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2000年5月分(5/1〜5/31)

2000/05/31

文責:い  80点

No.142

賞味期限について。
結論じみたことを言うと、賞味期限の記載は止めて、製造年月日の表記と賞味期間の目安の表示にして欲しい。
後は、消費者にお任せ下さい、ということ。

オープンプライスについても同様なのであるが、賞味期限の記載は、消費者の便益という観点からの論議の賜物と言えるのか、という疑問があるのである。

賞味期限は、どういう基準で設定するのか。製造日から幾日で賞味期限日となるのかとの記載なのかどうかである。
2000/05/31製造のA、B二つの商品(食品)がある。
Aは、30日間が賞味期間とし、Bは、3日間とする。06/29と06/02までである。
普通の感覚では、A商品を06/30(期限後一日)に食するのは気にならない。しかし、B商品を06/03(期限後一日)に食するのは気になる。

ブドウ球菌とかボツルヌス菌とかに汚染された食品は、判別できるとは考えていないが、所謂腐った食品は、見た目あるいは口に入れた瞬間にそれと解かる。つもりである。

しかし、新製品と称されるものなどで、かつて経験したことの無い食品だと、訳が解からない。
鮒寿司を初めて食うに至った時には、絶対に腐っていると思った。
その場に居合わせた人が土産に持ってきたもので、その人と一緒に食していたから、こういうものだと知ったに過ぎない。
ということから、私の目鼻舌も大して当てにはならないが、飯が饐えているとか豆腐が傷んでいる、あるいは、肉がオカシイというのは完全に解かる。

我が家の年寄りは、この感覚が鈍っている。
子供は、この感覚を鍛えていない。経験が無いのである。
軽度に饐えた飯を、自分の判断で、敢えて食うなどというという経験が無いのである。
ここまでは大丈夫、例えば、そのままではどうかという時でも、表面を洗う、炒めるなどいう工程を経て無事食品に戻るという判断など、現在に生きる知恵では無いらしい。
賞味期限内であると、絶対の信頼で口に入れる。逆に賞味期限を越えた食品は、食べない。
コレデイイノカ。

腐らない食品を求めたくは無い。
最初に書いた”賞味期間の目安の表示”という項目は、その食品が何時まで大丈夫なのかの判断に使うのではない。
自分の感覚からみて、あまりに長期間が設定されている食品は避ける、という判断に使うのである。

実は、e-コマースにおける決済方法の話が、なかなか書けないのである。
私には決定的と思われたシステムの状況が、全く報道されなくなった。
どうも、既存の金融機関やら大蔵通産などの行政機関から、必要以上の圧力がかかっているようである。

これと、賞味期限、オープンプライス。
”オカシイナ”の根源は同じであろう。

2000/05/30

文責:い  70点

No.141

ここ数日、完全に夏の陽気である。

季節をどう感じているのか。春夏秋冬とは、何を以って称しているのか。
温度計による気温の測定がなされる以前から、暑い寒いは当然感じていただろう。
”今日は、最高気温が29℃まで達しました”などというテレビ報道を見ると、確かに暑かったなどとふむふむ顔で冷酒を飲んでいる。
最高気温が28℃でも、同じ行動をしている。

80才近くの老人が、”最近寒がりん坊になってしまった”などという言葉を発した。
この頃の気候は、気温が29℃などといっても、湿度はかなり低いようで、べったりと纏わりつく暑さではない。確かに、日陰では、少し風でもあれば素肌には心地良いを過度に通り越す。
それにしても、経験で四季を感じているとすれば、本人のセンサーの物差しが、相当な年数の間一定でないと困る。さらに言えば、本人の行動が毎年同じ時期に同じことをしている必要がある。

かつての農家は、ルーティン作業の連続(時期的にも、作業内容的にも)だったから、一番季節を感じやすかったのではないかと思う。
しかし、センサーの同一性に関しては、個人の問題だ。

”確率的には一定の基準が存在する。しかし、一定の基準を当てはめた測定はできない。”
一つの箱に鼠を一匹入れる。箱の中ほどに仕切りを付ける。
この仕切りによって区分された空間は二つである。これら空間を、一方をA、それ意外をBと称す。
鼠は0.5の確率でAにいる。

我々に興味があるのは、Aに鼠がいるかどうかである。
”0.5の確率で”を消したところの、”鼠はAにいる”という文言が正しいかどうかを知りたいのである。

人間のセンサーは大丈夫なのだろうか。
理屈でセンサーを損傷させている、なんてことは無いのだろうか。
センサーを研ぎ澄ます理屈の開発を引き受ける企業を求めます。

庭に出て、ちょっとあたりを見回すと、鶯は歌がうまくなった。スズメバチは庇に巣を作りきった。
こいつら何を以って季節を感じているのかしらん。

2000/05/29

文責:い  90点

No.140

平尾ではダメなのである。やはり。

二戦目のアメリカ戦を観ての感想だ。
プレー上の”仕事人”をメンバーに選ばないのである。
選べないと言い換えることもできる。
その方面のスキルに対して、重要性を感じていない彼には、結局かかる人材発掘の眼力が無い。

選手は、手を抜いてしまうのである。もちろん巧妙に。
オフェンス、ディフェンスを問わず、誰の所為でプレーが継続しなかったのかを、明確に判定させるに足る事前のプレーのお約束が打ち出せない。
前半を終了してのプレーの修正もできない。
問題点が何処にあったかを明確に指摘できないスタッフしか持てないという事情は、言い訳にならない。
全て彼の人選であるのだから。
他人の所為にする事が、いよいよできなくなった今回の体制での、彼の発言には注目していきたい。キーワードは”辞めます"である。

平尾以外に監督は考えられない、という協会のコメントは聞き飽きた。
協会役員が変更されない限り、この意向が変わることはないのだろう。
そして、ジャパンは、強くなれない。
これが正しければ、ジャパンを強くするためには、協会役員を変更するという選択しかないのである。

選手時代から平尾を知る人々は、一様に述べる。
”彼は、他人には見えないスペースを見ることができる。”
彼は、他人ならできないスペースを自分で作り出していたのである。

100対25のスコアで負けるためには、彼独特のスペース作りは有効である。この25点を取るために、多大な失点を要するのである。
それでいて、、結果で判断すると、平尾のおかげで0点ゲームにならなかった、と賞賛されるのである。

つまり、こうである。
平尾は、プレーに手を抜く。
相手は、平尾のスキルが無くて本来すべきプレーをしないと判断して、その本来なされるべきプレーに対するリアクションを放棄するのである。
従って、相手方は、その他のプレーに割く人数を増やすことができて、得点を重ねる。
ところが、ここが平尾の驚くべき才能であるのだが、突然その本来すべきプレーをしだすのである。意表を突かれた相手は、対処できず得点を許すのである。
平尾伝説にある”特異なスペース”の完成である。

何の事は無い。怠慢(手抜き)プレーによって開発される”トリックプレー”に過ぎないのである。
これが、平尾のプレースタイルであった。
一つひとつの試合の意義付けができない。
選手の気持ちを纏められない。渋いプレーに評価を与えられないのである。

大八木タイプのFWで構成される現在のフロント八人では、勝てない。
大八木もまた平尾と同じく、”手抜き"をプレーのスタイルにしていた人気者である。
具体的には、箕内や吉上をフル代表に選出しないと勝てない。
そして、6・7・8・9番から主将とする人間を選ぶ。当然”仕事人”で、かつて主将経験の無い人間が良い(妙なへつらいを憶えた奴はダメ、の意)。

あの観客数の少なさを観ると、関西でも平尾の広告塔としての価値はなくなったと言えそうだ。
本気で考えないと、ラグビーがこの国から無くなる。
早慶明が、観客を呼べる理由には、学ぶべき点が多いだろう。
同志社は、観客動員をできていないのである。

