あっさりメニュー
日刊 鬼ノ胃 本日分はこちら

2000年6月分(6/1〜6/30)

2000/06/30

文責:い 60点

No.172

昨日の引き続き。

第一胃。
採餌時に引き千切って若干噛んだ食物(草)は、まず、ここに送り込まれる。
採餌後には、大量の水を摂取するのだが、この水もここに送られ、草と水とを撹拌する。
ここには、乳酸菌・ケイ光菌・たんぱく質分解菌・その他の共生バクテリアが存在する。
こういった生物の協力(協力しているという意識があるかどうかは知らないが)により、粗繊維を分解する。
この種の共生する原生動物は、数キログラムにも達する。

第二胃。
蜂の巣状の皺があって、その収縮運動で、食物の塊を食道を通して口腔に戻す。
餌を外部から採取すること無しに、口の中でむしゃむしゃやっているのは、この段階である。

第三胃。
今度は、どろどろになった食物が、食道から送られてくる。
ここの仕組みというか、役割は、良く解かっていないようであるが、とにかく、更に細かく食物を砕く。

第四胃。
本来の胃である。
胃液腺から、レニンとかペプシンとかの分泌がなされ、糖化およびたんぱく質の分解が行われる。一部消化吸収される。

と、ここまで長々と、理科の学習を、お付き合いして頂いてきたわけである。
で、何が言いたかったのか、と言うことである。

第一胃のところで記載した。
乳酸菌・ケイ光菌・たんぱく質分解菌・その他の共生バクテリアが存在する。
こういった生物の協力(協力しているという意識があるかどうかは知らないが)により、粗繊維を分解する。
この種の共生する原生動物は、数キログラムにも達する。

牛は、この共生している動物を、動物性たんぱく質の供給源として、つまり、食物として利用してしまうのである。
協力してくれた方々を、食ってしまうのである。
食用の家畜として飼っている動物を、時には、特定の作業に従事させて、そして更に、究極の目的として食ってしまうのである。

恐るべし、牛の生態。
これだけの話であった。

2000/06/29

文責:い 60点

No.171

牛の胃袋は4つある。
何を今更、というなかれ。
今日の文で、新しい知識が仕入れられることを請け合う。

牛とくれば、反芻である。
偶蹄目反芻類とラクダ類のみが採用する独特の方法である。
らくだも反芻するのに、反芻類にラクダ類を入れていないのは、これだけ見ると変であるが、ま、他に理由があるのである...と、思う。

牛は、草食獣である。
食物連鎖の表だけで、牛を弱い動物であると分類するのは、目を剥いた牛の怖さを、幼い頃経験した私には納得がいかないが、とにかく、肉食動物の餌にされる危険性を、常に抱いている。

草を喰らうエリアは、常に一定という訳には行かない。あるところで食う、というスタンスでなければならない訳である。
モノを食っているときは、攻撃に対する備えが非常におろそかになっている時である。
従って、草を喰らうエリアでは、一刻も早く餌を捕食することが肝要である。
子供に対しても”行儀が悪い。そんなにパクツカナイノ。”なんて、叱る事は無い。

で、危険地帯での食事時間は、なるべく減らし、少しでも安全な場所でゆっくり噛み直そうというのが、反芻の安全上の意味であろう。
また、粗繊維の多い草を完全に消化して利用とすれば、反芻を含めた、牛の消化システムは驚くべきシステムである事に気付く。

牛の胃袋は4つある、と書いた。
確かに、第一胃から第四胃までの名称が与えられているのであるが、第一・第二・第三胃は、実は、食道の変化したものである。吸収能力も無ければ、胃液腺も無い(胃液の分泌が無い)。

ちと、調べる必要がある点が出てきたので、以下明日に。

2000/06/28

文責:い 80点

No.170

6/26に書いた本欄は、賛同のメールを思いのほか頂戴した。

が、しかし、である。

初期の個々人のレベルの小さな判断の揺れが、全体では大きなうねりになるというパターンも悪くはないのかな、という気が強く沸いてきた。
これが、選挙のダイナミクスかもしれない。
一人に100の持ち点を与え、51対49という投票をしていたのでは、まどろっこしい時期がある。きっとある。

雪崩のように変革するためには、個々人のレベルで、1か0かの判断をやってしまったほうが良いということだ。
変革というのは、誤解のないようにして置きたいのだが、現在の体制を圧倒的な支持で維持する選択をすることを含む。
健全ではないと考えるが、衆議院選挙なんぞは、最長待っても4年後にはやって来るのである。この時に、再び、大逆転の変革もありうる訳である。

ただし、一度、ある政党が圧倒的多数を持ったと認識したとき、選挙制度の我田引水的な変更で、あからさまに次期も勝ちを狙うような暴挙に出る可能性が残されてしまう。
どう考えても、かつて、新党さきがけを構成していた議員は頭がおかしかった。
自分の党をなくしてしまう可能性の高い選挙制度を、わざわざ提案した。
野党になった自民党も、この時は頭がおかしかったから、こんなに有利な制度に反対したりしていた。

もっとも、選挙制度の変更は、たいした問題ではないのである。
政治家が、自分の信念に沿って、行動してくれるならば、良いのである。
あちらを立てたり、こちらを立てたりと、こんなことばかりに精力を注ぎ込んでいるから、筋が通らなくなってしまうのであり、支持者もまた悪いのである。
教科書の記述のようになってしまったが、良心と理屈に沿った活動を望む。

一つ提案。
国会議員(衆・参プールで)としての地位は、最大年限を決めたほうが良いと思う。その期限を過ぎても、新しい議員の政策担当秘書として、公務員である事は構わないであろう。
どんな組織でも、あんまり長くその地位についている奴がいると、前例のみに囚われるか、全くの無茶苦茶な行動しかとらなくなってしまう。
構成要素を入れ替えるのは、なかなか面白い事態を発現させるものだ。

国会議員は、二期を超えてはならない。
なんてのも、頭で考えていると不安だけれども、やってみりゃ何とかなると思う。
そのくらい荒療治しないと、我々の選択肢は”これら何れでもない”しかなくなってしまう。一般にいう投票率は上がらない。
アガリャ良いってもんでもないと思うんだけどね。

2000/06/27

文責:い 80点

No.169

17年前の三宅島の噴火については、記憶にない。

大島の折には、音として感知できる域よりも低音の波動が、戸障子を振動させた。
あの不気味さといったらなかった。
あくまでも傍観者ではあった。けれども、目に見えない不安は、心理的なものだけではなかったのである。
自分の皮膚、あるいは、五臓六腑にまで、低周波によって、物理的に力が働いた。

実際に存在するのだけれども、人間が感知できないモノがある、という考え方は、正しい。
正しいのだけれど、限定的な正しさに押し込んでおかねばならない。
現在の我々の英知によって作られた、機械によって感知できるモノまでにしておく。(先の例では、戸障子の振動が、感知器具である。)

例えば、五十億光年離れた天体の姿は、見ることができる。
しかし、我々が、日常使うところの意味において、現在のその天体の姿ではない。
五十億光年離れた天体の姿は、五十億年前の姿である。
間違いなく”今”は、形が変化しているし、地球との相対的な位置も変化している。
それでも、我々は、この天体が、そこに存在するという。

これほど遠くない所の出来事は、ややこしい。
例えば、火星探査衛星の存在である。
この衛星と地球間では、単純化のために、電波の到達に1時間を要するとしよう。
火星に追突する10分前(地球時間0:00)に最後の写真を撮影し、即座にそのデータを送信しはじめ、1分後に送信終了したとしよう。
地球において1:01に受信完了。つまり、観たのである。

さて、この写真は、何時何分に撮影したと発表するのだろうか。
念のためだが、この火星探査衛星は0:10に消滅している。

身近な経験でも、これに類するものがあった。
高校時代に、一人能登半島に行った。5泊6日くらいだった。
まあどうでも良いのだが、金大中が連れ去られたときである。
一日を残しての朝に、自宅に宛てて絵葉書を書いて投函。
旅を終えて家にいると、郵便屋さんが来た。
即座に郵便受けを見るのが日常だったので、いつものように取りに行くと、自分の出した絵葉書であった。
説明しづらいけども、不思議な感じがした。

