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”スポーツ振興プロジェクト”

§1

スポーツ振興プロジェクトなんぞと口走るからには、スポーツに定義を与える必要性を感じている。

今のところ、以下のように考えている。

**********************

それぞれの種目の競技規則に則って、他者との争いに勝利することを目的とする、肉体的および精神的活動−−−−試合及び訓練−−−−

**********************

試合のときの最大の敵は,対戦相手ではなく,自分である。リードしているときは早く勝ちたいと焦る自分である。負けているときはもうだめだとあきらめそうになる自分である。
そんな自分に打ち勝って,ゲームに勝ったとき,まず自分に勝った喜びが全身をかけめぐるのである。

こんな意味で、もっと精神面を強調したいのだけれども....

§2 

スポーツ振興には、主体となる参加者(競技者及び観戦者)の数を増加させるという問題は重要である。
だけれども、メディカル面のサポートとか、審判員の資質向上あるいは広報組織の拡充などという、非常に広範囲な問題が山積みである。

思い切って、種目範囲を狭めて、試行錯誤の森の中に突入してしまおうと思っている。

 

§3 

当面は、狭いエリアを想定している。
君津・富津・木更津・袖ヶ浦地区である。
君津・富津・木更津・袖ヶ浦地区というエリアでさえも、私の考える活動には、広すぎるのかもしれない。

草の根なのである。
そこで、当面は、かなりエリアと競技種目を絞って活動をする事にしたい。
人的資源及び金銭は限定されているのである。

試験的という言い方はしたくはないのであるが、当面は、こういう認識も仕方がないと考える。

できることから兎に角始める、これが大事であると認識する。

 §4

今のところ実現の見通しなど皆無であるが、将来ビジョンは持っている。 
これを披瀝して、大法螺吹きの kinoi と揶揄される道を選択しようと思う。
基本的な構想は、PFI(註)を活用して市民のスポーツ倶楽部を創設して、運営するということである。
本来ならばこれが、出発点なのである。

一部の私企業が、企業お抱えスポーツクラブを支えられなくなったという理由で、PFI事業導入を検討している。
眉唾物である。
施設整備を商売にしようとしているのである。
私としては、逆説的に、この流れも利用しようとは思っているのであるが...

それはそれとして、どんな計画かというところを、少しばかり記載しよう。

体育施設の管理を、それぞれの所有者(市・県・私企業)から委託を引き受ける。

倶楽部ハウスの建設は、必須である。
浴室・トレーニングジムはもちろん、会議室・アフターファンクションルーム(飲食を伴なう)・プレスルーム(記者会見による広報活動は必ず役に立つ)を設ける。
そしてさらに、複数のプロショップにも入居してもらう。
手本は、ニュージーランドのラグビーの倶楽部である。

(註)PFI(Private Finance Initiative)は、公共事業として行われてきたインフラ・施設整備等に対して、民間資本の活用を図り、効率的かつ効果的な整備を促進するための民間活力導入施策である。いわゆるPFI法(民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律)が、平成11年7月に成立し、各省庁や自治体、経済団体、企業などでもPFI事業導入の検討が進められている。

§5
スポーツをやるとスポーツを観る。
この観点から、しばらくの間、展開することにしよう。

競技場はとりあえず在るじゃないか。
体育館、陸上競技場、野球場、プールもある。

クレー射撃や相撲、ヨット、ゴルフ、スキーといったスポーツの施設は、ここでは取り上げない。残念であるが、少し専門的過ぎたり、金銭が懸かりすぎたりして、私の手に負えそうもないからだ。

とりあえず、インフラの整備は、完全で使い易いとまでは言えまいが、在る。
しかし、有効に利用されているかと言ったら、手放しに肯定は出来ないだろう。

例えば、プールについては、重大な欠陥がある。

各学校(小中高校)にプールの施設は整備された。喜ばしいことである。

しかし、全て屋外プールである。屋根がないし、水温の管理も出来ない。

一年に何日間利用されているのだろうか。年間延べ利用人数も可也少ないと想像するのは難くない。

一年を通して利用できれば、学校のカリキュラムも組みやすいであろう。

簡単に言えば、現在あるようなプールは、学校ごとに一つ設置する必要はないのである。維持管理の費用も馬鹿にならない。投下した資本に対して得られる効用が、極端に小さい状態なのである。

