大勢の死者を出している。幾度となくである。
地球生物の彗星起源説は、既に紹介した。
この説の場合の彗星は、隕石と言った方が良いかもしれない。地球に衝突したと考えているようであるからだ。

とまあ、ここまでで、地球上には、地球外から、日々様々な物質が飛び込んできている、という話が続いた。

”宇宙空間にゴミを捨てる企て”をしよう。は、またまた、続く、である。
連続物は、疲れます。
ネタ探しは、いらないのだけれど...

2000/08/20

文責:い 80点

No.223

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

ホーキングは言った。

未来からの観光ツアー客が、未だかつて確認されたことは無い。
従って、タイムマシンは作る事が出来ない。

 

未来永劫人類によって発明されることは無いだろう、と言っているのであり、人類が、未来永劫に渡って存在していることを、保証はしていない。

2000/08/19

文責:い 90点

No.222

ゴミを捨てる話。

”宇宙空間にゴミを捨てる企て”をしよう。
現在のゴミ問題は、本質的に何処にあるのだろうか。
ゴミの定義が曖昧なのである。

先日、軽井沢町で何日かを過ごした。
選別してゴミ箱に入れるのであるが、このゴミ箱の種類は、5分類であった。
ペットボトルは、その中の一分類なのであるが、ラベルは剥がして燃えるゴミに分類したゴミ箱に入れろなどという、はっきり言って”ほんとかよ”という(もしかすると常識?)状況であった。

こうなると、製造業者は、製品の設計段階から、廃棄を考慮せざるを得ないであろう。
ゴミを意識した商品でないと売れない。

目薬に、目薬の成分としては有害な薬品を混入させる(未遂か?)ということを示唆した脅迫が、複数の製薬会社になされた。
物質混入自体も犯罪である。そして、脅迫も無論犯罪である。
製造販売会社の自主回収による損害、あるいは、負の広告宣伝効果による損害は、申し訳ないが、ここでは触れない。
目薬購入者の直接の被害は、今のところ聞いていない。

そのうちの一社は、本体のパッケージで物質混入を防ぐことができると判断した。
そもそも、この外箱内の包装は、この種の犯罪に対応して考案された感じがする。
この推察が正しければ、犯罪を防ぐためにコストが生じたことになる。
製造コストの増大は、資源の無駄使いである。金額の問題ではない。

実際の使用に全く必要の無い所への資源の配分は、回避する努力をしなければならない。
ゴミ問題から見ても、非常に悪質な犯罪である。

ここまでも、例によって脈略が無いが、”宇宙空間にゴミを捨てる企て”に辿り着かずに、本日これまで。

2000/08/18

文責:い 80点

No.221

地球上で、生命が発生する確率を計算した人がいる。
イギリスの天文学者ホイルである。

分子の配列が生命を生じさせるほどに絶妙になる確率は、100億年という歳月を費やしても、どんな下等な生物(構造が極めてシンプルという意味である)すら創ることが出来ないほどに小さい。
期間としての100億年は、ビッグバン以来の宇宙の年齢である。

現在見つかっている生命の化石は、35億年前の細菌の化石である。
すると、期間は、65億年間に縮小しなければならない。
更に、地球そのもののが50億年前に誕生したのであるから、15億年間にまで短い期間になってしまう。
従って、ホイルの結論。
地球上には生命は発生しなかった。

計算の方法は、存じ上げないが、こんな馬鹿なことがあってたまるか、と思う。
事実、地球上には、我々を含めて、多くの生物が存在しているではないか。
皆さんの中で、そう思った人は、正常だと思うのだけれども、いささか軽薄である。
彼の説は、
地球の生命は、地球で生まれたのではない。彗星で生まれたのだ。
というものであったからだ。

この話を読んでいて、考えたのである。
”計算の方法は、存じ上げない”と書いたが、この計算過程は、延々と披瀝された筈である。
そして、結論”地球上には生命は発生しなかった”で終わっていたら、彼の名前は残らなかったろう。
名前が残ろうが残るまいが、私は、計算過程を拝見することは無い、と断言できるが、幸いにして、計算過程を端折って結論を知った。

何か得るものがあったかといえば、あったのである。
ホイルが、この結論と説とを出すに至った順序についてである。
”彗星で生まれた”という自分の説が閃いてから、そのために必要であったのでこの結論が導かれたのか。
”地球上には生命は発生しなかった”というから、”彗星で生まれた”という自分の説を考え出したのか。