かつて、写真(映像)は、何物にも変えがたい証拠と言われた。
ネッシーは存在するかもしれないと、世界規模で多くの人に思わせた有力な証拠は、皆さんご存知のあの写真だろう。
存在しないと言う決定的な理由は、もちろんない。

私は、”あの写真は画像処理が施されていると考える派”である。
宣言しても始まらないが、そうなのである。

CGの世界の発展は望ましいのだろうけども、ある種、画像の改竄が容易になっているという現実がある。
画像処理は、悪ではない。でも、写真の持つ魔力は強大である。
規制は考えたくない。
だけれども、報道写真に関してのみで良いから、何か巧い改竄有無の識別方法はないものだろうか。

2000/06/26

文責:い  60点

No.168

正直なところ、全く政策の主張が聴こえてこない選挙であった。

そういう意味で、現在の政府の信任選挙であったと結論すべき選挙だったのであろう。
個々人のレベルで考えれば、悲喜こもごもであろうが、総じて、勝ち負けのない結果である。国民は、健全である。
投票率も、ある種の人々が予想したようには伸びず、これもまた、国民の健全さの証明といえよう。

妙な流れで、地すべり的に票が偏らなかったのは、好ましい。
しかし、選挙をやるたびに思うのであるが、矢張り、選挙制度の改良はますます重要性を増しているの感がする。
今の選挙制度で、今回のように、巧く健全さが保たれたのは、非常にラッキーだったと言わざるを得ない。

未だに、投票箱はないだろうに。
デジタル投票にすることで、解決できる仕組みも多々ある。
投票終了とともに、即座に結果が判明する、というのは、もちろん良いことであろう。
しかし、もっと重要なことがある。

複数投票というか、曖昧な投票というかの手法である。
一人一人に100ポイントくらいの投票コインを持たせるのである。
現在のシステムでは、A・B二つの政党のいづれかを選ばねばならない。1か0かである。
私は、そんなに偏った好みではない。
A政党に51、B政党に49くらいのウエイトで投票したい時があるのである。
今の若い人(一般にである、本当は年齢を問わないような気がする)は、これができないから、つまり、ある特定の人間を、あるいは党を選ばなくてはいけないから、選挙に行かないのである。

こんなことが可能な時代である事は、明らかである。
どうしても自分の名前を書いてもらいたい政治家が多いと聞くが、そんなこだわりをしているようでは、お席がないとお思い下さい。

2000/06/25

文責:い  60点

No.167

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

ユリ・ゲラーをはじめて見た時の事。

今では”スプーン曲げ”が、ある種の能力の代名詞になっている。
でも、確かアレは、フォークだったと記憶していた。

先日、何かの番組を観ていると、それを指摘している女性がいた。
やはりそうだったのでありました。

このブームのとき、少年が現れたりして、やたらに手に持ったスプーンを放り投げていた。理由は知りませんが。
こんな背景があって、刺さる危険の無いスプーンにしたのではないだろうか。

イスラエル(ユリ・ゲラーの出生国、これも覚束ない記憶)では、この種の能力の代名詞として、どちらを使っているのだろうか。スプーンorフォーク。

2000/06/24

文責:い  90点

No.166

宝塚は、組制を施いている。
月組・花組からはじまり雪組、星組と続いた。
各組のトップスターは、内部では”組長”と呼ぶ。
歴史的にそうなんだから、外部の者が不自然に思おうがそうなのである。
第一、理屈に合っている。組の長だから、組長。

衆議院議員を”代議士”と呼び、参議院議員をこの名称で呼ぶことはない。
かつての憲法の下では、二院制を施いていた。貴族院と衆議院である。
このうち、貴族院は、国民の選挙で選出された議員の集まりではなかった。
衆議院だけが、現在の選挙システムと比して、投票権者に制約があったりするも、国民の選挙で選出された議員の集まりであった。
よって”代議員”であるという意味で、代議士。
現行憲法下にも衆議院の名称は残り、これに所属する議員は”代議士”であり、もう一方の参議院に所属する議員は、この意味で代議士ではないので、「”代議士"ではない”代議員”」とは呼ばずに、参議院議員と言う。
これも、理屈に合っている。

かつて、社会党などは、党首を委員長と称した。何故かは知らない。
自民党は、今でも、党首を総裁と称する。何故かは知らない。
大部分(全てではないという意)の銀行は、社長を頭取と称する。それでも”会長職”は会長と称する。何故かは知らない。
それぞれ歴史があるのだろうが、理屈に合っていなそうである。

内閣は、その首長を内閣総理大臣と称する。
例えば、外務大臣は外務の大臣であるから、内閣総理大臣は内閣総理の大臣である。
首相という名称だと解かり易い。
例えば、外務大臣は外務相とも称するから、”相”は”大臣”の意味であるとする。従って、首相は、大臣の首長である。
この”長”が他の組織と異なるのは、先ず”長”が発生して、後にその構成員が出現する点である。
理屈に合っていないといえそうである。
”長”の話はここまで。

大臣・政務次官の給与体系は、どうなっているのだろうか。
国会議員でない人もいる。議員の人と体系が違うのだろうか。
こういうのをネット上で公開してくれると助かるのだ。紙では、時間とお金がかかりすぎる。

官に属する情報は、全て公開する。
かつては、具体的に公開しようとすると、非常にお金がかかったりして無理だ、となった。
これを隠れ蓑にして、公開を部分に限ってきた。
いまや、職員一人ひとりの旅費精算書まで、サーバに保存できるはずだ。
国民による、官の不正管理システムは、情報公開で即座に完成する。

大手新聞社の情報公開も、併せて希望する。
ここが率先してやって、その上で、官の情報公開を”報道”の名の下に迫る。良い筋書きでありましょう。

2000/06/23

文責:い  80点

No.165

相転移(そうてんい)のこと。

水は液体であり、氷は固体である。水蒸気は気体である。
念のためであるが、湯気は、液体である。

これら三者を表現するのに、大きな酸素原子一つに小さな水素原子を両側に耳のようにくつけて、H2Oなんぞという記号を使う。
2O。これだけ見ても、水なのか氷なのか、はたまた水蒸気なのかは、一向に解からない。

半月ほど前に、関東では雹が降った。
ここのところ、梅雨とか言って、やたら雨がちな日が続いた。
雹も雨も、大雑把に言えばH2Oである。
科学の世界で、厳密さを得たいがために、H2Oという表現をしたはずである。なのに、この表現方法では、雹か雨かも解からないのである。

我々の日常生活において、雹が降ったら大騒ぎである。
私は、保険屋さんではないので、どのくらい損をするのかという心配は要らない。待てよ、割れたガラスの掃除くらいは、自分でやらねばなるまいから、やはり損得に影響ありである。

真夏の炎天下でのトレーニングが終了した直後の、ラグビー部の新人君に、”さあ喉が渇いたろう。この水を飲みたまえ。”
と言って、差し出した手に、500gの水蒸気の入った容器を手渡ししたら、どうだろう。
たとえあなたが、彼の倶楽部の大先輩であっても、蹴りの一つくらいは入れられる覚悟が必要である。

さて、今日も選挙に関して一言。面白い論理。矛盾とも言う。

当選経験のある候補者は言う。衆議院議員としての実績が大事です。と。
あなたは、初めて当選したときには、そんなものは何も無かった筈だ。あの当選は、無意味だったのか。