2000/05/28

文責:い  50点

No.139

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

”坊っちゃん”は、東京に帰ってきた。
締めくくりの筆は速い。スピード感のある文章である。
しかし、読み返すと意外な、しかし、記述に矛盾のない事柄の綴りである。
爽やか感は、この最後の数行から生じているかのようだ。

東京に帰ってからの仕事は、東京市街鉄道株式会社の車両整備係の現場責任者である。先端技術のエンジニア、つまり、技術職に就いたのである。

街鉄の技手、との記述である。

東京物理学校(今の東京理科大)出身と初めのほうに書いてある。
成績も良い。3年間で卒業している(3年制)。200人くらいの入学で、卒業生は30人ほどなのである。
校長の推薦で、四国の中学に、数学教師として赴任したとの記載もある。

文系の学校を出て、語学あるいは社会科学系の科目の教師だ、と、ずっと勘違いしていた。
30年ぶりに読んだのであります。

2000/05/27

文責:い  60点

No.138

中学の同窓会をやろう、ということで、二ヶ月ほど前から動いている。
何人かが集まって、準備をしている。
この人々が、それぞれ、30年ぶりに再会したとか、10年ぶりだとか言って、昔の面影を現在と比較して盛り上がる。
既に同窓会モードなのである。

この件とは別に、10年ぶりだとか、5年ぶりだとかの出会いが、ここのところやけに多い。
また、三日と空けずに電話で話をしている方で、しかし、一度もお会いしていない方と、初めてのご対面のパターンも続けざまに二つあった。
電話での会話により、声の質や言い回しなどの情報を得ている。この情報から推察していた体形や顔相は、概ね外れない。一件は、想像以上に美人であった、という嬉しい誤算はあったが。

メールのみの知人はどうだろう。
文体を使い分ける事ができる人間は、そう多くはいないだろう。
しかし、その方がどんなタイプの人間かを窺い知るのはなかなか難しい。
まだまだ、自分は、メール(これは、電脳上に限らない)のやり取りの経験が浅いからだろうか。

悪意ある人は、文体を使い分ける事ができるのかもしれない。
面談あるいは電話の会話では、即時的に情報のやり取りをする。
推敲している余裕は無い。
メールでは、推敲に充分な時間を割くことができる。
所詮、何時か、所謂ボロは出てしまうものだろうが、とりあえず、幾つかの文体を使い分ける事ができるような気がする。

オフラインの会は、楽しい。
オンラインを前提にしたオフライン、というネーミングに抵抗があったのも、今は昔。
人間を好きな人の道具としてのコンピュータ及びネットワークの仕組み。
こうでなくては、面白くない。
極めて人間臭い、電脳上の情報のやり取りの発展を望む。
サイバー美少女には、魅力を感じない感性を持ち続けたい。
フライトシュミレーションで、何万人もの乗客の命を奪ってしまった私は、反省しなくてはならないのであります。

それと、規制や管理は、ほどほどに。
どなた宛かは別にして、お願いしておきましょう。

2000/05/26

文責:い  80点

No.137

頭が痛い。これを頭痛というらしい。

宿酔ではない。昨日の酒は、七福神大吟醸である。
二日酔でも頭が痛くなるようなことは、断じて、無い。

”頭痛の種”との言い回しは、日本語らしくない。
a source of anxiety と、心についての問題と捉える方が日本語的だと思うし、それ以前に、自然である。
とすると、何処かの国の言葉の翻訳時にできた言葉なのだろうか。

それにしても、a source of anxiety という表現は、心の問題といいながらも、極めて説明的な表現である。
何か次々に不安の原因が湧き出してきそうな予感を感じさせる。
一方、”種”といったら、増えることも想定していようが、その前に、発芽して、育って、巨大なモノになっていきそうな感じがして不気味である。

ま、心が頭に存在する、ということを喝破した表現だとして、我等が先人はすばらしいと感心すれば良いだろう。
頭痛の種は、即物的であり、切実な問題として捉えていただけかもしれないが。
頭で考えても考えても、どうにもならない事柄に対して、要するに、行動で解決する道を選ばずに、悩んでいるだけの、ただの小心者だった、という見方をしてはいけない。
考えることに真剣であったのである。

こんな小心者だらけの国になったのは、ごく最近のことだろう。
真面目に考え抜くこともせずに、そして、行動として事柄に対処するでもなく、ただ放りっぱなしにしてあるだけ。
ダイナミックな発想が出現しない国と噂されるが、発想とは、頭に関わる事柄でなく、心に関わる事柄である。
真面目にいきましょう

行きましょう。生きましょう。逝きましょう。
これも素朴な疑問か。

2000/05/25

文責:い  60点

No.136

昨日の文章は、今日読み返すと、いつにも増して脈絡が無かったようであります。
しかし、私は、今日のこの文章のヒントを得る事ができたので、満更でもない気分です。

”今日、最初に思索していたのは、、全く別のことであった。”と書いたのであります。
この文中の、”思索”という言葉の使用には、ちと、オモイイレガある。

高校時代の社会科の教師にOさんがいた。
何かの件で、とある木曜日の午後の予定を尋ねたことがある。

Oさん答えて曰く、
”もくようびは、しさくのひである。だから、都合はつかない”。

タマゲマスヨ、これは。
私は、”木曜日は、詩作の日である”、と解釈したのであります。
この人は、もしかすると、石で口を漱ぐ人の教え子かと思いました。
はっきり言って、本当は(?)凄いお方なのではないか、などと恐れ入ってしまったのであります。

ところが、一緒に聞いていた友人は、”木曜日は、思索の日である”、と解釈したのであります。
こう解釈した友人に対しては、自分より優れていると即座に判定を下し、更に、教師には、”詩作”での驚愕以上の驚愕を感じたのである。

”試作の日”って、何を作るんだろう。なんて口に出さなくて良かった。
本当のところ、私の第一感は、”試作”でありました。
すぐに、”あっ、詩作かあ”と考え直して、友人には喋ったのです。

どうです。
いずれにしても、昨今の日常会話で、
”もくようびは、しさくのひである。”
などという、ふざけた(今になると、この単語程度の感動である)お言葉は、一生の内に一度も聴かずに死んでいく人が、大部分でしょ。

昭和で表示すれば、50年頃の出来事でした。

まさかとは思うが、この教師は、実は宗教家あるいは政治家で、木曜日は”施策”を講じる日だったのではあるまいな。
存命ならば、お訊きしてみたいものだ。どうなんだろう。

2000/05/24

文責:い  70点

No.135

3、4、5の不思議。

線分の等分は、3等分であろうが、10023等分であろうが可能である。
しかし、角度の等分は、一般に、2のべき乗(累乗)等分しか出来ない。

90°の3等分である30°は特殊である。
60°が特殊である、と書くべきかもしれないが。
もう一声言えば、90°が特殊である。

3^2+4^2=5^2
これを知って、凄いと感じた。普通、そう感じますよね。
3、4、5で、直角三角形を作ることが出来てしまうのだから。

しかし、直角を作るときに、この方法を利用するだろうか。
そんなことは無いのであって、それはそれで良い。問題は、30°である。

角度の30°を作るのには、当然正三角形を描くことから始める。
角度の30°というのは、かなりの場面で利用する。
時計の文字盤。方位盤。ん〜〜。まあ、その他いろいろあるはずである。

12進法は何故使用されるに至ったか、の問いによく引き出される答え。
12は、1・2・3・4・6・12で割り切れる。この因数の多さがその理由であろう。
でも、何で因数が多いとソウナルノ。
その答えは聞いた事が無いが、何となくフムフム状態に入っていた次第。
時計の文字盤を作ることを想定すると、フムフム状態は、”何となく”から一歩前進する。
まだまだ道遠し、ではあるが。