会議には、予めの結論が必要なのか。
会議とは、多数決の場なのか。

2000/08/17

文責:い 70点

No.220

水分補給について。

夏休みの生活がどんなだったかを振り返ってみた。
小学生の頃のことである。

夏休みに限ったことではないが、通常の生活において、所謂長距離を走るという事態はあるのだろうか。
瞬間的に(20〜30m)ダッシュすることはある。
道路を無理やり渡るとか、神社の階段を駆け上がる、草野球での走者としての走塁、鬼ごっこなどの遊びの中、水飲み場への早期到達目的走りなどである。
これらは全て、走ること自体を目的にしていない。

ある程度の距離を走る時には、ラリー形式だった。
つまり、出発点とゴール地点が同じ場所にある。走ること自体を目的にしていたような気がする。
遊びの中で、上級生に命令されて走らされるのである。
クラブ活動ではないことを、念のため書いておく。
どんな言葉でお調子に載せられたのかは憶えていないが、どう考えても面白い遊びとは言えまい。それを夏休みにもやっていた。

炎天下にでも、同じ距離の走りを2本3本と休みを入れながら続ける。
で、思い出すのは、この休憩時にさえ、水分摂取を認めなかったことである。
曰く、”水飲んで走ると、腹が痛くなるぞ”である。
こちらとしては飲みたいものだから、顔や頭に水をかけて涼を得る振りをしてごっくんとやる。
そして走り出すと、腹が痛くなるのである。

水を飲んだという引け目があるのだ。
飲みたい、でも飲んだら腹が痛くなるという。しかし、飲みたい、飲んで腹が痛くなってもかまいやしない。飲んじまえ。
こんな感じで飲んだのである。
腹が痛くならないと良いな、と強く念じているのである。これしか考えていないと言っても良い状態だ。
精神から来る腹痛。ありそうでしょう。

こうなると、
”水飲んで走ると、腹が痛くなるぞ”
という言い伝えは、新たな実証例を付け加えて、更に確固たるものとなる。

曰く、”水飲んで走ると、必ず腹が痛くなるぞ。この間〇〇チャンを見ただろ”である。

2000/08/16

文責:い 気合最低点

No.219

ははは。
笑って誤魔化す、であります。

8/13と昨日(8/15)の本稿は、UPに失敗していたのであります。
単純なミスであるが、複雑な背景を持っている。
極めて私個人に属する欠陥により、こういう事態を引き起こした。
遺憾であります。

本日は、謹慎処分により、お詫びのみを持ちまして、脱稿であります。
原因究明に全力を挙げて取り組みます。

敗戦の日に、こんな事態を引き起こしたのは、気合重視の私として、誠に面目ない次第でありました。

不謹慎ながら、小手先の繕い。
真夏の夜の夢であって欲しい、と思ったのである。

2000/08/15

文責:い 80点

No.218

さて、追分最終日を迎えてしまった。三日間では、あまりに短い。

一日いちにち、イメージトレーニングでは、あれもこれもすることができるのである。
しかし、何もしない一日を過ごしたいのである。
何もしないといっても、飯を食いたいし、昼寝もしたいし、卓球だってラグビー(一人遊びである。とほほ...)だってしたいのである。
飯を食うには、支度をせねばならぬ。

こういう書き方をすると、飯の支度は億劫である、と考えているかのような誤解を発生させる可能性があるので、断わっておく。
何が楽しいって言って、飯の支度を、大勢でかつ屋外で行うのが楽しいのである。

火を起こす。
メニューに対する明確な作業手順を説明し、各人に作業を振り分ける。
等々。
巧みに処理をして、回りから誉められる。
嬉しいものである。
胸を張って、かつ、雄弁になる。至高の瞬間だ。
賞賛は、人間を成長させる。付き合いのある人物、子供は勿論大人もである、大いに賞賛すべし。
険悪な関係は生まれるモノが何も無い。
賞賛は、険悪を妨げる。
繰り返す。大いに賞賛すべし。利害なぞ考えるな。

逆の事態もあるのは、ご案内のとおり。
失敗して皆に詫びを入れる。
これは、ちと寂しい話であるが、この時に、その持てる人格全てを取り纏め、て許しを得るべく行動する。
皆仲間なのである。が、そこには秩序形成(一種の命令系統図の形成。ただし固定的ではない。一瞬にして立場の入れ替えが行われたりする)が必要である。
失敗して、それを繕うのは当然である。
しかし、小手先の誤魔化しは、概ね顰蹙をカッテ、恥の上塗りだ。
誠意をもって、詫び、そして、次善の結果を求めて行動するべきだ。

今回のような集まりでは、失敗するほうが、より楽しいという場合が、ママある。
そもそも、成功・失敗の基準は何処にあるのかは解からない。

今日寝食を供にしている中に、子供は五人いる。皆女の子である。
本人たちがどう感じているのかは解からないが、集団生活は巧い。
大人の世界と違って、我儘は即座に仲間はずれである。
こんなにも厳しい掟の集団は、我々にはとても生きていけない世界に見て取れる。
子供、恐るべし。