初めて出馬する候補者は言う。とにかく新しい風が必要です。古い体質は中身を替えねば変わらない。と。
あなたは、当選しても今回限りでお辞めになるのですね。

争点が異なるだけなのである(争点異、そうてんい)。
中身は一緒と、敢えて言っておきましょう。

2000/06/22

文責:い  80点

No.164

巷間よく言われる。

創造主は、テクニ−クが未熟であった。
全ての人間の顔を、同一に創り上げるのに失敗した。

創造主は、素晴らしいテクニ−クを持っている。
全ての人間の顔を、創り別けた。

どちらの意見に賛同しますか。

カウフマンは言う。

”まず受精卵がある。
で、それが開いていくと、秩序だった新生児や成体になる。
何故か一個の卵細胞が、ニューロン、筋肉細胞、肝臓細胞など、数百種類の細胞に分裂・分化していく。しかも驚くほどの正確さで。
不思議なのは、時折悲劇的な先天的欠損が起きることではなく、ほとんどの新生児が完全無欠な形で生まれることだ。
これは、生物学におけるもっとも美しい神秘の一つだ。”
と。

同じ事柄を言っているとしか思えないのだが、随分と違った感想が残るものである。

私が”右”と言ったとき、私が伝えたい内容は、多分、あなたが考えた内容と同じである。
しかし、私が”赤い色”と言ったとき、私が伝えたい内容は、多分、あなたが考えた内容と異なる。
RGBで表現すれば、R100G0B0とR85G2B0との違い、YMCで表現すれば、Y100M100C0とY95M95C0との違いは、明らかに違うのだ(私には、どっちも同じに見えますが...)。

実は、政党あるいは候補者の公約が、解からないのである。
もしかすると、政治を志している人々は、私とは言語が異なるのではないかと考えるのである。

かつて掲げた"公約”は、どうなったのか。
これは、達成した、あれは、未達成である、という報告は必要ないのであろうか。
どの政党も、全て達成したと言っているみたいなのである。
異なる政党間で、反対の内容の公約があったはずなのに、である。
あの方たちの言語では、それで正しいらしいのである

私の使っている言語で、この報告会を、テレビ番組としてやって貰えないだろうか。今回の公約はともかくとして。
前回選挙では、政党が存在しなかった党は、検査人として登場願いましょう。
まず、かつての反省から出発しようではないか。

”有権者が政治に参加できるのは、選挙時のみである。だから、投票所に行って、今回こそしっかり選ぼう”とのコメンテイターの発言が気になる。
冗談じゃナイ。政治が市民から離れた場所で存在するわけがない。
ましてや、私個人の趣味はともかく、投票に行かないという行動だって、立派な政治行動である。

2000/06/21

文責:い  90点

No.163

久しぶりに、翻訳ものを読んだ。
新潮文庫で、重さが、520gもあった。仰向けに寝転がって読んでいたら、腕がウェイトトレーニング後状態になった。
読書で運動、一石二鳥である。
腹筋を鍛える読書法があったら、ご伝授ください。
ハウツー本の出版で一儲けである。

風が吹くと桶屋が儲かる。
技術の革新により、これを進化と呼ぶのだろうが、あるものは発展し、別のあるものは絶滅するという事態が発生する。

自動車の登場は、馬車に取って代わった。
馬がいなくなる。蹄鉄屋がいなくなる。水飲み場が町から消える。馬の手入れをする人もいらなくなる。
馬に依存していた技術者は、消えていくのである。

逆に、ガソリンスタンドが出来上がる。
本当は、馬車でも必要だったかとも考えられるが、馬車では、台数の増加が需要に太刀打ちできなかったと考えたほうが自然なので、思いつくままに、新しいモノやサービスを列記する。
交通信号、交通警官、ファーストフードのドライブスルー、F1協競技、モーテル、高速道路、整備工場、立体駐車場。

近頃、ガソリンスタンドの廃業跡が目立つ。
一部のスタンドに集約されているのかもしれないが、絶対数は確実に減少している。
規制緩和の恩恵(?)により、数年前に、コンビニ併設とか、マンション階下での営業とかのために、多くが作り直されたばかりだった筈である。

アルコール系の燃料で、ガソリンに代替できる商品が出現した。
NOxのNを含まない、というのが売りである。
しかし、これはあくまでも、現在のガソリン自動車の使用を前提にしている。
環境問題からのアプローチなのである(税制に対する一投石という側面もあるらしいが)。

VHSとベータとのビデオ規格の争いがあった。
ベータのほうが優れているというのが、大方の評論家の見方だったと記憶する。
しかし、ごく初期のことだが、先ず、ほんの少しVHSのほうが売れた。
多分宣伝力の差が、ほんの僅かな差に繋がったのである。
ビデオ(ソフト)販売店は、二つの違った形式での商品を在庫するのを嫌う。
消費者も、勝ち組に乗らないと、折角買ったビデオデッキが粗大ゴミになってしまうことを嫌った。
最初の、ほんの僅かな差が、結局大きな差となった。今や、この争いは、100対0でVHSの勝ちである。
これで本当に良かったのだろうか。

ガソリン自動車の後に来る未来の自動車は、最初のぶれが、宣伝の力ではなく、技術的に優位な、また、将来の技術発展を見渡した技術の賜物が、選択されることを祈る。
ガソリンエンジン自動車より、蒸気エンジン自動車のほうが良かったかもしれない、という論議があるのである。僅かな差で、選択されなかった。

ガソリンスタンドの廃業が、風が吹く前に桶屋が儲かったから、これから風が吹くぞというような、逆転現象である事を祈る。

2000/06/20

文責:い  80点

No.162

ちょっと昨日の続き。

”葉隠”にある鍋島直茂の言葉。
  人間には、上・中・下の三通りの人間がある。
  上は、自分以外の人の優れた助言を、自分の考えを纏める上で、肥料に  する。
  中は、他人の助言を素直に受け入れる。ある種自分で考えることを放棄  している。
  下は、自分以外の人から、いかに優れた助言を得ても、全く無視してしま  う。

  信頼できる相手を、警戒して退ける人は馬鹿である。
  逆に、警戒して退けるべき相手を、信頼してしまう人も馬鹿である。

なかなか面白い。
自分に近づいてくる人で、当りの良い言葉を喋ってくれる人は、受け入れがちである。
しかし、本当に必要な人とは、むしろ、うっとおしいと思える人なのである。言葉が耳障りであるが。

次は、さすが、武士道とは、死ぬことと見つけたモデル人である。
  ある時期がくれば、家は滅びる。
  時に、滅ぶまいと頑張りがちであるが、かえって、醜く滅ぶ。
  滅ぶべき時期がきたと思ったなら、潔く滅びるべきである。

”滅ぶべき時期がきた”と思い至ることができる位の人間が居れば、家も滅ぶまい。
昨今の、上場企業倒産劇を見ていると、潔さという側面からはダメです。
リストラを、ヒト切りと考えている企業も同じであろう。

鍋島直茂は、主人の佐賀の竜造寺家を、ありていに言って、乗っ取った武将であり、この事実を正当化するがために、言行録を残した。
その鍋島家の倫理書が”葉隠”であり、直茂言行録の集大成である。

こんな風に読めば、穿った読書ができる。
またタノシカラズヤである。

2000/06/19

文責:い  80点

No.161

最近のTVCMでのお気に入り。

四人ばかり部下を連れた上司が、廊下を歩きながら、
”最近は、イエスマンばかりで....”
一番尻尾にいた女の部下が、
”お言葉ですが...”
上司、
”口答えするな...”
こりゃ、”何故だー”とナリマスはな。

ワンマン社長と思われる輩は、自分で知っているのである。
だから、皆の意見を充分に聴いていると、外に向かって言いたいのである。
多分、賢くないのである。
今日まで、自分の考えで、何とか巧く会社を運営してきたのである。ゆえに、明日からも、巧く運営される筈なのである。こんな考えが、支配している。

それで良い。
悪いことは他人の所為であり、良きことは全て自分のおかげなのである。
奈落の底へ落ちていってもらって良いのである。

島左近。石田三成の中途採用軍師である。
関が原にて戦死。
筒井順慶・定次親子に仕えたが、定次への多々の諫言により、主人が腹を立てるので、見限って放浪していた。軍師として一流の名声在りである。
三成の採用条件は、三成の給与(秀吉から与えられた、当時3万石)の半分であった。