幾つかの屋外プールを棄却し、とりまとめて屋内型の温水プールを作れば、今以上の効果的な利用が想定される。

 

§6
有効に利用する、とは一体どんな状況を指すのだろうか。

ひとつ気になることがある。
本来、体育館、陸上競技場、野球場、プールといった体育施設を建設することによるスポーツ振興は、競技者(運動をする人)だけのために行われるべきなのであろうか。
観客としての市民の利用促進も、立派なスポーツ振興であろう。

正直なところ、スポーツを観るという観点からのスポーツ施設の建設は、今日まで行われてこなかったのではないのだろうか。
少なくとも、観客席を埋め尽くすようなスポーツイベントが、この二つの市内で、今まで幾度行われたことがあるだろうか。
どう利用するかの、つまりソフト面の計画には、観客を集めるということを想定していなかったのではないか。


§7
この項の検討すべき対象ではないが、同様の問題が考えられると思われることがあるので、簡単に記載する。

図書館を建設することに意欲を燃やす行政・議会関係者は多い。
しかし、その議論を聴いていると、箱物としての図書館の話であって、蔵書(数量と内容)・検索機器・図書司・開館時間帯などといった、運営に関する項目については全くなされていないに等しい。
市民にとっては、姿かたちよりも利用の際の便益が、如何に多いかが問題なのである。


§8
施設は、一般に、建設費用よりも、維持費用が重要なのである。

建設することに意欲を燃やす行政・議会関係者たちは、箱モノを建設してしまうと、それ以後には余り興味が無いらしい。

ましてや、財政難なのであるからという理屈を付ける。それでも流石に、既にある物なんだからショウガナイと、最低限に絞ってしまった予算を計上せざるを得ない。

大きな施設を、小さな維持費で。

スローガンとしては面白いが、何のための施設なのか訳がわからなくなる。

この費用についての明確な予想もなされていないようだ。従って、予想の非厳密さについての議論も無い。


§9
ラグビーでは、こんな話がある。

秩父宮ラグビー場と国立競技場とは隣接した体育施設である。
観客席の定員数は、国立競技場が勝る。

国内でのビッグゲームは、観客収容数を理由として、国立競技場が利用されることがある。

しかし、ゲームを観覧するには、秩父宮ラグビー場の方が断然面白い。
観客席がグラウンドに近いというのがその大きな理由である。もちろん他にもあるが...

どう利用するかの、つまりソフト面の計画には、観客を集めるということを想定している必要があるのである。
集客するという前提で、ハード建設を
要求したいものである。


§10
仲間が出場する。子供が出場する。こんな時には、観戦していて面白い。

ひいきのチームがあると、俄然スポーツを観るのに力が入るし、面白いのである。

その究極が、自らスポーツをやるという行為なのではないだろうか。

はっきり言って、世界レベルの競技者が、その持てる力の限りを尽くしてプレーしてくれても、自分の子供が競技する姿を観る感動には及ばない。

二つの競技が会場を異にして、同時刻に開催されたら、迷わずに自分の子供の出場する会場に向かうだろう。



§11
企業内のお抱えスポーツクラブが、殆ど破綻した今日、生涯スポーツとしての新しい倶楽部組織が必要であろう。
行政府としての君津市・富津市・木更津市・袖ヶ浦市に任せていては、市民のためのスポーツは発展しない。
これは、批判というよりも、今日までの事実の歴史を述べたに過ぎない。
スポーツ振興を、教育委員会の管轄にしていることも、原因の一つであると考える。
教育という分野は、ある種聖域扱いされているのである。
この教育分野に携る人間は、費用と効用という、民間であれば先ず第一に考慮する問題に関して、全く無頓着である。
予算を付けられるかどうかが重要なのであって、決められた額の予算の割り振りにより効用を最大限にするという発想が根本的には無い。



§12
ただし、官公庁(学校を含む)主導による、今日までのスポーツ振興策が振わなかったことにも、理由がある。

官公庁主導での振興というと、市民の側にしてみれば、官公庁さんが、何かやってくれるだろうから、それにくっついていってみようと考えてしまう。
官公庁の担当者にしてみれば、あくまでも市民全体の公平性(建て前上である。現実の公平性を考察すれば異論がある。)と便益とを念頭にして方策を練ってしまう。


従って、無理の無い性質のイベントしか実施できない。


§13
これを、市民の側からの自発的な動きから出発すれば、失敗しても止むを得ない、あるいは、やりたい奴だけが楽しめればそれで成功であるとの認識で、物事を推進することができる。