今日、最初に思索していたのは、、全く別のことであった。

東京の都心に海抜300mの山があるとする。三宅島には500mの山があるとする。
この二つの山の頂上を紐で結んで、真中の地点あたりで、走り高跳びをやろうとする。
これは、多分、走り高跳びというよりも、スキューバダイビングの練習が必要だろうな、という思索だったのである。

地球は丸いのである。
球面おそるべし。

2000/05/23

文責:い  90点

No.134

小中学校のクラス編成の制度が、弾力化されるという。
何を目指しているのだろうか。
一学級の人数を少なくする方向に意識があるように見受けられるが、本当にそれで良いのだろうか。

確かに、学級という組織が大きいと不都合なことは多いのだろう。
先ず、先生が指導力不足のために、組織を統括できない。
子供の数が減少しつつある現在、相対的に多くなってしまった先生があぶれてしまう。

ちと強引であるが、学力を上げるための少人数学級化ではなさそうである。

教育の第一義は、人として生きるルールを教えること。
記憶力至上主義はいかん。
全体の平均的なレベルに合わせた授業をすると、ついていけない子が出来てしまい、落ちこぼれになる。

社会に出て役に立たない知識を詰め込んでいる、と言われる。
しかし、何が役に立つのかを考えた上で知識を会得する、なんてのは、その子の可能性を狭めるだけである。
例えば、職業選択は、子供には無理なのであって、いずれ大人の押し付けになってしまうのである。

そもそも、社会に出て役に立たない知識というものを、私は知らない。
役に立たない知識なんてモノはないのである。

どんな組織でも、その中にいる人は、良く知っている。
あの人の役回りはこれで、別のあの人の役回りはこれである、ということを。
これで良いのである。
これを会得することが、人として生きるルールを学ぶということだ。
これは、大きな組織の中で、埋もれた人が出ても良しとする態度である。
埋もれたとみなされる人にしても、本人は別にどうってことはないのである。
自分の領域が確保できて、喜んでいることすらある。

むしろ、一学級の人数を多くすれば、欠点どころか、良き教育が可能になるのではないのか。
多人数学級化を促進する方向の検討も、併せて検討して頂きたいものである。教師の資質も検討、である。

皆が一つの方向性を肯定するときは、概ね間違った方向を向いている。
言い換えれば、100人の内98人が賛成するプランは、ダメなプランである。
100人の内60人くらいが賛成するプランこそが、優れたプランである。
こう考える天邪鬼を育てる環境も、残してくれないと困る。

2000/05/22

文責:い  90点

No.133

日経新聞社の責任は、どうなったのか。
唐突にこう書いてしまいたいくらい呆れているのである。

何がか。
日経新聞社が、日経平均採用銘柄を、入れ替えたことについてである。
”新日経平均”が、株価の景気に対する指標性を著しく落としめたことについてである。
ある種、自業自得なのであるが、ことは、日経新聞社の権威の失落だけでは済まないのである。

全体の13%にもなる、30銘柄という大量な銘柄を、一気に入れ替えた。
新規採用銘柄と除外した銘柄とに関して、どうのこうの、ではない。
確かに、値嵩株が多いとか、業種が偏重しているという面が、重要な点であるが。

大幅に異なるモノサシなのに、同じ単位を使おうというのである。

かつて、ダウの数値計算に重大な欠陥があって、世間を驚かせた。

ある日の数値を計算するのに、基準日(本来、固定した日)の数値から算出していなかったのである。
具体的には、前日の数値に加減算していたのだ(それに加えて、端数処理の問題もあった。数字的にはこちらの影響が強く働いた。しかし、根源は本書きである。)。
大雑把に言えば、こうだ。

昨日の数値を500とする。
今日の数値は、どうなるか。
昨日の数値と比較して算出された数値がプラス1.2になったとしよう。小数点以下は切り上げとする。
すると、今日の数値は、502である。
明日の数値は、どうなるか。
今日の数値と比較して算出された数値がプラス0.1になったとしよう。
すると、明日の数値は、503である。

この時期、ダウは、完全に右肩上がりのトレンドであった。
従って、本来の数値からの乖離は大きかったのだ。

しかし、ダウは、それ自体を金融商品にはしていない。過去はもちろん、現在もである。
ダウは、単に、ニューヨークの象徴である。

平均株価は、、現実に、機関投資家が大量の資金を投入する金融商品(先物・オプションなど)として存在している。
この点が、米国のダウと異なる。

大きな混乱を招くことが十分想定されながら、大量の銘柄入れ替えを実施した日経新聞の責任は、非常に大きい。

日経新聞社では、想定しなかったということは、ありうるぞ。この点に、今気付いた。有り得る。

日経新聞社なんぞ、歴史的に、日経平均株価という指標を抱えているという以外には、なにも存在理由が無いのだから、この管理をきちんとしないでどうするつもりだ。
まあ、ここの新聞を読むことを、経済を知ることと誤解している輩が、いまのところお元気なようだから、当面は潰れまい。

とにかく、余分なことはするな、という事だけを言っておこう。

2000/05/21

文責:い  90点

No.132

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

●MOは、Magneto Optical disk なのだそうである。
      Magnetic Optical disk だと思っていました。

日本語表記で申し訳ないが、Magneto は、”まぐにーとう”との発音。
ほとんど、中国人の名前みたいです。

”M.O.送って下さい。” この記述で大金持ち。(Money Order)

ちなみに、floppy disk の flop の意は、研究社の辞書によれば、”ばたばた動く”とあります。

他に、”寝る”とか”大失敗をする”なんて意味があるのだ、と教えてくれます。

私の経験では、三つの意味には、それぞれ頷けます。

〇Widowsについて。
普段、当たり前に、ここにWidowを開いて、この作業をする、なんて言っています。
しかし、あれって”窓”に見えますか?

本来、窓、というのは空隙そのものを指しています。

窓越しに外を見る、という表現があります。
窓ガラスを透かして、との意の場合が多い。

窓を開ける、とか、窓を閉めるとかいう場合には、窓枠と窓ガラスをレール上で移動させたりしています。これは、表現的には正しい。

窓拭き、なんて凄まじい表現もあります。
空間を掃除する。
多分、空気清浄機を取り付けるのでしょう。

2000/05/20

文責:い  90点

No.131

先日来、メニューページからのリンクで、ひまわりの画像をお借りしてお届けしています。

ひまわりの画像など、決して珍しいものでは無いのではあります。
しかし、Japan Areaの画像に限ってではないかと思う。
World Viewの画像は、あまりお目にかからない。
実を言いますと、かつて、初めて見た瞬間に、”おおっ”っと思わず声を出したのであります。

何か如何にも、望遠鏡で月を覗いているような映像ではないか。いっそのこと、枠を円形にして、臨場感を出してくれたら、もっと素敵になるだろう。
画像は、当然処理がしてあるのだが、”青い地球”というイメージにぴったりの映像は、例えば、現実の月や土星を初めて覗いた時の、何倍もの感動をくれた。

間違えてはならないこと。実際に、地球外空間から地球を見たときに、人間の目で見える姿かたち、そして、色ではない、という事。

かつて、NHKの大河ドラマで、渡哲也が信長役で出演した。
なにかで信長の名前が出てくると、この渡哲也の姿が浮かんできて困った。
この人なら、こんな風に考え、行動するだろう、というイメージが、出来上がってしまっているのである。
本当の信長に近づくには、邪魔なのである。

横山光輝の描く、漫画での歴史モノもダメである。
登場人物が、顔といい体のサイズといい、それで固定されて、頭の中に住んでしまう。
これは、ある種、歴史的に貴重とされる人物画とか人物像についても同様なことが言える。
有名な家康の画で、信玄に大負けして、命からがら逃げてきたときの画がある。この画を、その背景を知って眺めるのは、それなりに感慨深い。