つまり、1万5千石である。
10万石になれば、5万石という風に、生涯半分を与えた。
ただし、あくまでも主従関係なのである。
秀吉が、自分の直参として召し抱えたいがために、三成に対して言った。
”島に半分与えていたのでは、お前の収入では、他事に廻せる金が無い。だから、俺が直接召抱えてやる。その上で、お前専属で使ってはどうだ。”

この時の三成の返事。
”私は、経営の才能は多少ある。
しかし、戦の才能が劣る。まだまだ戦争は続くのであるから、戦でも役に立たなければ面目ない。
この自分に無い部分を補うために召抱えたのである。
この趣旨からすれば、島は、自分の直参でなければならない。”

秀吉は、未練がましくも、ここが彼の賢いところであるが(ずるくないという意味である)、
”本人の気持ちを聞いても良いか?”
三成に対し尋ねた。

ここは、三成の真骨頂なのである。
”島が、秀吉様に仕えることに同意したならば、私は島を斬ります。”
この時代は、潔い話は沢山あるが、この言葉ほど、部下が上司に対して、きっぱりと言った話はそう多くあるまい。

この件について、秀吉と三成はその後二度と触れなかった。
秀吉は、エライ。
三成に対する世間の評価は、どうも不当に低いような気がする。
この逸話だけで、この結論も無いか。ま、そんなところである。

2000/06/18

文責:い  70点

No.160

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

東京裁判におけるA級B級戦犯が収容された巣鴨プリズンの跡地に建ったのが、サンシャイン60である。現在地名は豊島区東池袋三丁目。

明治28年 北豊島郡巣鴨村に警視庁監獄巣鴨支所ができる。

大正11年 巣鴨刑務所に改称。翌12年関東大震災にて建物大破。

昭和12年 新しい建物となり、東京拘置所に改称。それまでの、既決囚収容所から、未決囚収容所となる。つまり、刑務所ではない。

昭和20年 米軍に接収され、巣鴨プリズンと称された。
戦犯死刑囚60名処刑。五つの絞首台による。以後、この施設による死刑執行は無い。

昭和33年 米軍より返還。東京拘置所復活。五つの絞首台は存在。

昭和46年 東京拘置所が小菅に移転するのに伴ない取り壊し。

昭和53年 サンシャイン60竣工。

当時日本一高い(240m)超高層ビルも、築後20年を越えている。


地上五階地下一階の鉄筋コンクリート造、大谷石とレンガで化粧の帝国ホテル(二代目。現在は三代目)の落成式は、1923年(大正12年)9月1日である。

2000/06/17

文責:い  50点

No.159

戦国時代初期、地域地域に小さな豪族が沢山いて、なかなか纏まりがつかなかった。
飛び抜けた豪族がいなくて、大きなエリアにわたって国として纏められるような実力者がいなかった。

これを別の側面から見れば、力のある豪族(これを大名と言う事にする)がいれば、この大名の下について、自分の地域の安泰をはかりたがっていたようである。隣接する豪族との争いは、何時果てるとも知れず、食傷気味であった。

そういう意味で、大名という、ある規模の地域のトップを誰にするかという問題の解決には、幾つかの条件があった。

第一の条件。
自分たちの領地を安堵(保証)してくれる能力を持つこと。
第二の条件。
財力があること。
第三の条件。
家柄が良い事。これは、ある種眉唾。

とここまで書いてきて、地盤・看板・鞄の”選挙3バン”である事に、気付きましたね。
暴力団のことだと思った方も、正解と言わざるを得ない。

三者とも、第一の条件で行動が制約されている。
どうも、今日は、歯切れの悪い表現で終わる必要アリ、という感じである。

2000/06/16

文責:い  80点

No.158

飲み薬と飲み薬との”食い合わせ”による副作用についての知識は、全く無いが、身内の入院時に、常時服用の薬を問われた経験からして、何かありそうとは思っていた。

今日驚いたのは、薬と食品にも”食い合わせ”があるということであった。
少し考えてみれば、当然ではある。
胃腸による消化吸収により、ある成分を体内に取り込む事を目的として、飲み薬は服用され、食品は食事行為が為される。
エネルギー源としての食事行為は、この際ちょっと考慮の他にしておく。

具体的には、血圧を下げる薬とグレープフルーツとの関係である。
この二つの同時摂取(?)は、血圧を下げるという一点において、効果が大きいらしい。
目的が、血圧を下げるということで一致しているなら良さそうなものである。
今回初めてこの薬を飲むことになった人(私ではない)が、たまたま大のグレープフルーツ好きなのであった。医師とのさりげない会話の中で、この果物が好きである事が話題になり、そのために、今後好物を口にするのを辞めるように勧告されたとのこと。

私には、”気の毒なことに”としか感じない。本人にしてみれば、”止むを得ないんだ”と言っていたから、本当に今後食わないつもりらしい。
因果関係を深く聞くこと無しに、本気でそう思ったらしいが、医者の一言の為せる技か。
私が何かで読んできて、そう言っても聞くような人ではないのだが。

で別に、副作用とは何か、という大命題もあるのだが、これはどうでも良い。
ここで言いたいのは、昔からの言い伝えで、食い合わせとされる食品についてである。
あれは迷信で、これは理に適っている、などいう議論がなされることがある。

しかし、例えば、江戸時代初期のAという食品と、現在のAという食品とが、全く異なる成分から成り立っている、ということはないのだろうか。
あるいは、こんな例もある。
青梅は、毒である、しかし、六月十日を過ぎれば、旨い食い物である、と言われる。私は、青梅は嫌い、という事にしているので、食ったことは無いが。

実際、食品の成分表は、しばしば改訂されている。
栄養士さんも大変である。献立ごとの成分統計が、大幅に改訂される成分表によってなされるのである。
昨日までの特定の病人へのお奨めメニューが、今日からは、避けるべきメニューにナリカネナイノデアル。

自分の知識の再検討が必要かもしれない、というテーマでした。
以前は、紫蘇の葉が嫌いだったのであります。今は、大好物なのである。
食物の嗜好が変化したのではなく、食物自体が変化したのだと考えると、結構巧く説明がつきそうな気がしませんか。
私が歳をとった、ということではないのであります。

2000/06/15

文責:い  80点

No.157

伊丹十三のエッセイにあった話を、少し脚色し直します。
英会話のコマーシャルで、中村雅俊もパロってた気がする。

電車の中の出来事である。
私の前に一人の老人が座っている。イギリスの紳士とは、かくあろうと思わせる身なり着こなしである。
ステッキを前に突いて、両の手は、その上に添えられている。
しかし、その老人には、ただ一つ奇妙な点があった。

両耳に、バナナを挿してあるのである。
この車両には、私と老人しか乗っていない。
いかにも不自然なので、私は立ち上がり、老人の前に進んだ。
”バナナが耳に挿さっていますが、どうかなされたのですか?”
何の反応も無い。
更に大きな声で、繰り返す。
次は身振りを交えて訴えてみた。

すると、にこりとした紳士は、言った。
”ごめんなさい。バナナが耳に挿してあるもので、あなたの言っていることは聴こえません。”

世にお節介という事象が存在する。大きなお世話とも言う。
北朝鮮を訪れた記者団は、何を食しているのだろうか。
それぞれの国に帰ってからの記事には、どんなことを書くのだろう。
滞在中の記事は、今回の出来事を芳しいものとしての論調で良いだろうが、滞在が長期化したときには、それだけで良いのかどうか自分で判断できることを祈る。

まして、滞在費を、かの国(南北を問わない)に賄ってもらうなどと言う情けない態度でないことを、併せて祈念する。

何となく取り上げたバナナと紳士の話。バナナは、現実の世界では、具体的には何を指しているのだろうか。

本当に解からない国であります。

2000/06/14

文責:い  70点

No.156

同窓会は、好いものである。

自分が、今の自分自身のここが嫌いと感じているそのものを、ずばり、昔からそうであったと指摘してくれる人がいるのである。
同窓会の席でなく、また、昔馴染みの人が指摘するのでなければ、怒り出してしまい、更に、絶対そんなことはないと反論すらしてしまうだろう。
必ずしも、改めなければならない事柄かどうかは別問題であるにしても、こういった点が、やはりそうであったと確認しておくことは意味がある(どんな?)