付け加えれば、主張は、はっきりとしているのである。我儘とは別の概念であると、再認識した次第。
他人を精神的に傷つけないように行動できるや否や、これが要諦である。

2000/08/14

文責:い 70点

No.217

追分である。
信濃追分である。
軽井沢に行くといって出て来たのである。
全国に、追分は数あれど、我が家にとっての追分は此処である。他は知らないという事情もある。

菅平にて、ラグビーの合宿練習の視察(?)を経て、入ってきたのである。
今シーズンは、ちょっと楽しみだ。
今回も、有料道路は、碓氷バイパスのみである。
故あって、16号ー17号ー18号というルートを変更して、16−14−環七−17−18と進んだ。距離はほとんど同じである

ラジオの交通情報を聞くと、有料道路の混雑具合を伝えていた。
混め、の願いは天に通じた模様である。
しかし、雨は想定していなかったのである。台風は、それ以上に想定していなかったのである。
嫌な天候は、誰かの所為にする必要がある。
ここで登場するのが、学生時代からの友人、及びその細君である。

そう、今回の行事は、三家族の合同避暑(ちと違う趣ではある)、総勢11名の擬似キャンプだ。
昨年は、玄倉川事故の数キロ離れた地点でのキャンプであった。参加者は同じ、従って、今回は全員一つずつ歳をとったのである。
親は、一年の違いを見つけるのには、かなりの時間がかかるのであるが、子供たちのそれは、一瞬にして顕著である。
とはいえ、それぞれの子供たちの根本になる性格や考え方の志向性は変化していない。
好ましい限りである。願わくば、全員このままの素直さで育って欲しい。

書きたいのは、これだけである

大人たちは、充分に楽しめばよい。そして、子供たちは、こんな親たちの姿を見ていてくれれば良い。
素晴らしい親から、素晴らしい子供が育ちあがる。
ハチャメチャな親から、素晴らしい子供が育ちあがる。反面教師である。
後者の例は、多々あるのである。
期待しておこう。
ただ、注意しておくのは、多勢の他人の中で生活していくのだという姿勢だけは忘れないで生きていくことを教えておきたい。
簡単にいえば、他人との接点を持たない独り善がりの大人にはなるな、ということである。

台風は芳しい方向に逸れた。
涼しい。

2000/08/13

文責:い 40点

No.216

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

台風の予想進路を見る。
こっちに来るなと思う。
(こっちに来るだろうな、と思う。)
(こっちには来てはいけない、と思う。)
後者の意味での話である。

他人の地域に向かって行け、と願うのである。
許されないんじゃないの。

台風9号様へ
お願いですから、関東甲信越以外の地域にのみ影響を与えてください。

今日は、こんなことを考えているのである。
恥ずかしい限りである。

2000/08/12

文責:い 60点

No.215

犬も歩けば棒に当たる。

元々の意味はどちらなのか。
〇1.でしゃばると、災いに出会うものである。
〇2.何の目的もなしにでも、(家に閉じこもらずに)表を歩いていると、時として思わぬ幸運に出会う。
ある辞書では、この順に掲載されている。

私は、”全然大丈夫”という使用法は、馴染まない時代の人間である。
1.の意味は、この辞書を紐解いて初めて知った。
何とかも鳴かずば...と同義である、と言いたいのだろう。
しかし、いろはカルタというのは、そんなに穿った考えが含まれているものであったという記憶も無い。
2.で良いじゃないか。

ごく稀に、電車に乗ると、吊広告で時間を忘れる。
あの情報量は凄まじい。毎日通勤通学の人々は、夥しい量の新知識を仕入れているのであろう。
私が、車内できょろきょろしていても、乗りなれた(!)人々は、それぞれ吊広告など無いモノのように振舞う。瞬時に情報を仕入れる仕組みが、出来上がっているに違いない。

習慣による技術の獲得である。
私にしても、テレビはつけっ放しで仕事をしている。
何がキーワードで注目するようになるのかは思い当たらないが、自分の興味ある事柄が始まると、注視する。
不思議なものだ。番組表で確認してチャンネルを選択しているでもないのに、突然、ピンと頭のどこかを刺激する。

夏休み真っ只中。
いつもと違う境遇に自分を置いた皆さんは、どんな発見をするのだろうか。

2000/08/11

文責:い 80点

No.214

お盆は、休みにしようではないか。

官公庁は、休みではない。
事業法人にしても、交替で休みにするなどして、営業窓口を閉じてしまうところは少ないようだ。
しかし、実態は、帰省ラッシュや行楽ラッシュが物語るように、多くの人が夏休みにしている。例年、金融機関の店頭に行っても、人影はまばらである。