しかし、この画と、他の家康を描いた画とを見比べると、同一人物とは思えないのである。どれが似ているか、という問題は、全く関係ない。
映像から創り出すイメージは、邪魔なのである。

逆にいえば、相当数多くの数の同一人物の画を見ていけば、真実の姿にかなり近い姿が頭に描けるのかもしれない。
学問なんていうものは、このような、不断の経験の積み重ねで、自分の理論を組み立てていくのだろう。
真面目に研鑚している学者。いるのです、大勢の方が。

単なる素人の思い付きは、そういった真の学者に対して発せられると、思わぬ結果を生み出すかもしれない。
しかし、その結果の所有者は、その素人ではなく、その学者である。
斯様に、真面目な学究の徒は、尊いのである。

今日は、私が、自分のウェブサイトに、映像を持ち込むことを好まない理由のちょこっとを説明したつもりになっています。

2000/05/19

文責:い  80点

No.130

記憶にありません。
この言葉は、ピーナツと共に脚光を浴びた。

思い出せません。
そんなことがあったが、明確な経緯を述べることが出来ない、という意か。ある種、事実を認めている、という感。
記憶にありません。
オレの記憶に無いんだから、事実が無いのである。という時に使用する。
従って、記憶に無い理由は、他に無く、くどい説明は必要ない。

しかし、三百万円の件は、記憶にありませんが、...と、訳の解からない釈明をしている人がいる。
頭が悪いことにも気が付いていないで、英字新聞さえ読んでいれば、大蔵は管理できるのである。否、こんな方でなければ、あんなところの大臣は勤まらないのである。これにも気付いていない。
やはり自分でなければ、この国がうまく機能しない、とお考えのようである。

六月には、衆議院議員選挙があるらしい。
民主主義とは不思議なもので、あんな人たちを選出するために、莫大な金額を選挙に投入するのである。
もっとも、直接民主主義を貫くには、もっともっとお金が掛かるだろうが。
全主権者大会を開催するのには、どのくらいのサイズの建物が必要になるのだろうか。

この時代のことであるから、必ずしも、一堂に会して、という必要は無いのかもしれない。
国立競技場収容以上の人数が、一堂に会したところにもぐりこんだ事は無いが、50万人集会なんてのは可能な気がする。壮大なことであろう。

市町村レベルでは、議員定数を零にして、直接会議制にする試みなんかが登場しても面白かろうに、そんな動きは聴こえてこない。

株主総会の会場手配では、株主の実数分の席を用意するのが当然と考えてしまうのだが、如何だろうか。
農協や信金など、総会に代えて、代議員会などを開催しているようである。
しかし、これは、たとえ法律に則っていても、反則じゃないのだろうか、と思ってしまったのであります。

如何。

2000/05/18

文責:い  80点

No.129

季節はずれではあるが、障子貼りを昨日決行。
朝一番である。四時なのである。

こんなものは朝飯前だ、という意識を、時間で表現して見せよう、という訳であった。
ここで、過去形を用いたことにより、多くの方々が既にお察しの通り、朝飯前には終了しないのである。
なに、朝飯の時刻に定説は無いのであるから、朝飯の時刻をずらせば良いのではあるが。

しかし、私のような、朝も昼も夜中も関係なく生活している者は別として、我が家における他の住民は、決まった時刻に朝飯を食らうのである。
当初考えた”朝飯前”の朝飯の時刻は、当然、この決まった時刻を想定していたのである。
皆が食っていれば、自分も食いたくなるのが、世の慣わしであり、世の慣わしにはなるべく逆らわないのが、私の主義である。

まして、”一緒に食べちゃってよ”などと、優しいお誘いの言葉。
こうでも言わないと、困惑している私の立場が無いとの配慮。良く解かってらっしゃる。
”じゃあ、しょうがないか”。これは、私が食卓に向かおうとして発した言葉。
”遅れた人は、片付け当番ね”。これは、私の言葉ではない。

これで、終了時刻がますます遅れる。
言いつけの全てをこなして、再び、朝飯前仕事に取り掛かる。

糊の濃度に関しての一考察。
糊を桟に付ける道具に関しての一考察。
障子紙の最初の張度合いに関しての一考察。
剃刀の力の入れ具合に関しての一考察。
ガイドとしての定規に関しての一考察。

斯様に、学会に提出するためのレポートこそ作成しそびれたが、数々の考察を踏まえて、実践としての障子貼りは進展していく。
今は、既にプロとしての風格さえ漂っているのではないかと思う。
技量に関しては、これから先、修行を積み重ねるしかないものと考える。
ご連絡を頂ければ、格安の料金にて、未来の名人の仕事の痕跡を、あなたの家庭に残すことが出来ます。
依頼するなら、今がチャンスです。

貼った障子紙の枚数は、3枚であった。
貼った障子の枚数は、2枚であった。

今年中に、あと26枚の修行が待っている。

2000/05/17

文責:い  70点

No.128

以前何処かで書いたような記憶があるのだが、マルチプランについて。

現在、栄養管理プログラム(と、自分で名付けて使っている)は、マイクロソフトのマルチプランで書いてある。
バリバリのマクロ利用である。
ちなみに、マシンは、NEC9801BA3である。i386系のCPUだ。このソフトを動かすためにだけ現役使用である。
それも、業務用である。例の怖い人の。

8801から乗り換えたとき、こんなに早い処理能力のマシンが有ったのか、と驚いた。もちろん、今となっては、イラツキマス。
4訂版の栄養素表を自分で登録(この作業が一番きつくて地道なもの。こういう仕事が大事なのです)して、マクロを書いて、献立表とその栄養計算表を作成させた。15年くらい前のことである。

その頃は、マルチプランで、何でもこなしていた。日本語入力は、ATOKの3くらいではなかったか。
wordの存在は知っていたが、一太郎全盛である。
日本では、NECで一太郎。標準であった、と思う。
で、マルチプランとキャンディがあれば、無敵である。

その後、ATOKは5まで付き合った。マルチプランはVer.2.01まで、キャンディ3とも、お付き合いいたしました。
何故、今日これを書いたかというと、キャンディは、いまだにヴァージョンアップがなされているらしいからであります。広告を見たのだ。タマゲマシタよ。
レイヤーという仕組みというか考え方を、私は、このキャンディに教わった。
数値、文字、関数、行、列、そしてセルという概念は、マルチプランで憶えた。

エクセルは、マルチプランの後継者なのでしょうか。
この辺りの経緯が全く解からないので、何故、マルチプランが無くなってしまったのかも、解からないのであります。
マイクロソフトのユーザー登録は、当初、ソフト毎の登録ではなかったのではないかと思うのだが、とにかくマルチプランのユーザー登録はしていた。

しかし、マルチプランはどうなったのか、知らされていないのである。
本日確認メールをうちます。

2000/05/16

文責:い  90点

No.127

楽譜を眺めていた。

関係ないことではありますが、伊秩弘将作曲の”約束の場所へ”、東京音楽書院発行のピアノ楽譜である。
TVドラマ”LxIxVxE”の挿入歌であった。この番組好きだったのであります。
この一年間では、これと、”ベストフレンド””ビューティフルライフ”の三つがテレビドラマでのお気に入り。

これら三つのドラマは、ヒロイン(の内一人)が、あまり一般的ではないだろう病気を持っていた。こういったドラマを好む自分を、自分で診断すると、何か暗示の存在を感じてしまう。少し不安である。ま、どうでもいいのではあるが。

同じ音で、二分音符を二つ連ねる場合。
同じ音で、四分音符を四つ連ねる場合。
同じ音で、八分音符を八つ連ねる場合。
メロディラインを歌詞付きで歌うと、この違いは認識不能である。