全体の公平性などは、想定する必要は無い。

そもそも、市民スポーツにおいては、大会があるから出場するという性格の参加スタイルは変なのである。
人がいないからと駆り出されて、無理やり運動するなんてのは、本末転倒である。

あくまでも、自分の日常生活の中に、スポーツという項目を設定して、自発的に自分のペースで活動していくのが、本来の姿である。



§14
ただ、このためには、施設はもとより、トレーナーや仲間の存在が重要である。
そういった、何かスポーツをやろうと思い立ったときに、相談できる組織や施設があれば、自ずから生涯スポーツは盛んになっていくのである。



 
§15
また、基本的には、受益者は費用を負担すべきなのである。

ゴミ処理の例を挙げよう。ゴミの処理は、多く出す人が多く負担し、少ない人が少ない負担をした方が、むしろ公平である。従って、ゴミ処理費用の市民無料制度は、必ずしも有料制度より優れているとは思えない。


 
§16
野球場などの体育施設にしても、使用料は無料にするのはおかしい。やはり、受益者は費用を負担すべきなのである。

現実に、市の体育協会所属の団体には、使用料減免措置がある。

必要な費用は、(相応の金額を)自分が負担することによって、自らが主体的にスポーツをするという自覚を持つことが大切である。


 §17
もちろん、市、企業、個人の金銭負担は、お願いすることになろう。
受益者が、全てを負担するには無理があるのである。
新しい発想を広く募って、新しい形式での市民スポーツを模索しようではないか。
こんな形の倶楽部は、今後、全国に数多く発生してくることであろう。

そのときには、倶楽部交流(狭い意味では、倶楽部対抗競技大会)による地域間交流も意味のある事象となるであろう。


§18
ちょっと脱線。
幾つかの公共のスポーツ施設を見回りに行った上での感想。

国民の生命と財産とを守る、これこそが国家の存在理由である。
これを前提に、国民は、様々な法律の縛りを甘受するのである。
また、そのために直接的には警察が、間接的にその他の公務員は存在するはず
なのである。

公共団体が、理由を色々付けて、体育館などのスポーツ施設である箱モノを建
設しようとするのは、国民のためにであって、その他の如何なる対象のために
であってはならないのである。

もし、必要以上の費用をかけて、スポーツ施設である箱モノを建設したとした
ら、税金の無駄遣いなのであって、これは、国民の財産を脅かす行為なのであ
る。

また、出来上がった施設の利用率が極端に低い場合には、その施設建設の立案
者は、読みの甘い大馬鹿者である。
まして、その施設に常駐して管理しているなどとホザク輩は、辞令で此処に配
属されたなどと喋った日には、矢張り国民の財産を脅かす行為の常習者なので
ある。
休みの日には、その施設をー当然ー料金を支払って利用し、さらに、親類縁者
に声を掛けて、利用率の促進に努めるべきなのである。

民間では、命令されなくてもそうしているのである。


§19
私に何の相談も無く(この言葉には、大した意味は無い)、国立競技場の観客席の一部が新装された。
簡単な肘掛つきのシートである。
これは良い。

空いている時には、肘掛としての機能を利用できる。
これはこれなりに評価できる。

しかし、混雑時の思わぬ機能に注目である。
隣人との境界線を明らかにしてくれるのである。
指定席券で入場した時、両隣に太っちい人が座ってくれると窮屈だったのである。
自分も決して痩せては居ないので、尚更である。

この際、この場を借りて何十年来の疑問を書いておく。
肘掛は右左どちらが自分の分なのであろうか?


§20
新潟のビッグスワンと名乗る競技場を拝見。無論、テレビにて、である。

5/31の試合では気付かなかったのであるが、6/02に放映されたテレビを観戦していて、ちと気になることがある。
ピッチに立つプレーヤーの姿が大写しされる度に、人間以外の動物が異様に目立つのである。
種類は特定できないのであるが、昆虫(所謂虫である)と思しき小動物が矢鱈と舞っているのである。

翌日のスポーツ新聞などの報道では、私が確認した限りでは記載されていなかった。
しかし、手で追い払う選手の姿が何度か映し出されていたから、完全に存在を無視する(一応”虫するなのである)程度の割合ではなかった筈なのである。