休みにしようではないか、と書いたのは、休みにしたいからではない。
実態が休みだろうということを、指摘したまでである。
市町村の建設工事の入札について、疑問があるのである。
談合がどうのとかではない。

小規模工事の指名入札の場合、通常、入札案内は、入札日の7−14日くらい前に、”希望があれば、入札に参加してください”と通知される。
そして、図面と見積もり項目の明細が渡される。
フルッテイルノハ、図面と見積もり項目の明細に齟齬があっても、これらの書類はあくまでも参考であるとの見解を表明してあり、つじつまが合わない事についての責任は避けてある。

通常、この図面と見積もり項目の明細は、設計事務所が、設計に関する入札で受注して作成したものである。
設計事務所には、設計業務に対価を支払っているのである。責任を持たせるべきである。

一度、設計事務所と建設会社とが、争えばよいと思うのであるが、妙な力関係があって、そんな話は聞かない。官庁が困るのであろう。
担当者が、小手先で設計図書に変更を加えているからであろう。

で、何が言いたいのか。
お盆の期間を挟んで、入札案内があって、入札があるのである。
この間に、業者は見積もりをして、自社の入札金額を確定するのである。
見積もり担当者は、お盆に休めないではないか。
官庁の担当者は、機関は通常通り7−14日あると言うだろう。往々にして、この担当者は、お盆は休むのである。本人は、お盆前に業務を終わらせたかったのである。
暮れ正月についても同じような話は、いくらでもある。
(工事期間についても同様である。)

こんな馬鹿な話があるか。
この項は、ここまでである。

工事発注には、妙案がある。

今回の工事は、これこれの金額でやっていただきます。工事を請け負いたいと考える事業所は、応募してください。
業者の決定は、くじ引きにて行います。

これで決まりなのである。

参加業者が一社になるように、業者間で調整をしようと思っても無理である。
指名入札にしないで、公募型なのである。
心配なのは、参加業者が一社も出現しない事態である。
この時、担当者はどうするのだろうか。
不調よりも怖いと思う。

2000/08/10

文責:い 90点

No.213

憤ってもショウガナイのである。
しかし、憤ってしまうのである。

毎日の活動を振り返ってみると、ステレオタイプに仕事をこなしている事に気付く。
元々は、この仕事は、かくいう意味があるからこうしているのである、という点を理解して始めたはずなのである。
それが、いつのまにか、こうすることが仕事であるからこうしている、という訳の解からないことになっていく。

工事現場では、何故にヘルメットを被るのか。
個々人が、制服の一部である、という認識になれば定着したのである、と言われる。こうなるまでは、口うるさく注意しなければならないのだそうだ。
非着用が発見され、元受業者から何度かの指摘を受けると、下請け業者は出入り禁止になる。
よって、仕事ができなくなるから、ヘルメットを被れとの通達がなされる。

シートベルトの着用は、”自分自身の身体を守るためである”と言われた。
これだけの理由ならば、非着用の場合の交通違反キップが切られる必要は無い。
適用除外規定も必要無い。妊婦に装着を免除する必要は無いのである。
説明しよう。
妊婦であるという状態は、酒を飲んでいる状態、あるいは、体調不順の状態で運転するのを禁じた条項によって、運転を禁止すべきである。

自動車運転中の死亡事故は、通常多額(障害の場合に比して)の保険金支払いという処理が発生する。そして、概ね全ての場合、損害保険によって賄われる。
死亡より怪我のほうが良いのである。
勿論、本人にとっても芳しいことであろう。
しかし、保険会社のみならず、所謂加害者の立場の人にとっても、芳しいのである。
処罰が決定的に異なるからである。

恐らく、こういった事情のほうが、積極的に要請して出来た規則であろう。
つまり、シートベルトの着用は、”自分自身の身体を守るためである”のでは無いのである。
だから、見ず知らずのシートベルト非装着の運転者を見たら、警察官の出現を待たずに、我々個々人が、その運転者を捕らえるべきなのである。

5台のタクシーがあるときに、5人が並んで待っている。
強面のおっちゃんが来て一番に割り込みをしたとしよう。
この割り込みを認めたとしても、4人目までの人たちは、イズレモ直に乗ることが出来る訳である。
問題は5人目の人である。
当初の5台のタクシーが出払ってしまうと、次には何時になったら来るのか解からないのである。

従って、この問題の5人目の人は、おおいに怒るべきなのである。
勿論怒るべき対象は、一番最初に並んでいた人である。割り込ませた人である。
そう、割り込みをかけられた直接の人間は、それを妨げる義務があるのである。割り込ませてはならないのである。
逆に言えば、自分の後ろに割り込めと、諭すだけでよい。
めいめいが、自分の利益を確保すれば、”神の見えざる手”が調整してくれるのである。結果、割り込みは成立せずに、最後尾に並ばざるを得なくなる。