二分休符を二つ連ねる場合。
四分休符を四つ連ねる場合。
八分休符を八つ連ねる場合。
全休符も仲間入りである。
禁則処理があるのかしらん、とホクソエンデシマウ。

音楽は、何らかの”音出しキカイ”を用いて、音を出さないと始まらない訳だと考えていた。実際そうでしょうが。
しかし、音を出さないという行為も、また音楽である。
むしろ、この無音の部分の処理の良し悪しが、曲の良し悪し、あるいは、演奏の良し悪しを決定つけているのではないか。

音を出す、というのは、行為を成す、音を出さない、というのは、行為を成さない。これも、一つの考え方であろう。
音を出す、というのは、行為を成す。これはこれで正確な表現なのだろう。
だが、音を出さない、というのも、同じように、積極的に行為を成しているのだという認識も間違っていないのではないだろうか。

あれこれと不善を成すよりも、何もしないで時期を待つ。
なまけものの正当化理論の出来上がり。

2000/05/15

文責:い  80点

No.126

共同によると、アメリカのセレ−ラジェノミクス社は、単独で、人の全遺伝情報の完全解読を、六月に終了する見通し、と発表した。

1998年春に、単独で解読する計画を発表し、実際の作業は1999年9月に開始した。非常に短期間で終了することになる。

日米欧の参加する公的な国際プロジェクトの”ヒトゲノム計画”は、人の全遺伝情報の完全解読を目指す点で、全く同じ内容の計画である。
こちらは、2003年の完全解読が目標であり、我々素人から見れば、完全な敗北である。
かずさDNA研究所でも、この計画の一翼を担っていたと記憶するが、関係者の声が聞こえてこない。

無駄だった、と言っているのではない。
ここからは、推測での話であります。

セレ−ラ社も、単独での解読には、この公的な計画が無かったら参入しなかっただろう。
競い勝ちして名前を売ろう、などということではない。これもあろうが。
終了時期に関して、競い負けをしたら、こちらは殆ど得られるものは無いだろう。
解読結果情報は、契約先の製薬会社などに優先して提供し、一般公開発表は今年末までのうちのいつか、という報道があったように、ことは、当然金銭が絡んでいるのである。

今年中に発表しちゃう、というのには驚かされたが、これも意味がありそうである。二つ思いついたが、そのうちの一つは、書くのに憚られる。
よって、ひとつだけ。

自社の解読結果情報の信頼性を確認するのには、公的な計画の側の解読結果情報は、必要なのだろう。
2003年という時期が遅れるのは、セレ−ラ社にとっても好ましくないのであろう。否むしろ、早まってくれることを願うだろう。

両者の結果に食い違いがあった時には、どうするのだろうか。
もっとも、後で発表するほうは気楽である。
食い違い点に関して、再度確認してから、自分の方が間違っていたら、直してから知らぬ振りして発表すれば良い。
自分の側が正しいと、再度の検証が出来たときには、鬼の首を取った様に騒ぐのだろうか。

巧いし早い。巧いけど遅い。拙速。愚鈍。
巧いし早い。拙速。巧いけど遅い。愚鈍。
巧いし早い。巧いけど遅い。愚鈍。拙速。

好ましい順は、どれでしょうか。
巧いし早い。愚鈍。巧いけど遅い。拙速。--これが、私の”好ましい順”。

2000/05/14

文責:い  80点

No.125

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

先週の新聞で目にしたこと。

筒見待子

市ヶ谷新庁舎

”みどりの日”を”昭和の日”と改める国民祝日法改正案5/12参院通過。
衆院へ。
改正名称を否定も肯定もしない。
ただ、現行名称決定時の趣意文は何だったのか、の感。
参院からという点にも留意。
個人的には”昭和の日”は、8/15を支持する。

 

2000/05/13

文責:い  70点

No.124

中学生レベルの数学問題、特に高校受験問題は、面白い。

二次方程式の解の公式。axx+bx+c=0の解は、
{-b+√(bb-4ac)}/2a、{-b-√(bb-4ac)}/2aという例の奴です。

はっきり言って、日常生活では、滅多に使うことはない。
たまに、必要になるとき、必ず、やる作業が、この公式の導きである。
あ xx+b/a+c/a=0
い (x+b/2a)(x+b/2a)-bb/4aa+c/a=0
う (x+b/2a)(x+b/2a)=(bb-4ac)/4aa
え x+b/2a=±√(bb-4ac)/2a
お x={-b±√(bb-4ac)}/2a

改めて見てみると、あ から い に移るところが、妖しい雰囲気がある。
知らなきゃ導けないぞ、の世界であるような感じ。

冒頭に高校受験問題と特に掲げたのは、答えが有って、そこに至ることが可能である事が明確であるからである。
問題が有るときに、答えが有ることがはっきりしている、という事は、問題は九割は解決しているようなものである。

あとは、答えに至る過程を如何にして単純にするか、そして、如何にして素早く計算するかだけである。

我々の日常生活は、答えが有るのか無いのか、これを模索することが仕事の大部分だろう。
それ以前に、問題は何なのか、これを捉えるのにも、随分と労力を用いている。
しかし、後者の問題把握の仕事は、全員が携っているとは思えない。

会社では、問題を与えられ、その問題が何を求めているのかも理解できないままに、カバンを掴んで、出張するのである。
問題は、与えられるものであり、与えられないとその理不尽さに嘆く。
問題は、大きくて難しいと思われるものの方が良いのである。予算も付くし、仕事をしている気にさせてくれるし。
こうなれば、張り切って労働するのである。

そしてまた、答えが有るのか無いのか解からない問題に対して、ああでもないこうでもないと、あくせく無駄な努力を続けるのである。新たな問題を引き起こすために。

あなたのことですよ。多分。

2000/05/12

文責:い  90点

No.123

我が家には、2系統の電力線引き込みがある。もしかすると、4系統というのかもしれない。一般電力が2本。深夜電力が2本である。

県道に面した側から引き込む方は、幹線からのもので、この幹線の電線は、引っ張り強度が高いのである。
鳥が何匹休んでもびくともしない。
しかし、裏庭から引き込む方は、隣家を廻りめぐっての最終端末であり、こちらの電線は、大分弛んでいてぶらぶら状態である。
因みに、電柱は木材である。

雀くらいだと、どうということも無いが、野鳩やこじゅけいあたりのサイズになると、楽しめる。
先ず、第一羽が留まろうとする。足がついて電線を握り締める(足で握るという表現は、どうかと思うが。鷲掴みという表現もあることだし、鳥に関しては、歩くための道具では無さそうなので、手として扱うことにしよう)。
首を前後に振ったり、尾羽を上下に煽ったりして、何とかバランスをとって漸く安定する。電線は、大人数の縄跳びの、大波小波の小波状態である。

その縄に掴まって、ブランコ状態に入った第一羽は、気持ち良さそうである。電線と鳥が一体化した”鳥付き電線”は、優雅に揺れている。
そこに、第二羽が登場する。
第一羽の隣に羽を休めようと、無理やり電線を掴む。悲劇のプロローグである。
電線固有の揺らぎの関数に順応して、第一羽目は本人がパラメータであるにも関わらず、一体化して、電線の関数通りに揺らいでいたのである。

ところが、第二羽目の出現で、つまり、第二のパラメータの導入で、揺らぎの関数は、複雑化して、とても鳥なんぞの頭脳では、解析できない様相を呈してしまったのである。
それを当てずっぽうで無理に解を導き出して、エイヤっとばかりに掴んでは、バランスを崩し、またしばし羽をばたつかせる。
そしてまた、エイヤっとである。
一羽に付き、上記の騒ぎである。これが、二羽。

馬鹿らしくなって、その場を去っていけば良さそうなのに、何故か拘り続けて、何時までも電線に休むことを求める。
そもそも、何のために電線に停まりたかったのか。
お聞きしてみたいのだが、残念ながら、先方と当方の使用言語が異なる。
意思を通じ合うのに、これほどまでに言語という障壁が立ち塞がろうとは。
悲しいことである。