あの立地条件で、あれだけの照明を点けている訳であるから、さもありなん。

本番には、まだまだ予期しない障害が発生するに違いない。
ビッグスワンが、地元のスポーツ振興に役立つことを祈る。


§21
暫くは、コーチの重要性について書いてみたい。

決して、”コーチが重要である”との結論から出発するものではないことを、先ず申し上げておく。
逆に、基本的には、逆説的な意味も込めて、”コーチは邪魔”という姿勢に近いと言っておいたほうが良いかもしれない。

次回、最初は中学生レベルの話である。


§22
中学校のクラブ活動においては、コーチは存在しないと言って、非難されることは無いであろう。
存在するのは、職制というか、各種協議に参加するために必要とされるスタッフとしての監督である。

中学校のクラブ活動は、教育の一環として行われている。
少なくとも、その学校の入学志願者増大化を謀っての、宣伝活動として位置付けている例は見受けられない。
だからなのかもしれない。
教員採用時に、クラブ顧問を引き受ける意志の確認も無ければ、ましてやどのクラブを選択したいかなどというヒアリングも無い。
その人個人のスポーツ実績は、多分に考慮されている様子が窺えるが、本人がそのスポーツを愛し、子供たちをコーチする情熱があるかどうかは、全く別の問題ナノデアル。



§23
ただし、時に情熱を持って取り組む教師がいることはいる。
例えば、個人スポーツとしての卓球を例にする。

この教師がいるA中学では、県大会レベルの選手が毎年出現する。
何年かして転勤すると、転勤先のB中学に県大会レベルの選手が毎年出現するのである。
同時に、元のA中学では、3年もすると県大会レベルの選手はいなくなる。
こんな例は、数知れずなのである。

そう、スポーツを競技(勝負)としてしか捉えていないのである。
一握りの選手には結構なことかもしれないが、初めてスポーツというものに触れる少年少女には堪らないのである。

この子達は、まだまだ真に自分に適したスポーツの種類には廻り合えていないのである。


§24
そもそも中学校の部活動というのは、当然学校教育の一部門なのであって、スポーツ選手生産工場ではない。
”生産工場”などという言葉を使用するのも憚られるのである。

しかし、そもそも、国家における教育制度そのものが、一国における有能な労働者育成を目指しているものなのであって、かかる意味において”労働者生産工場”なのである。
従って、その労働者の一部門である”スポーツ選手”を育成することに特化した教育現場が存在しても一向に構わないはずである。

今日は、コーチの話から逸れてしまった。


§25
中学校の部活動のレベルでは、先ず基礎体力の増強を図る事を指導の第一に置くべきである。

そして、今一つの指導目標は、身体ケアについて子供たちに意識させることである。
例えば、食事の重要性、負傷時の応急処置の方法および負傷後の復帰までのトレーニング方法の習得などについて、教育する必要があろう。

これを誰に任せるのかと言えば、これこそがコーチの役割なのである。
つまり、特定のスポーツ種目に関しての知識者では無理なのである。
教育者のスキルアップが為される体質・制度は貧弱なのであるが、本来制度で与えられるモノではなくて教育者個人として励むべきモノなのである。

教育者(所謂先生方)は、自分の科目のみならず、教育者としてのスキルをアップしなければならない。
現場での評価制度が論議されているが、この評価には、当然織り込むべき事柄である。



§26
コーチをマネージャー(監督)と混同するという愚を犯さないために、今一度検証する。

チーム登録時に、チーム名とともに選手名と監督名とを登録するいう制度が存在する。
チームにとって、選手と監督とは必須なのである。
必須でないものは必要ないと考えがちなのである。
大人同士の人間関係が複雑になるし、監督の自由度が損なわれるような雰囲気もあるのである。

高校野球という国内メジャーな大会が、コーチのベンチ入りを想定していないのが、今となっては不思議である。
これ(高校野球)に倣えで、コーチの存在をスポーツに取り入れなかったのではないかと考えているのである。
大学野球(特に早慶野球戦)に、更にそのルーツを求めることも出来るだろう。
専門職としてのコーチを存在させるには、金銭的にも負担がかかるのであるから、いたしかたないのかもしれない。

監督というのは、ラグビーなら”前へ!”と言っていれば良い存在なのである。
コーチは、そんな訳にはいかない。


§27
団体競技の場合、一人の生徒の意志だけでは、各種大会に参加できない。
その競技に必要とされる員数を揃えないことには始まらないのである。
しかし、個人競技であれば、参加できるはずである。