これからは、開き直って、俺はコウナンダゾ、と生きていくことができるのである。これが、田舎者の強靭さ(狂人さ)なのである。

話は別の事。
同窓会に出席すると、物故者が確認される。
当然出席していない。
しかし、存命で出席していない人と、何処に違いがあるのだろうか、私にとって。
こんなことをしばらく考えていて、愕然としたのである。
取り敢えず、無い。
冷たい言い方だけど、事実である。

われ思うとわれ思う、ゆえに、われ在りとわれ思う。
(”コギ”の訳としては、これが一番気に入っているのである。)
思い煩うこと無しに、ステロタイプに繰り返す日常。
自分自身が、思考をしなくなる日が来るのだろうが、そうすると、自分さえも自分と話ができなくなる。

いやはや、困ったものである。
私の恋焦がれていたあの娘が、欠席であったために、とんでもないことを考えてしまった。

実際の結論は、なかなか、明るいものである。
あの時、彼は本当はどう考えていたのだろう、とか、この件について、彼ならどう考えるのだろうか、とか、無性にその人の意見を聴きたい、と思うときがある。
会いたいと思ったときに、手を尽くせば会える、これが、とっても大事なのである。
と、まあ、健康な人間の思いつきそうな結論に、持ってこれた次第であり、恭悦モノと言えよう。

かなり感傷的な六月の雨の一日を過ごしたのであります。
頭の中では、最近の”IT”は、方向性に哲学がない、つまり、技術者任せによるミスリードの危険性を考えていたのである。この項、いつかまた。

2000/06/13

文責:い  50点

No.155

私の常識は、一般より、かなり広い範囲を捉えているらしい。
言い換えるならば、私の”正常”は、他の人より範囲が広いだけである。

”変態”とか、”非常識”とかの形容で表現される行動までが、守備範囲であるらしい。
これは、決して自慢には受け取られていないと思うのだけれども、自分はそのつもりが無いことを念のため書いておく。

朝、人と会ったら、おはようございます、と挨拶する。
出先で酔っ払うと、車に寝る。もちろん、掛け布団と枕とは、車載の自分用を使用する。
散髪は自分でする。
毎日、一冊の本を読むことを、自分に課している。
風呂は、毎日入らなければならないとは必ずしも考えていないし、実際毎日入るということは無い。一日三度入ることもある。風呂好きである。
山口県に行くとしたら、数ある交通機関利用の選択肢があっても、自分で車を運転していく、という選択を第一に据える。仕事であれ、遊びであれ,時間の制約があるような移動は、どちらの場合でも好まないから、まず決まりである。

いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち、きゅう、とおと数える。
小銭入れの便利さを、最近まで知らなかった。剥き出しでポケット、だった。
仕事の日の昼食代が750円は、エクスペンシブと考えている。
自宅で飲む一升10,000円の日本酒は高いと思うが、まともな店で注文する一合2,000円の日本酒は、リーズナブルと思い、稀に頂く。

ま、どうでもいい事柄を、並べ立てたのであるが、要は、常識とはナニカなのである。
訳が解からないものに虐められて悔しい気持ちを、発散したかったのであります。

2000/06/12

文責:い  60点

No.154

特殊な犯罪。

小林信彦によれば、ハードボイルド小説の場合、小説つくりのフォーマットが確立されすぎていて、身動きが取れなくなっている。
つまり、
1.事件の依頼(謎の提示)
2.探偵の捜査のプロセス
3.解決(謎の解明)
という、パターンを飛び越えられない、というのだ。
彼は、これを、つまらない現象として、嘆いている。

この頃の殺人を含む精神異常者(医師による認定の有無は関係ない)事件について。
事件がパターン化していると思わせる報道が多い。逆に言えば、パターン化していない事件の報道はされていないのではないのだろうか。
報道は、意図があって行われる。これは、当然なのである。
その意図とは何か、は面白そうである。

しかし、不謹慎を承知で言えば、事件報道の内、犯人像を作り上げるフォーマットが出来上がっているのは、面白くないのである。
五つくらいの事件が、全て重なってしまって、そのうちの一つの報道を読んでいて、どの事件の話なのかが区別できない。
社会現象トピクスとして考えれば、それはそれでいいのかもしれないが、これでよくワイドショウは続けられるものだ。
奇怪な事件として報道しているが、事例としては決して”奇”ではなく、一般に考えれば”怪”なだけである。

経済犯罪とか、政治犯罪とか、交通機関の事故による大量人身事故とかの報道は、追いかけていて疲れる。
はっきり言って、平気で使われる専門用語も良く解からない。
少なくとも、テレビでは、自分のペースで情報を整理している暇が無いから、訳が解からないままで終わる。

見ているほうは、パターンの反芻のほうが、安心して見ていられるということ。
所詮テレビはテレビ。
ハードボイルド小説にしても、芸術性(?)よりも、少しだけナニカがくっついた、気楽に読めるもののほうが、求められるハードボイルド小説なのかもしれませんゾ、小林殿。
ま、そんなことは先刻ご承知ですな。

2000/06/11

文責:い  80点

No.153

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

災害時救助訓練について。

川の中州で激流に巻き込まれた人々を救助するために、新しく開発された救助器具がある。これを現場で実際に使ってみるという訓練を、テレビで観た。

これは、実用になるかどうかの実験ではなく、既に、各所に配備が始まった器具の使用訓練なのである。

川の表面(水面)は、鏡のように平らであった。
圧縮された空気を使った銃で、救命用具を水面に撃ち込んだり、同様の銃で対岸に救命ロープを掛けたりしていた。

撃ちだされたロープは、ひょろひょろと、大きく弧を描き、ぎりぎり対岸に到着。あちらの受け取った側の人間が、こちらの撃ち出した側の人間に何か叫んでいる。やがて、こちら側の人間が、”了解”などと、叫び返している。
対岸との連絡を、肉声で行っていたのである。

ヘリコプターもやってきて、水面ぎりぎりまで高度を下げて救助している。
流石である。晴天下、風速0、...全て最高の条件である。参加者にしてみれば、暑いのが不満かもしれない。

去年のお盆時期にあった災害から得た情報を分析して作り上げた、新開発の救助器具の訓練だという。

私は、あの時、死者を出した場所に程近い川原でキャンプをしていた(威張れた話ではない)という経験を持つ。
ひやりとした程度であったが、少なくとも、川の水の勢いと轟音を知っている。

私の目が悪いのだろうが、楽しそうにオモチャをいじる大人たちの遊びにしか見えなかった。

2000/06/10

文責:い  60点

No.152

上善如水。

日本酒の銘柄について、ではない。
「老子」である。老子は作者不詳である。
韓非子の著者は韓非、荀子は荀子。
老 耳冉(これで一文字)という説はある。単純に”老”の字あるからではないらしい。

日本酒の銘柄について、ではない。と書いておきながら、ナニであるが、この酒について少しだけ書く。
この酒を少し冷やして飲む。すると、多くの人が、”それこそ水のようだ。旨い酒は水に近づく。”と、賛辞を述べる。
冗談じゃない。誰が最初に言ったんだ。
”旨い酒は水に近づく”は、気の効いたコピーだけども、この酒のために存在するべきコピーではない。
この文字に騙されているのだが、これでは、この酒の名前は、”上善”になってしまう。

さて、上善如水である。
湯水のようにお金を使う。この表現は、現代日本では、この言葉の持つ意味を正確に反映しているだろうか。
少なくとも、砂漠の広がる地域では、違うだろう。大事に大事に使う、という意味のほうが安定感があろう。