なかなか手強い仕事が出現したとき、一人では大変と、グループで取り組ませる。
問題解決の手段として、本当に適切な処置なのでありましょうか。

2000/05/11

文責:い  80点

No.122

東京湾アクアラインという名称は、一般公募により応募された作品から選定して名付けられた。
道路名は、東京湾横断道路であり、路線名としては、一般国道409号である。
海ほたるという名称もまた、一般公募により応募された作品から選定して名付けられた。
木更津人工島が正式名。

ところが、ここが良くわからないところで、川崎人工島は、風の塔という名称を用いているのだが、一般公募により応募された作品から選んだ訳ではないという。
いかなる構造の頭を持っていたら、こういったちぐはぐなことができるのだろうかと、どっちでもいいじゃないかの疑問は、こちらもマトモデハナイ頭を使って思いを巡らせるには、絶好の題材である。
何かキナ臭く無いですか。

海ほたるパーキングには、海ほたる料金所がある。川崎から入って海ほたるでUターンする利用車のための料金所である。
木更津から入って海ほたるでUターンする利用車に対しての施設もある。
Uターン証明券発行機である。
これら二つのUターンのための施設は、東京湾アクアラインの入り口では、木更津側にしか料金所がないゆえに、設置された。

何度か海ほたるパーキングを利用しているのだが、駐車場とここに述べた二つの施設とが、どんな誘導の形を採用しているのか知らなかったのである。
一階部分の大型・二輪駐車場は、川崎側からのアクセス車と木更津側からのアクセス車とが、区分して区画されたエリアをそれぞれ指定されている。
更に、二階部分の小型駐車場は、木更津側からのアクセス車専用である。
そして、三階部分の小型駐車場は、川崎側からのアクセス車専用にしてあるのだ。

因みに、二階部分の小型駐車場は、パンフレットによると、上り専用とある。
これによれば、木更津から川崎に向かうのを、上りというらしい。

通行料金というのは、本線利用料金のことであり、どちらかの側から入って、もう一つの側から出るまでの道路利用料金である。
海ほたるでのUターンする車に対する料金は、海ほたる利用料金とよぶらしい。らしい、というのは、次の記載があるからだ。
”海ほたるへの利用は本線利用料金と同額”

4,000円(普通車)の通行料金は、本当に値下げするのでしょうか。
基本料金は4,900円であり、現行の料金は、特別期間料金と称して、開通後5年間(2002年12月まで)の割引料金である。
今回値下げすると、何という名称になるのでしょうか。

2000/05/10

文責:い  70点

No.121

近隣農家では、田植えが終わった様子である。

私が田んぼに入っていた頃には、2条植えで、動力は備えていたが、後ろから人間が歩いていく形式の田植え機であった。
現在の主力は、乗用の6条植えの田植え機である。
割と小回りが効くもので、この威力たるや、私なんぞの常識を遥かに超えている。
田植えが始まったな、と日曜日に思っていると、週末には、もう終了している。

もちろん、植付けの作業以前には、様々な工程があって、植付け日を設定してからは、その日を基準にして様々な作業が執り行われる。
かつては、種まきから苗取りまでの作業が、苗代と呼んだ田んぼ(最終的には、この苗代田んぼにも植え付ける)で行われた。寒い時期の辛い作業であった。
今では、温室で、プラスチック苗床に種を蒔く作業から始まり、この苗床は、田植え機に直接装てんされ、田植えに至る。
この作業が、楽であるとは言えないにしても、天候に左右されることなく、日程は順調に消化される点は、特記すべきだろう。

この時期になると、米の政府買取価額の決定に向けての動きも始まり、農家は、その動きに敏感であった。
今日では、少なくとも私の近隣の農家では、政府に売り渡す米の割合が少なく、むしろ、売り渡し先の選択に関心があるようだ。

米というと思い出すのが、数年前の米不足騒動である。一体全体いかなる原因であったのか、私は知らない。
私の家には、充分なストックがあった。騒動がピークの時に、一俵80,000円などという馬鹿げた金額での取引を実際に見た。業者が引き取ったのである。従って、あの米は、最終消費者には驚くべき価額で取引されたのだろうが、その価額たるや見当もつかない。

米騒動の原因。急に、知りたくなってきた。
こんなときには、どんな検索を貼って、その情報にたどり着くことができるのだろうか。これから、ちと頑張ってみましょう。

日経平均株価が18,000円近辺をうろついているが、この数値は近年の農家売り渡し米価に似ているところが興味深い。

さてさて、今年は株価が勝つか、米価が勝つか、楽しみである。

2000/05/09

文責:い  60点

No.120

白内障の手術についてのレクチャーを受けてきた。
詳細は、その手のサイトを検索してご覧になって頂くとして、驚いたこと(知らなかったこと)を幾つか。

そもそも、白内障というのは、可調整式のレンズである水晶体が濁り曇ってしまう症状の病気である。その原因は問わない。
水晶体は、ゲル状の物質が膜の中に満たされている。
この物質が濁ってしまっているために、網膜に鮮明な画像が結べない。当然光の透過度が低いわけであるから、明暗の点からいっても、常に暗い。

1.白内障の手術では、この濁ったゲル状の物質を、搾り取り、代わりにシリコンやらプラスチックやらで作った硬いレンズを入れ置く。
変型可能な水晶体は、固定式の水晶体に置き換えられることになり、いわゆるピントの調整はできなくなってしまう。
驚きは、当然、液体状の物質で満たしてくるものだと思っていたのである。
この時に入れるレンズの選択により、近視型とか遠視型とかに区別される。
患者は、今後、自分の選択したレンズによって、視力が決定される。
通常、やや近視型に設定しているそうである。

2.手術は、局部麻酔で行う。手術中に患者と医師が、音声を通じて意思の疎通をとりおこなう。睡眠状態では、困ることがあるという。
人間が、眠るときなど、一般に目を閉じるとき、眼球は上目使いをした状態になってしまうそうである。この状態は、手術するのに具合が悪い。
正面を向いたときの視線が、手術するときに取るべき患者の目の姿勢なのだ。
もう一つ、術中に患者が痛みを感じると麻酔を追加するという方式を採用し、極力麻酔の量を押さえるそうだ。

3.両眼手術者が多い。
1週間近くの間隔で左右両眼の手術を行う患者がいる。老人性の白内障の場合、それは充分妥当な話ではあるが。
私どもは、時間の経過により、厭な経験を忘却することができる。一週間では、手術という厭な経験を、彼方に追いやるには、短すぎる。

私は、当面、白内障の手術は控えさせて頂くこととします。

この”日刊鬼ノ胃”サイトは、今月から、株式会社君津住宅の提供番組になっている。
何処が今までと違うかというと、何も変わっていない。つもり。
このサイトの記述内容に付いてのスポンサー規制は全く無い。

何故、こんなことを書くのかといえば、今後もこのサイトでは、スポンサー企業にとって、書いて欲しくない対象に付いても書くつもりだからである。
逆に、私が書くことには、スポンサーの意志は全く関与していないことを宣言しておかないと、関係諸方面で、あらぬ誤解を招きかねないからである。
やらせの記述である、などという批判は、的を射ていないことになることを、念のために、そして、重ねて記しておきます。

2000/05/08

文責:い  80点

No.119

中学校での環境学習用資料を目にした。
東京湾の汚れを考える、キーワードは、”台所は海の入り口”、とある。

東京湾の汚れの原因
  1.生活雑排水     46%
  2.生活処理水(し尿) 24%
  3.産業排水      20%
  4.その他        10%
との記載がある。