学校が、生徒の全てに所属する部活を選択させることを強要していると聞く。
その学校において活動している運動系クラブに、生徒が求める競技が無い場合には如何したら良いのか。
現在は、他の部活に所属している形式をとり、個人的に求める競技のトレーニングに励むのである。

生徒が求める競技があっても、その運動系クラブが物競技以外の部分に馴染めない場合には如何したら良いのか。
他の部活に所属している形式をとり、個人的に求める競技のトレーニングに励むのも選択できる。
または、もはやその競技に興味を無くして、別の部活に心変わりをしてしまうのである。

至極当然のことのように見えるこの現象は、しかし、何か矛盾を孕んでいやしまいか。



§28
さて、地域のスポーツ環境においてのコーチとしてのスタッフ整備情況は如何であろうか。
各市の体育連盟などと称する団体に所属する各種競技種目の団体は存在する。
この団体に属するのは、基本的に個人であり、この競技団体に所属する人々によって競技大会が催されている。
あくまでも試合をするのが主であって、練習を目的としてはいない。
各競技に所属する個人は、コーチについて練習をする環境には無い。


§29
所謂現役時代に活躍した方は存在するであろうが、この人々に蓄えられた知識は、コーチとしてのノウハウは無いに等しい。
少なくとも、科学的な体系的な体育理論を身に付けた人々ではない。
経験的に可也の知識をお持ちの方も存在するが、一つひとつの問題に対処するにあたって、根拠となる理論は示すことができない。
根性主義を否定するつもりは無い。
が、根性は、理論の上位に存立すると考える。
最後の砦である。
ここに至るまでが、コーチの役目なのである。



§30
バドミントンのメーリングリストに参加していたら、最近盛り上がった論争があったので紹介する。
投稿者は、中学の先生である。

中学校でバドミントン部の顧問に今年なりました。もちろん私は初心者。遊び程度でやったことはありましたが競技は初めてです。
本校では昨年新しくバドミントン部女子ができ、前任の教師が経験者ということもあり基礎をみっちり仕込んでいってくれました。

前任者は僻地へ赴任となりまして、私が赴任してきたのですが、赴任早々「バドミントン部をもってくれませんか?ただし、今年度より新入部員の募集は停止します。」との一言。
何のことやよく状況が理解できなかったのですが、ようは今やっている生徒が卒業したら廃部ということでした。
(続きます)

§31
あえて、とてつもなく強い言い方をさせていただければ、中学校は部活をする場所ではありません

100年近くの学校教育の中で、今でいうスポーツや文化的活動をする拠点として、学校がその責務を全うしてきたのは事実です。
が・・・・

学校はスポーツや文化活動をする拠点としての教員を配当はしていないのが事実です。
部活動をやるための教員はいませんということが一般には理解されていないのです。

部活動は義務教育の中身ではありません。もし義務教育であれば日本中で最低限の部活動数とそのための施設、指導員、予算があるはずですがそんなものありません

これは各スポーツ施設(地域のセンターや体育館)にはスポーツ指導員がいて、その指導員は
そのスポーツ施設でスポーツを教えるからまたその施設の維持のために給料を与えているということとは意味が違います

つまり、施設や場所の提供はできますが、中学校の教員はスポーツや文化活動をするためにやとってはいないというのが、現在の文部省をはじめ各教育委員会の立場だと思います。

つまり、部活動をやっていようといまいと教員の給料には何も関係ないということです。
つまり、部活動は給与対象ではないということです。


§32
ですので、各教育委員会も文部省も各校長も教員に部活動をやれということはできません。
給料の対象ではない、つまり仕事ではないから校長の職務上の命令権も意味がないのです。

お願い、部活動をやっていただきたいということはできます。
だからやってしまう教員がいて、やっているから給料の一部だと勘違いされて、何でこの中学にはバドミントン部がないのかとおしかりを受けて、また、同じように部活動は本来の給料をもらわない、仕事ではないのでという会話になっていくのです。

学校などに頼らず、スポーツや文化的活動ができる地域でのそれこそ本当の教育環境というのはできないのでしょうか。
各地方団体ではそのための予算化などされているはずなのですがどうなっているのでしょうか
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ここは私のコメントである。
変な論理なのだが、結構核心を付いている。
学校教育制度を蔑ろにしてきた報いか?
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