ところが、任意の一人が、自分の利益を最大化しないと(つまり、割り込みを認めて、自分の順番を一つ遅らせると)その人以降の全ての人の利益を損なうのである。

世の中に暮らす一人ひとりの責任は、かくも重いのである。

2000/08/09

文責:い 70点

No.212

坊主が来た。
蔑称ではない。
もっとも、本人の前では、この呼称は使用しはしない。やや蔑称なのかもしれない。されど、私は、愛着を感じるのである。
通常は、お寺さん、お坊さん、ご前さん(ゴゼンサン)とかを使う。
我が家のお寺の坊主は、8月に入りお盆前になると、檀家廻りをして読経する。

これが、あらかじめ来る日が判っていないで、突然来るのである。
家の中の掃除は当然なのであるが、何故か必ず慌てる。
”坊主が来たぞ!”という具合で、毎度慌てる。そう、お布施の用意で慌てるのである。この慌てることこそが、年中行事なのではないかという有様である。
檀家は皆、地元の人間であり、概ね年寄りがいて、留守にしているお宅は無いのだそうである。

先方にしてみれば、集金を兼ねた読経であるから、そして、短期間に全ての檀家廻りをしなくてはならないのであるから、スケジュール表を発表しておけば良さそうなものである。
が、なにせ一人法人である。葬儀でも入れば、変更になるし、一日にこなす量はなるべく多くしたいのである。
とまれ、この暑い盛りに、夏用とはいえ袈裟懸けでのお勤め、大変有り難い事である。

滅多にこの場面に出くわすことが無かった私であるが、今年は丁度家にいた。
簡単な手提げから出したモノを見て驚かされた。笑ってしまった。
木魚と鐘のミニュチュアセットなのである。
それも、ご丁寧に、一体化しているのである。
更に驚くべきは、このミニュチュア木魚の音量である。

残念ながら、サイズの小さきがゆえに、音程は甲高いのであるが、向こう三軒両隣に至る音量を誇る。
流石に、お隣は山二つ越えた所にあるというほどには辺鄙ではないが、向こう三軒両隣といえば、かなりの範囲である。多分、広報無線のスピーカーよりも、到達距離は長いだろう。

鐘については、取り立てて書くことも無い。
強いて言えば、木魚に固定してある点か。これは、木魚が偉いのかもしれないので、鐘の項で書くと片手落ちになるかもしれない。
どうやって固定してあるのかは、観察しきれなかった。見せてくださいというのは、私をもってしても憚られた。
もう少しお友達になったら、手にとって拝見できるはずである。

来年の楽しみができたわけである。
少なくとも、機能を損なわずに携帯型に作り上げた作品に尊敬、である。
電子機器になっていたら、頭を丸めさせるところであったのである。

2000/08/08

文責:い 70点

No.211

迂闊な話である。

交通ルールを守りましょう。○○市は、交通安全宣言都市です。
石鹸で手を洗いましょう。上手に洗えるよいこの多い××小学校。

こんな標語があると、思ってしまいやしまいか。
この街は、交通違反が少ないのであろう、交通マナーが良いであろうと。そして、この小学校は、衛生に充分配慮されているなどと。

標語が繰り返し唱えられると言うことは、その対象となる行為が、標語とは正反対の状況にあるということの表現なのである。
当たり前に行動され、そんなことは言わなくても良い状況になっていれば、標語を制作して、呼びかけるなんて愚かなことなのである。

標語とか宣言とかをつけた文言は、努力目標なのである。
知らない街に行って、道路を走っているときに、先の”○○市は、交通安全宣言都市です”なんて建て看板があったら、要注意である。くれぐれも油断めさるな。
”上手に洗えるよいこの多い××小学校”とあれば、当然、この子達は、黴菌に耐えられる強靭な体力を身につけたツワモノドモである。
この子達を引率して、キャンプなどに連れて行ったとしても、食中毒の心配など無用な本当に良い子達なのである。

裏読みは楽しい。

武士道とは、死ぬことと見つけたあの方は、即座に実践に及ばなかった。
武士道に悖る自分に腹を立てて、精進に励んだのであろう。
しかし、サムライという言葉のイメージは、意味無くもこの”武士道とは、死ぬことと見つけた”というフレーズに引き回されているような気がする。
この標語が、何を意味しているのか解からない、という意味である。

要するに、なんか楽しいこと無いかなーと口に出して喋ったときの私は、多分楽しいことが無い状態なのである。
初めてであった二人が、おまえとは旨くやっていけそうな予感がした、なんて何年か経って漏らしたときには、その後ろに、だけどダメだった、と付け加えられるときなのである。