水、というのは、大河に満ち満ちているものである。自然に低いところに流れていく。謙虚である。流されるのである。
しかし、内に秘めたエネルギーは、巨大である。柔らかそうに見えて、決してそうではない。
水泳のスタートで飛び込んだ記憶を呼び覚まして欲しい。
また、極めて高速に噴出させて、鋼鉄を切り刻む荒業も持つ。
氾濫したときの川は、将に水の叛乱である。
謙虚なんて言葉を、水に被せる訳にはいかないことになる。

上善、というのは、人間の生き様として理想的な姿を意味する。
常日頃、牙を剥き出しにして生きてはならない。
だが、やるときはやりますよ、と、牙を磨くことを怠ってはならない。

政治的な理念など持ち合わせておりませんが、牙を剥く機会は、何年かに一遍訪れる。
現在の政府がいけない、などと言っているのではない。
私は、選挙で人を選ぶのであり、政党などという、訳の解からないものを選ぶつもりは無い。
だから、どの政党が勝っても、私が(すいません。私ごときが、国民を代表してしまいました。)その政党に全てを託した訳では無い事を、お忘れなく。
もちろん、投票したその方にも、全てを託してはいない。

棄権あるいは白紙投票は、極めて積極的な意思表示である、という持論を、改めて記しておきます。

2000/06/09

文責:い  60点

No.151

肉体トレーニング夏の陣。四日目である。

初日、19分19秒。
二日目、20分08秒。
三日目、19分25秒。
四日目(本日)、19分12秒。
正確に計測したことは無いが、片道1.5km、折り返しコースで、距離3kmくらいである。
当年取ると44歳である。
40歳では、15-16分(これも、たいした記録ではないが)で走ることができた。

最近は、汗をかかないと運動した気分になれない。
冬は、汗をかくと危険である。風邪をひくといけないのである。
だから、秋から春まで、運動はしないで、ひたすら、冬眠準備が続く。
冬眠している期間さえあれば、五月になって、体重が気になるなんてことは、無いはずなのである。

悲しいかな、冬眠できないのである。
冬眠できないのに、冬眠準備のために、暴飲するのである。
忘年会と称する冬眠準備や新年会と称する冬眠準備、雪見冬眠準備、桃の節句冬眠準備、卒業祝い冬眠準備、入学祝い冬眠準備....晩秋から初春にかけて、冬眠準備の種は尽きない。

種は尽きないのに、腹の周りには脂肪(本当に脂肪かどうかは知らない)が付くのである。
球技で汗をかけば、楽しみながら汗がかけることは、解かっているのである。
しかし、球技という奴は、無理をしてしまうのである。骨折なども想定しなければならない。
水泳が良いことも、解かっているのである。
しかし、当然ではあるが、我が家には、プールがないのである。

で、走るのである。
日常的に走っていると、”ランニングハイ”なる現象があって、一種の恍惚感に浸ってしまう人がいるらしい。
私のランニングコースは、多くの顔見知りがすれ違う。
従って、恍惚とした顔を見られてはならないので、必死の形相を作る必要がある。という訳で、タイムトライアルなのである。レベルは、誠に低いのが困ったものではある。

私のランニングコースには、他にも難点がある。
往路が下り坂、復路が登りなのである。それも、復路で言えば、最後の200mが、極端な登り坂なのだ。
この坂にかかると、いよいよ心臓がバクバクである。本当に、口から飛び出しそうになる。
バクバクは、生きている証拠である。一番困るのは、停止してオトナシクナッテシマウコトダ。

四日目では、目に見えた形で体形が変化することは無いが、体のキレは確実に良くなっている。身体を移動することに、ものぐさでなくなっている。

問題は、何時まで続けるか、この一点である。
今の時刻は、6/09の00:45なのだが、夕刻からの雨は、風を伴なって、まるで台風状態である。多分、今日は休養日になりそうだ。
このように、私のトレーニングは、自然現象に邪魔をされ、以後消滅してしまうことが多いのである。
自分の意志で辞めるわけではない、ということを強調しておくことにする。

2000/06/08

文責:い  80点

No.150

ちょっと趣向を変えて、愛について書こうと思う。

高校生くらいまで、この”愛”という言葉を口に出したり、ものに書いたりするのに抵抗があった。
気恥ずかしいとの思いがあったのである。
それなりに、恋心や異性に対する愛はあったはずなのである。
これが愛なのだ、と意識するまでにも、喜びと苦しみは愛によってもたらされていた。

とまあ、ここまで、臆面もなく、よく書いたものである。やはり、今でも、”愛”という言葉を口に出したり、ものに書いたりするのに抵抗があるのである。
以下、勢いにて。

私と異なる性を持つ人々は、生まれながらに母性本能(ま、本能というからには、生まれつき備えていて貰わないと困る)というのがあって、何かとクスグラレル機会があるらしいのだが、くすぐったかなと思われる経験はあっても、くすぐられた経験は、全く、無い。
この本能が愛の根源である、とは、太宰の言葉だったか。

そうすると、私の性では、愛を持ち得ない。あるいは、男にも母性本能があると結論付けなければならない。
愛は持っていたいと願うので、私にも母性本能があるとしよう。
つまり、母性本能とは、人類普遍の所有物であり、女性に特有なものでなくなる。

こうなると、愛をどうやって、また、どのような対象に向けるのかが検討されねばならないことになる。
ちと強引ではあるが、自分自身に向ける愛は、”勝手にすれば”、で、済ましてしまうことにする。
隣人に向けようではないか。

衣食住のうちの、食う、というのが、生き物としての人間にとって、最大の関心事であろう。

私の愛の方法論(?)は、この食うという行為についての分析である。
女房子供を食わせる。この言い回しには、養うという意味があることに異論は無いだろう。養うというのは、衣食住教育の総称である。
食う、の一言に集約された人間の行動は、一部の人間が、他の一部の人間に対して食わせるという行動を必要とする。

これが、”愛”なのではないかと考えるのである。
一人では食えない奴に、食わせてあげる。
もちろん、反対給付なしで、である。

大勢で食事をするのは、とても楽しい。
豊富な食材があって、好き勝手に頬張る。
美味しいものを、充分に分け与えることができる環境で、皆で貪る。
ここに、愛は見出せない。

遭難して、食糧が乏しいときに、その少ない食物を分け合って食べる。
この時に、自分より隣人に対して多くの量を渡せるかどうか。
愛が試される。
そして、食べ終わったときに、素直に美味しかったといえるかどうか。
再び、愛が試される。
折角、隣人に多くを分けるという行為ができても、それを悔やんでしまうのでは、多分、愛は無い。

本能は、他人より自分により多くの食糧を配分することを求めるだろう。
すると、愛は、むしろ、本能から発生できないのではないか。
愛は、本能ではない、ということである。
学習であり、本人の鍛錬の賜物である。
愛は感情では無く、勘定である。つまり、愛は、考える行為である。
武士は食わねど高楊枝なのである。
愛ある人間でありたいものである。

報道によれば、朝鮮半島に、国全体では、絶対的に食糧不足に陥っている国があるという。
そして、その国では、愛を持って政治をすべき人々が、少ない食物を不当な割合で占有している、と聞く。
愛を、感情で論じると迷路に入り込む。理屈で愛を考えて、私たち一人ひとりができる事をしよう。

愛を感情で表現してしまうと、全員が、”可哀想だから、食糧を送ってあげなくてはいけない”などと思ってしまう。
皆が賛成する行為に、正しい行為は殆どなかった、と歴史は証明していると考える。

2000/06/07

文責:い  70点

No.149

雑誌”将棋世界”今月号(2000年7月号)は、光っている。

”真似のできない仕掛け”と題する、第58期名人戦七番勝負・第4局の解説記事。
ご存知(ですよね)先崎学が、A級八段になっての、解説である。
本当の観戦記とはちと異なり、文章に起こす作業は、別人が行っているのだが、秀逸である。指した手の解説はともかく、指し手の人物像の描写についての感想である。