§33
中学校にバドミントン部がないから作れといっても作れません、できませんとなぜいってはいけないのですか。

部活動はボランティアです。

ボランティアをあなた方が強制するのであればその労働体系を変えるように文部省や各教育委員会に働きかけることが一番早い解決策だということになぜ気づかないのですか。

部活動の問題はあえて、避けてきた問題です
政治的問題だと思います
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ここからは私のコメントである。

確かに政治的問題だと思う。
子供のこと(もちろん教育問題を含んでいる)は奇麗事で済まされているので
ある。
官立学校の教員を退職した人で、マトモに世間付き合いのできる人を、私は存
じ上げない。
教師になろうとした人が、もともとマトモでない人であった可能性よりも、在
職中にマトモでなくなった可能性のほうが高いと思う。
つまり、教育の現場のシステムがマトモでないのであろう。


§34
バドミントンを取り上げたのには理由がある。
私の子供が中学のバドミントン部に所属していて、情報が良く入るのである。
で、それゆえ理解できたことが多いからなのである。

誰でもプレーした経験があるであろう競技である。
もちろん、スポーツとしての認識ではなく、羽根突きと同様遊びである。
念のために書いておくと、見た目に比べてこの競技(卓球も同様)、体力的に可也キツイ種類のスポーツの一つである。

中学生になって初めて、スポーツとして取り組む子供が多いのである。
そして、誤解を承知で言えば、子供を所謂運動達者な順番に並べたら、極上位の子供は選択しないようだ。

良き指導者(教諭)に廻り合った子供が、例えば県大会などに出場できるのである。
その教諭が別の中学に転勤すると、もと居た中学の水準は低下し、新たに赴任した中学の子供達が県大会レベルになっているのである。
私には、子供自体の資質に依るというよりも、明らかに指導者(教諭)の資質に依ると言い切る自信がある。


§35

最初に私はポーツに定義を与えた。
それぞれの種目の競技規則に則って、他者との争いに勝利することを目的とする、肉体的および精神的活動−−−−試合及び訓練−−−−”

じゃあ、将棋はスポーツか?という疑問が寄せられた。
確かに、この定義で出発すると”将棋はスポーツである”と結論することになる。
プロの対戦を見ている限り、”肉体的”要素をこの種目のイメージ以上に感じる。

しかし、”将棋はスポーツではない”と導くに足る定義を考える必要性を抱くのである。
さあどうしよう。


§36
極度のコンセントレーションを要求するのがスポーツなのである。
もちろん
将棋は極度のコンセントレーションを要求する。
散歩にコンセントレーションを要求されることは通常あるまい。
しかし、散歩はスポーツに近接した運動と認識されている節がある。

ますます混迷が深まるスポーツに対する定義付けである。
困った。



§37
スポーツに対する定義付けなんぞドウデモヨイ、という天の声はある。
全く面白くない話である。


野球をスポーツというならば、野球ルールの講義を受講している時に、この受講生はスポーツをしているというのか。
試合中の監督はスポーツをしているのかいないのか。

”これはスポーツじゃないよ”という批評を、誰でも一度は喋ったことがあろう。
例えば高校野球で乱闘騒ぎになって、両校とも出場資格を剥奪する事態があったとしよう。
このとき、”こんなの野球じゃねえ”と。

乱闘になった時点でスポーツで無くなるのか。
それとも、スポーツしている最中にスポーツ外の事態が発生したと読むのか。
忘れずに付け加えれば、乱闘も野球というスポーツの一環ではないのか。



§38
(戦争にはルールがあるが)喧嘩にはルールが無いという。
多分そんなことは無いのであるが、そうだとしよう。
そうすると、喧嘩は決着がつかないことになる。

各種競技には、当然決着のつけ方がルールブックに記載されている。
競技の終了を時間で規制して、得点で優劣をつける。
あるいは、得点の帰着点を設定して、優劣と共に競技の終了を宣言する。
ある地点から距離を隔てた別の地点を設定して、その間の移動に要する時間を単純比較して優劣をつけ、参加者全ての移動終了を以って競技の終了とする。
可也特殊な方法として、一方が”負けました”との意思表示をする方法もある。

テレビなどの放映を前提にすると、ある種目の競技では、放映時間枠に収めるべくルールを変更する事態が発生する。
ルールが変われば、競技そのものが変わってしまうはずなのであるが、同じ名称を使用する。