だから、家庭の排水を、少し気遣うことが必要である。また、振り返れば、現在の環境問題は、私たち自身が被害者であると同時に加害者でもあるのです。
よって、自分たちで可能なことから始めよう、と、炊事洗濯の心構えの列挙となっている。
この心構えの内容に文句を付ける気は無い。

しかし、出発点の、東京湾の汚れの原因の分類の数値が、この記載と異なっていたら、例えば、生活関係(産業ではないということ)原因が、20ポイントの数値で記載されていたら、印象は随分と違ってくるだろう。

別の項では、
川や海の汚れの原因の70%が家庭から出る排水です
とさりげなく述べている。
この数値、上記の1.2.の合計を使用したのではないかと邪推してしまう。
東京湾の汚れの原因と川や海の汚れの原因とが、同じ数値になるとは思えないのである。

数字を使った論法は、妙に説得力があるように錯覚してしまいがちである。
論者は、その数値をイイトコ取りしてしまう傾向にあり、また、意図するしないに関わらず、話の契機につい利用してしまう。
先の”東京湾の汚れの原因”の数値にしても、本当かよ、が私の第一感であります。

”汚れの原因”は、いかなる物質をもって計算したのだろうか。
それも、重量なのか、体積なのか、回数なのか。
フローとしてのある単年度の統計なのか、 ストックとしての過去の累積の統計なのか。

大人になったら、原因と結果の因果関係の整合性は別として、己が信じかつ実行できることを実践する、という態度で環境問題に取り組むのは良い。
子供たちには、マニュアル化した実践教育は、止めて貰いたい。
今回の中学校での環境学習用資料については、むしろ、記載された数値の算出の仕方を教えてやって欲しい。

数値を読む(表面的に書いてある数字ではなく、その裏に潜む思惑を含む)力の育成が、将来環境問題に対するボランタリーな実践に繋がると考えます。

2000/05/07

文責:い  50点

No.118

日曜祝祭日シリーズ”御感じあそばせ”。

〇締め切りの無い仕事。

〇満点の確定していないテスト。
早押しクイズ番組で、第9問までの一問当りの点数が10点で、最後の第10問が突然100と発表される類。
90点取っていた奴は、どんな意味があったのかに悩む。

〇”ストラックアウト”で、残りが9枚、ボールが8個になったときの失格。結果は0枚と記録される。
9orそれ以外、という価値判断はしていない。
ボールがなくなるまで投げさせて、幾つ抜けたかは競っていない。
先の例では、8枚という記録があり得る。
もっと言えば、2枚抜き効果で、パーフェクトも可。

2000/05/06

文責:い  80点

No.117

物の壁、仕組みの壁、心の壁。

物理的に存在する壁と、制度的な障壁、そして、人間個人が意図的に作る拒絶反応。
ドイツでは一度にこの三つの壁を打ち破った。かに見えた。

地球上で最も多くの人々が使用している言語は、スペイン語だそうである。
複数の言語を自在に操ることのできる人がいらっしゃるということなので、的外れな論議になってしまうかもしれない。が、同一の言語といっても、本当に意思の疎通が成立しているのか疑問である。

東北弁や関西弁は、もちろん、日本語と括られるのだろう。
しかし、私には理解できない言語である。
相手にわかって貰おうと努力して喋ってくれれば、概ね理解できるとは思う。
地域以外にも、時間的に違うために、私には理解できない日本語がある。
書き言葉しか残されていないので、喋り言葉としての実態は、どのようなものだったかは知らないが、平安時代の書物はお手上げである。

実務的な言葉は、比較的伝達が容易だという。
technical term とか scientific term とかは、言葉としての曖昧さが希薄であり、また、定義と供にその言葉自体を憶えるという過程を踏んでいるがために、同一、相違する言語を問わず、自分の伝えたいことが、相手に伝わるという。

もう少し範囲を広めても、名詞は何とかなりそうに思える。
日常的に使用する名詞は、あれ、それ、これ、と実物を指差しながら使うことができることが多い。伝達される側にしてみれば、どれ、と考えてから、あれか、それか、これか、と、やはり、実物を指差しながら確認することができる。
つまり、意志(とりあえず、言葉ではないが)が通じるのだ。

感情を表現する言葉が、難しい。
ところが、君と仲良くなりたい、とか、君の事をもっと良く知りたい、とか、反対に、君は嫌いだ、とか思うときに、言葉で、相手に自分の感情を伝えたいがためにこそ、言語は使用したいのである。

ドイツ語は50年を経て、ドイツの東西において、異なった歩みをしなかったのだろうか。
経済問題などでなく、言葉の問題で苦労しなかったのか。

南北の朝鮮問題は、言葉の問題は考えなくて良いのだろうか。

物の壁、仕組みの壁、心の壁。そして、言葉の壁。

2000/05/05

文責:い  80点

No.116

近頃、岩波書店の新しい本を読んでいない。

岩波の処女出版は、漱石の”こころ”である。
この出版に到る経緯がふるっている。

大正三年九月、古代中国文字の石摺りを装丁した”こころ”は出版された。
朝日への新聞連載が終わったのが、この一月前の八月十一日。
岩波茂雄が神田に古本屋を開業したのが、一年前の大正二年八月である。
それまでの漱石の本は、当時大手の大倉書店と春陽堂からの出版であった。

岩波の一高以来の友人安部能成が、漱石最古参の弟子であった。
自分の古本屋の看板を、当代随一の作家に書いてもらおうと思った彼は、この安部を通じて、漱石に紹介された。

面識を得るや、時に連載中の”こころ”の出版を、自分にやらせて欲しいと懸命に頼み込んだ。
当然、大倉書店と春陽堂との関係を考えて、様々な理屈を付けたのだろうが、結果的には、とにかく、岩波での出版に許可を与えた。

岩波は、大喜びで仰々しくお礼を述べた後に、もう一言を添えた。
---夏目先生、それでは、出版のための費用を貸して下さい。---

岩波茂雄が、どんな人柄であったかが良く現れている気がする。
本当のところは知らないが。
ただ、この時代には、こんな話がゴロゴロしている。

商売を、企業と企業との関係で成立させようとしている風潮の現在ではあるが、個人の人柄や縁戚を持ち込むのは不可能ではないと思う。

むしろ、そんな姿勢が活力を産み出すのではないのだろうか。
岩波が、”アク”の強さを復活してくれるのを待つ。

2000/05/04

文責:い  70点

No.115

print”a” print”b” print”c”。

この三つの作品によって、私は、無事に単位を取得したのである。
なに、話は、昨日の続きであります。 

syntaxなエラーがあった場合、あの頃の大学のコンピュータシステムは、どうなっていたのだろうか。
HPの掲示板等で利用されているCGIでは、回帰呼び出しを使用しているものが多い。当局の掲示板もそうなのです。
この回帰呼び出しというのは、結構厄介な奴である。

無限ループというトラップに掛かると、どんな容量のサーバーでも、一発で仕留めてダウンさせるパンチ力を持っている。
そうさせないために、Perlチェッカーなるものを通して、syntaxなエラーの有無を診断させる。

ところが、データファイルをいじっても、同じ現象が起こるらしい。
この辺の仕組みは、残念なことに今だ理解できていない。私は。
自分自身の頭の中では、頻繁に無限ループは発生していて、それも、複数のループが縦横入り乱れている。
無限という単語は、たった二つの漢字で構成されているが、文字通り無限の内容を持つ。

”一本でもにんじん”に倣えば、”二文字でも無限”。後に続く歌詞は無い。
一つ二ついっぱい。かつて数の概念はこの3つ。いっぱいと無限の間には、違いは認めても、必要性を認めない数量があるだけ。従って、いっぱいと無限は同義。
インドで0が発見されても、数を利用する人の大多数は、この3つの数で充分事足りたらしい。
有る、無いの区別は、0の発見時以前にも、絶対認識していたと思うのです。
この”無い”に0を割り当てると、”有る”には何を割り当てたら良いのか。

この二日間で言いたかったことの総括です。
バーコードなる記号がある。
名称が思い出せないのだが、”田”という記号がある。
どう考えても、田のほうが優れていると思うのです。

田一つで16通りの情報が入る。先ず、情報量で勝ると思うのです。
数字に置き換えれば、0から15までの表示が、この記号一つで表すことができる。二つで256通り、三つで4,096、四つで65,536、...