この度の昇級で、彼は変わった。
今は、気分が良いのだろう。棘を隠している。
辛辣さが本来に戻れば、いや、辛辣さに磨きを掛け、オブラートに包み込む必要性を排除する決心をすれば...楽しみである。
この文章は、将棋に若干でも興味ある方向けである。

4ページにある、内藤国雄の”ノーミス宣言”は、将棋の事を書いているのだが、将棋に全く関心を持たない人にもお奨めである。
”おゆき”の内藤国雄である。
”のほほん、のほほん”のお茶の内藤国雄である。
見開き完結の短文である。本屋で立ち読みで良い。
彼は、実は、怒りの人なのである。

今回は、たまたま、これら二つの文があったから、光っているなどと表現したが、雑誌全体としての”将棋世界”は、編集方針が確実につまらない方向に変化している。年々である。
この本に求める私の趣味が変わってきている、という側面を排除しても、これだけは言える。
何でも詰め込んでしまおうとしている、というか、編集者に編集者としての権限が与えられていないで、また、編集者は独自色を出そうとしないのである。

将棋連盟唯一の公認雑誌であるから、初心者、上級者、少年、老人といった様々な層を読者層として想定するのは当然である。
しかし、面白くない記事が多すぎる。
対戦結果情報など、いくらでも取得できる世の中になった。
雑誌の存在意義は、変わってきていると思う。筋を通した編集の雑誌以外存続できないのではないか。如何に主張するか、であろう。

読みたいとこだけ読んどくれ、あとは別に読みたい人がいるページです。それでもって、まとめて定価750円。はい、お支払い下さい。
この姿勢、学ぶ訳にはいかない。

2000/06/06

文責:い  70点

No.148

今日もまた、スポーツの話題。

オリンピックのサッカー試合日程が公表されている。
九月十四日から試合が組まれている。

ちょっと待った。
オリンピックの開会式は、九月の十五日のはずである。

こういうのは嫌いなのである
ごたごたの解決をしてから本番を迎えて欲しい。

出場者を決定するシステムにも矛盾が多い。
千葉すずの件で考えたことがある。
マラソンや柔道にも適用できるので記述する。

オリンピック出場を国代表として扱うのは良い。
しかし、一国の出場枠を決めている現在のシステムを、少し変えてみよう。
それぞれの国では、代表選考にそれぞれの競技団体を利用している。
日本では、水泳なら水泳の協会、マラソンなら陸上競技の協会が決定している。
協会とは何か、といえば、協会役員がいて、協会役員にはそれぞれ思惑があり、また、相互の役員間では様々な確執がある。
選手選考にもそんな人々のエゴが付き纏う。
選手決定の方法の公表はされても、理屈は何とでも後付けできてしまうものだ。

今までの選出方法での国代表出場者が出揃った時期で止むを得まい。この時期に、世界選抜による出場者を決定しようではないか。
国代表枠からはみ出してしまった人で、我こそはと思う人を集め、一つの大会を開催する。
どんな過酷なスケジュールの大会でも良いではないか。
明確な選考ルール(つまり、1位あるいは、1・2位はオリンピック出場権を得るというように)を定めて、よーいどんで競わせて、言い訳無しの一発勝負。
この大会で選出された選手は、それぞれの国代表に編入される。

多分、このシステムによるオリンピック出場者のうちから、幾人かのメダリストが現れる。
また、そうならないと、この大会の存在意義が問われることになるのである。

スポンサーを探してみようと思う。
スポーツの世界では、お金が動くところには必ず正当化してくれる論者が登場してくれるだろう。
そして、大会単独では立ち行かなくなっても、顛末記のドキュメンタリー映画でも作れば、ペイするはずである。

2000/06/05

文責:い  90点

No.147

6/3の土曜日に国立競技場に行った。国立霞ヶ丘競技場と書くべきか。

お隣の秩父宮ラグビー場では、エプソンカップ・パシフィックリム”ジャパン×トンガ”が13:00からあって、当日は、はしごの予定であった。

平尾と会うのが癪なので、昼の部は遠慮を決め込んだ。
テレビの録画放送(なんと、一時間番組になっていた。それでも、相当無駄な場面が映し出されていたから、内容はひどかったのだろう。解説は、上田一人になってしまった。そもそも解説になっていなかったが。)を見ると、案の定観客は少ない。一万三千くらいと読んだが、如何。

で、国立は、19:00キックオフの”第51回早慶サッカー定期戦”である。
慶応義塾体育会ソッカ-部と早稲田大学ア式蹴球部の対抗戦を国立競技場で行うのである。
観客は、およそ五千人。

現在、慶應は関東大学サッカーリーグ戦1部にある。
三年前、早稲田との1部2部入れ替え戦で勝利して、1部に復帰した。その後の二期は、1部残留を決めるも、1部2部入れ替え戦の常連である。
早稲田は、その三年前の入れ替え戦で初の2部陥落。現在に至る。

この試合結果は、ごく一部を除けば、一般誌の朝刊に載らない。
学生諸君が、どう感じているのかは知らない。しかし、ナイター施設を利用して、国立で試合ができるのである。
これを、どう読むかである。

聴く所に依れば、競技場サイドでは、年に一日この定期戦に貸す事には積極的ではないらしい。
ただ、今日までの経緯で、早慶サイドから、来年は使用しないという申し出が無い限り、断るわけにはいかない。
これが、伝統の力なのである。歴史があるのである。

あくまでも、教育の一環としての大学サッカーであって、スポーツを見世物としては扱っていない。
大会関係者の思い入れと、献身的な行動には頭が下がる。
これで、五千人の観客を集めているのである。
学生たちのためには、観客は多いほうが励みになるであろう。しかし、観客を呼ぶために定期戦を行っているのではない。

批判も多々あろうと思う。
しかし、それぞれの世界には、それぞれの歴史と、それを取り巻く多くの人々の思い入れがあるのである。

スポーツを見世物として扱う、相撲の例を見てみよう。
バブル期には、相撲の桝席が茶屋の権利になっていることへの、そして、その割り当てが一部の関係者にしかなされないことへの不満が、旧来の制度への批判として溢れた。
しかし、この制度にも、歴史があるのである。

相撲が観客を集められなかった時代に、何とか相撲協会を維持するために、茶屋は、その縁者を廻って、席を確保するという”形"を売ったのである。買ったほうは、寄附と知りつつ買ったのである。必要から買ったのではない。
懸賞金も、あれが広告宣伝効果を持つなどとは誰も考えていないのである。
しかし、国税局も、懸賞金支出を、企業の交際費とは認定せずに、広告宣伝費であると確認したのである。

単に商売としての相撲興行ではないのである。
ところが、相撲協会の役員は違った。周りの思い入れや、献身的な行動を、無視するかのように、商売に走った。
頭が悪いのでしょうがない、と言えばそれまでだが、そのことに気付いていないのである。気付くことができないという点が、頭が悪い証拠、という考えもある。

国税局まで怒らせて、脱税問題を相撲の世界にもたらした。
あまりに杜撰であるからというよりも、お目こぼしがあることを忘れた協会役員に対する警告であっただろう。
現在、地方での開催はともかく、東京での本場所は、満員御礼の垂れ幕無しの日がある。
立て直しには、少々時間がかかりそうである。
人材がいないからである。排除してしまった結果である。
外部からの人材導入が必要ではないか。

やはり、ラグビーの事になってしまう。
吉田義人・堀越正巳という偶然同期のスーパースター二人を見殺しにしたのは、平尾である。自分の存在を脅かすクレバーな者たちを葬ったのである。
もう一人名前を挙げれば、梶原もいる。
三人は、自分で自分の責任をとった形で、ジャパンから離れた。
今の日本代表で、責任をとろうと考える選手は一人もいないのではないか。
平尾を含め、皆頭が悪いとしか言い様が無い。