2000/08/07

文責:い 80点

No.210

丸山が名人である。
将棋世界を読むまでもなく、木更津出身で、早稲田OB、佐瀬門下の丸山である。
嫌いなタイプではない。

何か変なのである。
少し神がかった話になってしまうのであるが(説明がし辛いという意味である)どうも、菊池寛の”形”なのである。
相撲もしかり。横綱、大関のていたらくを見よ。

高校野球は、強豪校とか常連などと言う言葉を使う。
確かに、ここにはある種権威がある。
年々選手は入れ替わっていく。しかし、監督の果たす役割が大きいのであろうか。
強豪校とか常連などと言うチームには、才能ある子供達が大挙すると聞く。
この種の、特に私立高校では、出身中学の地域を見る限り、各県代表地元のチームという趣は、無いに等しい。

郷土というものに、その地の特色により個人を育む一定の方向性(雪国の人には辛抱強い気質がある、という程度の)を生む力があるとしても、個人はそれを選択したがらない(そして、選択しなくても過ごすことができる)時代になったのであろうか。

集団での戦いと、個人での戦いとの差異があるのだろうか。
個人戦の場合、相手も私も自分の力だけで戦うのである、ということを悟るのに容易なのであろう。

しかし、個人に与えられる称号は、それを失うことに対するペナルティを伴なっているべきなのである。
そもそも、ペナルティなどという言葉を使う事自体がオカシイのだが、要するに、”誇り”という言葉とその意味を、失わせてはならないのである。

名人は、失冠したときには引退するべきなのである。
横綱は、連敗したら休場すべきなのである。そして、その原因が負傷であれば、充分に休場し(何場所になっても良い)、休場明けには連敗しないようにするのである。それでダメだったら、引退なのである。

この覚悟が無い限り、その地位についてはならないのである。
名人戦に当てはめれば、先ず、A級順位戦を勝ち抜いて、名人挑戦者になる。そして、名人戦七番勝負において、三勝した時点で、選択するのである。
私は、名人位を頂戴する資質はありません。よって、今期名人戦七番勝負は、今後欠場します。こう言って、来年も、A級順位戦に参加すればよい。

子供のグランプリ(一等賞争い)ではないのだ。
もちろん、国会議員の首相争奪戦でもない。こちらは、できれば、かくあって欲しいところであるが...

2000/08/06

文責:い 90点

No.209

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

無断掲載であリます。
関係者で、問題があると感じられた方は、一報ください。

と前置きしての批評。

このマーク、何処までが一体化したものであるのかは知らない。
コピーまでを含むのかもしれない。

最近、気に入ったデザインが無かったのであるが、これは一発で気に入ったのである。
私は”競輪”はやらない。勿論、競技としてもやらないし、車券を買うこともしない。

スポーツ競技として、観戦していて面白いのではある。
しかし、競技人口がそれ程多いとは考えられないし、歴史が非常に長いということもなかろう。
自転車競技としては、上記二つの点で上回る他の競技が存在すると思うのである。
オリンピック種目として採用された理由は、何なのであろうか。

2000/08/05

文責:い 60点

No.208

どうしたんだい、ヘヘイヘイ。
今日は、清志郎を聴きながら、将棋の事を書く予定であった。

毎月3日頃に、将棋世界が届く。
でもって、次の日には将棋の事を書こうと思う。しかし書けない事が多い。
だから、今日はRCサクセションの力を借りて、一気に行こう。
ところが、最初に聴いた曲が、
♪こんな夜に君に乗れないなんて。こんな夜に発車できないなんて。
である。

何気なく選んでしまったカセットで、いきなりこの曲では、将棋にならない。
とは言え、別に、指し手について解説するわけではないので、”♪僕の自転車の後ろに乗りナヨ”になった所で、構想を練る。
こんな文章に、構想も何も無かろうとの指摘はごもっともではあるが、どうして、これで毎日呻吟しながら、コウソウなんぞを練っているのである。

シンギンコウソウの最中である。

布石を打つ。
こんな言葉があるが、これは元々囲碁の世界での話である。
従って、”打つ”のである。
将棋では、さしずめ”卑怯な待ち駒を指す”であろう。

博打は”打つ”と言うのである。
単純にこの関連で決め付ければ、囲碁は、賭博なのである。
高尚なことを言ってもしょうがない。

それにしても、博打は問題である。
バクチ。辞書にバクウチの変化とあり。バクとは何か、については不問。
バクチウチは博打打ちと書く。
この手の言葉は、会話ではあまり気にしたことが無かったが、こんなものを書いていると、変換キーを押して出てきた漢字に驚くことがある。

天秤秤(テンビンバカリ)、一人ひとり(ヒトリヒトリ)なんてのは考えさせられる。
更に、指差し確認なんてときは、ユビサシカクニンと入力すると、このように変換されるのであるが(そして、一般的な辞書ではこうなっているが)、違った意味で抵抗がある。
指指し確認ではないかという疑問である。

♪夏が攻めてきて、蒸暑い毎日でも、夕方になると、とても涼しい。
RCサクセション、いいっすね。
今日は、将棋の事を書いたような、書かなかったような...