バーコードは書き込み読み出しが非常に厄介だと考えるが、これに比べて田は簡単じゃないのだろうか。
四つのマスのそれぞれを、耕してあるかないかで判断するだけである。

特許権問題でもあるのだろうか。

DoCoMoの請求書の宛先の下には、数字、これも名称が解からない記号、バーコードと、三つの記号が並んでいる。
ここにある名称が解からない記号は、一記号に付き4つの情報が入ると推察する。
この点、スペースから見て、ほとんど”田”と同じ情報量を持つ(4*4を一つとミナス。
しかしこの記号も、書き込み読み出しが非常に厄介だと考える。

記号に意味を持たせ、その記号を一般人が使用していくかどうかには、どんな判断と条件が必要なのか。
この点を、誰か明確に答えていただけないか、そう考えての二日間でした。

2000/05/03

文責:い  70点

No.114

PentiumV800MHz、メモリ512MB、MillenniumG40032MB(それもバリバリチューン)なんてマシンに触れてしまった。
HDは34GB7200回転。利用しているのは1.5GBのみ。
この量を”のみ”何て言える時代そのものも、凄まじいと思ってしまう私ではありますが。

FSに興じてみたわけですが、ストレス無し。
ちょっと纏まった画像処理をやらしてもらったのだが、最早自分のマシンでやる気がしないくらいである。
このシステム構築に掛かった費用は、かつての名機NECのPC8001と同じくらいだと言う。

PC8001は、確か168,000円でありました。
今を去ること20年。
記憶装置はテープレコーダー。いまでもFAXのぴーひょろ音を聴くと、あの当時のことを思い出してしまいます。
そのテープレコーダーから聴こえる音によって、どんなソフトなのかが解かるという人がいました。
確かに、いつも使っているものと変えて、べつのテープを入れてみれば、ぴーひょろ音が違う。
ま、考えてみれば、至極当然の話ではあります。

ここからが大変。
テープレコーダーから本体に読み込ませる。BASICの話。
うまく読み込まれると、”ok”と表示される。
ところが5回に2回くらいの割合で、”bad”が出る。
やり直しである。

こうやって書いてみると、簡単なお話でありますが、原稿用紙一枚のサイズのファイルの読み込みが、2分は掛かる。
つまり、今ではお話にならない。
まして、さあやるぞ、の気合一番机に向かって、ぴーひょろを聴くだけで、かなりその気をそがれる。
そして、待つこと、ラーメンの如くである。
さらに、”bad”の攻撃を受けては、最早、仕事をしようという情熱は、冷め、いきなり熱いコーヒーブレイクに突入である。

大学では、文系学部の一般教養で、コンピュータという授業が選択できた。
フォートラン言語(?)を学ぶ、という事であったが、ノイマンさんに関する講義で一月掛かった。
そして、単位取得には、5センテンス位のプログラムを3つ作らされた。

これがまたふるっている。
ディスプレイの前に座った人はいないのである。
パンチルームに行って、空いている席を並んで待って、カードにパンチするのだ。
もちろん、キーボードで打ち込むのだが、5センテンス位でも、厚さ20mmのカードの束が出来上がる。
これを、夥しい記入欄のある登録用紙とともに、受付に差し出す。
十日もすると結果が出ている。

B4の用紙を頭に描いて下さい。
ここに、”a”。これだけです。
意味するところは、”syntaxなエラーは無い”。

つまり、これだけの手間を掛けて、print”a” というプログラムを実行させたのであります。

突然ですが、本日これまで。

2000/05/02

文責:い  90点

No.113

債権放棄しないと再建放棄される。

民間の事業所は営利を得ることが善である、という前提で、活動しているかのように思える。
誤解も何も気にせずに記述すれば、営利を得ることではなく、営利を追求することが善である、に改めて貰いたい。そもそもは、そうだった筈である。

結果として、利益を出せば良く、更に、その利益は、多ければ多いほど良い、
というのは、楽しくないではないか。
経済活動に対する物差しに、”楽しさ”などという概念を導入してみると、楽しいものです。
不謹慎である、などと、渋い顔をして読んで頂いている方は、こと我が読者にはいらっしゃるはずがありませんが、今日の記述に関しては、誤解のないように、繰り返し、お願いします。

企業理念、これは、企業構成員一人ひとりの考え方の集合であるとします。
社長の書いた額縁入りのアレではない。
人間としてのモラルを強調しすぎてはならない。
コンナフウニヤレタラ楽しいな、キットミンナモ喜ぶな、なのです。

今日は次の一文を書きたくて、このテーマを選んだのであります。
もちろん、たとえ話です。

麻薬患者が増えている。
この人々を、隔離した一区画に集めて、麻薬をあてがって、自由に利用させる。
こうすれば、管理が容易で、社会不安を起こすことは無い。

このシステムを、社会保険制度を使用して、確立する。
運営については、各種民間事業所の参入を促し、営利活動として成立するように、法的整備を行う。

こんな制度に、楽しさの物差しを持つ人々は魅力を感じますか。
結果として、お金儲けが出来れば良い、という物差しを持つ方々しか魅力を感じないのではないですか。
こんなものは、公務員がやれば良い。

民間の力を導入するメリットは、効率ではなく、企業理念である。崇高なものなのである。
規制規制でがんじがらめにして運営するのは、公務員の仕事である。
そこには、個々の公務員の理念などいらないのであって、また、理念など抱いてはならないのである。
ただ、必要悪の仕事のみに、この人々は存在するのである。

もちろん、4/1から始まっている社会保険制度のお話でありました。

2000/05/01

文責:い  60点

No.112

世はゴールデンウィークであります。

何がゴールデンか、と言えば、ゴールドを使う、というゴールデンである。
お金を使わないと、ゴールデンではない。
こんな定義で、この週間を捉えてみる。

まず、森という人は、ロシアにて、お金を使うつもりで旅に出た。
具体的な話は、耳に届いていないが、相当な金額を、この旅の後で使う約束をしてきたと思われる。
従って、今週に限って言えば、たいしたゴールデンではない。
実際に、この週で使わなくてはダメなのである。

私は、4/28からゴールデンウィークに入った模様である。
逆にいえば、既に終了してしまった、とも言える。
最早、金銭的に失速状態に陥った。

4/28と4/29とは、当にゴールデンであった。
初日には、我が家にPS2が登場した。初代PSは、買い渋りをしているうちに、その時代は終了してしまったのである。
懐かしい人々の会社を幾件か訪問。
その後、宴会。その飲み屋に、これまた懐かしい人の不意の算入。
盛り上がりに盛り上がり、朝まで。

4/29日中には、楽しい集まりに出席。
気持ちよく過ごしている最中に、二次会の約束は自然発生的に纏まり、痛飲することに。
更に、家族とのガーデンパーティー(要するに、庭で火を焚いて飯を食う。たまたま、何処にも行かず、田舎にいる喜びを家族で分かち合うの会)が、夕刻よりの約束。若干の遅刻をもって無事参加。流石に、この席での酒量は微量なり。

少しばかり、賑やかさを伴ってはいるが、酒を飲んでいるという点において、普段の生活と、何ら変化の無いことに、たった今気付いた。
でも、普段よりゴールデンであったのは、マチガイナイ。

ゴールデンウィークの後は、文字通り後週末(あとしまつ)が待っている。
カードの決済は、何時になるのかの確認はお早めに。