最後に一言。
国立競技場に着いて、座った瞬間に、大きな揺れを感じた。
地震である。
しかし、場内放送は無かった。
競技場などの施設には、危機管理のシステムが存在しないのであろうか。

2000/06/04

文責:い  60点

No.146

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

大量販売割引制度
101個以上(101-200)お買い上げの場合20%off
201個以上(201-   )お買い上げの場合30%off
一個100円とする。
200個の場合総額16,000円
201個の場合総額14,070円
こんな馬鹿げた例は多い。
有志の会(参加者200人)の役員になって、ヂュウスを買いに行く。
真面目な人は、割引制度を店員に教えられても、200個を買っていく。

本来、上記の割引制度は次のようにしておくのだろう。
100個以下分(   -100)の1個あたり金額 100円( 0%off)
101個以上分(101-200)の1個あたり金額  80円(20%off)
201個以上分(201-   )の1個あたり金額  70円(30%off)
総額計算の速算表
  1-100個の場合 (お買い上げ個数×100)
101-200個の場合 (お買い上げ個数× 80)+2,000
201-   個の場合 (お買い上げ個数× 70)+4,000

店頭に掲げる表示は、”200個以上30%引きです。”
これでも、あながちマチガイとは言い切れないだろう。

この割引制度では、
200個の場合総額18,000円
201個の場合総額18,070円
となり、
正直者かつ真面目な役員さんは、200個を買って帰っていくのである。

2000/06/03

文責:い  80点

No.145

職務質問という名詞は、小学生時代から知っていた記憶がある。
しかし、実際にどんな形式で執行されるのかは未だ知らない。

そもそも、職務質問と呼称される行為は、警察官職務執行法に規定されている。
曰く、警察官は、
”異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者”
または、
”既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知っていると認められる者”
を、停止させて、質問をすることができる。

警察官である知人は幾人かある。
この人たちは、一様に、職務に関する疑問についての質問に対して、口を塞ぐ。守秘義務がどうの、という雰囲気ではない。
自分の仕事に誇りを持っているという態度ではないのである。
これは偏見かもしれないが、怖い感じがしないのは結構である。
しかし、世間から隔離された世界に生きている然としている。
仕事を離れた(公務員には、プライベートの時間は無い、が私の持論であるが、その件とは、ちょっと違った意味で)ときの過ごし方にまで、服務規程が定められているのかしらん。

本題に戻る。
夜中に自動車を運転していると、所謂酒酔い運転の取り締まりの検問(用語の使用方法が正しいかどうかは、知らない)に出くわすことがある。
飲酒時には、当然運転していない訳である。従って、出くわしたときに自動車を運転している私は、飲酒してはいない。
取締りを恐れる理由は無いのである。

高飛車に、車を止めるべしとの合図をくれる警察官の姿を見ると、素直には応じたくなくなる。
止むを得ず停車しても、窓を開けないでいる。
失礼なことに、窓ガラスをトントンと叩くのである。窓を開けろという意味だろう。
いきなり殴りかかられでもするといけないので、上数センチばかり窓ガラスを下ろす。

こちらが、何ですかと尋ねるよりも前に、”飲酒運転の検問です”などと喋って、もう少し開ける事を促す。
この時に、何時も思うのである。
自分の身分証明をすべきではないのか。警官の制服らしき着衣があれば、それで自己紹介が終わったつもりでいる。
こちらには、 三億円事件の時の教訓がある。制服が本物か偽物かの識別など、こちらにしてみれば、解からないのに、私が、その手の制服フェチに見えたのだろうか。

この辺りが、杜撰なのではないかと考えるのである。
先方さんにしてみれば、悪意は無いだろう。通常は。
検問実施時対応マニュアルは、当然の話あるはずである。しかし、作成する人達が、検問などされたことの無い人ばかりなのであろう。車も自分で運転することなく、つまり、運転手付きの車に乗っていらっしゃる。
法律的な論議、そして、悪を摘発するという大義名分からの論理で展開される作成委員会の運営では、主権者である私は満足できない。

一般に、行政、議会に設置される、部外者を構成員とするナントカ委員会は、構成員が、奇妙である。
ついでに言えば、政府野党が募る”市民の声を聞いて活かす委員会”も同様である。
学識経験者(明確な定義を教えて欲しい)。主婦(主婦には違いあるまい。しかし、ざあますおほほ言葉を使うような女性が、主婦の代表として適任なのだろうか)。こんな人達はお呼びでないのである。

犯罪及び服役経験者であるとか、幼稚園児とか、痴呆老人とかが適任であろう。国民の代表かどうかを、数の上から判定すれば、現在の人選よりもかなり実態に近そうである。

衆議院議員選挙だそうだ

”異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者”
または、
”既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知っていると認められる者”
今一度記載したが、こういう方は、何度も何度も停止させらて、質問をされてしまって、選挙運動なんぞしている暇が無いのである。

2000/06/02

文責:い  70点

No.144

ごみゼロの日について。

ごみゼロというからには、”処理を放棄した人間が放置したごみの発生量をゼロに近付けること”を考えることを主眼にした運動を盛り上げていくことこそ、肝要なのではないか。

どのような経緯で始まったのかを知らない。
ただ、5月に行われるごみゼロ運動は、清掃作業の勤労奉仕推進運動である。当初からのことなのだろうか。
特に、空き地・公園などの清掃を、地域住民が志願して(ボランタリーに)執り行う。少なくとも私の住所地では、行政市が音頭をとる。

確かに、志願するには、出願先が必要である。
しかし、市の環境課あたりが、”今日はごみゼロの日です。地域の清掃に務めましょう”などと、拡声器を積んだ自動車などで巡回してくる姿を見ると、ちょっと変だぞの感じがする。
こういうのは、厭なのである。

近隣は、田んぼが広がっている。
その田んぼの中を走る道路の両脇には、ごみが氾濫している。
道路を走っている車から、ポイと捨てられるごみは、確かに存在するのだ。
現実に捨てられたごみがあるのだから、そのごみを排除する方策を考え実践するのは、決して悪いことではない。

法律・条令の類で規制し、違反者には罰則がある、という社会も考え得る。確かにこういった考えのもとに、法律・条令の類が制定されている。
だが、この問題はそういう解決方法で論ずべき問題ではないのである。
処罰があるから自制する。そんな社会、好きですか?

それではどうしたら良いのか。

実は、誠にあっけないくらい簡単なことである。
地道に、拾い続けるのである。私が、そして、あなたが。
これを読んで、”そんなのアホラシ”と思ってはイケナイノデアル。
ひたすら地道に、拾い続けるのである。
もちろん、勲章を貰おうなどと考えてはならない。

ごみをポイ捨てするのは、恥ずかしい行為である。世の中の人皆が、こう思うようになれば良いのである。
世の中の人皆を構成しているのは、私であり、あなたなのだ。

2000/06/01

文責:い  90点

No.143

六月が始まった。
紫陽花は、昨日の雨で元気がいい。
生垣のとうじの木も思う存分枝葉を伸ばした。
これは、あと十日もすると私が格闘する相手である。
充分遊んでいるがいい。

六月には、小人は閑居して不善を為すのである。
善くない事。善くはない事。する。しない。
”しない”というのは、”しないという行動をする”ということだ。
ゼロの発見である。

思いっきり頑張って建設的な仕事をするのを、”する度”10ポイントとする。
全く何もしないでいるのは、”する度”0ポイントである。
マイナスの世界もある。
仕事をすればする程、手直しに手間が掛かり、やらないでオトナシクシテイテクレと関係者が悲鳴を上げる様である。

小人は閑居して善を為さずなのである。
これなら、結構なことではないか。

何かをする、に評価を与えすぎてはいまいか。
休日にさえ、あれもこれもと予定を入れて、何事かなさろうとする。
避暑に行っても、あちこち動き回る。これは、ちと違うか。
音楽の真髄は、休符にある。これは、かなり近い。

本日は、”不善”の話から”禅”の世界の話にお導きしました。
悟りは、眠り(居眠りは、瞑想である。念のため)。