2000/08/04

文責:い 80点

No.207

近頃、電話番号を尋ねられる機会が多い。
クレジットカード利用の折であるとか、ポイント還元カードの利用の折とかである。

衆人の前で、言葉を発して、その尋ねた係の方に伝えるように求められる。
まあ、簡単に言えば、電話番号を喋りなさい、という訳である。
こういうことには、素直に応じる私ではない。
書くものを寄越せ、という意味で、鉛筆を持ってその筆を走らせるポーズとして、胸の前で腕を揺らす。

大体の場合、係の方は、何をやっているのだという目をして、戸惑っている。
”書くものを貸せ。私の電話番号を、知らない人が大勢いる前で喋るわけにはいかない。”
これは、私が用意した言葉である。
周りの人々も、不思議な顔をして、このやり取りを見ている。

もう随分前になるが、日本テレビの日曜昼の番組に、テレビジョッキーというのがあった。たけし軍団中心でやっていたつい最近までのヤツでなく、土居まさるがやっていた時の事。
視聴者に電話をかける。これが、プッシュフォンで、ピコパコという発信音から呼び出し音まで、全て放送に載っていた。
プッシュフォンは、音階でダイアルするのである。
つまり、電話先の電話番号が、視聴者には解かってしまうのである。

また、笑っていいともでは、こんなことがあった。
タレントに電話するのであるが、その直接の電話機が、前方やや上方から映し出されていたのである。
番号を指でプッシュするところも映し出される。
これで、その電話先のタレントの電話番号が解かってしまったのである。
しばらくしてから、その電話機には覆い物が付けられた。電話機を囲むフェンスのような覆い物である。

私は、有名人ではないし、金満家でもないから、周りの人々の目を、そうは気にする必要は無いのであろう。
であるが、衆人環視のなかで、自分から声を出して自分の電話番号を喋るのは、厭なのである。
馬鹿な係の人だと、折角紙に書いて渡した電話番号を、わざわざ読み上げて確認する。XXX−XXX−XXXXですね、と来たものである。

どうしてくれようぞ。
実際、今日はこの件で店長と二時間も、(抗議の)話し合いをしてしまった。
どうなっているのだ。

2000/08/03

文責:い 80点

No.206

さて、菅平である。
今回は、ダボスの丘は、遠慮してきた。
サッカーの合宿を訪ねたのである。

気温は、30度を越えていたが、湿度は、もう殆ど乾いた状態である。
このために、日差しを避けて、木陰にでも隠れていれば、誠に涼しい。
しかし、日差しの強さ(特に午前中)といったら物凄い。
練習を観ながら、座っていたりして、身体を動かさずに日差しを浴びていると、皮膚がちりちりする。
紫外線は、遮るものが何も無いかのように振舞う。
実際、午後になると、流石に少しは湿度を伴なって空気の透明度が下がるのだろう、ちりちり感が大分減少する。
疲れるのだろうが、歩き廻って、日差しの照りつけるのを受け止める体の部署を変化させ続けてやれば、快適ではある。
むっとした環境が無いというのは、綺麗なところに来ているという気分とともにすがすがしさを盛り上げる。

兎に角、2時間もすれば、露出した皮膚は、真っ赤である。
水に濡らしたタオルをあてると気持ち良い。この気分を味わうために、身体を焼くのも良いものだなどと、呑気なことを言っていると、夜は悲惨である。
部屋は、充分涼しいのに、身体が火照って寝られない。
寝られないという状況を作らないために、身体を焼くときには、充分運動して疲れておくことである。
そして、食欲も減退するほどに、運動しておくのである。

こうなれば、体重は落ちていく。
ただし、蓄えられた栄養は、エネルギー源としての脂肪だけであるから、その他の栄養素は、充分補給してやらねばならぬ。
バランス飲料を、あまり冷やしたりすること無く、何度も何度も充分に摂取するのである。
一週間も続けることができれば、贅肉などとは無縁な、逞しい身体が出来上がることを請け負う。

菅平の良いところは、楽しく飲食をしよう、お金を使った遊びをしようなどという雰囲気が無い(実際、そういった店が極めて少ない)点である。
痩せたい願望の方々を集めて、合宿を張るという企画で、お金儲けをしようかしらん、などと、日常の生活に戻ってから考えてしまった。
結構いけるんじゃないかと思う。
来年あたり、e-ショップで募集をかけようかと考える。奮ってご参加ください。
少しは儲けさせていただきますが、医者なんぞを巻き込んで、企画すれば、効果の程は保証します。
冗談抜きの話である。

お盆時期に、今一度菅平に行く。
今度は、ラグビー合宿の訪問である。
ダボスの丘征服は、その時である。
そして、もう一度行くことができれば、根子岳にアタックしたい。

2000/08/02

文責:い 60点

No.205

ただ今帰りました。
幸いにして、お金は無いが(これは幸いではない)時間は充分あるので、今回は、一般国道を利用して行って来た。

16号を、千葉、野田、春日部と経由して、大宮の手前で17号に。
熊谷、本庄と進み、高崎にて18号に乗る。
碓氷峠は、碓氷バイパス(これは有料である)で越えた。
国道は、16・17・18号と手順に進んだ訳である。
軽井沢に到着して、どちらのルートを使うか迷ったが、運転の楽な上田廻りとした。嬬恋ルートは、大型車に挟まれると面倒である。

丁度300kmである。所要時間は6時間。
木更津南から乗って、館山道・東関道・首都高・関越道・上信越道を利用して、上田菅平から菅平に入る通常のコースでも、5時間弱は要するであろう。
時間お大尽の私としては、もっと極端に所要時間の差がついてくれたほうが、嬉しい気もするが、今回の往復には、いずれも6時間であった。

高速道路を利用したほうが、楽である、という先入観がある。
しかし、渋滞に巻き込まれた場合の高速道路は、楽しみが何も無い。
道路沿いの景観は良くない。
街がどうやって発展してきたのかが見えない。
高速道路の施工には、建設の経済性(と幾許かの政治性)を重視したルートが採用されるので、何かその土地柄といったモノが見えない。

一般国道は、今や、昔の街道(旧国道指定道路)のバイパスを国道指定している場合が多い。が、それでも、国道沿線に、その地の人々の営みが見え隠れする。
コンビニや飲食店のチェーン店が彼処に在り、みんな同じ店構えをしているのが気に入らないが。

菅平は変わっていないようでいて、改めてうろついて見ると随分と変化した。
菅平の話は、改める。

2000/08/01

文責:い 80点

No.204

八月である。
八月といえば、菅平である。
菅平といえば、ダボスの丘である。

ラグビーが寂しい。
平尾は、まだやっている。
パシフィック・リム全敗でも、笑って選手を迎えた監督である。
これは、愛情の無い行為である。
体育系の組織で、何も学んでこなかった輩の行為である。
責任感のひとかけらも無い行為である。

ジャパンの監督の任命権者が、その責任を問われるべきである。
この人が、平尾にお願いして、監督留任という形をとって(再)就任したのである。
スポーツは結果が全てであるという信念で現役・指導者として歩んできた人々が、スポーツは結果が全てではない、という論理を、振り回して責任回避する姿は、醜すぎる。

本日、菅平に行ってくるのであるが、ここには、楽しみが残っている。
平尾が辞めた後に、ジャパンに登ってくるであろう少年たちの、泥を食っている姿が存在するはずなのである。
今や、ラグビー夏合宿のメッカとなっている菅平である。
ダボスの丘に登って、周囲を眺めるだけでも、かなりのコートが目に入ってくる。
ラグビー以外の合宿も多々あるようであるが、この地は、ラグビーで村おこしである。

新しい施設が、昨年竣工していた。残念ながら、去年は訪問する機会に恵まれなかった。
観客スタンドを擁するグラウンドを中心に、確か6つのグラウンドを集めた施設を作ってしまった。
この地の期待は大きい。この意気に感じてみたい。
ある種無駄な施設との指摘もあるようなのである。
これはひとえに、平尾率いるジャパンの不甲斐なさから生じてしまった、ラグビー不人気の賜物である。

イングランドと5回戦うとしよう。
60対40くらいのスコアで5回負ける。こんなチームを目指している。
つまり、120対7なんて負け方はしないよ、と主張する。

ジャパンの目指すべきは、3回は、30対3で負けるが、1回は120対7で負け、残りの1回は24対23で勝つラグビーである。
綿密に練った作戦で、個人のスキルは100%発揮して挑むしかない。
そのためには、精神論的な鍛錬は必須である。
日頃申し上げているように、精神論は嫌いなのであるが、勝負事に関しては、最終的にはこれしかない。
無理、無駄の重要性を認識するしかない。

日常生活では、合理的に生活しよう。
理不尽な行為には、ナニモノに対しても、徹底的に抗議しよう。

それでは、行ってきます。